花弁に宿る、君の哲学

ハンバーガー屋を出ると晩春とは思えないほどの日差しを感じた。

まるで地球を覆っているオゾン層というフィルターが薄れたみたいに。しかし現実的に考えればオゾン層が少しでも薄れたならば有害な紫外線を受ける量も増加するわけだから、、、

想像的な比喩と現実的な思考が混合していた。この日差しは僕という人物を物理的に照らしているのであって僕の内面や環境を照らしているわけではない。

この日差しは自分の役割を果たしているだけで他のことなんか何も気にしていないのかもしれない。まるで現在の人間の特性を表しているような。

遥人の思考が普段より巡る。思考していると環境音が横入りするように外の情景が遥人に戻る感覚があった。思考という霧から少しづつ晴れてきて自販機のコンプレッサーの重低音、工事中の掘削器の音など様々な情景が戻ってきた。そして声が聞こえた。

「おーーい!いっちー!聞いてるの!?」

「え?えーっとオゾン層のこと?」

遥人は頭の中で考えていたことを素直に口にした。ありまは呆れた顔でもう一度話をしてくれた。

「いっちー大丈夫?今日の朝から少し上の空なとこあるけど?」

ありまは僕の存在を疑うように顔を覗き込み尋ねる。先ほどよりも鮮明に聞こえるありまの声に今度こそ確実に答える。

「大丈夫ではあるけど、忘れられないんだよね。今日の屋上での時間、そして昨日の旧校舎での時間。どちらも気がついたら30分程経過してて、虚空に入って時空が歪んで時間という概念が一瞬なくなるような感覚があってさ。ごめんごめん、さっきのハンバーガーの感想だよね。」

「……時空が歪む、ねぇ」

ありまは僕の言葉を繰り返すと、少しだけ歩みを緩めた。
彼女の視線は、遠くの青空に溶けかける白い月を捕まえているようだった。五月の眩しすぎる太陽のせいで、その月はまるで誰かが消しゴムで消し忘れた跡のように、頼りなく空に残っている。

「いっちー、それ……中二病とかじゃなくて、マジで言ってる?」

「……自分でも説明がつかないんだ。ただ、気がついたら時計の針だけが飛んでいる。その間の記憶は、まるで現像に失敗したフィルムみたいに真っ白で」

僕は吐き出すように言った。
ありまはポニーテールを一度きゅっと結び直し、それから僕の目を真っ直ぐに見つめた。日焼けした彼女の肌に、街路樹の葉陰が複雑な幾何学模様となって落ちている。

「……いい? 私がさっき、あんたのトスが三センチズレるって言ったの、冗談じゃないからね」

ありまの声は、先ほどまでの明るさを薄い膜で覆ったような、静かな響きを帯びていた。
「あんたがその『虚空』とかいう場所に引きずり込まれそうになったら、私がそのたびにスパイク打って、現実まで叩き戻してあげる。……だから、勝手にどっか行かないでよ。ハンバーガー、あんなに美味そうに食べてたんだから」

「……ああ。そうだな。悪かったよ」

気まずさを紛らわせるように歩き出す。
駅が近づくにつれ、人々の足音や車の走行音が混ざり合い、世界は再び無機質な喧騒に支配されていった。アスファルトの熱が、僕たちのスニーカーの底を焦がすように伝わってくる。

僕たちはそれから、他愛もないハンバーガーの味の話をした。
バンズの焼き加減や、あのアボカドがどれほど計算された厚さだったか。
そうして言葉を積み重ねることで、僕は自分の中に空いた「三十分の空白」という穴を、懸命に埋めようとしていた。

駅のロータリーに着くと、巨大な電光掲示板が光を放っていた。

「じゃあね、いっちー。明日の朝、遅刻したら承知しないから!」

ありまは自動改札機の手前で立ち止まり、ひらひらと手を振った。
彼女が改札を通る瞬間、ピッ、という電子音が鳴り響く。
その音が、僕たちの間に透明な薄い境界線を引いたような気がした。

