花弁に宿る、君の哲学

しばらく道なりに進むと先程の静寂は消え喧騒が波のように押し寄せてくる、競歩のように素早く足を動かし先へ進んでいたありまが照れくさそうに遥人に歩幅を合わせ隣についた。ありまの貴重な照れ顔を横目に若干気まずい雰囲気を味わうのも束の間、お目当てのハンバーガー屋に着いた。店の看板が見えたところでありまは顔を変え目を輝かせる。

「いっちー!見えたよ!あそこあそこ!なににするー?!」

看板が先行して見えていたが歩を進ませるにつれ店の全容が見えてきた。

青い全体の外観に木造の造り、そして所々白い幾何学的な模様が海辺にあるような店を連想させる。しかしハンバーガー屋という雰囲気はなくどちらかというとおしゃれなカフェのような外観だ。

「ここなんだね。店の外観的にカフェかと思ったよ」

「そこなんだよ!おしゃれなハンバーガー屋だからJKにも人気なんさ!」

店内に入り注文を終え席に着く。店内はかなり落ち着いた暖色系のライトと木造の造りで、椅子がかなり座り心地がよく僕がよく知っているようなハンバーガー屋とは別物だった。周りからはSNSの話や恋愛相談など若い女性ならではの会話が多く聞こえてくる。

ありまは座り心地のいいソファに深く身体を預け、ポニーテールを解いて結び直した。その一連の動作に伴って、彼女が纏っていた「部活の熱」が、冷房の効いた空間に微かに溶け出していく。

僕は、木目の美しいテーブルの感触を指先で確かめた。 指先に伝わる確かな硬さと、オイルの匂い。 数分前まで旧校舎の屋上で、あの現実離れした透明な少女と話していたことが、まるで何年も前の古い映画のワンシーンのように思えてくる。

(世界は、こんなにも簡単に表情を変える)

隣の席では、同年代の女子たちがスマホの画面を囲み、加工フィルターの話で盛り上がっている。 「これ、エモくない?」「マジ受けるんだけど」 彼女たちの口から零れる言葉は、どれも軽やかで、光に透ける石鹸の泡のようだ。

一方で、僕の胸の奥に澱(おり)のように溜まっているのは、もっと重くて、形のない何かだ。 桜子が言った「世界の拍動」。ありまが否定した「空白」。 僕が見ているこの景色は、彼女たちと同じ色をしているのだろうか。もし今、僕が隣の彼女たちに「卯月桜子を知っているか」と尋ねたなら、世界はどんな音を立てて崩れるだろう。

「……ねえ、いっちー」 不意にありまが、低い声で僕を呼んだ。 注文を知らせる手元のブザーが、小刻みに震え始める。

「さっきの話の続きだけどさ。……あんたが『いない』って言ったこと、私、そんなに簡単には笑い飛ばせないんだよ」

ありまは窓の外に視線を向けた。 青い外壁越しに差し込む五月の陽光が、彼女の日焼けした横顔をオレンジ色に縁取っている。その瞳は、先ほどの明るい振る舞いとは裏腹に、深い霧の奥を見つめているようだった。

「あんたが変なこと言い出す時って、いつも……なんていうか、一歩先を歩きすぎてる感じがするから。私が追いつけない場所で、一人で変なもの抱えてるんじゃないかって、たまに怖くなるんだよね」

「あ、ごめん、できたみたいだから……待ってて。僕が取ってくるよ」

僕は番号札を掴み、カウンターへと向かった。 歩き出す瞬間、背後でありまが「ありがと、いっちー」と小さく呟いた気がしたが、周囲の賑やかな話し声に消されて、その真意を汲み取ることはできなかった。

僕たちは同じ空間にいて、同じ食事を待っている。 けれど、僕たちが共有している「今」という時間の断片は、秒速数センチメートルの速度で、静かに、確実にズレ始めているのかもしれない。

僕は番号札に目を落とす。僕らの番号は38番、カウンターの大型モニターには呼び出し中の表記がありそこに今37番と38番がほとんど同時に表示された。カウンターと着いたと同時に見覚えのある女の子が隣にいた。身長が高く凛とした外見は高校生離れした落ち着いた雰囲気を醸し出していた。

「何?ありまとはうまくやれてるわけ?」

「え?あなたは確かバレー部の?どうしてここに?」

「アイス屋が臨時休業しててさー、急遽ハンバーガー食わね?って感じでここに来たの。んで、ありまとはうまくやれてるわけ?」

遥人は面倒なことになると予想しお盆を持ちそそくさと机へ戻った。それが感知されたのかありまが心配そうに口を開く

「どうしたん?焦ってるみたいやけど。あれか人と話す機会が少なすぎて店員さんと話すのに緊張しちゃった感じ?」

「い、いやそれが違くて。実は、、、」

遥人が話そうとするとありまの背後に女の子が立っていてさっきより怖い顔でこちらを睨みつけていた。

「……み、みこと!? なんでここにいんのよ! アイス屋は!?」

ありまの声が裏返る。
さっきまで「ダブルチーズ一択!」と目を輝かせていた彼女の表情は一変し、まるで天敵を前にした小動物のように肩を震わせた。

背後に立つみことと呼ばれた少女は、バレー部の副主将らしい落ち着いた、けれど逃げ場を許さない冷徹な笑みを浮かべている。

「さっきも一ノ瀬君に言ったけど。アイス屋、今日臨時休業だったわけ。……で、路頭に迷った私たちを置いて、アンタはここで『介抱』の続きをしてたってわけね?」

みことが一歩横にずれると、その後ろから「待ってよー、みこと!」と、先程の部員たちが雪崩のように入ってきた。

「あー! 見つけたー!」「ありま、確信犯じゃん!」「しかも窓際のいい席取ってるし!」

静かだった店内が、一瞬にして体育館のような熱気に包まれる。
ありまはポニーテールを振り乱し、両手で顔を覆いながらテーブルに突っ伏した。

「違う……違うの……これはその、いっちーが、えーと……」

「いっちー、正直に言いな。こいつ、アイス屋に臨時休業の貼り紙があるの、練習帰りに絶対見てたでしょ?」
マキが僕の隣にずいっと身を乗り出し、山盛りのポテトを一本かすめ取った。

