御厨甘乃にとって近世文学論の講義は、スイーツの新店開拓をする時間だった。
「はあ~、次はどないしようかあ~」
小さくつぶやく。ため息とともに口をついて出るそれは迷いからくるものではなく、困り果てた結果によるものだった。もちろん、教壇で近世文学論を熱心に語る教授の話は一切頭に入っていない。
視線を向ける机の上には教科書など広げているはずもなく、あるのはスマホだけ。表示されているのは新宿区あたりの地図だ。しかし地図の役割を果たしているとは言いがたいほどに赤いピンが所狭しと刺さっている。
そのすべてが、甘乃がチェックした場所。行ったことのある店、あるいは気になっている店だ。
蓮華:何? また次に行く店探し?
すると、通知バーが出てきてそんなメッセージが顔を出す。差出人は隣にいる友人、土師蓮華からだった。ちなみに蓮華も机にスマホを置いているものの、きちんと教科書も広げていて一応は講義を受けるという姿勢を示していた。
蓮華は明るい茶色に染めた髪をいじりながら、甘乃の方に目線をちらりと送ってくる。
甘乃:そうなんよー 「これや!」ってとこがイマイチ
なくて……
蓮華:ふーん ほんと、スイーツ好きだよね
甘乃:当たり前やん! 甘いものは心の栄養やで!
彼女は甘味に目がなかった。たぶん「甘乃」なんて名前をつけられたからだろう。お酒を飲める年齢になった今も、甘乃は変わらず甘党だった。
蓮華:それはいいけど、講義ちゃんと受けなくて
いいの? 単位落とすよ?
甘乃:よゆーやろ! 出席はちゃんとしてるし。それに
蓮華、先輩から過去問もらってるんやろ? うち
にもちょーだいよ
したり顔を蓮華に向ける。すると髪をいじる指が止まり、半眼が返ってくる。彼女がサークルの先輩を伝手に過去問を入手していることは知っていた。だからこそ講義そっちのけで店探しに勤しんでいるわけだ。自分だけ楽をしようだなんて、そうはいかない。
蓮華は観念したように息を吐くと、素早い動きでスマホに指を這わせる。
蓮華:前に行ってたパンケーキのとこは? 甘乃、気に
なるって言ってなかったっけ?
甘乃:いやいや! 行きたいは行きたいんやけど、私が
言うてるんはレビューを書く店のことやねん!
甘乃は大学生として日々を過ごす傍ら、自身が行ったスイーツの店のレビューをSNSに投稿してお金を稼いでいた。
大学生は何かとお金がかかる。それが関西から上京して一人暮らしをしているなら尚更だ。アルバイトだってしているが、それでもお金は多いに越したことはない。
そこで目をつけたのがSNSの閲覧数に応じた公告収入だ。映える写真と簡単なレビューを書いて投稿する、それだけでいい。最初は動画投稿サイトも考えたが、編集が面倒なのと顔出しするのが嫌だったので選択肢から除外した。
何より自分の趣味であるスイーツ店巡りが収入になるのが大きい。本来ならお金が出ていくだけのものが、収入源となるのだ。ひと昔前に流行った、好きなことで生きていく、というやつだ。
問題は公告収入が得られるくらいの閲覧数を稼げるかだったが、果たしてそれは杞憂だった。世の中には甘乃と同じように美味しいスイーツが食べられる店の情報に飢えている人が多いらしく、投稿を始めてから割とすぐに規定のインプレッション数に到達することができた。
そんなことを続けて――アカウント名『マロンあまのん』として投稿を続けて約一年。今では甘乃にとってちょっとしたお小遣いになるくらいの重要な収入源となっているわけだが、
甘乃:このへんの店はほとんど動画とか口コミサイトで
紹介されてるから、大して閲覧数稼げへんねん!
力強くタップして返信した後、頭を抱える柴犬のスタンプを送る。
目下、甘乃の悩みの種はそこにあった。要は閲覧数の伸び悩みだ。
理由は明白だった。東京は店の数こそ多いがそれ以上に人の数が多い。新しい店やおもしろそうな店を見つけたと思っても、すでにたくさんの人がレビュー済みであることばかりで閲覧数が伸びない。
最近は同じ手法で店を紹介しているアカウントや配信者も増えているし、このままいけば近いうちに規定の閲覧数を下回り、広告収入の対象から外されてしまう。そうなれば、重要な収入源が消えてしまうというわけだった。
「……隠れた名店、みたいなのがあったら一番ええんやけどなあ」
甘乃は画面を再び地図アプリに戻し、小さく独り言ちる。レビューした人が少なくて、かつ話題性のありそうな店。甘乃が欲しているのはそういう条件を満たす場所だが、都内をいくら探しても見つからなかった。SNSでレビューしてほしいお店を募っても、大してリクエストはこなかった。
なのでこうしてため息をつきながら途方に暮れているというわけだ。
蓮華:それなら、地元の方で探してみるとかは?
