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スマホを耳に押し当てる。カレンダーを見ると、2日後にクリスマスは迫っていた。
『琥尋さん、明後日は楽しみにしてる』
スマホ越しの、彼女の声が弾む。うん俺も、と返す。ちゃんと声に色がのっていただろうか、と少しだけ不安になった。
『結構ひさびさじゃない? 私、髪色変えたの』
「おお、そうなんだ」
『……見るのたのしみ?』
「え、ああ……うん、楽しみだよ」
そっかよかった、と彼女の声が安堵に染まる。前回は会ったときは栗色だった。毛先が軽く、柔らかそうな印象を抱いたのを覚えている。
『じゃあそろそろ切るね。またね、琥尋さん』
「うん、また」
通話終了の文字を確認してから、スマホをしまった。
今日は再町と花寺と久々に飲むことになっている。集合時間までは、まだ余裕があったので、近くのカフェに寄ることにした。
窓際の席に座る。ブラックコーヒーを頼み、スマホで時間を確認する。あと30分はゆっくりできそうだ。液晶画面に映った自分の顔が、ひどくやつれているように見える。
一口、コーヒーを啜った。苦味が喉を通る。甘ったるいものよりも、苦味があるもののほうが好みだ。
ふ、と息をついて窓の外を眺める。家路を急ぐ人たちであふれていた。
「最低だよ、目ぇ覚ましな」
急に耳に飛び込んできた声に、意識が集中する。その声は、ふたつとなりのテーブルに座る女子高校生ふたりのうち、高い位置で髪を結っている女性のものだった。
聴覚に集中すると、会話はよりクリアに聞こえてくる。
「でもさ、そういうのってすごくタチが悪いよね。だって浮気でもしてくれたらはっきり切れるのにさ、関係をよくする努力はしないけど恋人っていうステータスは欲しいって、それあんたのこと舐めすぎだと思うんだよね。あんたはアイツと付き合っててもずーっと人間としての尊厳すら保てないっていうかさ」
「うん、わかってる……けど」
ポニーテールの女性は、煮え切らない友人のようすに、苛立ったようにこめかみをおさえて捲し立てる。
「主語でかいけどさ、男って、若干女のこと下に見てるよね。バカにしてるっていうかさ、こいつは離れないだろう、みたいな傲慢な勘違い?」
「……うん」
「でもたぶん、なに言っても無駄よね。あたしもわかる。好きでいるうちは簡単には離れられないよね。別れたらすぐに幸せになるの、あたしは経験上知ってるけど、それでもしんどくないわけじゃないし。難しいよね、恋愛って」
「……離れなきゃってわかってるよ。でも、好きだし……いいところも、可愛いところも、あるしね」
「そーだねー」
自分が刺されているかと思った。行き場のない罪悪感が渦巻いていく。
もう一度、ちらりと彼女たちの方を見る。ポニーテールの女性はチーズケーキを口に運んでいて、もうひとりはうつむいて涙をこぼしていた。
チーズケーキを嚥下した彼女が「たださぁ」と呆れた声をあげる。
「あたしからしたらね、もう10年以上もあんたの友達やってんの。それなりに大事に思ってんのよ。それなのに、なんでポッと出のキモ男にあんた譲って、しかも泣かされてるとこ見なきゃいけないわけ? あんたのいいところ見ようともしないで雑に扱ってきて、かわいい顔がどんどんブスになっていくんだよ。なにしてくれてんのって感じで、まじ腹立つ」
「だけど、優しいときもあったんだよ。変わってくれるかなって期待しちゃうし、今後他の女と付き合ってほしくない」
「あのね、厳しいこというけどさ。ひとは、変わりたい人のためじゃないと変わらないよ、一生」
それを聞いたところで、再町から《おけー、おまたせ》と連絡が来たので店を出る。これ以上この場にいると、鋭く刺されすぎてしんでしまうかもしれなかった。直接言葉をかけられたわけではないのに、胸の深い部分がやけに鈍く痛む。
再町と花寺とキャンパスで合流し、そのまま居酒屋に吸い込まれた。
枝豆をつまんだ再町が「あのさ」と顔をあげた。店内では浜崎あゆみが流れている。
「知ってた? ハヤトたち別れたらしいよ」
再町の一言で俺と花寺はピタリと動きを止めた。ハヤトとは再町と同じ弦楽サークルに所属していて、再町を通じて何度か飲みにいくようになった友人だ。いまは社会人として働いているらしく、絡むことは少なくなったが、近況が気になる数少ないうちのひとりだった。大学時代から(俺たち3人はいまも大学生なのだけど)、カオルコという彼女を大切にしていて、いわゆる溺愛まるだしの惚気を何度も聞かされていた。彼女の会いたい、という言葉ひとつで深夜でも車をとばす男。それがハヤトだった。
円満そうに見えていたから驚いた。だってついこの前まで、monthストーリーがあがっていたくらいだ。大学生でも一ヶ月単位で祝っていて、しかも20monthは超えていた記憶があったから、よほど仲がいいんだなあ、と思っていた。琥尋自身は、今まで一度もmonthストーリーなどあげたことがない。年に数回、イベントの際に後ろ姿を載せる程度だ。
先月もあがっていたはず。それなのに、一ヶ月の間でいったいなにがあったのか。
