「このあたりやと思うねん」
動画を見た後、甘乃は蓮華を引き連れる形で難波の街をジグザグに進んでいった。縦の通りから横の通りへ、大挙する外国人観光客をすり抜けて。それこそ縫うように。
甘乃の動きに迷いはなかった。あの動画でヒントを得たからだった。
そうして十数分後、一段と細くなっている通りへと二人はたどり着いた。
「たぶんここやで」
「あ、本当だ。動画でも言ってた石畳がある」
「言うたやろ? 下調べしてるって」
甘乃は胸を張る。二人の足元――通りの入口はまるで境界線でもあるかのように、中と外で地面が変わっていた。外側は無骨なアスファルトで、反対に中はゴツゴツとした石が敷き詰められていて、どこか風情がある。
「にしても、よくここだってわかったね。動画だとモザイクかかってたのに」
「ふっふっふ、そら伊達に青春時代を難波過ごしてへんからな」
高校生の頃の記憶で、石畳の通りがこのあたりにあることは知っていた。
とはいえ、中を歩いたり通り沿いの店に入ったことはなかった。近くを通る時にちらりと目に入ったのが居酒屋ばかりだったからだ。さすがに未成年でそういったエリアに行くほど不良ではない。
しかし甘乃も今や二十歳。気兼ねなく通りを闊歩することができる。
何はともあれ、甘乃たちは足を踏み入れる。硬い感触がパンプスに跳ね返ってきた。
「静かやなあ。難波やないみたいやわ」
甘乃は抱いた第一印象を口にする。繁華街のど真ん中のはずなのに、どこか喧騒から遠かった。まだ開店していない居酒屋ばかりが並んでいるからかもしれない。
それから、通り沿いにたたずむお寺も理由のひとつだろう。ビルの隙間を埋めるようにあるそれは、小さいものの厳かな雰囲気を漂わせている。それ以外にも行燈風の外灯があったりして、さっきまで通って来た他の通りとはまた空気が違う。動画でも言っていたが、ここだけ昔ながらの町並みが残っていた。
「エリアはだいぶ絞り込めたけど……ここから探すのも骨が折れそうだね」
「たしかに、せやなあ」
見たところ石畳でできた通りは一本ではないようで、さらに細い路地に枝分かれしている。何か他に手がかりはあるかと思って動画を見返してみるが、モザイクがきつくて目印になりそうなものは発見できなかった。
「あ、ぜんざいのお店がある。これも和菓子だし、見つからなかったらここでいいんじゃない?」
「あかんで。適当に入った店では閲覧数は稼がれへん。隠れた名店をレビューして、うちも名レビュワーの仲間入りするんやから!」
「わかったってば。でも不思議だね、口コミでも絶賛されてたし、すでに有名になっててもおかしくなさそうだけど」
「せやなあ。試しにこのへんの人に聞き込みしてみよか」
せっかく現地まで来たのだ。とれる方法はやらないと損だ。
そう思って歩いている人に訊ねてみることにしたのだが、
「知ってる人、ぜんぜんいてへんな……」
結果は完全な空振りだった。隠れた名店というか、隠れすぎている。地元の人も知らない店ということなんだろうか。
かといって、あまり時間もかけていられない。甘乃としては粘って探し続けるのでもぜんぜん構わないのだが、ユニバを楽しみに来ている蓮華がそれを許してくれないだろう。
最悪、蓮華が言っていたぜんざい店で手を打たなあかんかもやな……。
そんな風に、甘乃の心に諦めが芽生え始めた頃合い。
「もしかして、ここじゃない?」
最初に気づいたのは蓮華の方だった。休憩と称して日陰で涼む野良猫を写真に収めていた甘乃を手招きして指し示す。
「え、どれどれ?」
「ほら、あそこ」
その場所は最初に入った通りから一本入り込んだ、ちょうどお寺の横にあるさらに細い路地沿いにあった。
昔から建っているのであろう木造家屋が並んでいる。道幅が細いゆえに日光が入り込む隙間がなく、昼間だというのにどこか薄暗い。
