Petals Left Behind


「やほ~おまたせ」


 店の前で待っていると、一台の車から顔をのぞかせた緋夏がひらひらと手を振った。ありがとねえ、と間延びする声で車内に告げた彼女は、軽快な足どりでわたしに近づいてくる。緋夏越しに、運転席の男性と目が合う。小さく会釈をすると、同じように会釈が返ってきた。

「呼び出してごめんね」
「いいよぉそんなの。今日は空いてたし。送ってもらえちゃったし?」

 緋夏とは高校時代からの仲で、こうして定期的に会っている。

 緋夏は22歳の終わりに、7つ上の男性と結婚した。さっき運転席にいたのが、緋夏の旦那さんだ。大学卒業とほぼ同時に結婚の報告があって、ひどく驚いたのを覚えている。緋夏曰く、彼の年齢もあってか、大学時代から結婚を前提に交際していたから、予定通りで安心したそうだ。

 金曜日の夜。話したいことがある、というLINEに二つ返事で会いにきてくれた。華金だあ!という文言を添えて。

 緋夏が結婚して割と落ち着いたということもあり、学生時代ほど積極的な恋バナをすることはなくなった。しかし、今回はちゃんとした恋愛相談だ。

 三年半付き合っている恋人との、諸々。彼とは大学になって出会ったから緋夏とのもともとの交友はないけれど、付き合って一年が経つまでのところで紹介をした。緋夏と琴亜と飲んでいるときに、「彼氏も呼びなよ」という緋夏の声に押されて連絡したら、千秋は迷うことなく会いに来てくれたのだ。わたしは恋人の友達に会うとき、すごく緊張してしまうタイプだから、千秋の社交的な性格をそのとき本当に尊敬すると同時に、救われもしたのだった。


「いろいろ考えた結果、その……別れも、視野に入るのかなって」 


 ひととおり自分の気持ちを話し終え、最終的な結論を告げると、緋夏はしばらく静止したのち、大きく首を振った。
 何言っているの?と言いたげな視線をわたしに向ける。


「いや、待ってよ。千秋くん、良い企業で働いてるし料理もできて、世間的に見ても可愛い顔してるし、なにより瑠胡のこと大好きだし、将来安泰じゃん。あんな優良物件なかなかいないよ。それに、付き合うまでの妥協はいらないけど付き合ってからの妥協はいると思うよ。妥協っていうか、許容範囲の広さ、っていうべきなのかもしれないけど」
「……うん」
「浮気の心配もなさそうだし、モラ気質でもないし、借金抱えてるとかでもないし、瑠胡の周りの人にも優しい対応してくれるし。非の打ち所がないじゃない」

 贅沢を言っている自覚はある。ただ、日常で感じる少しのズレと違和感が、どうしても拭えないでいる。
 ため息をつく。すると、落ちた視線を拾い上げるように、緋夏がわたしの顔をのぞきこんだ。


「周りは浮気やら冷めやらレスやら多いし、クズに沼ってる話もきくし。聞いてるだけで嫌になりそうな恋愛もたくさんあるなかで、瑠胡は今、まじで幸せな恋愛してるんだよ?」
「それは、わかっているんだけど」
「瑠胡が言う、ズレって何? 別れにつながるほど大きいもの? 一時のことじゃないのかな。別れたあとで後悔したって遅いんだからね」


 緋夏が眉を寄せる。幸せな結婚生活をしている緋夏に言われると、説得力がある。

 緋夏の結婚報告をきいたとき、第一に、噓でしょ?と思ったのをおぼえている。大学卒業してすぐに、三十代手前の男性と結婚するなんて、わたしには考えられない選択だったからだ。そもそも、わたしはそんな年齢差の男性との交際はおろか、関わりすらなかったため、出会いがマッチングアプリであることにも驚きを隠せなかった。

『あのねえ、出会いがアプリだろうがなんだろうが、今幸せならなんでもよくない? 出会いを求めている人と、正式な方法で、誠実にお付き合いをしたの。不倫や浮気とはちがうんだから、ちゃんと祝われる資格があるのよ』

