私は、机に向かうたびに少しだけ安堵を覚える。紙の白さ、インクの匂い、ペン先の感触。それだけが、この世に私が生きていることの意味である生きがした。この世に存在することを許されているような気がした。誰も私を認めてくれなくても、誰も私を愛してくれなくても、ここに文字を綴ることで、新しい世界を生成していくことで、私は存在している。物語の中は美しい世界が広がっている。誰でも物語の主人公になれる、そんな世界。小説の世界ではなんでもできる。魔法が使えるファンタジー、好きな人と繋がることができる恋愛、不可能を可能に変えるミステリー。物語は想像だ。言葉はその想像する世界を形造り、他者へ届ける。物語は自由自在に何でもできる、何でも叶う。けれど、現実は無慈悲だ。応募した新人賞はまた落選した。予選すら通らなかった。SNSに投稿しても、一切の反応を示さない。読んだはずの誰かの声も、拍手も、共感も、何も返ってこない。この『無音』が胸を重く締め付ける。でも、それでも私は書く。書かなければならない。書くことでしか、私は私を肯定できないからだ。書くことでしか、私の存在価値は証明できないからだ。書き終えた原稿を何度も読み直す。紙の上にある言葉はまるで魔法のようだ。言葉は私を抱きしめてくれる。たった一言でも、私を認めてくれる、そんな気がする。私は小説の中でしか生きていけない。そう思った。

 だが、最近奇妙なことが起こり始めた。昨夜書き上げた短編の最後の段落に、見覚えのない一文が混ざっていた。
「私は愛されている。」
私は息を呑んだ。見間違いだろうか。眠気のせいか。そう思い、目を擦ってからもう一度見る。
「私は愛されている。」
見間違いではなかった。インクも筆跡も間違いなく私のもの。紙は静かに私を見つめているようで、胸の奥がざわつく。私は目を逸らすことしかできなかった。でも、それが間違いだった。この文から目を逸らしてしまったことを後悔することになるとは、今の私には分からなかった。

 翌日、彼は部屋の端で静かに椅子に座り、私を見つめていた。
「あのさ、少し話せる?」
彼の声のトーンはいつもより低く、私の胸は瞬間に凍りついた。私は執筆の手を止め、ゆっくりと振り向いた。彼の目はどこか冷たく、私をまっすぐに見ていなかった。
「何?」
つい尖った声が出てしまう。
「君は、…もう無理だよ。」
彼は言葉を柔らかく濁しているようだが、それが逆に私の胸に鈍い音を立てて突き刺さる。
「無理って…?」
私は声を震わせながら問いかける。
「君のことが嫌いになったとか、そういうことではないんだ。ただ、…そろそろ現実を見てほしい。君は小説を最優先して、僕に目を向けてくれないから。君は僕より小説を愛してるから。」
その言葉を聞いた瞬間私の心は音を立てて崩れていく、そんな感じがした。私が必死で小説を書く時間を持つことを、彼はずっと我慢していたのだろう。その我慢が今、私に言葉となって返ってくる。言葉は不幸のパーツにも、幸せのパーツにもどちらにもなり得る。私は人を、誰かを幸せにしようとして言葉を綴っていた。いや、違う。私は、私が小説を必死で書く理由。誰かに認められたくて、誰かに心から愛されたくて、私は必死に文字を綴り続けた。でも、今日私は知ってしまった。今まで気づかなかったこと。私が愛されるためにしていた行為は、逆に愛を拒んでいたのだと。この行為が目の前の人にとっては、重荷でしかなかったのだと。
「私は小説を書くのが好きなの。それに、誰かに認めてもらえるかもしれない、これから。だから……。」
私は言葉を探す。どうしても言い訳にしか聞こえない言葉が並ぶ。でも、どう伝えれば彼に伝わるのか、届くのか、何も分からなかった。彼はため息をつき、ゆっくりと立ち上がった。
「…ごめん……。」
それだけを残し、部屋の扉が静かに閉まる音が鳴り響いた。私は椅子に沈み込み、頭を抱える。書くことが私の全てだ。物語を書かない私には、何の存在価値のない。愛されたかった。認められたかった。だから始めた、続けた。それなのに、私は大切な人さえ失ってしまった。一人きりの部屋で、私は紙と見つめ合う。紙の上でなら、私は愛される。物語の主人公にだってなれるし、好きな人と仲良くなることもできる、紙の上なら。文字は私を拒まない。でも、でも現実は残酷だ。愛されたい、認められたい…その欲望のせいで、大切な人は遠くへ去った。胸の奥にぽっかりと穴が空いたようで、涙も出ない。声も出ない。私は何を感じているのだろうか。ただ、この絶望を文字にするほか、私に選択肢はなかった。実体験をフィクションへと変換する。ペンはすらすらと動いていく。誰にも相談できない悩みを紙が聞いてくれているように感じた。