今度は蓮華が先導する形で路地を進む。道幅が狭いので少し身体を前後に傾けながら。
やがて真ん中あたりまでくると、ひと際古びた建物が目についた。壁の漆喰は年季があるせいかあちこちでひび割れ、色もくすんでいる。まるでどんどん過去にさかのぼっていくような錯覚を覚えた。
「ほらここ。甘乃が言ってた店名じゃない?」
「あ、ほんまや。『あかつば』って書いてある」
軒先には看板も暖簾もない。代わりにおもちゃの国旗みたいなサイズの旗が刺さっていた。蓮華の言う通り、小さく崩れ気味の文字は『あかつば』と読める。
一見すると廃屋として通り過ぎてしまいかねない見た目。そんな古びた外観は、甘乃たちにどこか緊張感を与えてくる。
「ここで、ええんよな?」
「たぶん……そうでしょ」
「よ、よし。ほな入るで」
甘乃たちは意を決する意味で顔を見合わせ頷くと、入口であろう引き戸に手をかける。
「す、すんませーん……って、すずしー」
がらりと音を立ててスライドさせると同時に冷えた空気が頬をなでてきて、甘乃の緊張はほぐれる。冷房が効いているということは、少なくとも廃屋や空き家ではなさそうだ。むしろ肌寒いくらいだった。空気の動きが止まっているみたいな。
だが甘乃の緊張は完全には払拭されなかった。店内が薄暗かったからだ。さっきまで歩いていた通りよりも輪をかけて暗い。そして人の気配があまり感じられない。
「えっと、すんませーん」
もう一度声を上げてみる。だが返事はない。他の客がいるようにも思えない。
「誰もいてへんのかなあ。もしかして休み?」
「でも鍵が開いてるってことは営業してるんじゃないかな。外に旗だって出てたんだし」
「やんなあ。これで開いてないとかやったら困るわあ。店員さん、奥にいてはるんかな」
「――いらっしゃいませ」
もう一度声を張ろうかと考えていたところで、すぐ隣から声が聞こえた。
そこにはいつの間にか、ひとりの女性が立っていた。
均整のとれた美しい顔立ちと長いまつ毛がまず目に入る。それから次に、矢羽根をモチーフにした赤と白の矢絣模様の着物。その上から白い無地のエプロンを着ている。
「あ、えっと……」
「おふたり、ですか?」
「あ、はい」
「では、こちらへ」
そう言うと、女性は奥へと進んでいく。その振る舞いで初めて、二人は彼女が店員であるとわかった。おそらく着物とエプロンはこの店の制服なんだろう。胸の部分には名札もあるようだったが、文字がかすれて見えなかった。
甘乃たちは驚きのあまり生返事しかできずにただ後に続く。二人の足元から土間の土をこする音だけが響いた。不思議なことに、女性の方からは足音がまったくしなかった。
彼女は小柄だった。身長は甘乃たちよりもずっと低い。そして艶のある黒髪はおかっぱに切りそろえられていた。対照的に肌は真っ白そのもので、紫外線なんて当たったことがないかのようだ。
(な、なんかお人形さんみたいやなあ)
(こら。あんまり失礼なこと言わないの)
「こちらのお席へどうぞ」
抱いた第一印象を思わず隣の蓮華にひそひそと話しながら進んでいくと、やがて座敷の席に案内される。といっても、店内には座敷の席しかないようだった。席数自体も少ない。丸テーブル、というよりちゃぶ台と表現する方が正しい。
座敷に上がって座布団に座ったところで、女性が訊いてくる。
「当店はお品がひとつしかないのですが、よいですか?」
「あ、はい」
口コミでも動画も言っていたことを、甘乃は言う。
「きんつばとお茶のセット、ですよね? それを二つ」
「かしこまりました」
女性は薄く笑う。薄紅色の唇がほんのわずかに弧を描いた。人形のように端正な顔つきなこともあって、甘乃は小さくドキリとする。
と、彼女は弧線を水平に戻して、
