学校。
 人で賑わう渡り廊下。
 硬直する身体。全身がこわばり、ピシッと固まる。
 片手を中途半端にあげたまま、オレは石像さながらに硬直した。心にフッと湧いた疑問が、挨拶しようとする手を止めた。
 オレ、いま女だし。
 ♂じゃなくて♀だからさ。
 ニドランで言うと♀のほうだから。キングじゃなくて、クイーンになるほう。ゲットだぜ。
 フツーに男子と喋ってもいいのかな。
 それとも、女子に混じって生活しなきゃなのかな。
 男子と女子のコミュニケーションって、オレが男だったときと同じでいいのかな。昨日までのテンション感でも問題ナシ?
 いや、そんなわけない。
 男子と女子の会話って、話す内容ぜんぜん違うし。コミュニケーションの取り方まるで違うし。
 おのずと性別ごとに分かれるもの。
 先生に「はい、二人組になってー」って言われるまでもなく、しぜんと男女別になって半ば自動的にグループ作っちゃうじゃん。
 完全に別々の社会ってか独自の論理で動く独立国家よろしくな感じのコミュニティ築いて楽しい学校生活(笑)送ってるじゃん。はっぴーらいふ♡してるじゃん。
 ちょっと待て。
 だれだ勝手に『(笑)』付けたヤツは。
 許可なくオレの心に入り込んで勝手に『かっこわら』を付けるな。『♡』もだけど。
 こちとら、いま笑ってられるよつな状況じゃないんだっつの。わりと今後の学校生活に関わるヤバめの危機が迫ってるんだっての。ハートはSNSでファボるときだけ使いなさい。
 オレの今の状況、結構ヤバくない?
「やっば……」
 おもわず、焦りの声がもれた。
 うっわぁ、やらかしてるぅー。
 ここに来るまでが精いっぱい過ぎて、ほかのことを考える余裕がなかった。学校に着いた後のこととか、ぜんぜん考えてなかったよぉ。やっばぁー。
 ってか、学校よく来ようと思ったな。
 自分の性別まるっきり変わっちゃったのに。いつも通り朝起きたら性別が変わってて、まったく面識のない女の子になってたのに。
 セーラー服姿で巨悪と戦う美少女戦士よろしく、変身コンパクトミラー掲げて「ムーンプリズムパワー、メイクアップ!」なんつって変身呪文を唱えてお色気まじりの変身シーンを披露しつつ女の子に変♡身しちゃったわけじゃないのにね。月に代わっておしおきよ!
 どう考えても、お家で待機でしょ。
 ふつうに考えて、学校に来れる状況じゃない。美少女戦士の勇敢さに憧れてる場合じゃないんだってば。
 今朝の朋花とのやり取りで『お兄ちゃん→お姉ちゃん』の流れから『おにえちゃん』なんて中途半端な呼び名になりそうな勢いでしたのに。
 勇者か。
 RPGの勇者か。無鉄砲すぎるわ。
 昔からヘンなとこで勇気発揮するクセあるよな。周りに冷や汗かかせちゃうタイプの無鉄砲な勇気。現に今オレ自身が背中にヘンな汗かいてるし。
 こちらを向いた鈴木がスッと片手を上げた。
「よっすー」
 起伏のないトーンで、鈴木が声をかけてきた。
