【新木琥尋 二十三歳 冬】
── 似てるな、というのが彼女の第一印象だった。
倒れ込んだまま動かないようすに焦って顔を覗き込んだ瞬間、思わず息を呑んだ。ぼろぼろと涙を流していたからだ。
ふいに、記憶の断片が脳内を掠める。けれどそれは一瞬で、足を痛めている、ということを認識すると、助けなければという気持ちで体が動いていた。
ヒュ、と浅い呼吸をする彼女を落ち着かせて医務室に連れていく。
医務室担当に学部を聞かれ、おどおどしたようすで「法文です、」と告げた彼女。名前は水嶋茉冬というのだと、そのとき知った。
マフユ、という響きからなんとなく寒い印象を受ける。透明な氷の結晶のイメージが彼女に重なる。うつくしいけれど、壊れやすい。小さな力を加えるだけですうっと溶けてしまう。そんな儚さが、彼女にはあった。
『強くなるには、どうしたらいいんでしょうか』
彼女の心に触れたとき、知りたいな、と思ってしまった。ぎりぎりのところで必死に耐えている姿に、どうにかして関わりたいと思ってしまったのは、好奇心か同情か、それとも──別の何かか。
彼女の考え方を、というのが次第に彼女自身を、に変わり、それと同時に知りたいという欲はゆるやかに恋心に変わっていった。
目にかかるほどの前髪の隙間からのぞく瞳が、少しずつ警戒の糸を解いていって、ゆっくりと俺を捉えた瞬間ふっと細くなるようになり、そんな彼女に惹き寄せられるようにして、「好きだよ」の四文字を贈っていた。
そう告げたときの彼女は静かに目を見開いて、グレーの瞳を揺らし、それからはじめて会ったときのようにポロポロと涙をこぼした。
できるだけ優しい世界で、傷つかないように生きていてほしい。大事にできる範囲にいる限りは、持っている力をすべて使って大事にしたい。
『マフユ』
名前を呼んで、つややかな黒髪を撫でると、嬉しそうに目を細めた彼女が静かに笑う。
遠い場所からぼんやりと浮かんでくる記憶にはそっと蓋をして、「琥尋さん」と呼ぶ唇に何度も口付けてきた。彼女は代わりなんかじゃない。決して、違う、重なる、うそ、重なる?マフユと彼女は別物だ、何を今更思い出す、忘れろ、諦めろ、忘れられる?
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機械的なアラーム音が徐々に大きくなり、意識が覚醒してくる。まだピントの合わない視界で目を動かすと、時計は五時半をさしている。
スマホを手にして《おはよ》と送信する。既読はつかない。一年間を通して、もはやルーティーンになってしまった。
付き合った次の日、《おはよう》と送ったら、《おはよ! 挨拶してくれるのうれしい、元気でる》と言われたのがきっかけで続けるようになった。自分の一言だけでそんなにもよろこんでもらえるなら、続けない理由はなかった。
日によって《おはよ》だったり《おはよう》《おはよー》《おは》と特に意味はないが使い分けている。彼女のほうも《おはよー!》だったり、《おはよう》のあとにうさぎの絵文字がついていたりとバリエーション豊富だ。
重い体を起こして、朝食の準備をする。久々にたまごが食べたい気分だったので、適当にスクランブルエッグを作った。かなり楽だ。
食器を洗い、自室に戻って身支度を整える。扱いやすい髪質に産んでくれた親に少しだけ感謝する。
そうしていると、六時半すぎに彼女から《おはよう》と連絡が入った。びっくりマークも絵文字もないただのおはように、少し動揺する。めずらしいな、と思いつつも、そんな気分の日もあるか、と自分勝手な解釈をした。
資料集の続きを読み、実習レポートを書く。
スマホをちらりと見ると《琥尋さん今度、いつ会える?》と返信がきていることに気がついた。通知で確認をして、既読はつけないままスマホを裏返す。
最近は臨床実習が多く、多忙な日々の合間に国家試験の勉強もしないといけないため、心身ともに疲労が溜まっている。正直恋人のことを気にかけている時間と余裕はなかった。
前回会ったのはいつだったか。紅葉を見に行ったのが最後かもしれない。肌寒い程度だったのが最近では耐え難い本格的な寒さに変わり、冬の訪れを実感せざるを得なくなった。カレンダーに視線を向ける。
12月も半ばだ。少し進んだ25日には『クリスマス♡』と丸文字が並んでいる。恋人が書いたものだ。
少なくとも、その日あたりには会うはずだ。プレゼントも用意しないといけないし、いつの日だったか、クリスマスは手紙を交換しようと約束をした記憶がある。ディナーの計画と予約もしなければならない。
やらなければならないことが、多すぎる。
ふ、と息を洩らしたところで、ピコン、とまた通知が来た。スマホを手にとってロック画面を見ると《無理言ってごめん。やっぱわたしも忙しいかも、ごめんね》という通知が残っている。本音じゃないんだろうな、とすぐにわかった。こうして謝られると、気を遣われている罪悪感でしにたくなる。この言葉に対する返信の模範解答は持ち合わせているはずなのに、それを彼女に届ける気力が足りない。
──俺は会いたいから。どうにか時間、つくれないかな。
そう言えば、彼女はきっと喜んで俺との時間を作ってくれるだろう。俺は彼女を求めて、彼女も俺を求める。恋人として最高の形で、クリスマスというイベントを迎えられる。
それはわかっているのに、どうしてもその言葉を渡そうとは思えなかった。
いま俺は、とてもずるいことをしている。卑怯で、失礼で、不誠実極まりない。こんな人間にはなりたくなかったのに、それなのに、どうしたらいいかわからない。自分がどうしたいのか、わからない。
ひとまず《わかった》と返事をして、スマホを閉じた。嬉しさは文字になかなかのらないのに対して、冷たさだけは妙に表れてしまうのはどうしてだろう。
この画面の向こうで彼女がどんな顔をしているのかは、考えないことにした。



