肩で息をしながら、何が起きたのかわからず
に、ゆっくり顔を上げる。すると少しぼやけた
視界の先に、ひっくり返った滝田を見下ろして
いる専務がいた。

 「せっ……専務」

 驚いた顔をしてそう呟いた滝田に、専務は険し
い眼差しを向けている。

 蛍里は彼の姿を見た瞬間、つんと鼻先が痛ん
で、両手で口を覆った。助けてくれた。彼が滝田
を止めてくれた。そのことにホッとして滝田に目
を向けると、彼はバツが悪そうな顔をして、立ち
上がった。

 「部下の恋愛にまで、口出すつもりですか?」

 ぐい、と唇を拭いながら、滝田が専務を睨み
返した。倒れた時に切れたのか唇には血が滲ん
でいる。

 「彼女の同意があるようには見えなかったか
ら、止めたまでです。上司としてだけでなく、
同じ男としてもあなたの行為を見過ごすわけに
はいきません」

 滝田の鋭い眼差しに臆することなく、専務は
じっと彼を見据えた。

 整った顔立ちが、いっそう険しく歪む。

 口調は穏やかでも、その表情が彼の怒りを
露わにしている。蛍里は二人のやり取りを、固唾
を呑んで見守っていた。

 ちら、と専務が蛍里に目を向ける。

 蛍里の口を覆う指先は、肩は、カタカタと震え
ている。専務は蛍里にゆっくり近づき、跪いた。

 そうして、背中越しに滝田に言った。

 「事を荒立てるつもりはありません。誰かに見
つかりたくなかったら、すぐにこの場を去ってく
ださい」

 有無を言わさぬ物言いに、滝田が拳を握りし
める。そうして、蛍里に切なげな眼差しを向る。

 蛍里が、涙の滲む目で滝田を見上げると、彼
は辛そうに顔を歪め、くるりと踵を返した。

 そうして、足早にその場を離れていった。

 「……あの、ありがとう……ございます」

 滝田の足音が遠ざかっていくと、蛍里は目の
前で心配そうに自分を覗き込んでいる専務に、
声を絞り出した。何も言わずに専務は首を振る。
こうして、彼と視線を交わすのは何日ぶりだろ
う?まだ混乱した頭の片隅で、蛍里はそんなこと
を思った。

 「これで拭きなさい」

 ようやく、落ち着きを取り戻した蛍里に、専務
は懐から取り出したハンカチを差し出した。男物
の、大判のハンカチだ。

 蛍里は専務の体温が染みたそれを受け取って、
首を傾げた。

 「口紅がずれてます」

 その言葉の意味を理解して、顔を朱くする。

 滝田に貪られた唇は、淡い朱鷺色ではあった
けれども、唇をはみ出して滲んでいた。

 「……すっ、すみません」

 ハンカチが汚れてしまうことを気にかけながら
も、蛍里は唇を拭う。