Petals Left Behind


【木月瑠胡 十六歳 春】


 吹いた風にふわりと桜の香りがのった。十六歳、春。
 わたしは無事に高校二年生になった。

 高校一年生の間に行われる希望調査で、わたしは文系に進んだ。心理学は一般的に文系に位置付けられることが多く、それに合わせた大学の検討も始めるようにと言われている。
 駅までの道を反対側に進み、数分歩くと書店が見えてきた。月に数回、ここを訪れて、気に入った本があれば買う。最近は心理学の本や哲学書を購入することも増えた。

 文芸コーナーをひととおり見てから、心理学コーナーに進み、漫画コーナーへと移る。緋夏と琴亜が読んでいる漫画の最新巻が目立つように並んでいた。最近話題の少女漫画だ。
 子犬系男子の沼にハマるのだと、緋夏が言っていた。犬系彼氏、猫系彼氏、という言葉があるけれど、わたしが犬系彼氏の隣に並んでいるなんてまったく想像ができない。彼は……犬、ではない気がする。

 結局何も買うことなく店を出た。
 スマホを見ると〈学校終わった?〉と連絡が入っている。彼からだった。

 終わったよ、と返信して、駅に向かう。桜の花びらがひらひらと舞いおりてくる。青い空によく映えていた。
 風に髪がなびく。


 一年前に彼と出会ったのも、今日みたいな真っ青な空に桜が降る日だった。


『あのっ、先輩。お名前、教えてくれませんか』
新木(あらき)琥尋(こひろ)。気をつけて帰れよ、瑠胡』
『……っ、ありがとうございます』


 なんて綺麗なひとだろう、と思った。今では考えられないほど鬱々とした精神状態に陥っていたわたしにとって、その出会いはあまりにも衝撃的で、美しかった。数ヶ月の関わりを経て、わたしと彼は恋人になった。あれからもうすぐ一年が経つ。

 彼は──琥尋くんは、この春から大学生になった。県外の医学部に進学した彼は多忙な毎日を送っているようで、高校時代よりも連絡という繋がりは薄くなってしまった。


「って言っても、あんまり変わんないか……」


 1年間を振り返ってみても、彼はずっと忙しそうにしていた。目指している医学部に入るため、苦しいなかでも勉強している姿を見ていると、迂闊に話しかけたり誘ったりできなかったし、頑張っている彼の邪魔になりたくなかった。
 それでも彼は帰りを合わせて、わたしとの時間を確保してくれた。さすがに冬場は受験期真っ只中で会うことすらできなかったけれど、わたしが不安にならないようにと連絡をしてくれていた。
 そうして乗り越えた受験期だったから、正直、恋人らしい距離感でずっといられたわけではない。けれどそれは分かったうえで付き合ったのだし、なにより彼のことが好きだったから、苦ではなかった。


〈ゴールデンウィーク、そっち帰るから。会いたい〉


 ドキリと心臓が跳ねる。わかった、と返す。わーいと喜んでいる猫のスタンプも送った。
 無事に受験に合格したあと、まっさきに報告しにきた彼の嬉しそうな笑顔を、わたしは忘れることはないのだろう。瑠胡!!と名前を呼んで駆け寄ってきた彼は、迷うことなくわたしの身体を包み込んだ。待たせてごめん、我慢させてごめんな、という言葉で、わたしの1年間が報われた気がしたのだ。

 春休みは、なかなか遊べなかった1年間を取り戻すように、頻繁に会っていた。
 映画をみたり、お花見をしたり、一緒にご飯を作ったり。何をするにも隣に彼の笑顔があって、いままでにないほどの幸せが一気に流れ込んでくるみたいだった。

