Petals Left Behind




 街灯が煌びやかに照らす、クリスマス。


「おまたせ」


 現れた彼女の姿に、はじめは戸惑った。彼女の髪は出会ったときと同じ真っ黒に戻っていて、なによりも、腰まであったロングヘアがばっさりと顎下で切り揃えられていたからだ。丸みを帯びたシルエットが、どこか幼さを感じさせる。


「びっ、くりした……」


 思わす声が洩れる。まさか、そんなイメージチェンジを彼女がしているとは思わなかった。


「琥尋さん、ボブ好きでしょ?」


 彼女が首をかしげる動きに合わせて、さらりと黒髪が揺れる。

「ボブ好きって、どうして」
「だって琥尋さん、付き合いたてのとき言ってたよ。短いのも見てみたいなって。それで、私が『好きなの?』って訊いたら、うんって」

 5年は伸ばしていると言っていた。日々のケアだって大変だろう。それなのに、彼女は5年間の努力を差し出したのだ。ずいぶんと思いきった選択に驚く。

「よかったの」
「……なにが?」
「切って、よかったの」

 違う、そんな言葉じゃない。俺がかけるべきなのは。そうわかっているのに、口が思うように動かない。彼女は一瞬、灰色の瞳を揺らした。そうして、ぐっと唇を噛む。出会ったときからの癖だった。

「うん。さっぱりしたいと思ってたし。どうかな」
「……似合ってる」
「そっか。よかった」

 何度かボブヘアを撫で、彼女は微笑む。

「じゃあ、行こっか」
「うん。琥尋さんとのデート、楽しみ」

 その手は触れ合うことなく、するりと下におりる。そういえば今までは、彼女のほうから繋いでくることが多かった。それなのに、最近はこうして並んで歩いても手を繋ぐことはない。




 予約した店に到着し、向かい合って座る。窓から見下ろす景色はきらきらと光を纏ってうつくしかった。
 生ハムのカルパッチョとホワイトマッシュルームのポタージュが気に入ったらしい。おいしい、と呟きながら幸せそうに食べる彼女の姿を見て安堵する。普段はお酒を口にしない彼女も「今日は特別な日だから」と、俺と同じワインを頼んだ。グラスを合わせると、深い紅色の液体が揺れる。

「琥尋さんって、いつもお店のセンスがいいよね。あっ、センスがいいって上から目線かもだけど……えっと、なんていうかその、いつもすてきなところに連れていってもらってる気がして。だから、ありがとう」

 へへ、と笑った彼女の目が線になって、なくなる。彼女はいつもこうしてお礼を言ってくれる。いくつかの候補の中から選び抜いたお店を褒めてもらえるのは純粋に嬉しい。
 彼女は見えなくていいものや気づかなくていいものまで気づいてしまうから、いつも苦しそうにしている。だから俺といるときだけは、少しでも楽にしてやりたかった。それは、付き合ったときからずっと同じだ。

「いや、喜んでもらえたならなにより」

 赤ワインの渋みが喉を通る。しあわせ〜と彼女が口にする。目線を上げると、にこりと微笑まれた。今日はやけに笑ってくれているような気がする。それほど楽しいのならよかった。安堵が心を満たす。

 会計を終え、店を出る。

 あたりはどこもかしこもクリスマス色だった。カラフルなイルミネーションが街を明るく照らしている。クリスマスツリーの上には大きな星が輝いていた。
 街行く人もクリスマスらしい色合わせの服を着ている。どこをすれ違っても、手を繋ぐカップルで溢れていた。


「そろそろ帰ってゆっくりしよ」


 夜の街をぶらぶらと歩きながら、彼女を振り返る。俺の少しあとを歩いていた彼女は「うん、そうだね」と目を細めた。
 
 家につき、静かさに耐えきれずテレビをつける。クリスマス特番が予想以上の音量で流れ、慌てる。それを見て、彼女はくすりと笑った。


「さきにお風呂、入らせてもらうね」
「ああ、ゆっくりして」


 彼女が風呂場に消えると、余計に部屋は静かになった。テレビ画面には大きなチョコレートケーキが映っている。

 しばらくして、脱衣所の引き戸が音を立てる。白い湯気がふわりと流れ込んできた。


「おまたせ」


 シャンプーの香りを纏った彼女は、濡れたままの髪をタオルで押さえながら笑顔を浮かべる。


「ケーキあるから、あとで食べよ」


 そう言うと、彼女は「え」と嬉しそうに声を上げた。出会ったときから、美味しいものを用意すると純粋に喜ぶところがかわいらしいな、と思う。


「風引く前に髪乾かそ。おいで」


 ドライヤーのコードをほどきながら、鏡の前に呼ぶ。

「琥尋さん、お風呂は」
「ああ……俺は、あとでいいや。先に髪乾かそう」

 そう言ってドライヤーを軽く持ち上げると、 「ありがとう」と笑った彼女は素直に寄ってきて、俺の足の間におさまった。
 電源を入れる。絡まることなく、指が、髪の毛の間を通り抜けていく。


