部屋の外から差し込む朝日は、もはや私には届かない。どうでもいい。目を開けると、世界は紙と文字で埋め尽くされていた。床にも、壁にも、紙が散乱し、文字が優雅に踊っている。私はその中に完全に取り込まれていた。ペンを握る手は止まらない。ペン先からインクが流れ出す感覚には、痛みなどなく、ただ心地よかった。書かずにいれば、私はきっと消える。でも、書き続ければ、私は紙の上で、物語の中で生き続けられる。文字だけが、物語だけが私を裏切らない。ふと、原稿の上で文字が自ら形を変え、私の名前を呼ぶ。
「来て、こっちに来て」
「私を見て」
「ここにいる」
その声は、私の内側から聞こえるようで、外の世界から聞こえるようで、また物語の中から聞こえるようだった。私は振り返るが、誰もいない。ただ、文字たちだけが私を呼んでいる。時間も、痛みも、空腹も、もはや感覚は消えた。朝も昼も夜も、何も意味を持たない。私の存在は、文字に同化し、物語の中へ吸い込まれていく。身体はそこにあるのに、意識は紙の上を漂っている。原稿を捲ると、一気に文字が溢れ出し、私の思考を代弁する。
「愛されたい。認められたい。」
「書きたい、書きたくない、でも書かなきゃいけない。」
「誰も私を見てくれない、見つけてくれない。」
「だから書かないと。私が、消えてしまう前に。」
ページを捲るたびに、文字は増殖し、私の心の奥底を言葉にして代弁する。書くことでしか存在できない、書くことでしか愛されない。書くことだけが、私の希望なのだ。書くことだけが、世界を、新たな世界を生み出すことだけが…。現実の世界に戻ろうとしても、視界は文字に覆われ、声は紙のざわめきにかき消される。そして、私は気づく。もはや、私の存在は、誰のものでもない。私は紙の上にあり、文字の中にあり、文字たちに監視され、操られ、支配されていた。自分が誰なのか、どこにいるのか、何を書いているのか、もはや何も分からない。原稿を捲る。次が最後のページだ。そこには、私の筆跡ではない文字が現れた。
「私はあなたをずっと見ている。あなたのことを書いている。」
声にならない叫びをあげるが、紙の上の文字は微笑むだけだ。そして私は文字に溶け、原稿の一部となる。存在の境界は完全に消え、私の意識も、肉体も、文字に飲み込まれていく。残された原稿には、最後の記録がこう記されていた。
「もう、誰も見てくれない。でも、書くことだけが私を生かす。書くことでしか、私は存在できない。文字は、物語は私を裏切らない。私はここにいる、ただ紙の上に。そして部屋は静かになる。机の上の原稿だけが、まるで生き物のように膨らみ、私の意思を超えて形を作り続ける。」

 誰も、彼女を見た者はいない。ただ、残された原稿だけが、狂気の証拠として、静かに、じわじわと語りかけるのだった。