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春の陽射しが、近衛家の縁側にやわらかく落ちていた。
その縁側に、翠は寝転がっていた。制服のまま、片手には紙袋。
中には、学校帰りに立ち寄ったパン屋すみれのメロンパンが、これでもかというほど詰め込まれている。
翠は無造作に袋を開き、縁側にごろりと横になったまま、ひとつ、またひとつと頬張っていた。
その姿からは、とても“名家の令嬢”などという言葉は想像できない。
翠がだらしなくメロンパンを頬張るこの屋敷は、御三家の令嬢という立場を思えば、あまりにも穏やかな場所だった。
それは、御三家の中でも近衛家だけが持つ空気だった。
近衛家、嵐家、皇家——。
この三家は、古くから“御三家”と呼ばれ、名実ともに財界屈指の家柄として知られている。
その頂点に立つのが、代々この国の中枢を司ってきた宗家、近衛家総帥・近衛権造だ。
政財界において絶大な権力を持ち、御三家を統べる存在として、その名を知らぬ者はいない。
御三家はいずれも、宗家・近衛家の血筋から分かれた分家として誕生した。
総帥に忠誠を誓い、その威光のもと、それぞれが確固たる地位と権威を保ってきたのである。
そして、縁側に寝転がりメロンパンを頬張っている翠は、その嵐家の次女にして、総帥・近衛権造の孫娘だった。
「——姫ええええええええ!!!」
縁側に響き渡る、やたらと腹の底から通る声。
メロンパンを咥えたまま、翠はぴくりと肩を震わせる。
だが、起き上がる気配はない。
むしろ、聞こえなかったふりをするように、顔を縁側の板敷きに押し付け、もぐもぐと咀嚼を続けた。
「姫ぇえ!姫は何処におられる!!」
ばたばたと足音を立てて現れたのは、近衛家の影として代々仕えてきた忍びの一族、その頭領にして、総帥・近衛権造の側近を務める、佐近伝蔵だった。
険しい顔で縁側に駆け寄るなり、その光景を目にして、がくりと肩を落とす。
「お帰りになってすぐそれですか!着替えもなさらずに!!しかも寝転がってパンを!!!なんという行儀の悪さ……」
「……だってお腹すいたんだもん」
もごもごと、口いっぱいに詰めたまま返事をする翠。
その拍子に、ぽろぽろとパンくずがこぼれ落ちた。
「姫ぇ……!」
伝蔵は思わず頭を抱えたが、すぐに気を取り直し、翠のそばにしゃがみ込む。
懐から布を取り出し、慣れた手つきで彼女の口元に残った砂糖を拭い、縁側に散らばったパンくずを拾い始めた。
「舞の稽古が始まる刻でございますぞ!皆、すでに姫をお待ちで——」
「あと一個……これ食べたら行く……」
「“あと一個”が三つ目でございます!」
そのときだった。
縁側の廊下に、落ち着いた足音が近づいてくる。伝蔵がはっとして顔を上げた。
「翠、伝蔵。ここにおったのか」
「これはこれは、権造様と……皇の若君」
伝蔵の言葉に、翠の身体がぴたりと固まった。
ゆっくりと視線を上げると、そこには権造と、並んで立つ男の姿があった。
——皇燈。皇家の次男にして、次期当主である。
その姿を捉えた瞬間、さっきまでのだらけきった空気が、嘘のように消える。
翠は慌てて起き上がろうとしたが、なぜか、燈の顔をまともに見られず、視線を逸らした。
「翠ちゃん、おかえり。学校お疲れ様」
柔らかな声でそう言われ、翠の心臓がどくんと跳ねる。
「……どうも」
それだけ言うのが精一杯だった。
燈は小さく微笑み、権造はその様子をどこか面白そうに眺めていたが、伝蔵だけは翠の変化にまるで気づかない。
「翠や、今日も美味しそうなパンを食べておるな」
権造はそう言いながら、パンが入った紙袋を覗き込んだ。
次の瞬間。
翠は残っていたメロンパンをまとめて権造の腕に押し付けると、一つを口に咥えたまま、勢いよく立ち上がった。
「け、稽古、行ってくる」
「姫! お待ちなされ!パンを咥えたまま走ってはなりませぬー!!」
翠はそのまま、風のように縁側を駆け抜けて逃走した。
慌てて追いかける伝蔵の声が、屋敷中に響き渡る。
伝蔵は、翠が顔だけでなく耳まで真っ赤に染めているとは、知る由もなかった。
——そう。
何を隠そう、翠は燈にホの字である。
残された縁側で、燈は小さく息を吐きながら、逃げるように去っていった翠の背中を、微笑みを浮かべて見つめていた。
それを横目に、権造はどこか愉快そうに目を細める。
「燈や、翠から貰ったメロンパンを頂くとしようか」
「はい、是非」
二人は縁側に腰を下ろし、春の陽射しの中で黙ってメロンパンを分け合った。
燈は、翠が駆けていった縁側の奥を、もう一度だけ見やった。
翠の姿は、すでに縁側の奥へと消えていた。
燈はその先を、ほんの少しだけ長く見つめる。
胸の奥に残ったものに、名を与えることもなく。