 運動部の男子特有の平坦な挨拶。「うぃっすぅー」と並んでスタメン張れるヤツ。
 ぶっきらぼうな挨拶。つっけんどんなヤツ。そっけないヤツ。つれないアイツ。冷たいアイツ。冷たいアイス。『冷たいアイス』は当たり前すぎるな?
 い、いや。
 そんなこと、今どうでもいいから。
 いつも通りコミカルかましてる場合じゃないっての。
 おろおろ慌ててる姿が演技だと思われちゃうだろっ。「アセってそうな割には、けっこう余裕あるじゃん」とか思われちゃうかもだろっ。誰にだよっ。
 と、とにかく返事……っ!
「お、おはよ……」
 オレの後に続いて、麻衣も「おはよー」と言った。
「おう。ふたり一緒に登校か」
 オレと麻衣を交互に見てから、薄く笑いながら鈴木が続ける。
「今日も朝から仲良しだな」
 ふ、と口元に笑みを浮かべる鈴木。クール系の男子がやりそうな仕草。
 男子特有の軽口。男子にありがちのヤツ。
 ——と、わたくしめの『男子にありがちセンサー』が検知いたしました。鈴木の男子的な軽口に応じるべく、こちらも相応の反応をかえします。
「うっせ……」
 あ、やべ。
「え?」
 オレの言葉を受けて、鈴木はきょとんとした。
 っぶねー。
 いま完全に「うっせーわ(笑)」って言いかけてた。
 つい反射的(機械的?)に男子のノリでぶっきらぼうに返事しようとしちゃってた危ねぇーーーふぅーーーっ。
 せ、セーフだよね。今のはギリセーフだよねっ?
「い、いや……な、なんでも……」
 取りつくろうように返すオレに、なおも困惑めいた表情を見せる鈴木。
「お、おう……?」
 鈴木の口から、戸惑うような声がもれる。
 お、おおお落ちつ、
 おち着けけ、けけ、けケけけけっ。
 落ち着け、オレ。ひとまず落ち着け。『けけけっ』とか吃ってる場合じゃない。ひと昔まえの童話に出てくる魔女の笑い方みたいな感じで動揺した声をもらしてる場合じゃないから。ケケケッ!(注:いじわるな老魔女の笑い声)
 オレ、いま男じゃない。
 昨日までみたいに、男じゃないんだから。
 いまのオレ、女なんだから。女性で「うっせーわ(笑)」が許されるのはAdoさんくらいのものだぞ。令和の歌姫の特権なんだから。
 少なくとも、この娘には不釣り合い。
 この女の子の口から飛び出す「うっせーわ」はミスマッチ。真冬に春夏コーデで着飾ると同じくらい組み合わせミスってるから。多分ね、たぶん。
 心のなかで激しく動揺するオレ。
 おろおろと狼狽えているところに、麻衣がむぎゅっと腕を絡ませてくる。両腕で抱きかかえるように腕を組まれて、なす術もなくオレは胸を押し付けられる。
 麻衣がいつも通りの明るい声で言った。
「あたしたち、おしどり夫婦ですから〜」
 ふにゅん。
 柔らかな感触がオレの腕に伝う。
 とたん、弾けそうなほどに脳が覚醒する。身体じゅうに張り巡らされたニューロンが興奮に喘ぐ。


