Petals Left Behind



【木月瑠胡 二十四歳】




「はいこれ、千秋(ちあき)クンお手製記念日プレート」


 目瞑って待っていて、素敵なものがあるから、となぜか自分のほうが待ちきれないとばかりに笑みをこぼしている彼に言われて、大人しく待っていると、現れたのはフルーツタルトがのったチョコレートプレートだった。【3 years half Anniversary】という文字が照明できらきらと光っている。

「もう楽しみでさあ、作っちゃったよ。るんの好きなブルーベリーとマスカットめっちゃ入れた!」

 恋人は、わたしのことを【るん】という愛称で呼ぶ。はじめは名前呼びだったが、付き合っていくうちに関係性の変化とともに愛称もどんどん変化し、いまはこれに落ち着いている。一方わたしは付き合いたての時から変わらず【千秋くん】と呼んでいる。ちなみに、恋人はわたしよりもひとつ年下だ。

「すごい。ありがとう、千秋くん」
「るんちゃんのためだもんー。うれしい?」

 うんうれしい、とうなずくと、わかりやすく頬をゆるめた彼はわたしの隣に腰をおろし、肩に手をまわした。そのままぐいっと引っ張られて、かたむいた身体が密着する。ふ、ふ、ふとうれしそうに笑う彼の腕に力がこもる。
 彼は大学のはやいうちに企業からの内定をもらい、四月から働いている。新しい場所や環境に慣れるまで時間がかかるわたしとは対象的に、彼はかなりはやい段階から打ち解けることができたようで、社交的でひたむきな性格を買われたからか、大きなプロジェクトに携われることになったと喜んでいた。
 付き合って3年半。わたしは未だに、彼が落ち込んでいるところを見たことがない。

「タルト食べよ」

 千秋の言葉にうなずく。千秋はてきぱきと用意をしてくれた。
 わたしも手伝おうと腰を浮かすと、「座っててよ、お嬢」とおどけたように返された。

 今日は本当にすべて任せきりだ。

「あ、食べる前に写真撮ろ」

 パシャ、とプレートの写真を撮った彼が「インスタにあげよーっと」と呟いてスマホを操作する。
 彼のアイコンの周りがオレンジ色に光った。タップすると、美味しそうなケーキと【3年半】という文字が目に入る。
 文字とともにメンションされていたから、DMに送られてきたストーリー通知を長押ししてハートのリアクションを返す。

「るんはあげないの?」
「あー、うん。あげよっかな」

 インスタを開くのは久しぶりだった。ストーリーをあげると、アイコンのまわりが緑色に光る。
 投稿済み、という表示を確認して、インスタを閉じようとした時だった。

 手が当たった拍子に画面が更新され、きらきら光る指輪と婚姻届の投稿が目に入る。
 アカウントのプロフィールにとぶ。大学時代の友人だった。

 心臓のあたりが鈍く痛む。しばらく、息が止まったみたいだった。


「……るん?」


 千秋が不思議そうな顔をして、スマホを覗きこもうとする。咄嗟に画面を消してしまった。

「ううん、なんでもない」
「えー、あやしいー」

 この話題は、こんな祝い事の日にすることではない。
 いつからだろう、きちんと話し合わないといけないはずなのに、こうして話を避けるようになったのは。

「ほんと、なんでもないから」
「うーん」

 納得がいかない表情の千秋から目を逸らし、「食べようよ」と促す。

「そうだね、食べよっかるんちゃん」

 切り替えたようににこりと笑う千秋。その笑顔に応えようとして、顔が引きつる。

「もう付き合って三年半だねえ。出会った頃が懐かしいや」
「……そうだね」

 当時を懐かしむように天を仰いだ千秋。



「学生証、落とした甲斐があったや」


 ひひっといたずらっぽく千秋が笑う。
 学生証、という響きで、一気に記憶が巻き戻される。千秋とはじめて出会った、あの日。




*


 大学生のころ、わたしはキャンパスで千秋の学生証を拾った。何人もが目にする場所に置いてあるにも関わらず、拾われることがないまま放置されているそれを知らないふりすることもできたけれど、顔や名前の個人情報が書かれたそれが無防備に晒されていることがなんだか気の毒で、知らないふりすることができなかった。

 落とし物センター的なところに届けておけば、いつか本人が取りに来るかもしれない。そう思い、学生証を拾い上げる。じろじろ見るつもりはなかったけれど、ぱっと目に入った顔写真が、なんというか──あまりにもボロボロだったから、興味を引いた。
 学生証はずっと使うものだから、少し身なりを整えて撮影するのが一般的だ。それなのに、この学生証の彼は、髪の毛に無頓着で、メガネであまり顔が見えていなかった。それなのにメガネの奥にある目だけは、前髪に隠れてもなおキラキラと光っていて、それが美しいな、と思った。

 それ以上見るのは申し訳なかったので、裏返して周りに見えないように、落とし物へ届けようと思ったときだった。


『待って……っ!』



 焦ったように遠くから走ってきた人物がいた。髪は綺麗にセットされていて、とても爽やかな好青年だった。だから、まさかわたしに話しかけているとは思いもせず、完全に無視して通りすぎるところだったのだけど。



『すみません……! それ、持ってるの、学生証だったりしませんか?』



 わたしの手元を指差した彼は、「サイズ的にも、場所的にも、結構それっぽいんですけど」と呟く。


「あ……え」
「それ、誰かの学生証ですか?」


 こくりとうなずく。すると彼は、ちょっと見せてくれません?と首を傾げた。
 勝手に渡してもいいのだろうか、という不安はありつつも、おずおずと学生証を差し出す。

 すると彼は大きくため息をついた。それは安堵にも似ていて、わけがわからなくなる。どうすればよいかわからず戸惑っているわたしに、『これ僕の学生証だ。見つけてくれてありがとうございます』と天使みたいな笑顔を見せた彼。

『……え』
『無理もないですよね、全然違うもんね。これには深いわけがあってですね』


 苦笑いをしながら、自身の学生証秘話について語ってくれた人物──それが千秋だった。
 彼曰く、普段と学生証のビジュアルに大きく差があるのは、学生証撮影の前日に映画を見て泣き腫らし、夢中で見ていたため翌日寝坊し、目の赤みを誤魔化すためにメガネをしてみたが逆効果だった、とのことだ。

 現に、学生証を取りに来た千秋は本当に爽やかで、しばらくは学生証と同一人物であることが信じられなかった。

 学生証をきっかけにして、出会ったわたしたち。それだけで終わりだと思っていたけれど、偶然は奇跡のような顔をして、度々重なった。

 ひとつの偶然は、わたしの所属する映画サークルに千秋が入ってきたこと。

 またひとつの偶然は、彼もわたしと同じ、地元県民だということ。


 そして、極めつけの偶然は、たまたま行った旅行先でばったり出くわしたこと。

 これに関してはお互いに驚きすぎて、『一応言いますけど、ストーカーじゃないですからね。僕も驚いてるんですから』と千秋は説明していたし、すればするほど怪しく感じられるほどに、確かな偶然だった。


 たったそれだけの偶然は、恋がはじまるのには十分だったらしい。彼から想いを伝えられるかたちで、わたしたちは付き合った。


 千秋の存在は、うまくいかない恋愛(・・・・・・・・・)に悩んでいた当時のわたしに差し込んだ、一筋の光だった。





*



「思いだした。すごく懐かしい」


 わたしの言葉に、ね、と千秋が相槌を打つ。そうして、タルトを口に運んでから、わたしのほうを向いた。


「実はさ、るんのために動画つくったんだよね」
「え、動画?」
「うん、僕たちの三年半の思い出動画的な。流してもいい?」

 質問しながら、千秋はプロジェクタ―の用意をしている。
 映画鑑賞が趣味なわたしたちは、大学生時代、よく映画館に通っていた。けれど、時間と金銭的な問題から、家で映画を観ることが多くなって、できるだけ映画館の質感に合わせたいというわたしのわがままを叶える形で、千秋が買ってくれたものだ。
 わたしは折半のつもりだったけれど、「これはるんを喜ばせたいっていう、僕のエゴだから。それに、僕だってこれで映画観るしね」という千秋に押し負けて、買ってもらった。

「じゃあ流すよ」

 3、2、1、というカウントダウンの後で動画が流れる。記念日に撮った動画や、普段の何気ない日常の瞬間、一緒に歯磨きをしている様子、旅館の布団に飛び込むわたしたち、朝日を見に出かけた海、手を繋いで向かった夜のコンビニ。一緒に台所に並んでいる後ろ姿。
 鏡越しのピースサイン、誕生日ケーキをもっているわたし。ふたりで飾ったクリスマス会。雪に映った、重なるふたつの影。

