Petals Left Behind



【新木琥尋 二十六歳】


 雑踏する街路を進むたび、心臓が鼓動を速める。普段うるさくて仕方がない車やバスのエンジン音でさえも、今はまったく気にならなかった。
 どうして、という思いだけが心中に渦巻いている。それと同時に淡い期待感が押し寄せ、慌てて胸の奥にしまい込んだ。


 こんな歳になって、どうかしている。たかが、昔の恋人に会うだけだ。
 それなのに、なぜこんなにも緊張しているのか。落ち着けよ、と深い呼吸をした。






 彼女からの連絡に気がついたのは、一週間前──傷心中花町を慰める会(ネーミングセンスは置いといて)の翌日のことだった。


____ ☓☓☓☓から、一件の着信___


 表示されたメールアドレスに見覚えはなかった。仕事の関連か、と内容を確認しようとして、動きが止まる。ドク、と一度、妙に大きく跳ね上がる心臓。思考回路が停止した。










『木月瑠胡です。琥尋くん、お元気ですか?』














──────



 店内に流れる、洒落たジャズが耳を抜ける。

 視線を動かした。セミロングほどの、赤茶の髪の女性が視界に映る。鼓動が妙にはやい。

 見つめた視線の先で、彼女はゆっくりと顔を上げた。目が合う。

 突き抜けるような衝撃があった。



「久しぶり」



 春風のような声がしたと同時に、彼女の口角がゆるやかにあがったのを見て、肩の力がふっと抜ける。まるで、今までずっと一緒にいたかのような、自然な笑みだった。


 喉が渇いている。声が上手く出せないほどに動揺している自分が恥ずかしい。


「……ひさし、ぶり」


 なんとか絞り出した声はわずかに震えていたような気がした。


「ごめんね急に呼び出しちゃって」
「いや、全然」


 促されるままに席につく。近くで見た彼女は5年前とは違う落ち着きをはらんでいた。
 うまく顔を見られない。目が合うのがなんとなく気まずくて、それなのに勝手に視線は彼女の顔へと向いてしまう。

 彼女は、高校時代に、俺がはじめて付き合った女性だった。高校3年生と1年生。俺たちの出会いは桜が舞う、春の駅だった。

 再町にも花寺にも、言ったことがない。自分の中だけに閉まっていた過去。元カノという響きでいつも思い浮かべるのは、彼女の微笑みだった。


 高校生の時は、まっすぐな黒髪のボブヘアがよく似合っていた。メイクも最小限で、素朴で、それなのに誰よりも美しく思えて、そういうところも好きだった。

 彼女が瞬きをする。長いまつ毛が揺れた。
 今の彼女は、俺が一緒にいた時には見たことがなかった髪の長さをしている。肩より下まで髪が伸びているのを、初めて見た。


「髪の毛、めずらしい? 琥尋くんと一緒にいた時、こんなの見せたことなかったから」


 毛先をいじりながら、俺の心の中を見透かしたように彼女が笑う。彼女は本当に、人間をよく見ている。


「ああ……似合ってる、すごく」
「ふふ、よかった」


 ふと口をついた言葉に自分でも驚いた。
 褒めなければ、という義務感がまったくなく、純粋な気持ちで感想を伝えたのは久しぶりだ。

「なにか頼もっか。琥尋くんは何にする?」
「あー……じゃあ」

 少々逡巡したのち、抹茶ラテを指す。わかった、と返事した彼女は抹茶ラテとカフェラテを注文した。

「飲めるようになったの?」
「え?」
「昔、ココアばっかり飲んでたから」

 カフェや喫茶店ではいつもココアを頼んでいた彼女が頭をよぎる。少し大人な味の選択をした彼女に驚いた。

「この数年間で、飲めるようになったんだよ。わたしも成長してるんだから」

 おどけたように笑う彼女がまぶしい。なんだか、根本が明るくなったみたいだ。5年前までは、なにをしていても、どんなに笑っていても、彼女の表情にはどこか陰りがあった。それなのに、今はまったく感じられない。

「ココアしか飲めないおこちゃま舌は、もう卒業したの」

 にひひ、という効果音がつくような笑みを浮かべる彼女。俺はいちども、そんな笑顔をみたことがない。桜が揺れるような控えめさで微笑んでいるところしか見たことがないのだ。

「る……あー、えっと」

 名前を呼ぼうとして、言葉がとまる。それに気づいた彼女が「瑠胡でいいよ。わたしも琥尋くんって呼んでいるし」と言った。
 まっすぐに瑠胡の目を見つめると、彼女は静かに背筋を伸ばした。