と、再び友人から新着メッセージ。
甘乃:地元って、大阪?
蓮華:そうそう。梅田とか難波? 行ったことないけど
あの辺なら東京の人が知らない店とかあったり
するんじゃない?
甘乃:ほー、なるほど
返信しながら、同じように口を「ほ」の字に開ける甘乃。
たしかにその発想はなかった。甘乃は大阪出身。高校生の頃は放課後に難波まで出て遊ぶことが多かったが、蓮華の言う通りあのあたりは雑然としているので知らない店がまだまだあるのもまた事実だった。それに上京してから一年以上経っている。
あとはええ店があるかどうか、やな。……よっしゃ。
決めるや否や、甘乃は素早い動きでスマホを操作する。もはや講義中であることは完全に甘乃の頭にはなかった。
開くのは数多のレビューサイト。大手からあまり有名でないものまでブックマークから呼び出して総動員する。甘乃がよくやる店探しの方法だった。時間があれば歩いて実地調査もしたりするのだが、そうも言ってられない。しかも今はターゲットが遠く離れた大阪の地でもある。
梅田はだいたい有名どころの人がレビュー済みやなあ。難波がいいかな。せやけど、難波は居酒屋ばっかりやなあ。上位に出てくるんは高島屋とかマルイにある店ばっかりやし……。
考えながら別のサイトに飛んだり、サイトの奥の奥の方まで潜ったり。だんだんと指先から伝わるスマホの温度が高くなっていく。
しかしなかなか見つからず、そろそろ違う案を考えた方がいいか、なんて思い始めたその時。
甘乃の目にひとつのレビューが飛び込んできた。
「こ……」
ここや!
思わず声を上げそうになった口を手で覆うと、甘乃はすぐさまレビューページをブックマーク。それから画面を遷移し、メッセージを送って歓喜を伝える。
甘乃:あった! あったで!
蓮華:え、もう見つけたの?
スマホをいじるのも飽きてきたのか、教科書をぱらぱらとめくっていた蓮華が顔を上げる。
甘乃:そうと決まれば、さっそく明後日行こうや!
ちょうど休講の連絡あったし
蓮華:明後日って、大阪でしょ? 急じゃない?
甘乃:こういうのは早くせな、あっという間に話題に
なってしまうねん!
スイーツの流行り廃りはファッションと同じように水物だ。旬を逃してしまったら、仮にレビューを投稿したとしても誰からも目を向けてくれない可能性もある。なによりのんびりしていたら、有名レビュワーに先を越されてしまいかねない。そのことを、甘乃はこれまでの経験から理解していた。
甘乃:それに蓮華かて、バイトもサークルもなかった
やろ?
蓮華:え? 私も行く流れ?
まさか自分も行くとは思っていなかったのか、蓮華は目を丸くしながらひっくり返った猫のスタンプを送ってくる。
甘乃:えー、せっかくやねんから一緒に行こうやー
大阪、行ってみたいって前に言ってたやん
蓮華:言ってたけど……それはユニバに行きたいって意味
だから ユニバ行くとなると泊まりになってお金
かかるでしょ?
甘乃:大丈夫やって! ユニバにはトワイライトパスが
あって、15時以降入場やと安いねん! 閉園まで
遊んで夜行バスで帰ったら泊まらんですむし
隙のないプランだと言わんばかりに得意げな顔を見せる甘乃。高校時代は放課後にユニバに行ったりしていたので、お得かつ効率的に遊ぶ方法を彼女は会得していた。
甘乃:なーお願いやって ひとりで行ってもさみしいやん
画面から顔を上げてわざと上目遣いに蓮華の方を見る。
やがて彼女は甘乃とは別の意味でため息をつくと、
蓮華:わかったよ でもその代わり、行くって言ってる
店は甘乃のオゴリね
甘乃:え!? なんで!?
蓮華:この講義、落としたくないんでしょ?
そうメッセージが届くと、今度は蓮華の方が得意げな顔を向けてくる。蓮華の机に置かれた教科書の下には何枚かのプリントがあった。おそらく先輩からもらったという過去問だろう。
瞬間、甘乃は計算する。これから自力で過去問を探す労力と、スイーツ店で支払うであろう代金を。そしてどちらがいいかを判断する。
とかく、大阪人は金勘定に敏感なのだ。
甘乃:ええよ せやけど、店のお金だけやで!