 指輪の光る左手を掲げながら、高らかに宣言してた緋夏を思い出す。


──逆に、どんなに出会いが運命的で素敵であっても、どんな美しい過去があっても、今が幸せじゃなかったらその恋愛は間違ってるからね。


 思い出がまぶしくてなかなか別れられないと嘆く友人に、きびしく言い放った緋夏。あまりに正論すぎたものだから、「出会い方も思い出も、どれも大切でなかなか忘れられないよね」と小さくフォローしたのをうっすらおぼえている。




「……わたしは」

 どんなところを、不満に思っているのか。あの優しくてわたしを想ってくれている彼に、これ以上何を求めるのか。グラスを片手に目線を合わせた緋夏に、ゆっくりと告げる。


「わたしは、異性がいる飲み会にはあまり行ってほしくないし、そもそもあんまり行くタイプじゃないの。二次会にも好んで行くタイプじゃないし、同じような人が好きなの。言ってしまえば、社交的じゃない人が好きなのかもしれない」


 ──ごめん今日遅くなるかもしんない、終電では帰ると思う。
 何度も見た謝罪のLINEが脳裏に浮かぶ。


「でも、千秋くんはそうじゃない。集まりごととか大好きで、二次会も三次会も行きたい人。行かないで、って言ったら我慢させちゃうことになるし、なんだかんだいつも躱されて行っちゃうの。彼が悪いわけじゃないけど、そもそも集まりが好きじゃない人だったら、こんなふうにズレを感じることもない」
「……なるほど」
「それか、わたしも飲み会に出る人間だったら、同じくらい遊び歩いてやり返そうとか、おあいこにしようと思えるのかもしれないけど、わたしはそんな人にはなれない。なりたくない。だから、我慢するしかないの。だってこれって、価値観のズレだから。価値観を押し付けるのは違うってわかってる。だったら、わたしのこの気持ちはどこで晴らしたらいい?」


 緋夏は旦那さんとの関係に、こういう不満はないのだろうか。わたしみたいに心が狭くて余裕のない人間ではないから、まったく気にしないのかもしれない。

「あたしは本人に直接言ってるけどね。ため込んでもいいことないし、あまりにも遅いときは『おっそいふざけんな!』って言う。でも結局、許して許されての関係だからさ、恋人って。普段はよくしてもらってるのに、何回言っても直してくれないところは、すごいこだわり!って笑い飛ばすしかないよね。だって、100のいいところがあるのに、1のだめなポイントで帳消しするのももったいないじゃん?」

 わたしの心が、狭すぎるのだろうか。たしかに、千秋はわたしに不満を言うことはない。思うところはあるはずなのに、千秋の包容力のおかげで、許されている部分はたくさんあるのだろう。
 かといって、わたしは、わたしの中で生まれた感情を、なかったことにはしたくない。


 どちらが悪いという話ではない。ただ、価値観が違うだけ。価値観は合わせるものではなく、受け入れるもの。じゃあ、わたしの気持ちも受け入れなければならないもの?


「……花束」
「え?」
「花束、わたし、生花がほしいの」


 記念日のたびに、彼からもらう花はいつも造花だ。枯れずに、ずっとそのままの状態を保ち続ける花。素敵だと思う。けれど、わたしは生花の一時的な美しさも、枯れていく過程も、本当は大切にしたいのだ。


『生花って買ったときは確かにきれいだけど、すぐ枯れちゃうし。置き場に困るし。でも造花は水変えたりしなくていいからめんどくさくないでしょ?』


 千秋の言葉がよみがえる。
 どうして造花なの?と聞いた時に、千秋は当然のような顔をして言い放った。そういう考え方もあるのか、とその時は納得したけれど、こうして思い出してしまうということは、その言葉が心に引っかかっている証拠だった。生花のよさを伝えれば済む話だったのに、わざわざ反抗する気になれなかった。