「瑠胡は、さ。……なんで、誘ってくれたの」


 数年の時を経て、どうしてわざわざ。今になって、いったいどういうつもりなのか。

 視線をあげる。
 ひらり。窓の外にある桜が舞った。


「わたしね、不登校の子供たちを支える特別支援の仕事をしていたの。でも、もっと別の場所で挑戦したいことができたんだけど、そのためにはもっと大きな拠点にうつらないといけなくなって、春からこの街を離れることになった」


 そう言った瑠胡の顔は、少し悲しげだった。

「琥尋くんは大学時代に過ごした場所があるけど、わたしにとってはこの街がすべてだから。琥尋くんと出会ったあの電車も、海も、学校現場からも離れるとなると、やっぱり少しさみしくて」
「……」
「もう、とっくに忘れたと思ってたのにね」

 ふっと彼女が笑って目を伏せる。

「街を散歩してたら、琥尋くんの顔が浮かんだの。なんとなく、会わないといけないような気がして。でも、メッセージしたのはほんとにダメ元。LINEは消してると思ってたし、会えるとも思っていなかった。でも、部屋の掃除してたらメアド出てきたから、もしかしたら、と思って」
「びっくりした」
「うん、びっくりさせたね。わたしもまさか届くなんて思ってなかったからびっくりしちゃった」


 ふふ、と笑う顔は昔となにも変わっていなかった。昔より伸びた髪と、大人びた顔つきと、幸せそうな表情が、いままでなにかが足りなかったすべての俺を満たしていく。そんな気がした。


「大学時代に別れてから、琥尋くんがどこでなにをしているのか、なにも分からなかった。まさか戻ってきていたなんて、知らなかったからびっくりした。わたしも異動で県内を転々としてたから、ずっとここにいたわけじゃないんだけど」
「……うん」
「会うことになるとも思ってなかったから、びっくりの連続。人生って結構おもしろいよね」
「そうかもね」


 他人事のような彼女の言葉に、思わず笑みが落ちる。離れていたこの数年で、彼女は何に触れ、何を見聞きし、誰と過ごし、どんなふうに生きてきたのだろうか。




「あのとき、あんな別れ方しちゃったこと、ずっと後悔してた」



 一音一音が鮮明に耳に届く。彼女の瞳が揺れる。その中に映る俺も、同じだった。


「……会いたかった」


 無意識のうちに口が動き、言葉が落ちる。同時に目線も落ちた。わけもなく目頭が熱くなる。
 こんなにも率直な言葉を、誰かに告げる日が来るとは思っていなかった。



『あー……会いたい、』



 ふいに、再町の言葉が反芻する。そうだ、そうだった。
 俺は、きみに、会いたかった。ずっと、会いたかった。きみはいつも苦しそうで、けれどその苦しさが愛おしかった。

 再町の傷に容易に触れられなかったのは、同じように抱える傷が、おさえた感情がふたたび溢れ出すのがこわかったからだ。


 幾度となくもしもの世界線を、後になっては繰り返していた。当時の自分の未熟さを思い出しては、やるせなさと後悔の念に苛まれていた。


「俺は瑠胡に会いたかったよ、ずっと。ほんとうは、今日会うことも、なんて言っていいかわかんないくらい、うれしくて、動揺してる」


 するすると言葉が飛び出す。今までの俺には、努力しても言えなかったはずの言葉が、次々と音になって現れてゆく。
 恥じらいはあるのに、伝えたいという感情が勝つのははじめてだった。


「琥尋くん、なんか口調やわらかくなったね」
「え」
「わたしといるとき、ちょっと荒っぽかったのに、いまは優しくなってる」


 自分の口調の変化など、自分では気づくことができない。五年前の自分の口調がいったいどんなものだったかさえ、記憶にかすんでしまっている。
 年齢を重ねておとなしくなったのか、あるいは。


「誰かの影響、ちゃんと受けてるのかもね」
「……そうかも。瑠胡は逆に、なんか強く、明るくなった気がする」
「えー全然。相変わらず落ち込みやすいし、すぐ泣くし。高校の時と変わんないよ」


 俺と離れている間に、きみはどんな人間とどんな関係を築いてきたのだろうか。


「付き合ってた人とか、いたの」


 平静を装いながらたずねる。

 窓から入ってきた春風が、静かに頬を撫でる。






 瑠胡はゆるやかに首肯した。