そこまで考えて、蛍里は唇を噛んだ。そんな
都合のいい話が、あるわけなかった。彼が自分
を選べば、それはそのまま“彼女”との婚約破棄
に繋がる。ここ数年、業績が悪化しているサカ
キグループは、安永財閥の後ろ盾を失い、さら
に経営が行き詰まるだろう。
そうなれば、専務の立場は危うくなり、さら
には、専務との恋仲が周知の事実となった自分
も、会社にいられなくなる。
彼も自分も、茨の道を歩くことになる。
詩乃守人の物語のように、現実は「めでたし
めでたし」、とはいかないのだ。
蛍里は目を閉じた。
今はもう、幻となった想像の中だけの詩乃守
人が、自分を振り返り、微笑みかける。こんな
ことになるなら、「会いたい」なんて言わなけ
ればよかった。そうすれば、自分は詩乃守人と
いう作家に惹かれながら、現実の世界では専務
を遠くから見つめ、何も失うことなく、傷つく
こともなく、平穏な日々を送っていたに違いない。
蛍里はそう思って、一筋の涙を流した。
もし、「会いたい」というメールを彼に送って
いなかったら、彼の温もりも、腕の強さも、唇の
甘さも、知ることはなかった。
「愛している」という悲しいくらい幸せな言葉
を、彼の口から聞くこともなかった。
何も失うものがない、というのは、何も得て
いないということの裏返しなのだ。たとえ傷つ
き、心が血を流したとしても、そのすべてを
知らなければよかったなどと……思えるはず
もなかった。
蛍里は知らず、口元に笑みを浮かべた。
気付けばまた、同じことを考えている。
こうやって自分は、繰り返し、繰り返し、彼の
ことを考え続けるのだろう。
蛍里はカーテンの隙間から外を眺めた。
空は夕刻の赤を失い、紫紺に変わり始めてい
る。蛍里はようやく、重い頭を起こした。拓也が、
いなくてよかった。彼は昨日から用事で家を空け
ているのだ。もし家にいたなら、こんな風に感傷
に浸ることもなかっただろう。
けれど、もうすぐ、拓也が帰ってくる。
こんな顔をしていたら、きっと心配させてしまう。
蛍里は部屋を出て洗面所に向かうと、泣きはらし
た顔を冷たい水で思い切り洗ったのだった。
週末を丸ごとメンタルの回復に費やしたおか
げか、月曜の朝はいつも通り起きることができた。
朝ご飯を食べ、歯を磨き、身支度を整える。
出社すれば、隣の専務室には彼がいる。まだ、
どんな顔をして会えばいいのかわからなかった
が、こうして会社で顔を見られるだけでも幸せだ
と思う自分がいた。
そうして、こうも思う。
このままずっと、彼を好きでいればいいのだ、
と。
都合のいい話が、あるわけなかった。彼が自分
を選べば、それはそのまま“彼女”との婚約破棄
に繋がる。ここ数年、業績が悪化しているサカ
キグループは、安永財閥の後ろ盾を失い、さら
に経営が行き詰まるだろう。
そうなれば、専務の立場は危うくなり、さら
には、専務との恋仲が周知の事実となった自分
も、会社にいられなくなる。
彼も自分も、茨の道を歩くことになる。
詩乃守人の物語のように、現実は「めでたし
めでたし」、とはいかないのだ。
蛍里は目を閉じた。
今はもう、幻となった想像の中だけの詩乃守
人が、自分を振り返り、微笑みかける。こんな
ことになるなら、「会いたい」なんて言わなけ
ればよかった。そうすれば、自分は詩乃守人と
いう作家に惹かれながら、現実の世界では専務
を遠くから見つめ、何も失うことなく、傷つく
こともなく、平穏な日々を送っていたに違いない。
蛍里はそう思って、一筋の涙を流した。
もし、「会いたい」というメールを彼に送って
いなかったら、彼の温もりも、腕の強さも、唇の
甘さも、知ることはなかった。
「愛している」という悲しいくらい幸せな言葉
を、彼の口から聞くこともなかった。
何も失うものがない、というのは、何も得て
いないということの裏返しなのだ。たとえ傷つ
き、心が血を流したとしても、そのすべてを
知らなければよかったなどと……思えるはず
もなかった。
蛍里は知らず、口元に笑みを浮かべた。
気付けばまた、同じことを考えている。
こうやって自分は、繰り返し、繰り返し、彼の
ことを考え続けるのだろう。
蛍里はカーテンの隙間から外を眺めた。
空は夕刻の赤を失い、紫紺に変わり始めてい
る。蛍里はようやく、重い頭を起こした。拓也が、
いなくてよかった。彼は昨日から用事で家を空け
ているのだ。もし家にいたなら、こんな風に感傷
に浸ることもなかっただろう。
けれど、もうすぐ、拓也が帰ってくる。
こんな顔をしていたら、きっと心配させてしまう。
蛍里は部屋を出て洗面所に向かうと、泣きはらし
た顔を冷たい水で思い切り洗ったのだった。
週末を丸ごとメンタルの回復に費やしたおか
げか、月曜の朝はいつも通り起きることができた。
朝ご飯を食べ、歯を磨き、身支度を整える。
出社すれば、隣の専務室には彼がいる。まだ、
どんな顔をして会えばいいのかわからなかった
が、こうして会社で顔を見られるだけでも幸せだ
と思う自分がいた。
そうして、こうも思う。
このままずっと、彼を好きでいればいいのだ、
と。