「なんで言わないの? 生花がいいって」
「……言えない。言えなくなってるの、わたし」


 しんどい時期がある。不安に駆られる夜も、仕事がうまくいかなくて落ち込む時もある。


『るんなら大丈夫だよ。どうせ人生、うまくいくからさ。なんとかなるよ』
『……ほんとに、心配で』
『明るいこと考えよ。きっと大丈夫だからさ、暗くなんないでよ』

 そのときに、わたしは話を聞いてほしかったのだ。
 苦しい思いが、精一杯の吐露が、彼の明るさでかき消されるのがいやだった。

 ──大丈夫。

 本当は安心する言葉のはずなのに、それはあなただからじゃない?と反応してしまう脳内の自分が嫌だった。



『もう付き合って3年以上になるし、お互い社会人にもなった。千秋くんは……結婚とか、どう考えてる?』
『それはもちろん、おいおいね』
『わたし、そろそろ結婚したいんだよね』
『そりゃ、僕だってるんちゃんと結婚したいと思ってるよ。でも、仕事もあるし、もう少し余裕が出てきた時でいいかなと思ってる』
『でも、ある程度リミットはあるんだよ。女性は特に、いろいろ期限だってあるし』
『わかってるよ。結婚はする。でもタイミングもあるじゃん、もう少し待ってよ。ちゃんと考えてはいるからさ』



周囲が結婚していく中で、3年半という交際期間。子供の期限だってあるし、なにより家庭に入って安定がほしかった。安心させてほしかった。それなのに、千秋はそこを渋るのだ。
 気持ちはわからなくもない。千秋はまだ23だから、仕事に集中したい時期なのだろう。女性のほうが婚期は早いイメージがあるから、千秋が年下であるが故の弊害だった。
 結婚したいタイミングのときに、結婚する気のない人と付き合っていてもいいのだろうか。たとえ千秋を待つとして、それはいつになるのだろうか。それに、千秋と本当に結婚できるのか、という初歩的な問題だってある。突然振られることだってあるかもしれない。

 周囲の結婚報告をきくたびに、千秋と結婚したい、という気持ちから、はやく結婚したい、という気持ちに変わっていった。


「この前……投稿、見た。三澄(みすみ)くんの」
「え? ……ああ、あれ。見たの?」
「見たっていうか、おすすめにあがってきた。急すぎてもはやテロ」
「三澄さんとはもう切れてるんじゃなかったっけ」
「切れてるけど……公開アカウントだし、学生のころよく見にいってたから、たぶんそれで」
「ブロックすりゃあいい……って、ね。できたらとっくにしてるか」


 緋夏がそう言って、静かに口を引き結ぶ。


「結婚、するんだね。婚約届と指輪の投稿、見た。奥さん、きれいだった」
「めっちゃ見てんじゃん。いつ」
「この前の三年半記念の日に。千秋のとなりで見ちゃって。変な顔してないといいんだけど」
「どーかな、瑠胡、顔に出やすいし。千秋くん、勘がいいから案外ばれてるかもね」


 にやっと笑った緋夏は、スマホをちらりと見たあとで小さく息を吐いた。


「なんか、瑠胡の話きくと、どうしていいかわかんなくなるね。別れろとは言わないけど、付き合い続けろとも言えなくなっちゃった。だってさ、瑠胡のなかでもう、答え出てんじゃない?」
「……うん」
「だったらもうしょうがないじゃん。正解も不正解もないからさ、自分で思ったとおりしなよ」


 緋夏がぐいっとビールをあおる。緋夏のいう通り、最初から答えなんて決まっているのだ。あとは必要な勇気だけを緋夏からもらおうとしただけだ。


「自分のこと幸せにできるのは自分だけだし。あんたが別れても別れなくても、べつに幸せならなんでもいいよ、あたしは」
「……かっこいい」
「やーめーて。酔ったわ。こりゃ酔ってるわ、明日にはきっと忘れてら」