 3年半の記憶が一気に流れ込んでくる。切り抜かれたわたしはどの瞬間もまぶしいくらいの笑顔でいっぱいだった。こんなに自然と笑顔が引き出されていたことに驚く。振り返ってみれば、彼との生活はとても楽しくて、笑顔が絶えなくて、毎日いろんな発見があって、たくさんの刺激であふれていた。予定がない日は家で過ごすことに迷いのないわたしを、いろいろな場所に連れ出してくれた。

 彼が横にいてくれたこの3年半は、わたしの中でとても貴重なものだ。

 ムービーが終わった後、わたしに向き直った千秋はまっすぐにわたしの目を見つめた。

「るんちゃんとこれからも一緒に過ごしていきたいって思ってる。4年も、5年も、その先も、ふたりで楽しいこといっぱいしようね」
「ありがとう、千秋くん」

 忙しい中で編集作業をしてくれたこと。日常の写真を撮って、かたちに残してくれていること。すべて当たり前のことではない。

 千秋くんが用意してくれた動画を見ながら、三年半という長い時を過ごしていても、動画にも、写真の中にも、彼の制服姿は一枚も出てこないことに気が付いた。
 彼とは大学になって出会ったから、制服を着ているものがないのは当たり前だ。けれどたしかに、彼が制服をまとっている瞬間を目にしている人がいて、過去にそんな彼のそばで、彼を支えていた存在がいたかもしれない。
 彼が知らないわたしがいるように、わたしの知らない彼もいて、その彼を知っている人が、この世界のどこかにいる。そう思うと、滅多にきくことがない彼の過去に触れたくなった。


「千秋くんは今まで、どんな人と付き合っていたの?」


 千秋のまばたきが止まる。眉間にしわが寄った。


「なんで急に? 僕、あんまり過去の話好きじゃないの、るんちゃんも知ってるよね? るんちゃんの過去とか、あんまり知りたくない」
「うん、わかってる。わたしの話はしない。でもね、ふと気になったの。千秋くんの学生時代って……ああ、制服着てた時って、どんなふうだったんだろうって」
「たしかに、あんまり昔の話ってしたことないよね。まあ、僕が遮っちゃってるからか」


 少し困ったように肩をすくめた千秋は、「そうだなあ……」と目をつむった。


「性格はたぶん、今とあんまり変わんないよ。楽しいことが好きで、めんどくさいことは後回し。提出物とかぎりぎりだったし、それより担当教員に頼み込んで期限伸ばしてもらったり、先輩に過去問もらったりしてたよ」

 にひひ、と笑ったあとで、わたしの表情を見て焦ったような顔になる。

「あ、もちろんちゃんと提出はしてるよ。三年間の評定も安定してたし、断じてサボり野郎ではありません」
「ふふ、わかってるよ」
「まあでも、るんはすごく真面目だと思うから、こんな話きいたところでって感じかもしれないけど。とにかく、僕の学生時代より、るんちゃんの学生時代のほうが、8倍すごいよ」

 なにその変な数字、とツッコミながら考える。もし、中高生のときに彼に出会っていたら、わたしは彼を好きになっていただろうか。


「昔付き合ってた人は……どんな人?」


 千秋は少し考えるように目を伏せた。プロジェクタ―には思い出ムービーが繰り返し流れている。ミスチルの選曲が彼らしいな、と思った。


「どんな人……って言うのも難しいけど、るんちゃんとは違うタイプだったよ。相手がっていうより、僕の意識的な問題だけど」
「それは、どういう意味?」
「あんまり言ってなかったけど、僕さ、るんちゃんと付き合う前はこんなふうにサプライズ用意したり、デートプラン立てたり、毎日連絡したりするタイプじゃなかったんだよね」


 彼は、付き合ってからずっとわたしを楽しませてくれている。てっきり昔からかなりの尽くし型なのだと思っていた。こうしてケーキを用意してくれたり、動画をつくってくれたり、マメに連絡をしたり、たくさんの女性が望むことをまるで当然のような顔をしてこなしてくれるから、彼のもともとの性格か、過去の経験で鍛えられたものだとばかり。