「それから申し訳ないのですが、当店ではお写真の撮影はご遠慮いただいております。場所やお品の詳しいことにつきましても、口外いただかないようお願いをしております」
「はい、取材関係はNGってことですよね。わかりました」
「ありがとうございます。では、少々お待ちください」
そう言い残すと、一礼して店の奥へと消えていく。その先にはおそらく厨房があるのだろうが、さらに暗くて様子はうかがえない。代わりに席の近くで視認できる内観に目を向けた。
「なんか……変わった雰囲気のお店やなあ」
「たしかに。大阪じゃなくて京都に来たみたい」
中は外観と同じく、古い日本家屋という言葉がぴったりと当てはまるような様相だった。リノベーションされていないのか、使われている壁や柱の所々には濃い色の染みがあり、歴史を感じさせる。
さらに驚いたのは、店内に自分たちの声を除いてまったく音がないこと。普通であれば有線放送が、もしくは難波だから外の雑踏が聞こえてきてもいいものだが、それすらない。
まるでタイムスリップか、もしくは世界からここだけが切り離されたみたいな感覚だった。
まあそういうところが隠れた名店っぽくてええんやけどな。
「それはそうと、きんつばってどんな和菓子だったっけ」
「えっと、たしかあれやろ? 粒あんを薄皮で包んだやつ」
「あー。そういえば前にサークル旅行で行った旅館の部屋に置いてあったなあ」
蓮華の言葉に、甘乃も似たような光景を思い浮かべる。修学旅行の宿泊先にあったお土産コーナー。そこで見た記憶がある。それだけ和菓子の中ではメジャーな方ということだろう。
見た目も簡単にイメージできた。四角い形に、半透明の薄皮からのぞかせる紫の粒あん。洋菓子と比べても、あるいは和菓子の中でも決して映える方ではない。
だからこそ、甘乃は気になっていた。レビューした数少ない人たちが口をそろえて「絶品」と評価しているということは、きっと何か秘密があるに違いない。
「へえー、モチーフは刀の鍔からきてるから『きんつば』なんやって」
「そうなんだ。金色の鍔なんてなんだか縁起がよさそうだね。あ、そうだ。私ちょっとトイレに行ってくるね」
「んー」
席を立つ蓮華に、甘乃はスマホをいじりながら答える。きんつばの由来が表示されたページも念のためブックマークしておくことにした。こういう情報があとでレビューを書く時の参考になることもある。
「――お待たせしました」
するとほどなくして、店員の女性が現れた。またしても足音がなかったので甘乃は内心驚く。
彼女は先ほどとは違い、手にお盆を持っていた。しなやかな動きでそれを左手だけに持ち替えると、右手でその上に乗ったお皿をちゃぶ台に乗せる。
「きんつば、お二つになります」
ごゆっくりどうぞ、という言葉とともに再び一礼をして女性が去っていく。その所作はまるでそうつくられたからくり人形にも見えた。
だが甘乃は彼女の方を見ていなかった。見る余裕がなかった。
目の前に置かれたお皿に目を奪われていたからだ。
「わ……」
それぞれのお皿に乗っていたのは、いわゆる「きんつば」が二つ。
だが、甘乃たちが見たことのあるきんつばとは大きく異なる点があった。
まずは形。だいたい四角形をしているのに、出てきたのは楕円形をしている。より刀の鍔の形に近づけているのだろうか。
もうひとつ。こっちはより目についた。色だ。
あずき色ではなく、真っ赤だったのだ。
「これ……ほんとに和菓子、きんつば……だよね」
「すご。思ってたのとぜんぜん違うね」
トイレから戻ってきた蓮華の感嘆が甘乃の言葉と重なる。座布団に座りなおしているが、彼女もまたきんつばに釘付けだった。
「これって、ソースみたいなのがかかってるってことかな」
「せやな、こんなん初めて見たわ」