 緋夏のまぶたがおりて、健やかな寝息をたてはじめたころ、旦那さんが店内に入ってきて、緋夏の姿を見るなりあきれたような笑いを洩らす。いつのまに迎えを呼んでいたのだろうか。

「今夜は飲むぞって張り切ってたので、心配で。迎えに来て、の「むかえに」のところでメッセージが送信されてきたんで、そろそろだろうと思って迎えに来たんですが」
「……さすがですね」
「つぶれてますね」


 眠っている緋夏を担ぐようにしながら、苦笑する。


「ありがとうございました。緋夏と飲めて、楽しかったです」
「いえいえ、こちらこそ。緋夏も相当楽しみそうでしたから。行きの車内で」


 いとおしそうに目を細めて、緋夏を見つめる瞳がやさしかった。ひとは愛しいものをみるとき、こんなふうに瞳をやわらげて、優しい顔をするのだと、そのとき思い知った。見えていない好意や視線の熱に、人間はいつも気づくことができない。だからきっと人は、優しい言葉を紡ぐのだろう。


 緋夏と旦那さんの薬指で、きらりと光る指輪がまぶしかった。








 千秋と別れ話をしたのは、それから一週間後のことだった。

 深呼吸をして、通話ボタンをタップする。休日の午前中だというのに、千秋は2コールで出た。

「千秋くん?」
『るん? どーしたの』
「今日、会って話したい」

 すると、わかりやすく千秋の声が弾む。

『ええ、るんからめずらしくない? なあに、どしたの』
「あのね、千秋くん」
『まじでうれしいんだけどー、きゅんきゅんだわ。いつ、どこで会う?』

 電話越しの千秋の声は止まらなかった。まるで、わたしに話すことを許さないとでもいうように。千秋の声はどこかうわずっていて、かはは、とらしくない空笑いをしている。


「ちあき」
『あ、パスタ作りながらお話でもする? それかさあ……』
「今日は……! 大事な話が、あるから」


 しばらく沈黙が下りる。スマホの向こうの千秋がどんな表情をしているのか読めない。


「今日の午後4時に、さくら公園で」


 それは、わたしたちが何度も訪れた公園だった。春には、公園を囲うように桜が咲く。その景色を、となりで見ていたころが懐かしい。


「……わかった」
「ありがとう」


 小さな了承の後、電話を切る。唇が震えていた。
 着替えて、髪をまく。最後まで美しくいることが、せめてもの償いのような気がした。




─────❀─────




 約束の時間になっても、千秋の姿は見当たらなかった。付き合う前のデートから今まで、彼は集合時間に遅れたことはない。いつだって早く来て、わたしのことを待ってくれていた。暑い日も寒い日も、なんてことない顔をしてわたしを待っているのだ。

 かじかんだ手をこすり合わせる。指先が赤い。
 約束の時間から10分が経ったころ、公園の入り口から千秋が現れた。わたしの姿を見つけると、駆け足で近づいてくる。顔全体がうっすら紅潮していた。

「ごめん……おまたせ」
「ううん」
「寒いのに、ごめん」

 わたしのとなりに腰を下ろす。目線が合わなかった。千秋はどこか遠くを眺めるようにぼんやりしている。
 話があると言ったのはわたしだから、切り出すのも当然わたしだ。だけど、言葉が出てこない。冷えた唇が震える。千秋とは、ペットボトル一個分の距離があいていた。一年前の冬も、二年前も、三年前の冬も、距離なんてなかったのに。
 今日の千秋はやけに静かで、距離を詰めてはこなかった。

「千秋くん」

 名前を呼ぶと、千秋は「ん」と声を洩らしてゆっくりとこちらを向いた。目の下が赤い。ビー玉みたいな目を見つめる。なにかに縋るような、そんな瞳だった。


「別れたい」


 千秋のまつげが揺れる。千秋の瞳が、わたしの両目を交互に見つめている。
 息ができなかった。苦しいほどの静寂の後、千秋は息をおとして前を向いた。公園を囲うように植えられた桜の木をじっと見つめている。ふたりの呼吸音だけが響く。次に口を開いたのは千秋だった。