蓮華:ごちそうさま じゃあユニバのチケットは私がとる
から、新幹線と帰りの夜行バスの予約は任せたよ
そんなわけで、女子大生ふたりの弾丸大阪ツアーが決まったのだった。
「はあ~、次はどないしようかあ~」
小さくつぶやく。ため息とともに口をついて出るそれは迷いからくるものではなく、困り果てた結果によるものだった。もちろん、教壇で近世文学論を熱心に語る教授の話は一切頭に入っていない。
視線を向ける机の上には教科書など広げているはずもなく、あるのはスマホだけ。表示されているのは新宿区あたりの地図だ。しかし地図の役割を果たしているとは言いがたいほどに赤いピンが所狭しと刺さっている。
そのすべてが、甘乃がチェックした場所。行ったことのある店、あるいは気になっている店だ。
蓮華:何? また次に行く店探し?
すると、通知バーが出てきてそんなメッセージが顔を出す。差出人は隣にいる友人、土師蓮華からだった。ちなみに蓮華も机にスマホを置いているものの、きちんと教科書も広げていて一応は講義を受けるという姿勢を示していた。
蓮華は明るい茶色に染めた髪をいじりながら、甘乃の方に目線をちらりと送ってくる。
甘乃:そうなんよー 「これや!」ってとこがイマイチ
なくて……
蓮華:ふーん ほんと、スイーツ好きだよね
甘乃:当たり前やん! 甘いものは心の栄養やで!
彼女は甘味に目がなかった。たぶん「甘乃」なんて名前をつけられたからだろう。お酒を飲める年齢になった今も、甘乃は変わらず甘党だった。
蓮華:それはいいけど、講義ちゃんと受けなくて
いいの? 単位落とすよ?
甘乃:よゆーやろ! 出席はちゃんとしてるし。それに
蓮華、先輩から過去問もらってるんやろ? うち
にもちょーだいよ
したり顔を蓮華に向ける。すると髪をいじる指が止まり、半眼が返ってくる。彼女がサークルの先輩を伝手に過去問を入手していることは知っていた。だからこそ講義そっちのけで店探しに勤しんでいるわけだ。自分だけ楽をしようだなんて、そうはいかない。
蓮華は観念したように息を吐くと、素早い動きでスマホに指を這わせる。
蓮華:前に行ってたパンケーキのとこは? 甘乃、気に
なるって言ってなかったっけ?
甘乃:いやいや! 行きたいは行きたいんやけど、私が
言うてるんはレビューを書く店のことやねん!
甘乃は大学生として日々を過ごす傍ら、自身が行ったスイーツの店のレビューをSNSに投稿してお金を稼いでいた。
大学生は何かとお金がかかる。それが関西から上京して一人暮らしをしているなら尚更だ。アルバイトだってしているが、それでもお金は多いに越したことはない。
そこで目をつけたのがSNSの閲覧数に応じた公告収入だ。映える写真と簡単なレビューを書いて投稿する、それだけでいい。最初は動画投稿サイトも考えたが、編集が面倒なのと顔出しするのが嫌だったので選択肢から除外した。
何より自分の趣味であるスイーツ店巡りが収入になるのが大きい。本来ならお金が出ていくだけのものが、収入源となるのだ。ひと昔前に流行った、好きなことで生きていく、というやつだ。
問題は公告収入が得られるくらいの閲覧数を稼げるかだったが、果たしてそれは杞憂だった。世の中には甘乃と同じように美味しいスイーツが食べられる店の情報に飢えている人が多いらしく、投稿を始めてから割とすぐに規定のインプレッション数に到達することができた。
そんなことを続けて――アカウント名『マロンあまのん』として投稿を続けて約一年。今では甘乃にとってちょっとしたお小遣いになるくらいの重要な収入源となっているわけだが、
甘乃:このへんの店はほとんど動画とか口コミサイトで
紹介されてるから、大して閲覧数稼げへんねん!
力強くタップして返信した後、頭を抱える柴犬のスタンプを送る。
目下、甘乃の悩みの種はそこにあった。要は閲覧数の伸び悩みだ。
理由は明白だった。東京は店の数こそ多いがそれ以上に人の数が多い。新しい店やおもしろそうな店を見つけたと思っても、すでにたくさんの人がレビュー済みであることばかりで閲覧数が伸びない。
最近は同じ手法で店を紹介しているアカウントや配信者も増えているし、このままいけば近いうちに規定の閲覧数を下回り、広告収入の対象から外されてしまう。そうなれば、重要な収入源が消えてしまうというわけだった。
「……隠れた名店、みたいなのがあったら一番ええんやけどなあ」
甘乃は画面を再び地図アプリに戻し、小さく独り言ちる。レビューした人が少なくて、かつ話題性のありそうな店。甘乃が欲しているのはそういう条件を満たす場所だが、都内をいくら探しても見つからなかった。SNSでレビューしてほしいお店を募っても、大してリクエストはこなかった。
なのでこうしてため息をつきながら途方に暮れているというわけだ。
蓮華:それなら、地元の方で探してみるとかは?