「こんなにがんばろうって思えたのは、るんがはじめてっていうか。みんな優しい子だったけど、るんちゃんは、僕をいつも動かしてくれるんだよ」
「……意外だった」
「僕にとってはるんちゃんとのお付き合いのほうがイレギュラー。るんのために何かしてる時間って、全然苦になんないの。むしろなにしてても幸せに感じるんだ。るん喜んでくれるかな、楽しみだなって思えたのははじめて。誕生日祝うのも、記念日祝うのも、義務じゃない。るんが、僕を変えてくれたんだよ」


 彼にとって、わたしはそんな大きな存在だったなんて。大切にしてもらっているのも、愛も伝わる。彼と過ごす日々は心地いいし、このままずっと続けばいいとさえ思う。



 だけど、わたしたちは、ずっと同じ場所にとどまり続けることはできない。









 食べかけのタルトが形を崩す。

 しばらく沈黙がおりた。千秋の目にふっと熱がこもる。なんとなく気まずくて身じろぎする。


 部屋の空気が甘さを含むのがわかった。この空気は何度も経験しているはずなのに、重たいと感じるようになったのは、いつからだろう。

 逸らした視線を振り向かせるように、千秋の手が肩に乗る。
 逃げられない、と瞬時に思った。




「今日さ、いい?」





 その一言で、わたしは何も言えなくなってしまった。千秋の目はどこまでもまっすぐで、真剣だった。もしここでわたしが彼の手を振り解いてしまったら、彼の中の何かがあっさりと崩れ落ちてしまう気がした。



「……るん?」



 わたしの態度を見た千秋が、心配そうな顔でわたしを見る。千秋に気づかれてしまうほど誤魔化しのきかなくなった感情は、もう隠し切れないほどに膨れ上がっていた。



「……ごめん…今日、できない」


 千秋の視線が止まる。おそるおそる視線をあげると、ひどく傷ついたような、困惑したような顔をしていた。その表情に耐えられなくて、生理だから、と呟いてしまう。千秋は驚いたように「え、体調は?」と目を見開いた。


「体調は……大丈夫。ごめん」
「なんで謝るの。しかたないじゃん。てか僕こそ全然気付かなくて……え、予定よりはやいよね?」
「あー……うん」


 ごめん、と最後のほうは声にならなかった。罪悪感とも呼べないものが、胸いっぱいに広がっていく。
 どうすれば彼を傷つけずにいられるのか、自分のこの気持ちを立て直せるのか、もうわたしには分からない。

 恋人にあんなに傷ついた顔をさせてしまった自分を最低だと思うのに、ホッとしている自分がいることに気づく。


「お腹痛くない? なんか買ってこようか」


 腰を浮かせようとする千秋を、手を伸ばして止める。


「千秋、いい」
「え」
「……ちあきは、ここにいればもう、いいから」


 なにもしないで。これ以上、優しさを見せないで。自分のこと、どんどん、嫌いになるから。

 思い返せばずっとそうなのだ。生きるのが上手で、人よりも高いレベルのことを当然のようにこなす努力ができて、それなのに驕れることなく周囲に気を配って、自分の有り余る能力を人のために使えるような千秋。
 人となりの根本に優しさがあって、他人を羨んで陥れたり、落ち込んだりするということが元から備わっていない人間。
 千秋の素敵なところをみるたびに、何もない自分がとても惨めになる。千秋が嬉しいとわたしも嬉しい。そのはずなのに、千秋が功績をおさめてうまく世の中を渡っていくたびに、からっぽで必死な自分が嫌になる。

 こんなふうに中途半端な気持ちでぐらついているわたしにも、千秋は神様みたいな優しさを、当然のような顔をして分けてくれる。分けられる余裕が、滲み出ている。


 それがたまらなく、くるしい。



「じゃあ……いっぱい食べて、早めに寝よっか。毛布持ってくるから待ってて」


 ありがとう、の返事は、優しい微笑みだった。
 その笑みに返すように、無理やりあげた口角はきっとぎこちなく引き攣っていて、どうか彼に気付かれていませんように、と願った。


 三年半。たくさんの思い出があって、共有した記憶がある。宝物みたいな出会いから、優しさに溢れるおだやかな日常、少し贅沢をする記念日。


 情なのか未練なのか、わたしにはもう分からない。分からないのに、もうすぐ終わりがくることだけは、はっきりと脳が告げていた。










 わたしはもう、千秋の横にはいられない──いたくないのだと。