「和花、ここにいましたか」
集中していた和花は、蒼弥の声で我に返った。慌てて手袋をはめ、振り返る。
主人の帰りに気付かぬほど集中していた自分の集中力の高さに感心すると同時に、申し訳なさが頭をよぎり、勢いよく頭を下げた。
「す、すみませんでした……私ったらお出迎えもせずに……」
あわあわとする和花を見て、蒼弥は笑みを浮かべた。
「大丈夫ですから、落ち着いて下さい和花」
「で、ですが……」
「何を描いていたのですか?」
和花を落ち着けようと、蒼弥は話を机上の絵にうつした。
机上には、石竹色の着物が置かれていた。その上をいくつもの扇面柄が舞うように配されている。
彩色の力が戻り、絵を描く能力が復活した和花は、自室で絵を描くことが増えた。
父が生きていた時のように、小物や着物に絵を描き入れ、それを親しい人に贈り物として渡すことが最近の喜びだ。
あの日、信忠に汚されてしまったかすみへの贈り物も、描き直し、つい先日渡した。かすみは目を輝かせており、和花も温かい気持ちになったことは記憶に新しい。
「扇面柄が美しいですね」
和花のすぐ近くに腰掛け、まじまじと着物を見る。
それぞれの扇面には四季折々の花が描かれていた。
風に揺れるしだれ桜に可憐な朝顔、色鮮やかな秋桜に春を告げる梅。
四季の移ろいを感じさせる意匠だった。
背景には金糸で描かれた流水紋が流れ、扇面をやさしくつないでいる。
すべてが連なり、それはまるで繰り返される季節を象徴しているようだった。
「蒼弥さんと過ごしていたら、お父さまとお母さまと過ごした日々を思い出しました」
懐かしむように和花は布地を眺める。
この扇子に描かれた季節の花々は、あの幸せだった家の庭に咲いていた物。
春にはしだれ桜の下で三人でお花見をした。
夏の清々しい朝に咲く紫や青色の朝顔は美しかった。
可愛らしい秋桜が心地良い秋風を運び、それをみんなで眺めた秋。
寒さにも負けず春を告げようと懸命に咲いた梅を温かい部屋から見守った冬。
脳内に昔の思い出が蘇る。
父が亡くなり、母と会えなくなり、悲しむ間もなく加納家に嫁いだ和花は、いつのまにか楽しかった記憶が薄らいでいたのだ。
いや、思い出すと加納家での生活が冷たく辛く感じ、涙が出てしまいそうだから閉じ込めていた。
しかし、蒼弥と穏やかに過ごす中で、過去の楽しかった思い出を振り返っても胸が苦しくならなくなったのは、今が幸せだからだろう。
「和花のいた家の庭はとても美しかったのでしょうね」
「はい、とても綺麗でした」
頭の中に、微笑む父と母の姿が浮かぶ。でも、もう寂しくない。
だって隣に、蒼弥がいてくれるのだから。
「それにしても、和花の絵は心を和ませてくれるから不思議ですね。ずっと見ていたくなります」
「……蒼弥さん」
「はい」
「ありがとうございます」
「はい?」
和花は満面の笑みで蒼弥を見た。突然の礼に、蒼弥は首を傾げる。
「……私が美しい絵を描くことができるのは、蒼弥さんがそばにいて下さるからです」
「そうなのですか?」
蒼弥の優しげな垂れ目が、さらに垂れ下がり、優しい眼差しを和花に向ける。
「はい。幸せを感じないと、こんな素敵な絵は描けませんから」
「私は絵が苦手ですからよく分かりませんが、そういうもの、なのですかね?」
困惑し、頭を掻く蒼弥に思わず笑みが溢れた。
「ふふっ」
いつの間にか二人の笑い声は重なり合い、静かな部屋に明るい色をもたらした。
「和花、その着物が完成したら、それを着て一緒に出掛けましょうね」
「はい……!もちろんです」
蒼弥の両手が、和花の両手を包み込む。手袋の上からじんわりと彼の温もりが伝わり、和花の全身へ溶けていく。
(いつか、この言葉の本当の意味を伝えます、蒼弥さん。私はきっと、あなたがそばにいて下さらないと美しい絵を描くことはできないと思います。だって)
――私が幸せでいられる場所は、あなたの隣だから。
私の居場所は確かにここにある。
温かくて優しい、決して離れたくない場所。
ここは、彼の隣は私が自分の意志でいると決めた場所。
和花の心は色とりどりの明るい色で満たされ、この上ない幸せを感じるのだった。
