気が付けば、窓から見える外は茜色に染まっていた。
針仕事を終え、部屋の片付けをしていると、義父がやってきた。なぜか機嫌が悪い。
「おい」
「はい」
低い声で和花を呼び止めると、手短に要件を話す。
「今日はもう店を閉める。片付けを全てやっておけ」
「かしこまりました」
だから機嫌が悪いのか、と和花は理解した。
きっと、今日はあまり客が来なかったのだろう。売れ行きがあまり良くないから、普段の閉店時間より少し早く閉めるようだ。
商売は日によって売り上げが変わってくる。
時期やその日の気候、曜日によって来客数は変わってくる、それは仕方のないことなのに、お金しか目にない義父にとっては許せないらしい。
だからと言って、売り上げを伸ばすために義父自身が何か努力をしているのかといわれれば、そうでもないのだが。
どこからか聞きつけた和花の力を使ってお金を儲けようと企んだが、それも叶わなかった。
余程、和花が憎いことだろう。
店へ出ていくと、もう人は一人としていなかった。
店主である義父と、その手伝いをする義母は店頭に立つことしかしない。
愛想良く接客し、着物を売っていくだけ。
その他の業務は全て和花がやっているのだ。
着物の管理も片付けも、注文の確認も。
昔、藤崎屋で両親に教えてもらいながら一緒に仕事をしていたから、呉服屋としての仕事内容は概ね分かる。
しかし、あの時は父母と三人でやっていたから良かったが、一人でやるにはどうしても時間がかかってしまう。
その為、深夜まで作業することも多かった。
(今夜も遅くなりそうね)
身体をゆっくり休める日はいつ来るのだろう。
そんなどうでも良い疑問を胸に、和花は店内の掃除を始めた。
店内の掃除がおおかた終わった頃。
加納屋の表戸を叩く音が静かな店内に響き渡った。
「……みません、どなたかいらっしゃいませんか?」
微かに人の声が聞こえる。
和花は忙しなく動かしていた手を止め、表戸に近づいた。
さっきまでうっすら明るかった外は、完全に日が沈み、藍色の空が広がっている。時計はないが、きっと本来の閉店時間は過ぎている頃だろう。
和花は外の人に声をかけようと口を開いたが、すんでのところで止まった。
ここを開けて、自分が出ても良いのだろうか。
和花が人前に出ることを義家族は嫌がる。みっともない格好で由緒正しい呉服屋の店頭に出て欲しくないのだろう。
それは和花自身も理解している。貧相な身体、不健康そうな青白い顔、汚れが目立つ着物。
そんな人が表に出て行けば、驚くに決まっている。
考え込む和花に、また外から声が掛かった。
「遅くに申し訳ございません。呉服屋の方にお願いがございまして」
その声は穏やかなものだった。
低い声からしてきっと男性なのだろう。
明るく電気が灯り、和花がいることが悟られている今、無視することは忍びない。
義家族の言いつけを破ることに若干の恐怖はあるが、それでも和花は思い切って表戸を開けてみることにした。
「どちら様でしょうか……?」
心臓がどくどくと音を立てる。
加納家の人とここに勤める使用人としか話す機会がない和花は、久しぶりの他人に緊張が走った。
加納家の人しか話さないと言っても、ろくに会話した記憶は遠い昔なので、人と話せるか不安もある。
控えめにそっと開けた戸の隙間。
しかし、そこから大きく開けることが躊躇われた。
(やっぱり、お義父さまを呼んできた方が……)
戸を開けたことを後悔する和花だったが、もう遅かった。
少しできた隙間にスラっと長いが、骨張っているきれいな指が入り込み、ガラッと勢いよく開いた。
急な出来事に驚き、戸から手を放して二、三歩後退る。そしてすぐさま顔を合わせないように目線を下に向けた。
和花の視線は相手の足元を捉えている。
綺麗に磨かれた高価そうな革靴。靴一つで、家柄が良いことが分かる。
「驚かせてしまい申し訳ございません。お部屋の明かりが付いていまして思わず声を掛けてしまいました。お願いがありまして」
柔らかな声が頭上から降ってきた。
こんな見窄らしい身なりの和花に対しても丁寧な話し方をするものだから和花は驚き、そっと顔を上げ、目を見開いた。
(……!)
熟した栗の皮のような黒みがかった赤褐色の髪、スッと通った綺麗な鼻筋、透明感あふれる白い肌。
顔のパーツ一つ一つどれもが上品で、女である和花も思わずうっとりとしてしまうような中性的な、端正な顔立ちをしている。
だが、和花をゆうに超える背の高さと、しっかりした骨格からは男性らしさを感じることができた。
何より印象的なのは薄茶色の瞳。奥二重の目は少し垂れており、それが優しさを醸し出していた。
優しげな瞳が和花を捉え、ぱちりと目が合う。
(綺麗な優しそうな人……)
綺麗な瞳に吸い込まれそうな感覚に陥った。
目の前の美しい男性は、柔らかく微笑むと、軽く頭を下げた。
「九条蒼弥と申します。少しお時間よろしいでしょうか?」
九条蒼弥と名乗る若い男性――どこかで聞いたことがある名前に、和花は頭を働かせた。
(九条って、もしかして……?)
どうやら凄い方が来たのかもしれない。和花は息を呑んだ。
九条といえば、ここ帝都で有名な名家中の名家である。
古くから代々、帝の片腕――宮廷一の文官として仕えている由緒正しき家柄だ。
文官は宮廷にて軍事以外の行政業務を取り扱い、国を支えている。九条家の人は、その文官の頂点として、文官たちを取りまとめているらしい。
高貴な方の登場に、和花は戸惑いながら返答した。
「は、はい……大丈夫です」
「すみません、本当なら日中に伺いたかったのですが、仕事で都合がつかず、こんな時間になってしまいました」
「そう……でしたか」
なんて腰の低い人だろう。
高価そうな茶色のスーツに身を包む蒼弥は、言葉遣いといい仕草といい、品の良さと育ちの良さが垣間見える。
蒼弥は、手に持っていた大きな箱を和花に差し出した。
「こちらの着物を直していただくことは可能でしょうか?」
白地に薄い桃色の桜の花が舞い踊る絵が描かれた見覚えのある箱に、和花は「え」と小さく声を漏らした。
両親と過ごした日々が走馬灯のように頭の中を駆け巡る。
「……開けてもよろしいでしょうか?」
「もちろんです」
蒼弥から箱を受け取り、近くにあった台の上に置く。
心拍数がどんどん上がっていくのが自分でも分かる。緊張から喉がカラカラに乾き、声が出にくい。
和花は一つ深呼吸をすると、恐る恐る震える手を動かし、箱を開けた。