 ちょっとぉーーーーーーーっ、麻衣ぃーーーーーーーーーーーーーっっっ⁉︎


 な、なにしてんの!
 なにしてんの、なにしてんのっ⁉︎
 嫁入り前の女の子ですのに、そんなことしちゃいけませんっ!
 そんな、年端もゆかぬ花も恥じらう生で純な乙女が有ろう事か殿方に胸を押し付けるだなんて貞操観念ゆるゆるな娼婦さながらに不埒なことしちゃいけませんでございますわぁ!
 す、鈴木もいるのにっ。
 目の前に他の人いるのに。お友だちがいるのに、同級生がおわしますのにっ。
「——でね。今朝の葵ってば、電池切れかけのロボットみたいでね?」
 こちらを気にする素ぶりも見せず、麻衣は楽しそうに鈴木と話している。
 にこにこと微笑みながら、なおも腕を絡ませてくる麻衣。むぎゅうっと押し付けられる柔らかな膨らみに触れて、オレは脳にバチっと電流が走ったような感覚を覚えた。

 ひいぃーーーっ。

 や、やばい。
 ヤバい、やばいヤバい。
 下腹部がうずく。脳が覚醒しきってる。
 興奮のせいか、目がチカチカする。頭痛までしてきた。だんだん、頭までズキズキしてきた。痛たたたた。
 目、ひらいてる。両目から瞳が溢れ落ちちゃいそうなくらい見開いてる。そのまま、ふたつのガラス玉がポロッと落っこちちゃいそうなくらいカッと見開いてるのが分かる。
 まずい。
 まずい、マズイ。
 みんなの前はマズいってばっ。
 目の前には鈴木。彼の後ろには何人もの男女。
 もちろん、よく知る顔もある。学生たちで構成された群衆のなかには見知った顔もある。いつも一緒に授業を受けているクラスメイトの姿もある。
 党派を組む人々の姿。ひと塊になって談笑する生徒たち。寄り集まって暖をとるヒヨコの集団さながらに、みな一様にグループを組んで楽しげに話している。
 衆人環視。
 こちらをチラッと横目で見る人の姿。
 代わりばんこで視線を向けられ、思わずオレの心臓が大きく跳ねる。どくん、と躍動する音が聞こえてきそうなほど飛び跳ねる。どくん、どくんっ。
 お、終わるっ。
 オレの学生生活が終わっちゃうよぉっ!
 蔑むような目と揶揄うような声。女子みんなから「葵、ちょっとキモいんだけど……」とか言われること必須。男子からは「お前、朝から元気すぎるだろ(笑)」って言われるに違いない。軽蔑と嘲笑のオンパレード。
 きっとバカにされ続ける。
 今日のことを卒業するまでネタにされ続けるんだ。そうに決まってる。もう今から既に、そんな暗い未来しか見えないっ。
 どっかの誰かに小学生みたいなネーミングセンスで変なアダ名とか付けられて「朝からお元気マン(笑)」みたいに『かっこわら』付きで揶揄われ続ける漆塗りみたいに真っ黒で真っ暗な高校生活になるんだぁっ。漆黒の黒歴史ぃっ。
 ちょ、ちょっと、
 ま、麻衣っ。腕、マジで離し——
「あっ」
 ふと気づく。


 今のオレ、女だった。


 そっか。
 そうだ、そうだった。
 今は男じゃないから、三つ目の足もないか。
 お股のあいだに付いてる、第三の足なんて無いよな。お脳みそがエキサイトしたせいで「第三の足、全力起立っ!」することもないか。
 なぁんだぁ。
 生理現象を心配する必要、どこにも無いじゃんかぁ。
 もぉ、だれか言っといてよぉ。「ゾウさん付いてないから、ぱぉーんしないで済むよ。安心してね」って教えてくれてもいいのにぃ。ケチぃ〜。
 それに、女同士だし。
 女の子って男よりも距離近めだし。男より身体的な接触ちょっぴり多めな感じだもんな(※個人の感想)。
 たまに居るもんね。男子同士だとまず見ない光景かもだけど、友だちに抱きついたりする女子いるもん。ふっつーに楽しそうに喋りながら、腕ぎゅっと絡ませてる子とか居るもん。
 たまに見るもんね。ときどきGL展開よろしくな感じで「そのままキスしちゃいそうな距離感だな?」ってくらいに近くまで顔が寄ってる女子とか見ることあるもん(※個人の感想)。
 こんくらいのスキンシップするか。
 ふつーだよな。こんくらいのボディタッチ、けっこう日常茶飯事だよな。女子同士でくっついて戯れてるとこ、ときどき休み時間とかに見るもんな。
 だから、きっと普通。
 麻衣がくっ付いてくるのもフツー。とっても平常心のように見えるのも多分フツー。
 麻衣の距離感、普段から近いし。もともと距離感バグってる系の女子だし。パーソナルスペース狭すぎ注意報発令系の女子だしさ。もぃーん、もぃーん(注:アラート音)。
 こんくらいのスキンシップ、麻衣にとっては普通なのかも。なんでもない日常の一風景というか。
 そっか。
 そっか、そっかぁ。


 そっかぁ〜〜〜〜〜っ、ふぅ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜んっ。