恋の種類は人の数だけある。

私の恋愛タイプと言えば、『宗教』という表現が一番似合っているだろう。

恋をすると、恋人が私の全てになる。
意思表示、行動決定。
何をするにしても自分より恋人を優先し、恋人がいてこそ自分が存在する。
価値観の相違があっても、特に躊躇うこともせず、恋人に合わせる。
いなくなってほしくないから。
離れていってしまうのが恐いから。
恋人だけが、私の全てだから。

恋人の幸せが自分にとっての唯一の幸せで、恋人が幸せならそれ以上は望まないため、特に苦しいと感じたこともない。
しかしそれも、“それ”までは、の話なのだ。

対人関係において、別れは付き物だ。
出逢えば、いつか必ず別れがくる。
ましてや恋愛においての出逢いというのは、別れが前提にあってこそである。


当時の私は、別れなんて考えてもいなかった。
そして、理解すらできなかった。

お互い好きなのであれば一緒にいたらいいじゃないか。
恋人のためなら私は何だってできるのに。

『一生一緒にいて、離れないで。』
泣きながら私に言ったのは君だったじゃないか。
君が言葉にして私にそう伝えるから、私はこれからも全てを捧げるつもりだった。

言葉は呪いだ。
あの日からずっと、私を縛って離さなかった。
言葉が嫌いだ。嘘つきだ。

でも、もしかすると私は、相手を知らなかったのかもしれない。

きっと、言葉にも人の数ほど種類がある。
私にとっての言葉の在り方が相手も同じだと、勝手に決めつけていたのではないか。
なんて視野の狭さだ。
きっと、私と相手の言葉に対する価値が違っていたのだろう。

そして今まで散々相手に合わせて生きてきて、それが幸せだと思っていたのに、終わったあとに報われなかったからと執着してしまうなんて、なんと情けない。
『ずっと一緒にいる』という見返りを求めて、それを信じて、最後の最後まで自分を粗末にしてきたのだ。
綺麗事で片付けられるほど、綺麗な自分ではない。
滑稽で浅はかで、欲に塗れた醜態である。

自分を粗末にしたのは紛れもない自分じゃないか。
そんなのは責任転嫁だと、酷く自分を恥じいた。

自分で自分を幸せにする方法が分からないから、他人に満たしてもらおうだなんて。
気づかなかった。
傲慢だった。


きっと失恋で残る傷痕は、相手が自分に残したものではなく、それを良しとして自分を粗末にした自分自身が付けたものである。


自分自身を否定してやっと、言葉という呪いから開放され、そうしてやっと、恋という自分への呪いから開放されるのだ。