赤さの正体はそれだった。きんつばの上にたっぷりと、まるでフランス料理のようにソースがかけられている。鮮やかな赤が、きんつばを覆いつくしていたのだ。
甘乃は試しに楊枝の先端にソースだけをすくって、ぺろりと舐めてみる。
「どんな味なんやろ……うわ、うっま」
瞬間、さわやかな酸味が口の中を駆け巡る。おそらくベリー系がベースになっているのだろう。そして果実をそのまますりつぶしているのか、どろりとした食感があって濃厚さもある。
続けて楊枝をできんつば本体を切り分ける。ひと口分にカットして、ソースをしっかりとつけて口に放り込んだ。
「ん~~~~! おいしい!」
思わず頬に手を当てる。酸味のあるソースに続けて、粒あんの甘さがやってくる。どちらもしっかりとした味わいを持っていながら、お互いを邪魔することなく、引き立てあっていた。
きんつばの方もしっかりとした食感を伴っていて、小豆を噛むたびにやさしい甘さが広がる。それをソースが包み込んで甘みにくどさをなくしてくれる。
「ねえ甘乃、このお茶もおいしい!」
「ほんまに?」
「うん。苦いけど、それが合ってるっていうか」
少し早いペースで食べすすめていた蓮華に言われて、湯のみに口をつける。瞬間、日本のお茶らしい独特の苦みが舌の上で転がったが、このきんつばを食べた後だとうまく打ち消して口の中をすっきりさせてくれる。
なるほど、たしかにこれは「絶品」だ。甘乃が見かけたレビューや動画で絶賛していたのもうなずける。
和菓子と洋風っぽいソースを組み合わせるのも新しい。それでいて、昔ながらの和菓子のよさを損なっていない。店が古い分、古めかしい和菓子が出てくるのかとも思ったが、まったくそんなことはなかった。むしろ最先端ともいえる。
「どう? いいレビューは書けそう?」
「もちろんやで。いやーおいしいわあ」
その後も、二人は初めてのおいしさに舌鼓を打った。
動画を見た後、甘乃は蓮華を引き連れる形で難波の街をジグザグに進んでいった。縦の通りから横の通りへ、大挙する外国人観光客をすり抜けて。それこそ縫うように。
甘乃の動きに迷いはなかった。あの動画でヒントを得たからだった。
そうして十数分後、一段と細くなっている通りへと二人はたどり着いた。
「たぶんここやで」
「あ、本当だ。動画でも言ってた石畳がある」
「言うたやろ? 下調べしてるって」
甘乃は胸を張る。二人の足元――通りの入口はまるで境界線でもあるかのように、中と外で地面が変わっていた。外側は無骨なアスファルトで、反対に中はゴツゴツとした石が敷き詰められていて、どこか風情がある。
「にしても、よくここだってわかったね。動画だとモザイクかかってたのに」
「ふっふっふ、そら伊達に青春時代を難波過ごしてへんからな」
高校生の頃の記憶で、石畳の通りがこのあたりにあることは知っていた。
とはいえ、中を歩いたり通り沿いの店に入ったことはなかった。近くを通る時にちらりと目に入ったのが居酒屋ばかりだったからだ。さすがに未成年でそういったエリアに行くほど不良ではない。
しかし甘乃も今や二十歳。気兼ねなく通りを闊歩することができる。
何はともあれ、甘乃たちは足を踏み入れる。硬い感触がパンプスに跳ね返ってきた。
「静かやなあ。難波やないみたいやわ」
甘乃は抱いた第一印象を口にする。繁華街のど真ん中のはずなのに、どこか喧騒から遠かった。まだ開店していない居酒屋ばかりが並んでいるからかもしれない。
それから、通り沿いにたたずむお寺も理由のひとつだろう。ビルの隙間を埋めるようにあるそれは、小さいものの厳かな雰囲気を漂わせている。それ以外にも行燈風の外灯があったりして、さっきまで通って来た他の通りとはまた空気が違う。動画でも言っていたが、ここだけ昔ながらの町並みが残っていた。
