Petals Left Behind






 彼女から電話がかかってきたのは、【大事な話がある】というメッセージを送信して二時間後のことだった。
 深呼吸をしてから、耳にスマホを当てる。


『もしもし』


 スマホ越しの彼女の声は、妙に落ち着いていた。逆に、自分の震えが伝わってしまうのではないかと不安になるほどの静寂だった。


「あ……マフユ?」
『琥尋さん、緊張してるの?』
「な、なんで」
『なんでだろー……うーん、なんとなく?』


 あまりに普通通りに話すから、大事な話がある、という言葉に秘められた意図に気づいていないのだろうか、と心配になった。別れをまったく意識していないのなら、心構えがまったくできていないときに、俺は彼女に伝えることになる。それはあまりに残酷だ。

 そんなふうに思いながら、いままで散々傷つけてきた自分がいまさら同情する偽善者ぶりに自嘲した。


「……あの、さ」


 沈黙が流れる。彼女がいま、どんな顔をしているのかまったくわからない。小さく息を吸う。目を閉じる。
 スマホだから相手の表情は見えないのに、すべてを遮断してしまいたかった。人を傷つけるという罪悪感から、どうにかして逃れたかった。薄くしたかった。
 頭の中で幾度も繰り返した言葉を、告げる。


「別れて、ほしい」


 単純な言葉なのに、声に出すのがこんなにも億劫だなんて。
 沈黙がおりる。しばらく、息をするのも難しかった。

 何度経験しても、この空気感には堪えがたい重さがあって、二度と経験したくないと思う。
 それを、何度もばかみたいに繰り返してきた。

 人間は、別れの痛みを経験してもなお恋をする。二度と経験したくないという思いを抱えて、また恋に落ちる。
 それはいったいなぜなのか、23年生きてもなお、未だに俺は掴めていない。

 彼女からの返事は『わかった』というとても端的なものだった。


「……ごめん」
『わかったよ。今までありがとう。じゃあね』
「こちらこそ、ありがとう」


 幸せになってね、という言葉を贈る資格はないと思った。元気でね、という声に、うん、と小さく返ってきて通話が終了する。
 身構えていたのに、あまりにあっさりとしていたからどこか拍子抜けした。
 ずるずると壁に縋り落ちる。これが本当に正しい選択だったのか、もう俺にはよくわからない。


 もう少し、長く話すものだと思っていた。会って、顔を見て話をするものだとばかり思っていた。勘違いしていた。
 普段から俺のことを考えて、俺の返事ひとつで感情を動かしてくれる彼女が、『わかった』の返事ひとつで別れを受け入れるなんて思っていなかった。引き止められることを期待していたのだろうか、俺は。



『主語でかいけどさ、男って、若干女のこと下に見てるよね。バカにしてるっていうかさ、こいつは離れないだろう、みたいな傲慢な勘違い?』



 いつかの日の言葉が、脳内で反芻する。
 カフェの女性と付き合っているクズ男も、浮気をしたハヤトも、俺も同類だ。みんな誰かの幸せのために、誰かを傷つけている。潜在的な思い込みや傲慢さで、大切にしなければならない相手を、ぞんざいに扱っている。


 いきなり聞こえ出した雨音に驚いて窓の外に目をやると、大粒の雨が地面を打っていた。
 彼女と出会った日も、こんな天気の日だった。

 雨がよく似合っていたと思う。静かで、どこかはかなげで、生命を癒す。よく書き込まれていたカレンダーの予定も、これからは白紙になっていく。彼女の丸い筆跡をよくおぼえている。

 ふとカレンダーに視線を向けて、動きを止める。カレンダーの右下に、小さく文字が並んでいた。
 近寄ると、文字が鮮明になる。


 琥尋さんと過ごした一年間幸せでした。


 たしかに、そう書かれている。カレンダーをめくる。二月以降は白紙だった。
 彼女はあのクリスマス以来、俺の家に来ていない。つまり、これが書かれたのはあのクリスマスの日だ。

 一月が終われば破り捨てられるこのページ。かたちに残らない。
 そこに敢えて、彼女は言葉をのこした。


「……ごめん」


 言葉が落ちる。やるせなさと後悔と、わずかな解放感が身体中を蝕む。もう少し向き合ってやれたら、という懺悔と、ようやく背負っていたものが降りた感覚が同時に押し寄せてくる。


 あの時から、彼女はわかっていたのだ。俺たちが迎える結末を、彼女はわかったうえで、俺のとなりに並んでくれていた。
 彼女が気づいていることに、俺は気づいていなかったのに。




『強くなるには、どうしたらいいんでしょうか』
 

 はじめて会った日がフラッシュバックする。思わず笑みがこぼれた。

「……強いよ、マフユは」

 はじめから、のぞきこんだ瞳のまっすぐさから、わかっていたはずだった。
 彼女の芯の強さは、誰にも負けないということ。


 雨が窓を叩く。この気持ちも雨に流れて消えてしまえばいいのに、と思った。