『よかった』

 色違いの服を着て撮ったプリクラを眺めながら、琥尋くんが呟く。


『なにが?』


 思わず首を傾げると、目を細めて笑った彼は長い手をわたしの頭に伸ばし、くしゃっと頭を撫でた。


『四月の瑠胡が笑ってるから』


 そのデートを最後に彼は県外へと引っ越してしまった。わたしは進級するだけなのに対して、彼は進学と引っ越しを同時に行うからここしばらくは大変そうだ。
 わたしの周りには遠距離恋愛をしている友達は少ない。同じ学年や同じクラスの人と付き合っている人が多く、これから大学生になる県外の年上と付き合っている人は、わたしの周りにはあまりいない。

 駅に着いたところで、ちょうど電車がやってきた。キキ──と音を立てて止まる。
 座席に座って窓の外をながめる。たくさんの場所で桜が咲いている。なんだか、世界全体が柔らかな色で包み込まれているみたいだ。

 カメラロールをさかのぼる。この前ふたりでお花見をした時の写真を見返す。
 桜を背景にして琥尋くんが微笑んでいる。学校では真顔や凛とした表情が多いのに、ふたりでいるときは花が咲くような優しい笑顔を向けられてばかりだ。スクロールすると、ツーショットが現れる。琥尋くんがスマホを持って、撮ってくれたものだ。

 猫のエフェクトがついていて、なんだかかわいい。目を見開いているわたしと、目を細めている先輩。スクロールしていくと、ふたりが少しずつ動いてポーズを変える。先輩の猫耳がわたしの顔にかぶって、次の写真では先輩の頭でわたしの顔が完全に隠れた。
 唇が触れたあの瞬間を思い出す。

『びっくりした? 目、まんまるじゃん。かわいい』

 悪戯が成功した子供のように、ククッと笑った琥尋くんの顔が浮かぶ。
 まさか写真に残されていたとは知らずに、頬に熱が集まっていく。それと同時に、心は静かなぬくもりで満たされていく。

 一年前には考えられなかった。あのとき、あの場所で、出会えたことが奇跡だ。


 彼のインスタのハイライトには、わたしがうつっている。彼の前で、わたしはいつも自然体で笑っている。

 風が吹いて、桜が散る。あともう少しで、彼と会える。




────


 空港で待っていると、人の流れに合わせて背の高い男性がこちらに向かって歩いてきていた。すぐに先輩だとわかる。わたしを見つけた先輩は、パッと顔を明るくしてスーツケースを引きながら、わたしに近づくなり抱きしめた。


「せ、せんぱい……!?」


 驚いて声がひっくり返る。ぎゅうっと力を込められると、何も言えなくなってしまう。


「ただいま。久しぶり、瑠胡」


 身体を離した琥尋くんが、ゆっくりと笑みを浮かべる。切れ長の瞳が優しくなった。


「おかえりなさい。久しぶり、琥尋くん」


 一か月くらい離れていただけなのに、顔を見るとたまらなくうれしくなる。近くで改めてみると、本当にきれいな顔だ。切れ長の瞳がわたしをしっかりととらえている。吸い込まれそうに美しい、青色の瞳だった。


「髪色、明るくしたの?」


 首をかしげると、琥尋くんは少し照れたようにはにかんだ。


「やっぱ、気づくんだな。うれしい」
「似合ってると、おもう」


 言葉がたどたどしくなる。彼は、わたしの頭をゆっくりと撫でてから、「ありがとな」とつぶやいた。


「一緒に美味いもの食べにいこうぜ」
「うん」
「瑠胡と食べたいもの、たくさん考えてきたんだ。瑠胡の話もたくさん聞かせてくれよ」


 にかっと笑った彼は、歩き出す。その隣に並んだ。歩調が合う。
 すれ違う人の視線が、ちらちらと彼に向いているのがわかった。けれど彼は何も気にしていないような顔で、時折わたしのほうを見て「どうした?」と首を傾げている。


 大学生と、高校生。わたしが大学生になるまで、最短でも二年はかかってしまう。医学生はとても忙しいと聞くから、これからまた会えない日が続くかもしれない。出会ったあの頃は、当然のように会えていたし、同じ電車に乗って下校できていた。あの時間が変えようのない価値を持っていたことは、過ぎ去ってしまってから気づく。