「……なんで?」


 いつものような軽快さは、いまの千秋の声からは感じられない。怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。どこまでも無機質で、感情のない声だった。


「話あるって、それ言われたときから、嫌な予感してた、けど。まさか、だって、なんで? だめだ、ちょっとうまく喋れない。言葉、出てこない。ごめん」


 いつもにこにこ笑っていて、たくさん喋ってくれる彼が、ここまで戸惑っている姿をはじめてみた。なにか発しようとしても、口をパクパク動かすだけで、すぐに閉じる。それでもほんの少し覚悟を決めたように、ぐっと口に力を込めたように見えた。


「え……いつから……いや、やっぱ言わないで。ごめん忘れて。そういうの、きけないわ、僕」


 しゅるしゅると風船がしぼんでいくようだった。それ以上、彼はなにも言わなかった。ただじっと目を閉じて、わたしの言葉を待っている。


「千秋くん」


 千秋の眉が寄る。これ以上、進んでしまったらもう戻れない。わたしは彼を傷つける。傷つけるなら、しっかりと最後までやり通さなくてはならない。中途半端が、いちばん人を傷つける。


「わたし、本当は生花がすきなの。造花もうれしいけど、そういう好みの問題じゃなくて、手入れがめんどくさいところも含めて生花がすき」
「え」
「あと、苦しい時に限って隣にいてくれないのがしんどかった。楽しい時は一緒にいるけど、わたしが苦しんでるとき千秋くんはいつも居ない。致し方ない時もあるけど、それってタイミングが合わないっていう意味で、相性が悪いんだと思う。一緒にいられないこと、謝ってはくれるけど、会いにきてくれない。たぶん、わたしにとっての大きなことが、千秋くんにとっては些細なことなんだと思う。そういうズレが、わたし、ずっとくるしい」


 千秋は黙って聞いていた。わたしは続ける。


「千秋くん、飲み会とか行っちゃうでしょ。わたしほんとは、さみしかったし嫌だった。でも、言えなかった。だって、飲み会から帰ってくるときの千秋くん、いつも楽しそうだったから」
「……」
「結婚のこと、わたし何度も伝えたけど、今じゃない、もう少し待ってって。わたしは千秋くんと結婚して、一緒にいられたらなって思ってたよ。でも、もう最近は、千秋くんとじゃなくて、わたしはただ結婚がしたいのかもしれないって気が付いた。同じように結婚したいと今思ってくれる、誰かと」


 千秋が大きく目を見開く。ひどく傷ついた顔をしていた。


「ごめん、俺、なおすから。今度からは生花にするし、一緒に育てるし。俺、おれ、今以上に大事にする。真剣に将来のことも考える。別れたくない」


 千秋の目から涙があふれだす。つられるように目頭が熱くなったけれど、ぐっと力を入れてとどめた。


「無理に合わせてほしいとかじゃなくて、千秋くんが悪いとかじゃなくて、根本的な人間性の違いを痛感するのはしんどいし、千秋くんがわたしに合わせて無理してるの見るのも嫌だ。これ以上、わたしのことも、千秋くんのことも、嫌いになりたくない」
「無理なんかじゃないよ、好きなひとに合わせるのは。僕は、合わせてでも一緒にいたい。もしるんに合わせることで僕が無理することになっても、二度と会えないのに比べたら、その無理なんて耐えられるから」