 そして翌日、また机に向かう。文字は昨日と同じように滑り出す。吐き出しきれない言葉が白い髪を黒く染めていく。でも、どこか私の意思と関係なく、勝手に踊っているような気がした。
「愛されたい。認められたい。」
昨日書いたはずのない言葉がまた紛れ込んでいる。私はその原稿に目を凝らす。インクの濃淡も、行間も、文字の形も、話の構造も、全て私のもののはずなのに、私は書いた記憶がない。私が手を止めても、文字は動き続けた。勝手に並び、繰り返され、白紙を、私の視界を埋め尽くす。文字たちが生きているかのような感覚に鳥肌が立つ。けれど、ペンを握らずにはいられない。書かなければ、私は消えてしまう気がする。書くことが、それだけが私を生かす手段だから。書くことでしか、私は生を証明できないから。月明かりが原稿を照らす。文字は光に揺れ、消え、現れた。言葉が変わっていく。
「愛されたい。愛されている。」
言葉は勝手な変化を繰り返し、私を追い詰めていく。私は自分が書いているのか、それとも…。もう分からなくなった。息を切らしながら、私はペンを握り続ける。書くことでしか、存在を証明できない。書くことが、私の全てなんだ。そんなことは自分が一番知っている、わかっている。現実世界は冷たいまま、文字が、物語だけが私を優しく、温かく抱きしめてくれる。物語の中だけが私の居場所なのだ。

 夜が深くなればなるほど、部屋の空気は重く、静かに私を圧迫する。窓の外の雨音だけが、かすかに耳に響いた。私は机の前から離れない。離れられない。ただひたすら、原稿用紙に向かってペンを落とすだけ。感情を押し込むだけ。文字が滑り出す。でも、かすかに手元からずれて、一人でに紙の上で踊り出す。
「認められたい。愛されたい。認められたい。愛されたい。…」
同じ言葉が、繰り返し繰り返し紙の上で増殖する。前に書いたはずの文章も変化している。私が書いたのだろうか、それとも他の誰かが書いたのだろうか。考えても思い出せない、答えが出ない。ただ、胸の奥がざわめいて、全身に冷たい汗が流れるだけだった。机の上で、ペンを握る手が小刻みに震える。でも、止めることはできない。書かなければ、私は存在できない。紙の上でしか私は「私」でいられないのだから。

 昼間は買い物にも行かず、バイトも休んだ。理由は一つしかない。書くことが、それだけが優先で、他の全てがどうでもよくなったから。彼と過ごした時間も、家族と話した記憶も、全てが遠く、霧の中に迷い込んでしまったように薄い。手に残るのはペンの感触だけ。耳に残るのは原稿をめくる音だけ。頭にあるのは小説の内容だけ。

 夜、原稿に向かうと、また勝手に言葉が増えていた。
「私は愛されている。私は認められている。私はここにいる。」
私は頭を抱えた。文字は私の声を真似るように動き、私の感情を映す鏡のようだった。文字は私を抱きしめてくれる。文字は私を愛してくれる。でも、現実は冷たい。誰も私を抱きしめてはくれない。誰も私を愛してはくれない。誰も私を認めてはくれない。ふと気がつくと、机の上に原稿に新しい段落が現れていた。私が書いたはずのない文章。どこかから現れてくる文章。それは私の心の深い深いところを代弁しているようだった。
「愛されたい。認められたい。そのためには書かなければならない。でも、私はここにいるのに、誰も見てはくれない。誰も私を愛してはくれない。」
文字はまるで生きているかのように動き続ける。息を呑み、体を震わせながらも、私はペンを握り続ける。離せない。離してはいけない。書くことをやめることはできない。書かなかったら私は消える。まだ、消えたくない。愛されないまま、認められないまま消えたくない。夜が明けていく。手首が痛む。肩が重く強張る。視界が揺れる。それでも、書き続ける。文字だけが私を生かし、物語だけが私を愛してくれる。やがて、紙の上で文字がわずかに重なり、浮かび上がるような感覚がした。私の意思では操作できない、勝手に形作られる文章、物語。それは、まるで私の意識の外側から書かれているようで、冷たい恐怖で背筋が凍る。私は息を吐き、もう一度ペンを握り直す。書くことでしか生きていけない。書くことでしか、自分を保てない。書くことだけが、まだ「私」でいられる手段。そして、私はまたペンを走らせる。嘘で作った私が、本当の「私」を隠してしまっても、私は小説を書くときだけ本音を吐ける。執筆が、小説だけが「私」が存在することを確かめる方法。フィクションだけが、ノンフィクションな私を形成する。世界は冷たく、何も答えてくれない。でも、文字は物語は黙って私を抱きしめてくれる。それだけで、「私」はまだ生きているのだと、存在しているのだと確信できる。