彩色の恋模様





「あ……」

 思わず声が漏れた。
 目の前のものに目が釘付けになった。
 あぁ、やっぱり。
 鼻の奥がつんとした。

 箱に綺麗に仕舞われていたのは、淡い桃色の着物だった。
 和花は無意識に着物に手を伸ばし、広げていく。つるりとした絹の手触りの良さが妙に懐かしい。
 上品な桃色の着物全体には、まるで穏やかな風が吹き、舞い踊っているような桜の花々が散らされていた。
 白や撫子色、濃い桃色など様々な色や大きさの桜の花が春らしく、温かい気持ちにさせてくれる。
 和花はその明るい色味の着物をまじまじと見つめた。
 蒼弥に見られていることも忘れてしまうほどに。

「あの?」

 着物を持ったまま固まる和花を不思議に思った蒼弥は、彼女の顔を覗き込んだ。
 蒼弥の顔が視界に入った和花は、そこでようやく現実に引き戻されたのだった。

「も、申し訳ございま……」

「大丈夫ですか?」

「……え?」

 和花の声を遮るようにかけられた柔らかい声。自分を心配する声に、和花は戸惑った。

「どういう……」

 いい終わらないうちに、蒼弥の手が和花の方に伸びてきた。足が棒のようになり、身動きが取れない和花は蒼弥の手をそのまま受け入れる。
 蒼弥は和花の頬に優しく触れると、涙の粒を拭った。

「あ、あの……」

「涙が流れていたので」

「涙……」

 自分の頬を触ってみると、ほんのり濡れていた。
 そこでようやく和花は、自分が泣いていることに気が付いたのだ。

「何か不快な思いをさせてしまいましたか?申し訳ありません」

 申し訳なさそうに眉を下げる蒼弥に、和花は慌てて首を横に振る。
 蒼弥は何も悪くない。
 むしろ和花にとってご褒美なのかもしれない。
 だって、蒼弥が待ってきたこの着物は――
 和花の父が描いたものだったから。

 藤崎屋に春が訪れたことを象徴させる着物として描かれた桜柄は、見る人みんながうっとりしていた。
 春先の藤崎屋の店頭を彩っていたこの着物を忘れるはずがない。

 藤崎屋は和花が加納家に嫁ぐことが決まると、店を畳むことを余儀なくされた。店内にあった着物は全て義父に持っていかれ、売り捌かれてしまったため、父や和花が描いた着物はもう一着も手元にない。

 もう出会えないと思っていた思い出の物に出会えて、和花の心には久しぶりに光が差し込んだのだった。
 嬉しさや懐かしが涙となり、後から後から流れては和花の頬を濡らしていく。
 困惑した表情の蒼弥に申し訳ないと思いつつも、涙を止めることができなかった。

 しばらく和花を見ていた蒼弥は、何かを思い出したように、おもむろに茶色のスーツの左ポケットに手を入れた。
 そしてハンカチーフを取り出し、それをスッと和花に差し出す。
 不思議に思い彼を見上げると、ぱちりと目が合い、優しく微笑まれた。

「これ、良ければお使いください」

 蒼弥の手には、桜の刺繍が施された紺色のハンカチーフが握られていた。
 淡い桃色の桜の花と、その周りには花びらが至る所に散りばめられ、紺色と桜の花々がとてもよく合っている。
 高価そうなハンカチーフに思わず涙が引っ込みそうになった。

「い、いえ、大丈夫です」

 慌てて涙を拭う。和花の涙を拭くにはもったいない。こんなに美しいハンカチーフは自分に相応しくないのだ。

「何が大丈夫なんですか?そんなお顔をされて、何かありましたか?」

 和花が大丈夫だと言っても、蒼弥は引かなかった。

「本当に、大丈夫ですので……!」

 頑なに受け取らない和花を見兼ねた蒼弥は、彼女の元に一歩足を踏み出し、その頼りない手首をやんわりと掴んだ。

「……っ!」

 そして、呆気に取られている和花なんてお構いなしに、手を自分の方に引き寄せ、手の上に優しくハンカチーフを置いた。

「私には大丈夫そうには見えません。なにも気にせずお使いください」

 蒼弥は和花を心配そうに見つめ、優しい声色でそう告げた。

 なぜ、初対面の人がこんなに優しくしてくれるのだろう。
 なぜ、こんな自分を気遣ってくれるのだろう。
 なぜ、自分にそんな心配そうな目を向けてくれるのだろう。
 蒼弥の顔を見ながら、和花の頭の中はそんな疑問が浮かんでは消えていった。

「ご心配をおかけして申し訳ございません……ありがとうございます」

 ここで押し問答を続けても、蒼弥を困らせるだけだろうし、涙の理由を深く追求されるのも困る。
 それに、このまま蒼弥と接していたら,色々なことを思い出してしまい、心がおかしくなってしまいそうだから、和花はありがたくハンカチーフを受け取ることにした。

 義家族の暴言を耐えるために鈍らせていた心が、蒼弥の優しそうな目によって揺れていることが分かる。
 そのくらい和花は動揺していた。

「お着物のお直しですよね。店主に確認してまいりますので、少々お待ち頂いてもよろしいですか?」

「ちょっとお待ちください……!」

 なるべく蒼弥の顔を見ず、早口で伝えると、蒼弥の静止も聞かずに和花は店の奥へと急いだ。
 手にハンカチーフを握りながら。