 わたしはもう決めたのだ。これ以上は無理だと、何度も何度も考えて、答えを出した。

 お願いだからおとなしく振られてよ、千秋くん。あばれないで、これ以上、わたしもあなたを苦しめたくない。




 何も答えずに視線を落とすと、

「……ずるいよ」

 千秋が、涙交じりの声で呟く。千秋が頭をぐしゃっとかき混ぜる。髪の毛が無造作に広がった。

「最後の最後に言うなんて、そんなの……どうしていいかわかんないよ。るんちゃん、ずるい」

 唇を噛む。千秋は何も間違ってない。だけど、どうしても、言えなかった。


「言ってくれたら直そうとしたのに……なんで、なんで言ってくれないの。なんで!!」


 千秋の大きな声にびくりと肩を震わせると、ハッと我に返った千秋が「ごめん」と謝罪した。普段は大きくて頼りがいのある千秋の背中が、今はとても小さく見えた。


「言えなくしてたんだよね、僕が。るんちゃんの気持ち、もっと考えればよかった。ごめんね」


 ごめん。ごめん。繰り返される謝罪に、罪悪感が募っていく。
 違う道はあったのだろうか。わたしたちが、この先もともに笑っている未来は。



「僕は、別れるなんて耐えられない。るんは僕にとってすべてで、大事だよ。これからもっとそれを伝えていくし、僕にはるんちゃんしかいないと思ってる。嘘じゃない」


 目を閉じる。泣いている恋人の顔を、視界から消した。そうしないと、耐えられない、わたしだって。わたしだって、彼のことは好きだ。なにも考えずに一緒にいたころに戻りたい。でも、できない。


「わがまま言ってごめん、最後の最後に。ずるくて。でも、もう千秋くんとは一緒にいられないです」


 頭をさげる。千秋の息遣いが聞こえる。
 しばらくして、わかった、という声が落ちてきた。


「今まで、たくさんありがとう。優しくしてくれて、うれしかった」


 千秋はなにも言わない。ずっとここに座り続けるのは違う気がして、ベンチから腰を浮かす。

 ありがとう。彼に贈りたいいちばんの言葉として、それは変わらない。おだやかな日常と、溢れんばかりの愛情をくれた。
 一歩ずつ歩き出す。もう戻れない。


「……待って、るこ!!」


 公園を出ようとしたところで、ピタ、と動きが止まる。ちゃんと名前を呼ばれたのは久々だった。るこ、という初期の呼び方も、わたしは好きだった。るんちゃんという呼び方が今では当たり前に馴染んでいるけれど、それでも。


「……行かないで」


 ともに過ごした日々に戻りたい。けれどそれは、今の彼ではなく、単なる過去への執着にすぎない。

 一度止まってしまったら、次の一歩を踏み出すのは大変だ。一歩目を踏み出す勇気を、もう一度出さなければならないから。
 視線を落とす。足が鉛のように重い。

 背後に、千秋の視線を感じる。痛いほどだった。

 それでも、前に足を進める。止まるわけにはいかない。わたしたち人間には、幸せになる義務があるからだ。



 公園をあとにした瞬間、ふ、と息が唇の隙間から漏れでる。その瞬間、堰を切ったように涙が溢れだした。なぜだろう、これでよかったはずなのに、止まらない。

 すれ違う人が、気まずそうに視線を逸らしていた。


 ふたりで並んで歩いた道を通り、同じ花を見て、同じ空をあおぐ。それだけなのに、こんなにも鮮明に思い出してしまうのはどうしてだろう。


 失恋、という言葉は振られた人だけのものではないことを知った。
 はじめてではないはずなのに、今まででいちばん涙が溢れる。心臓が痛い、という表現が決して誇張ではないことを知る。


 夕焼けの空は、涙に霞んでよく見えない。
 いままでとなりにあったぬくもりが消えている。まるで身体の一部をはぎ取ったような感覚だった。

 三年半、彼はわたしの生活にあまりにも溶け込みすぎていた。当たり前だったものがなくなってしまったこと。これからもわたしは日々を生きるたびに、彼を思い出して、せつなくなって、そうしてゆっくりと忘れていくのだろう。彼のことも、彼と一緒にいるときに抱いた感情も。



 自分の家にある千秋の荷物を届けたら、もう彼とは二度と会わない。強く決意を固める。









 梅の香りが鼻をかすめる。





 春の気配がした。