「おーい、瑠胡」


 いきなり声がしたかと思うと、目の前に彼の顔が現れる。驚いてのけぞると、「そんなにびっくりすることないだろ」と彼はからかうように笑った。


「なに深刻な顔してんだよ。なにか不安になった?」


 口調は軽い。けれど、わたしを見つめる目には、真剣さが宿っていた。すべて見透かされているような気持ちになる。


「ううん。幸せだなって、思っただけ」
「なんだそれ。これからもっともっと幸せになるんだよ、瑠胡は」


 恥ずかしげもなくそんなことを言ってのけるところは、高校生の時から変わっていない。彼のまっすぐな言葉は、いつだってわたしの心を救ってくれた。


「もうすぐ記念日だな。一年か……はやいな」


 スーツケースを引きながら、琥尋くんがぼやく。あっという間の一年間だった。


「記念日当日には一緒にいられねえけど……その代わりに、少し早めの記念日デートしようぜ。もう予約してあるから」
「え」
「たのしみだな、瑠胡」


 まさか、彼が記念日に合わせてそんな計画を立ててくれていたなんて思わなかった。


「ありがとう……琥尋くん」


 彼を見上げると、にかっと笑われる。とてもまぶしかった。
 どうしてこんな太陽みたいな笑顔ができるのだろう。


「ちょっとお手洗い行ってくるね」
「おっけ。この辺で待っとくわ」


 彼と離れて、お手洗いに向かう。空港は人が多くて、誰もがいそいそと歩いている。これから旅に行くのか、戻ってきたところなのか。誰かに会いに行く人も、この中にいるのだろうか。


「きゃっ」


 突然小さな悲鳴があがり、肩に衝撃が走った。人にぶつかったのだと理解したのは、相手の手からパスポートが滑り落ちた瞬間。あわてて拾い上げる。



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MIZUSHIMA

MAFUYU


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 ローマ字の羅列が目に入る。ゆっくりと顔をあげると、そこには焦ったような顔で手を差し出している女性がいた。


「すみません、ちゃんと周り見てなくて。ありがとうございます」


 消え入りそうな声だった。

「いえ、わたしのほうこそ、ごめんなさい」

 彼女の手にパスポートを渡す。真っ白い肌に黒髪がよく映えていた。
 きれいな人だ、と思う。

 一瞬見えた名前が、よく似合っていた。


「これからどこかに行かれるんですか」
「え」


 彼女が薄い唇を開く。ほんの少しだけ赤く色づいた唇が、リンゴのようでかわいらしい。グレーの瞳がまっすぐにわたしを見つめていた。


「いえ、人を迎えにきたところです。あなたは……?」
「彼と、一週間旅行していて。たくさんの場所を回っているところなんです。今日は、三日目で」
「へえ……! 素敵ですね」


 彼女が少し恥ずかしそうに、けれど嬉しそうに笑う。


「いまは、彼を待っているところで。……あ、帰ってきました」


 彼女の視線をたどると、ふたつのソフトクリームを手に持った男性が、こちらに歩いてきているところだった。


「あれ、ソフト持ってる……買ってきてくれたのかもしれません」
「優しい方なんですね」


 困ったように笑う彼女にそう言うと、「はい」と彼女はしっかりと首肯した。


「楽しんでくださいね」
「ありがとうございます。引き止めてしまって、ごめんなさい」
「いえいえ」


 琥尋くんのもとに帰ると、彼は遅い帰りをとがめることもなく、じゃあ行こう、と立ち上がった。
 わたしも、彼と一緒にいろいろな場所に行きたい。

 たくさんの景色を見て、共有したい。 




「あ、虹」


 彼の一言で、視線をあげると空には大きな虹が出ていた。


「雨降ってたのか。全然気づかなかった。ラッキー。いいこと、あるかもな」


 そう言って、空気を吸い込む彼の真似をする。彼はよくこうして空を見上げている。だからわたしも同じように真似をする。
 いつかわたしのほうが早く、虹を見つけることができるように。