 梳いても、すぐに毛先に来てしまう。


「髪……短くなったね」


 ドライヤーの音で彼女には届いていなかったらしい。鏡越しに目があった彼女は「ん?」と不思議そうに首をかしげた。
 なんでもない、というように首を横に振る。

 温風から切り替えて冷風を当てる。その間、彼女は黙って鏡を見つめていた。

「はい、できた」
「ありがとう、うれしい」

 座ったまま俺を振り返った彼女に微笑む。控えめな花がふわりと咲くような笑みを、彼女も浮かべていた。こうして彼女の髪を乾かすのは、これが四度目になる。

「じゃあ俺風呂入ってくるから」
「うん、待ってるね」
「ケーキ、ちょっと待たせることになる」
「うん、ぜんぜん。いってらっしゃい」

 彼女はおだやかな顔で手を振った。


*


「おまたせ」

 風呂からあがると、彼女はソファで本を読んでいた。俺の姿を見て「おかえり」と本を閉じる。

「なに読んでたの?」
「ん、哲学書だよ」

 へえ、と相槌を打つ。彼女はこちらに表紙を向けた。

「プラトンのパイドロス」
「おもしろい?」
「うん。でも私、プラトンは現実世界に厳しいからあんまり好きじゃないの。イデア論とか、聞いたことない?」
「言葉だけならあるよ」
「イデアってね、現実世界を超えたところにあるの。だから、私たちが見ているものはすべて、真の本質じゃなくて、イデアの模倣に過ぎないって話」
「……なるほど」

 難しいよね、と小さく笑って、彼女は本棚に書籍を戻した。俺の家の本棚には何冊か、彼女の本が置いてある。俺の家で彼女が本を読むことが多いからだ。

「一瞬で乾かすからまだ読んでていいよ」

 本棚にしまう前に言うべきだったな、と内省しつつ、ドライヤーを手に取る。短い髪はすぐに乾くから便利だ。乾かし終わった頃には彼女はもう本を読んではいなくて、代わりに小皿とフォークをテーブルに運んでくれていた。


「ケーキ持ってくるからちょっと待ってて」


 俺の言葉に、彼女は「わかった」と素直に返事をして、テーブルの前に座った。
 イチゴのムースケーキを冷蔵庫から取り出して、テーブルに置く。

「わあ……すてき」

 彼女が声をあげる。
 いちごムースのうえにホワイトチョコがのっている。ピューレの上に真っ赤な苺がふたつ、のっていた。ふたりで、いただきます、と手を合わせる。
 彼女がフォークを入れると、ケーキはあっさりと溶けて形を崩した。

「美味しい」
「ね」

 頬を緩ませる彼女に頷く。「いちご、ひとつあげる」と彼女がフォークで刺したいちごを差しだす。「いや、いいよ」と断ったけれど「だっていちご好きでしょ、琥尋さん」となんでもないように彼女は笑った。ふたつのうち、ひとつを俺にくれようとしている。俺だっていちごはふたつあるのに。

「その代わり、生クリームは私がもらうね」

 軽い口調で言って、真っ白なクリーム部分をさらってゆく。それが彼女の気遣いだということはすぐにわかった。

「あまっ。琥尋さん、これ食べられるかあやしいよ」
「……ふっ」
「あ、笑ってくれた」

 俺の苦手なものを覚えて、控えめな気遣いをしてくれる彼女の健気さがまぶしかった。
 おだやかで、平和で、あたたかい聖夜。それなのに、俺たちにはもう付き合いたての頃の高揚はない。

 ケーキを食べ終えて、細く息を吐きだす。おもむろに立ち上がった彼女は、かばんから一通の手紙を取りだしてテーブルの上に置いた。

「琥尋さん、手紙、書いてきたの」

 約束を完全に忘れていた。やばい、という感情が顔に出てしまったのだろう。薄く微笑んだ彼女は「大丈夫。私が書きたくて書いただけだから」と告げる。我慢するとき、感情を押し殺すとき、彼女はいつもこの顔をする。

「ごめん。今度、会うときに渡すから」
「いや、いいよ。ぜんぜん」
「ほんと───…ごめん」

 あやまらないで、と困ったように彼女が眉を下げる。

「あとでじっくり読ませてもらう。ありがとう」
「うん、こちらこそありがとう。ケーキとか、ディナーとか、いろいろ」

 手紙を引き出しにしまい、ケーキの皿を流しに運ぶ。戻ると、彼女はベッドの端にちょこんと座っていた。
 彼女の隣に腰をおろす。ベッドが沈んだ。

 横を向くと、同じようにこちらを見た彼女と視線が絡み合う。
 どちらからともなく、唇が重なる。やがてそれは熱を帯びたものに変わった。そのまま、ベッドの端に座る彼女をゆっくりと押し倒す。シーツに身体を沈めた彼女は、固く目を閉じていた。

「……マフユ?」

 ぐっ、と唇に力が入っている。俺の呼びかけに応じるように、パチリと目を開けた彼女は、グレーの瞳を俺の瞳と合わせた。



「琥尋さんは、私のことがすき?」



 覆い被さった視界の中で、彼女の目が、左右に揺れている。もう、何度目かの質問だった。


「……うん」


 ゆっくりとうなずくと、彼女の目がスッと細くなる。なにを思っているのか、読みとれない。ただ、腕の中にある彼女の身体が、ほんの少し温度を上げた気がした。


「そっか、わかった」


 少し身体を起こした彼女は、そのまま俺に口付けた。かすかな音が響く。ここにはない何かを確かめるように、何度も重ねた。


────彼女はもう、それから俺に訊ねることはなかった。




「ありがとう、琥尋さん」


 行為が終わって呟かれたそれに「こちらこそ」と返すと、彼女は安心したようにゆるりと頬を緩めて、おだやかな寝息をたてはじめた。
 目尻にたまった水滴がこぼれ落ちる。指の腹で拭うと、わずかに彼女の口角があがったように思えた。


 


 ──……彼女と別れたのは、それから10日後のことだった。