専務室のドアのところで、振り返る。

 いま、この瞬間が終わってしまえば、今度は
いつ笑って話せるかも、わからない。周囲の目
を気にして距離を置いているのは自分の方なの
に、専務はきっと、蛍里のその態度に気付いて
いるはずなのに、優しかった。

 だから、離れがたくて蛍里は言葉を探した。

 「どうしました?」

 ドアノブを握りしめたまま振り返っている
蛍里に、専務が首を傾げる。早く何か言わなけ
れば。蛍里は頭の中で必死に言葉を探した。

 「……あの」

 「…………?」

 「その……諦めなければ、どうにかなるんじゃ
ないかと、思います」

 ポツリ、ポツリと蛍里がそう口にすると、専務
は驚いたように目を見開いた。何の事を言ってい
るのか、彼はわかるはずだ。これも分を弁えない、
行き過ぎた言葉かもしれない。それでも、蛍里は
彼に伝えたかった。彼だから、伝えたかった。

 「専務の置かれている立場を考えると……難し
いのかもしれませんけど、でも、難しいと思って
諦めてしまったら、どうにもならないって、いう
か。幸せになって欲しいな、って思うんです。
わたし、専務も、専務が想われるその方も……
幸せになって欲しいです」

 余計なことを言うなと、怒られるかもしれない。

 簡単にそんなことが出来るなら、専務だって
きっと、苦しんではいないだろう。

 それでも、彼の胸の内を知ってしまったから。

 蛍里は、専務がこのまま幸せになれない結婚
をするのが、悲しかった。誰かが傷ついたり、
苦しんだりしたとしても、詩乃守人の綴る物語の
ように、最後は二人がハッピーエンドを迎える
結末であって欲しい。

 そう願ってしまうのは独善的すぎるだろうか?

 榊専務の返事はなかった。

 その事を不安に思ってまた口を開きかけた蛍里
に、彼は、少し苦しそうな、泣いてしまいそう
な笑みを向けた。

 ぎゅっ、と胸を掴まれたように苦しくなる。

 こんな顔をさせるために、言ったつもりはなか
った。

 「もう行きなさい。人が戻ってきます」

 それだけ言うと、専務は蛍里から視線を逸らし
てデスクに向かった。もう顔を上げない。蛍里は
唇を噛むと、失礼しますと頭を下げ、部屋を出た。




 結局、昼ごはんに食堂で注文したタヌキうどん
は、ほとんど喉を通らなかった。それでも不思議
とお腹が空くことはない。

 その理由は、昼間の専務顔が頭にチラついて
胸が苦しかったのと、どうにも一人では処理しき
れない仕事を抱え、お腹が空いたと思う余裕が
なかった、というのが原因で……定時をとっくに
過ぎた時刻になっても、蛍里のお腹が鳴ることは
なかった。