眉を寄せると、再町が「浮気だって」と真顔で言い放つ。え、と息が止まった。隣で同じように固まっていた花寺が「浮気て、カオルコちゃん、まじか」と呟く。カオルコにも何度か会ったことがあるけれど、素朴でおだやかな雰囲気の女性だった。控えめで、話を振らないとなかなか喋らない。相槌を打って、ニコニコしている。そんな印象。
好んで社交の場に出るようなタイプではないけれど、ハヤトには懐いている感じがあって、そういう特別感に男はめっぽう弱いんだろうな、とどこか他人事のように思った。自分も例外ではない。
かわいそうにハヤト、と顔をしかめる花寺に、「……いや、」と再町は言葉を続けた。
「浮気したの、ハヤトだって」
完全に動きが止まり、沈黙が落ちた。最初から最後までしっかりと聞き取れたはずなのに、まったく理解できなかった。
あのハヤトが?思考回路が停止する。
というか、人の恋愛事情を喋る再町もどうなんだ。しかも、かなり重い話題だ。
けれど、おまえさ、あんまり言わないほうがいいんじゃね、とは言えなかった。ひとのプライバシーをべらべらと喋るのはよくないが、つい共有したくなる再町の気持ちもわかる気がした。
「おれ、付き合ったこと無いからよくわかんねーけどさ。やっぱみんな浮気するもんなの?だって、おれ、信じらんないよ。ハヤトじゃん。カオルコちゃん命のあいつだよ」
「それで、いまどうなってんの」
すかさず花寺が問いかける。再町は「なんか」と言葉を続けた。
「ハヤトは別れたくないって言ったみたいだけど、カオルコちゃんは即切りで連絡先全ブロックらしい。ほぼ絶縁状態」
花寺が「カオルコちゃん、意外とやるねぇ」と呟く。
全ブロック絶縁状態。ハヤトからの溺愛というかたちではあったけれど、カオルコのほうもまんざらではなさそうだったし、お互いに深く愛し合っているように見えていた。愛の比重は釣り合っているように思っていた。それなのに、即切り。
おだやかそうな印象の彼女からは想像できない。思っていた以上にあっさりしている。
「意外だなって。だってさ、おまえらも思っただろ? カオルコちゃん、そんなぶった切るタイプには見えないじゃん。どっちかっていうとなかなか離れないタイプの、話し合いして許しちゃう系な、さ」
「意外と強かったのよ、カオルコちゃんは」
諭すような口調で言いながら、ビールを飲む花寺。再町が乗り出すように俺を見た。
「なー、新木も思うだろ? 意外だって」
そうだな、と共感しようとした瞬間、さきほどのカフェでの言葉が脳内に反芻する。
『主語でかいけどさ、男って、若干女のこと下に見てるよね。バカにしてるっていうかさ、こいつは離れないだろう、みたいな傲慢な勘違い?』
────同じじゃないか。
いま、俺たちは、カオルコという一人の女性を、下に見ている。勝手に作り上げた「離れなさそう」というイメージを押し付け、即切りする強さをもっている彼女のことを「意外だ」と評している。
何も言えずに黙っていると、花寺が「お、案外見抜いてた? おまえ、おれらのなかではいちばん経験あるもんな」と言った。
──そんなんじゃないよ。ただ、俺たち最低だなって、思っただけだよ。
心のなかでのぼやきはふたりに届くことはない。店内のBGMは変わって、宇多田ヒカルのFirst Loveが流れている。話の内容には似つかない純愛ソング。かは、と乾いた笑いがこみあげる。
「……浮気って、なんで」
ようやく出した声は微かに震えていた。納得する理由がほしかった。
「カオルコちゃんとあんまり会えなくなって、寂しかったから職場の人と出来心で、らしい。あとぶっちゃけ、酒入ったのがでかいんだと思う。本人はまじで後悔してたし、ずっと泣いてた」
はじめて身近にいる人間を、気持ちが悪い、と思った。理解ができない。恋だの愛だのという長年培ってきたものは、一瞬の欲にあっさり負けてしまうのか。
「一瞬の気の迷いが命取りだな」
花寺が深くため息をつく。今回ばかりは友人の肩を持つことは不可能だ。
「どんなに反省しても、改心しても、活かせるのは次の人しかいないからな。いちばん変わった姿を見せたい人には、二度と受け入れてもらえない。そういうもんだよ、再町。覚えといたほうがいい」
「肝に銘じておくわ。花寺センセ」
浮気をするのにもされるのにも無縁な生活を送っているのは、当たり前のようで当たり前ではないのかもしれない。無論当たり前になるべきだが、どうやら世の中は俺が思っている以上に汚くできているらしい。
そういえば男関係の不安に苛まれたことないな、と思いだす。浮気、なんて考えたことも疑ったこともなかった。
「新木はいいなあ。あんな美人なマフユちゃんと長いし。絶対良い子だろ、あの子」
ビールを飲む。わずかに酔いがまわってぼんやりした頭に、恋人の顔が浮かんでくる。
浮気の心配もない。一途で、尽くしてくれて、少し寂しがり屋。傷つきやすくて、けれどまっすぐで、良い彼女だと思う。
それなのに、どうして自分はこうなのだろう。
手放すのは惜しい。それはわかっているのに、関係を前に進める気力がほとんど残っていない。
そんな中途半端な状況ではだめだとわかっているのに、何も言ってこない彼女に甘えている。
「……さいてー、」
ぼやきが、店内のBGMにかき消されていった。
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