「エリアはだいぶ絞り込めたけど……ここから探すのも骨が折れそうだね」
「たしかに、せやなあ」
見たところ石畳でできた通りは一本ではないようで、さらに細い路地に枝分かれしている。何か他に手がかりはあるかと思って動画を見返してみるが、モザイクがきつくて目印になりそうなものは発見できなかった。
「あ、ぜんざいのお店がある。これも和菓子だし、見つからなかったらここでいいんじゃない?」
「あかんで。適当に入った店では閲覧数は稼がれへん。隠れた名店をレビューして、うちも名レビュワーの仲間入りするんやから!」
「わかったってば。でも不思議だね、口コミでも絶賛されてたし、すでに有名になっててもおかしくなさそうだけど」
「せやなあ。試しにこのへんの人に聞き込みしてみよか」
せっかく現地まで来たのだ。とれる方法はやらないと損だ。
そう思って歩いている人に訊ねてみることにしたのだが、
「知ってる人、ぜんぜんいてへんな……」
結果は完全な空振りだった。隠れた名店というか、隠れすぎている。地元の人も知らない店ということなんだろうか。
かといって、あまり時間もかけていられない。甘乃としては粘って探し続けるのでもぜんぜん構わないのだが、ユニバを楽しみに来ている蓮華がそれを許してくれないだろう。
最悪、蓮華が言っていたぜんざい店で手を打たなあかんかもやな……。
そんな風に、甘乃の心に諦めが芽生え始めた頃合い。
「もしかして、ここじゃない?」
最初に気づいたのは蓮華の方だった。休憩と称して日陰で涼む野良猫を写真に収めていた甘乃を手招きして指し示す。
「え、どれどれ?」
「ほら、あそこ」
その場所は最初に入った通りから一本入り込んだ、ちょうどお寺の横にあるさらに細い路地沿いにあった。
昔から建っているのであろう木造家屋が並んでいる。道幅が細いゆえに日光が入り込む隙間がなく、昼間だというのにどこか薄暗い。
今度は蓮華が先導する形で路地を進む。道幅が狭いので少し身体を前後に傾けながら。
やがて真ん中あたりまでくると、ひと際古びた建物が目についた。壁の漆喰は年季があるせいかあちこちでひび割れ、色もくすんでいる。まるでどんどん過去にさかのぼっていくような錯覚を覚えた。
「ほらここ。甘乃が言ってた店名じゃない?」
「あ、ほんまや。『あかつば』って書いてある」
軒先には看板も暖簾もない。代わりにおもちゃの国旗みたいなサイズの旗が刺さっていた。蓮華の言う通り、小さく崩れ気味の文字は『あかつば』と読める。
一見すると廃屋として通り過ぎてしまいかねない見た目。そんな古びた外観は、甘乃たちにどこか緊張感を与えてくる。
「ここで、ええんよな?」
「たぶん……そうでしょ」
「よ、よし。ほな入るで」
甘乃たちは意を決する意味で顔を見合わせ頷くと、入口であろう引き戸に手をかける。
「す、すんませーん……って、すずしー」
がらりと音を立ててスライドさせると同時に冷えた空気が頬をなでてきて、甘乃の緊張はほぐれる。冷房が効いているということは、少なくとも廃屋や空き家ではなさそうだ。むしろ肌寒いくらいだった。空気の動きが止まっているみたいな。
だが甘乃の緊張は完全には払拭されなかった。店内が薄暗かったからだ。さっきまで歩いていた通りよりも輪をかけて暗い。そして人の気配があまり感じられない。
「えっと、すんませーん」
もう一度声を上げてみる。だが返事はない。他の客がいるようにも思えない。
「誰もいてへんのかなあ。もしかして休み?」
「でも鍵が開いてるってことは営業してるんじゃないかな。外に旗だって出てたんだし」
「やんなあ。これで開いてないとかやったら困るわあ。店員さん、奥にいてはるんかな」
「――いらっしゃいませ」
もう一度声を張ろうかと考えていたところで、すぐ隣から声が聞こえた。