と、再び友人から新着メッセージ。
甘乃:地元って、大阪?
蓮華:そうそう。梅田とか難波? 行ったことないけど
あの辺なら東京の人が知らない店とかあったり
するんじゃない?
甘乃:ほー、なるほど
返信しながら、同じように口を「ほ」の字に開ける甘乃。
たしかにその発想はなかった。甘乃は大阪出身。高校生の頃は放課後に難波まで出て遊ぶことが多かったが、蓮華の言う通りあのあたりは雑然としているので知らない店がまだまだあるのもまた事実だった。それに上京してから一年以上経っている。
あとはええ店があるかどうか、やな。……よっしゃ。
決めるや否や、甘乃は素早い動きでスマホを操作する。もはや講義中であることは完全に甘乃の頭にはなかった。
開くのは数多のレビューサイト。大手からあまり有名でないものまでブックマークから呼び出して総動員する。甘乃がよくやる店探しの方法だった。時間があれば歩いて実地調査もしたりするのだが、そうも言ってられない。しかも今はターゲットが遠く離れた大阪の地でもある。
梅田はだいたい有名どころの人がレビュー済みやなあ。難波がいいかな。せやけど、難波は居酒屋ばっかりやなあ。上位に出てくるんは高島屋とかマルイにある店ばっかりやし……。
考えながら別のサイトに飛んだり、サイトの奥の奥の方まで潜ったり。だんだんと指先から伝わるスマホの温度が高くなっていく。
しかしなかなか見つからず、そろそろ違う案を考えた方がいいか、なんて思い始めたその時。
甘乃の目にひとつのレビューが飛び込んできた。
「こ……」
ここや!
思わず声を上げそうになった口を手で覆うと、甘乃はすぐさまレビューページをブックマーク。それから画面を遷移し、メッセージを送って歓喜を伝える。
甘乃:あった! あったで!
蓮華:え、もう見つけたの?
スマホをいじるのも飽きてきたのか、教科書をぱらぱらとめくっていた蓮華が顔を上げる。
甘乃:そうと決まれば、さっそく明後日行こうや!
ちょうど休講の連絡あったし
蓮華:明後日って、大阪でしょ? 急じゃない?
甘乃:こういうのは早くせな、あっという間に話題に
なってしまうねん!
スイーツの流行り廃りはファッションと同じように水物だ。旬を逃してしまったら、仮にレビューを投稿したとしても誰からも目を向けてくれない可能性もある。なによりのんびりしていたら、有名レビュワーに先を越されてしまいかねない。そのことを、甘乃はこれまでの経験から理解していた。
甘乃:それに蓮華かて、バイトもサークルもなかった
やろ?
蓮華:え? 私も行く流れ?
まさか自分も行くとは思っていなかったのか、蓮華は目を丸くしながらひっくり返った猫のスタンプを送ってくる。
甘乃:えー、せっかくやねんから一緒に行こうやー
大阪、行ってみたいって前に言ってたやん
蓮華:言ってたけど……それはユニバに行きたいって意味
だから ユニバ行くとなると泊まりになってお金
かかるでしょ?
甘乃:大丈夫やって! ユニバにはトワイライトパスが
あって、15時以降入場やと安いねん! 閉園まで
遊んで夜行バスで帰ったら泊まらんですむし
隙のないプランだと言わんばかりに得意げな顔を見せる甘乃。高校時代は放課後にユニバに行ったりしていたので、お得かつ効率的に遊ぶ方法を彼女は会得していた。
甘乃:なーお願いやって ひとりで行ってもさみしいやん
画面から顔を上げてわざと上目遣いに蓮華の方を見る。
やがて彼女は甘乃とは別の意味でため息をつくと、
蓮華:わかったよ でもその代わり、行くって言ってる
店は甘乃のオゴリね
甘乃:え!? なんで!?
蓮華:この講義、落としたくないんでしょ?
そうメッセージが届くと、今度は蓮華の方が得意げな顔を向けてくる。蓮華の机に置かれた教科書の下には何枚かのプリントがあった。おそらく先輩からもらったという過去問だろう。
瞬間、甘乃は計算する。これから自力で過去問を探す労力と、スイーツ店で支払うであろう代金を。そしてどちらがいいかを判断する。
とかく、大阪人は金勘定に敏感なのだ。
甘乃:ええよ せやけど、店のお金だけやで!
蓮華:ごちそうさま じゃあユニバのチケットは私がとる
から、新幹線と帰りの夜行バスの予約は任せたよ
そんなわけで、女子大生ふたりの弾丸大阪ツアーが決まったのだった。


