取材ノート:10月29日 曇り

 老婆に取材をした日は、もう体力が尽きかけていたので家に戻り、次の日、教えてもらった寺にバスで向かった。
 立地は悪く、寺に行くには住宅街の中を通り抜け、急に現れる素朴な石段を上らないとたどり着けない。言われなければ決して訪れない場所だっただろう。当然、観光拠点として整備などされているわけもない。だが、墓地は広々としていて立派であり、このあたりの宗教的中心なのだろうと知れた。
 時期が中途半端だからか、私の他に墓参りを含めた参拝客はいない。試しに、境内をぐるりと巡ってみると、本殿はかたく閉ざされていたが、片隅に馬頭観音の石碑が立っていた。私の身長ほどもある、なかなか立派なものである。とりあえず手を合わせて拝んでおいた。
 寺務所なのか住居なのか、あるいはその両方を兼ねていると思わしき平屋があったのでそちらに近づき、チャイムを鳴らす。数分待っていると、
「はい」
 カジュアルな服装の、中年の男性が姿を現した。禿頭であるから僧侶なのだろうが、今はこんなものなのだろう。私の姿を上から下まで見て、明らかに警戒心のこもった声で、
「何の御用ですか」
 と尋ねる。
「あの、私、こういうものです」
 こういう人には、肩書があったほうがまだ話しやすい。とっくに辞めてはいるものの、私は会社員時代の名刺を差し出した。少し警戒が緩んだのを感じる。
「出版社さんが、なんの御用ですか」
「各地の郷土料理を取材しているんです。誰も知らないような、不思議な料理を」
「はあ」
 それがうちにどういう関係があるのか、とでも言いたげな「はあ」だ。私ははきはきとした声で言った。
「ここで、姑獲鳥の肉が食べられると聞いたんですが」
「…………あなた、本当に?」
「はい」
 私は歯を見せて頷いた。知的好奇心に満ちている若いライターというか、無害で快活な印象を与えたいと思ったのだが、それは失敗に終わったようだ。腕組みをした男は私を見下ろし、低い声で続けた。
「あなた、あれがなんなのかご存じなんですか」
「ええ。里芋でしょう。里芋を妖怪の肉に見立てるなんて、面白いと思」
「どういうサトイモか、ご存じですかってことですよ」
 私の言葉を無理やり遮って、男は続けた。尖った声にも怯えたところをみせまいと、私は呼吸を落ち着けて、ゆっくりと答えた。
「………お寺でいただける、特別な里芋だと伺いました」
「それだけ?」
「はい」
「あのね。悪いんですけど、うちももう育ててないですし。妙なこと書かれても困るんですよ。あんまり調べんでください」
「あの」
 それってどういう意味ですか、と問いかけようとしたのに、男は直ぐに身を引っ込めて、ぴしゃんと扉を閉めてしまった。取り付く島もないとはこのことだ。もう一度インターホンを押して頼んでみたが、返事はない。開かない扉を見つめながら、私は(どこで間違えてしまったのだろうか)と自問した。
 姑獲鳥の肉団子というのは、里芋の団子のこと。
 それは間違いないらしい。
 寺で育てられて、なんか特別な利益のある里芋。
 だが、さっきの男の態度をみると、それだけではないようだ。
 それしかわからない。
 これでもう手がかりを全て失ってしまった。
 今日はもう帰るしかない。
 がっくりと肩を落として、さっき登ってきた階段を手すりを伝いながら中ほどまで降りた時だった。
「こんにちは」
 突然、声を掛けられた。
 フレンドリーな若い女性の声。それも、知っている声だった。
 振り返るとそこに、綾野紹子が立っていた。
 柔らかなコットンのワンピースが、風を含んで花弁のように広がる。彼女は微笑んでいた。それ以外の感情がないかのように、穏やかな笑みだった。
「綾野さん、どうして……」
「すみません。私、あなたが本気なのかどうかを疑ってたんです。本気かもしれない、って、最初にお会いした時からわかってたのに」
「………最初に会ったときから?」
「ええ」
 彼女は、自分の髪の毛をつまんで、横に引っ張った。
「あなたもリネアストリアですよね?」
「…………」
 私は自分の髪の毛を抑えた。
 おでこまわりには産毛があるし、つむじもきちんと再現されている。人工毛をつかったファッションウィッグではない、人毛を使った医療用のものだ。薬の影響で脱毛がはじまる前と同じ髪型のものを選んだから、周囲にもこれがバレたことはなかったのに。
「大丈夫。よくお似合いですよ。ただ、私の娘も同じものを使ってたので、すぐわかっただけです」
 綾野さんはにこにこと微笑みながら、一段ずつ階段を降りて来た。
「はい、どうぞ」
 差し出された紙袋を受け取る。ずっしりと重かった。中身をちらりと覗くと、里芋が入っている。
「これ………」
「昔はここでも作ってたんですけどね。肥料が手に入らなくなって、もう作ってないんですよ。それは、私がお庭で育てたんです。おすそ分けしようと思って持ってきました」
「………それじゃ、これが、姑獲鳥の」
「しーっ」
 彼女は人差し指を唇にあてて、声を潜めた。それで私も息と一緒に言葉を飲み込む。
「………私、娘のためになにもできなかったんですよね。ただ弱っていくのを見ていくことしかできなかった。だけど、梨花ちゃんに話を聞いて貰ってて、思い出したんです。昔、おばあちゃんからきいた万能のお薬の事。だから、同じように苦しむ人がいたら助けてあげたくて、それで準備してたんです。だからそれ、食べてください」
 いつのまにか、私は紙袋をしっかりと抱きしめていた。絶対に手放すまいとするみたいに、地獄で見つけた蜘蛛の糸に縋るみたいに。
 彼女はそれを見て満足したようだった。
「それじゃ、さようなら」
 彼女は私の隣を通り過ぎ、すたすたと立ち去って行った。
 私は紙袋の中から里芋を一つ取り出して、喉を鳴らした。