そこにはいつの間にか、ひとりの女性が立っていた。
均整のとれた美しい顔立ちと長いまつ毛がまず目に入る。それから次に、矢羽根をモチーフにした赤と白の矢絣模様の着物。その上から白い無地のエプロンを着ている。
「あ、えっと……」
「おふたり、ですか?」
「あ、はい」
「では、こちらへ」
そう言うと、女性は奥へと進んでいく。その振る舞いで初めて、二人は彼女が店員であるとわかった。おそらく着物とエプロンはこの店の制服なんだろう。胸の部分には名札もあるようだったが、文字がかすれて見えなかった。
甘乃たちは驚きのあまり生返事しかできずにただ後に続く。二人の足元から土間の土をこする音だけが響いた。不思議なことに、女性の方からは足音がまったくしなかった。
彼女は小柄だった。身長は甘乃たちよりもずっと低い。そして艶のある黒髪はおかっぱに切りそろえられていた。対照的に肌は真っ白そのもので、紫外線なんて当たったことがないかのようだ。
(な、なんかお人形さんみたいやなあ)
(こら。あんまり失礼なこと言わないの)
「こちらのお席へどうぞ」
抱いた第一印象を思わず隣の蓮華にひそひそと話しながら進んでいくと、やがて座敷の席に案内される。といっても、店内には座敷の席しかないようだった。席数自体も少ない。丸テーブル、というよりちゃぶ台と表現する方が正しい。
座敷に上がって座布団に座ったところで、女性が訊いてくる。
「当店はお品がひとつしかないのですが、よいですか?」
「あ、はい」
口コミでも動画も言っていたことを、甘乃は言う。
「きんつばとお茶のセット、ですよね? それを二つ」
「かしこまりました」
女性は薄く笑う。薄紅色の唇がほんのわずかに弧を描いた。人形のように端正な顔つきなこともあって、甘乃は小さくドキリとする。
と、彼女は弧線を水平に戻して、
「それから申し訳ないのですが、当店ではお写真の撮影はご遠慮いただいております。場所やお品の詳しいことにつきましても、口外いただかないようお願いをしております」
「はい、取材関係はNGってことですよね。わかりました」
「ありがとうございます。では、少々お待ちください」
そう言い残すと、一礼して店の奥へと消えていく。その先にはおそらく厨房があるのだろうが、さらに暗くて様子はうかがえない。代わりに席の近くで視認できる内観に目を向けた。
「なんか……変わった雰囲気のお店やなあ」
「たしかに。大阪じゃなくて京都に来たみたい」
中は外観と同じく、古い日本家屋という言葉がぴったりと当てはまるような様相だった。リノベーションされていないのか、使われている壁や柱の所々には濃い色の染みがあり、歴史を感じさせる。
さらに驚いたのは、店内に自分たちの声を除いてまったく音がないこと。普通であれば有線放送が、もしくは難波だから外の雑踏が聞こえてきてもいいものだが、それすらない。
まるでタイムスリップか、もしくは世界からここだけが切り離されたみたいな感覚だった。
まあそういうところが隠れた名店っぽくてええんやけどな。
「それはそうと、きんつばってどんな和菓子だったっけ」
「えっと、たしかあれやろ? 粒あんを薄皮で包んだやつ」
「あー。そういえば前にサークル旅行で行った旅館の部屋に置いてあったなあ」
蓮華の言葉に、甘乃も似たような光景を思い浮かべる。修学旅行の宿泊先にあったお土産コーナー。そこで見た記憶がある。それだけ和菓子の中ではメジャーな方ということだろう。
見た目も簡単にイメージできた。四角い形に、半透明の薄皮からのぞかせる紫の粒あん。洋菓子と比べても、あるいは和菓子の中でも決して映える方ではない。
だからこそ、甘乃は気になっていた。レビューした数少ない人たちが口をそろえて「絶品」と評価しているということは、きっと何か秘密があるに違いない。