改札の向こう側、人混みの中に消えていくありまの背中。
彼女のポニーテールが最後に一回だけ弾けて、視界から消えた。

僕は一人、駅のコンコースに立ち尽くす。
ふと、駅の柱に貼られた大きな鏡が目に入った。

そこに映っている自分は、確かに五月の強い日差しに照らされている。
けれど、僕の背後に伸びる影だけが、周囲の誰よりも濃く、そして奇妙に長く伸びているように見えた。

(僕の時間は、本当につながっているのだろうか)

ポケットの中で、スマホが小さく震えた。
そこには「差出人不明」のメッセージか。
僕が知らないうちに、世界がまた一パーセントだけ、僕を置き去りにして書き換わった合図なのか。

僕は震える指先で、液晶画面を点灯させた。

薄暗いコンコースの中で僕の顔を不気味に照らし出した。
通知欄の表示はやはり、、、

『「一件の未読」差出人不明』

不思議に思いながらも僕はパスコードを解き、メールを見た。

「長い影を踏まないで
 太陽が沈む前に、踏んでしまったら最後、明日の朝は二度とこない。
 覚えている?あの日に見た、茜の夕日を。
 あの時もう砂の一粒も残っていなかったんだよ」

「なんだ、これ」

指先から急に体温が奪われていく感覚があるように感じたとともに、心臓の鼓動も早くなった。
いつどこでの出来事で誰が送ったのか。それにあまりに抽象的すぎる。何かを僕に匿名で伝えたいのであればもう少し具体的に書くだろう。

なのにこの書き方まるで具体的にすれば僕に誤った伝わり方をしてしまうのをわかっているのか、僕に気づいてほしいかのような。

(茜の夕日というフレーズはなんだか脳をくすぐる)

そうだ、たしかありまと、、、、、
「あの時、僕たちの足元には、もう砂の一粒も残っていなかったんだよ」

(茜の夕日……)

その言葉がトリガーとなり、思考の底に沈んでいた古いスライドショーが、不意に勝手な再生を始めた。
瞼を閉じると、そこには鮮やかな茜色の景色が広がっていた。

中学二年の、秋の放課後。
場所は中学校の屋上だ。
錆びかけたフェンス、放課後のチャイム、遠くで練習に励む吹奏楽部の音。
そして、その夕景の中に、ありまがいる。
オレンジ色の光を浴びて、彼女のポニーテールが風に踊り、眩しそうに目を細めて笑っている。

「…………」

記憶の中の僕は、ありまの隣に立っている。
二人で、海の方に沈んでいく太陽を眺めている。
何も間違っていない。僕の記憶にあるのは、ありまと僕、二人だけの静かな、けれど賑やかな放課後の断片だ。

……なのに。
その景色を眺める僕の意識が、奇妙なノイズに侵食され始める。

(おかしい。何かが、絶対におかしい)

ありまは笑っている。でも、その視線の先は、僕ではない「僕の隣にある空白」に向けられている。
そして僕もまた、ありまとの間に、不自然なほど広いスペースを開けて立っている。
そこには、もう一人誰かが立てるだけの十分すぎる空間があり、僕の記憶の構図は、三人いて初めて「完璧なバランス」になるように設計されているのだ。

それはまるで、主役が一人消されてしまった舞台を、そのまま見せられているような居心地の悪さだった。

(三人いたはずなんて、僕は思っていない。僕の記憶には、ありましかいない)

それなのに、僕の心は、そこに「いないはずの誰か」の体温や、風に舞う髪の匂いを、幽霊のように感じ取ろうとしている。
二人きりのはずの屋上で、僕はなぜか三つ分の影が伸びているような錯覚を拭い去れない。

「……っ」

目を開けると、電車の窓の外には、記憶の中と寸分違わぬ「茜色の空」が広がっていた。
世界の彩度があまりにも高すぎて、かえって現実感が失われていく。

ありまが今日、必死に僕を「日常」に繋ぎ止めようとしていたのは、彼女もまた、この「構図の崩れ」を必死に隠そうとしていたからだろうか。
というかなぜ僕はこんなことを思い出してるんだ?

(踏んでしまったら最後、明日の朝は二度と来ない)

この言葉が最後に僕の脳をかすめた。僕は無意識に、座席に座る自分の足元を見た。夕日が車内に長く伸ばした僕の影は、やはり、どこか寂しげに存在しない何かを求めているように見えた。