「えっ……いや、僕は……」

僕は、ありまの真っ赤になった耳の先と、窓から差し込む眩しいほどに透明な光の粒子を交互に眺めた。
彼女たちの弾けるような笑い声が、おしゃれなカフェ風の店内に反響し、僕が抱えていた「旧校舎の冷たい空気」を強引に塗り替えていく。

(世界は、こんなにも簡単に、騒がしくて温かいものに上書きされてしまう)

「ほら、ありま。そんなに顔隠してたら、せっかくのアボカドチーズが泣いちゃうよ?」
みことがありまの隣に腰を下ろし、僕の方をジロリと見た。
「いっちー。ありまはバカだけど、練習はガチだからさ。明日、あんたが来ないとコイツ、サーブのトスが三センチくらいズレるんだわ。……責任取って、応援来なさいよね」

「……三センチって、そんなに……?」

「そうよ。 一ノ瀬くんの応援は、ありまにとっての『ドーピング』なんだから」

みことが冷たいコーラを飲み干しながら断言する。
ありまはついに顔を上げ、ハンバーガーの袋を盾にするようにして叫んだ。

「もー! 分かった! 分かったからみんな、あっちのデカいテーブル行きなさいよ! ポテト、私の分から三本ずつあげるから!」

「三本!? 少なっ!」「ケチありまー!」

嵐のようなやり取りの末、ようやく彼女たちが隣のテーブルへと移動した。
静寂が戻ることはなかったけれど、僕たちの周りには、先ほどよりも少しだけ濃密で、少しだけ居心地の悪い「二人だけの時間」が、溶けかけのアイスのように甘く漂っていた。

ありまは小刻みに揺れるポニーテールを押さえながら、僕の顔を見ずにポツリと呟いた。

「…………いっちー」

「ん?」

「明日。……マジで、来なかったら承知しないからね」

彼女が横を向いたまま差し出したのは、指先が少し震える約束の小隣のテーブルからは、依然としてみことたちの楽しげな笑い声が聞こえてくる。
けれど、僕たちの周りだけには、どこか透明な膜が張られたような、奇妙な静寂が戻っていた。

「……三センチ、だってさ」

僕は、手付かずだったコーラのグラスを見つめた。
氷が溶けて、カランと小さな音を立てて崩れる。グラスの表面には無数の水滴がつき、窓からの光を反射して、まるで小さな銀河のように輝いている。

「……うるさい。みことが勝手に言ってるだけ。私、そんなにメンタル弱くないし」

ありまは、アボカドがはみ出しそうになったハンバーガーを器用に持ち直し、大きな口で頬張った。
もぐもぐと口を動かしながら、少しだけ不機嫌そうに、でもどこか満足そうに目を細める。

「でもさ、一ノ瀬君。……あんた、本当に来る気ある? 明日の試合」

「……努力はするよ」

隣から聞こえてくるみことの絡みに渋々答えた。

「そのセリフ、今日二回目。……あのね、いっちー。世界はさ、あんたが思ってるよりずっと単純にできてるんだよ」

ありまはポテトを一本、僕の鼻先に突き出した。
「走って、汗かいて、お腹空かせて、美味しいもの食べる。……それだけで、大抵のことはどうにかなるの。旧校舎の幽霊だか何だか知らないけど、そんな難しいことばっかり考えてると、いつか自分の影に飲み込まれちゃうよ」

彼女の言葉は、まるで太陽の光そのものだ。
暗い場所を照らすのではなく、暗闇なんて最初からなかったかのように、強引に世界を白く塗り替えていく。

僕は、彼女に差し出されたポテトを口に含んだ。
塩気と、じゃがいもの熱い感触。
それは、屋上で感じた消えゆく世界の冷たさとは正反対の、あまりにも生々しい「今」の味だった。

「……美味しいな」

「でしょ? 私の勝ち」

ありまは満足げに笑い、ポニーテールを揺らして残りのハンバーガーを片付け始めた。
その隣で、僕は窓の外を流れる雲を目で追う。

積乱雲の子供みたいな白い雲が、青い空をゆっくりと、でも確かな速度で流れていく。
あの雲の下には、僕たちが知らない無数の日常があって、無数の人々が同じようにハンバーガーを食べ、笑い、誰かを想っている。

(でも、その中の誰一人が、僕と同じ『一パーセントの違和感』を抱えていないなんて、誰が断言できるだろう)

「あー、食べた食べた! いっちー、ごちそうさま!」

ありまが勢いよく立ち上がり、パンパンと手を叩いた。
その仕草で、店内の空気が再び大きく揺れる。

「みんな! 私はお先に帰るよ! アイス屋のリベンジは月曜ね!」

ありまが隣のテーブルに声をかけると、みことたちが「はーい」「ありま、また明日ー!」と立ち上がる。
僕たちは店を出て、ありまは最後にもう一度だけ僕を振り返った。

「いっちー。……明日、待ってるからね。本当に」

彼女の瞳の中に、一瞬だけ、ふざけていない「本気」が宿った。
それは、この眩しい光の世界に僕を繋ぎ止めておこうとする、彼女なりの必死な抵抗のようにも見えた。指だった。