「へえー、モチーフは刀の鍔からきてるから『きんつば』なんやって」
「そうなんだ。金色の鍔なんてなんだか縁起がよさそうだね。あ、そうだ。私ちょっとトイレに行ってくるね」
「んー」
席を立つ蓮華に、甘乃はスマホをいじりながら答える。きんつばの由来が表示されたページも念のためブックマークしておくことにした。こういう情報があとでレビューを書く時の参考になることもある。
「――お待たせしました」
するとほどなくして、店員の女性が現れた。またしても足音がなかったので甘乃は内心驚く。
彼女は先ほどとは違い、手にお盆を持っていた。しなやかな動きでそれを左手だけに持ち替えると、右手でその上に乗ったお皿をちゃぶ台に乗せる。
「きんつば、お二つになります」
ごゆっくりどうぞ、という言葉とともに再び一礼をして女性が去っていく。その所作はまるでそうつくられたからくり人形にも見えた。
だが甘乃は彼女の方を見ていなかった。見る余裕がなかった。
目の前に置かれたお皿に目を奪われていたからだ。
「わ……」
それぞれのお皿に乗っていたのは、いわゆる「きんつば」が二つ。
だが、甘乃たちが見たことのあるきんつばとは大きく異なる点があった。
まずは形。だいたい四角形をしているのに、出てきたのは楕円形をしている。より刀の鍔の形に近づけているのだろうか。
もうひとつ。こっちはより目についた。色だ。
あずき色ではなく、真っ赤だったのだ。
「これ……ほんとに和菓子、きんつば……だよね」
「すご。思ってたのとぜんぜん違うね」
トイレから戻ってきた蓮華の感嘆が甘乃の言葉と重なる。座布団に座りなおしているが、彼女もまたきんつばに釘付けだった。
「これって、ソースみたいなのがかかってるってことかな」
「せやな、こんなん初めて見たわ」
赤さの正体はそれだった。きんつばの上にたっぷりと、まるでフランス料理のようにソースがかけられている。鮮やかな赤が、きんつばを覆いつくしていたのだ。
甘乃は試しに楊枝の先端にソースだけをすくって、ぺろりと舐めてみる。
「どんな味なんやろ……うわ、うっま」
瞬間、さわやかな酸味が口の中を駆け巡る。おそらくベリー系がベースになっているのだろう。そして果実をそのまますりつぶしているのか、どろりとした食感があって濃厚さもある。
続けて楊枝をできんつば本体を切り分ける。ひと口分にカットして、ソースをしっかりとつけて口に放り込んだ。
「ん~~~~! おいしい!」
思わず頬に手を当てる。酸味のあるソースに続けて、粒あんの甘さがやってくる。どちらもしっかりとした味わいを持っていながら、お互いを邪魔することなく、引き立てあっていた。
きんつばの方もしっかりとした食感を伴っていて、小豆を噛むたびにやさしい甘さが広がる。それをソースが包み込んで甘みにくどさをなくしてくれる。
「ねえ甘乃、このお茶もおいしい!」
「ほんまに?」
「うん。苦いけど、それが合ってるっていうか」
少し早いペースで食べすすめていた蓮華に言われて、湯のみに口をつける。瞬間、日本のお茶らしい独特の苦みが舌の上で転がったが、このきんつばを食べた後だとうまく打ち消して口の中をすっきりさせてくれる。
なるほど、たしかにこれは「絶品」だ。甘乃が見かけたレビューや動画で絶賛していたのもうなずける。
和菓子と洋風っぽいソースを組み合わせるのも新しい。それでいて、昔ながらの和菓子のよさを損なっていない。店が古い分、古めかしい和菓子が出てくるのかとも思ったが、まったくそんなことはなかった。むしろ最先端ともいえる。
「どう? いいレビューは書けそう?」
「もちろんやで。いやーおいしいわあ」
その後も、二人は初めてのおいしさに舌鼓を打った。


