「和花、着きましたよ」
優しい声に導かれ、目を開いた和花は、起きて早々息が詰まりそうになった。
目の前に優しく微笑む蒼弥の顔があったからだ。
思わず頬が赤くなる。
「そ、蒼弥……さん……」
「目が覚めましたか?身体の具合は?」
「……だ、大丈夫です……」
しどろもどろに答えると、「良かった」と顔を離しながら蒼弥は呟いた。
胸に手を当てうるさい鼓動を止めようと努めながら、和花は左右を見回した。
(ここは……)
「ここは車の中です。母の屋敷につきましたよ」
和花の心を読み取ったように蒼弥が告げると、さっきまでのことが思い返された。
(そうだわ、私あのまま気を失ってしまったのね)
蒼弥に横抱きされていた記憶はうっすらある。寝ている間ずっと寝顔を見られていたかと思うと顔から火が出そうだった。
「歩けますか?」
「は、はい、大丈夫です」
蒼弥の手を借り、車を降りる。ふらふらの身体を支えてもらいながらなんとか動かした。
思っていたより全身の力と神経を使っていたらしい。
支えてもらわないとへたり込んでしまいそうだ。
玄関の戸を開け中に入った途端、誰かに勢いよく抱きつかれた。
その衝撃に大きく身体が揺れる。
顔はよく見えないが、すぐに分かった。
柔らかい香の匂いとあたたかさ。
「和花ちゃん!大丈夫だった!?」
抱きついてきたのは、目に涙をためたかすみだった。
「……お義母さま」
優しく背中をさする温もりに、和花の心の緊張がゆっくり溶けていった。
「蒼弥から電話をもらって迎えに行ったのにいないから心配したのよ。怪我はない?大丈夫?ごめんね、もっと早く行けばよかったわ」
相変わらずなかすみ話し方と温もりに堪えていた涙が溢れてきた。
怖かった。
もしかしたらあのまま、また地獄のような場所へと戻されてしまうのではないかと。
もうこの優しさが溢れる場所に居られなくなるのではないかと。
でも、そうなりたくなかったから、和花自身がここにいたいと望んだから、気持ちを正直に伝えることができたのだ。
それもこれも全部蒼弥やかすみのおかげだ。
「お義母さまっ……ご心配をおかけして、すみませんでした……」
「もう、本当よ……あなたに何かあったら私生きていけないと思うわ。良かった本当に」
和花より少し背の低いかすみが、手を伸ばし和花の髪を撫でる。その温かい義母の手に和花は心底安心した。
「でも、どこかすっきりした顔つきね。可愛らしい和花ちゃんの顔つきが、より美しく凛としたわね」
「……?」
自覚はなかったが、かすみがいうならきっと正しいのだろう。そのくらい信用を寄せていた。
「これからもよろしくね、私の娘。さあさ、一度部屋でゆっくりしておいで。蒼弥もね」
二人のやりとりを静かに見守っていた蒼弥にかすみは可愛らしく目配せした。
「和花、部屋に行きましょうか」
和花の手を引き、蒼弥は螺旋階段を登っていった。
◇◇◇
蒼弥に連れられて入った部屋は、大きな窓があり、そこからは傾く夕陽が見えた。
和花は引き寄せられるように窓に駆け寄り、夕日をじっと見つめる。
「……綺麗」
日が落ち始めた空は、茜から橙へとゆるやかに色を変えてく。
夕日の眩しさに和花は目を細めた。
「本当に綺麗ですね」
隣に並んだ蒼弥を見上げる。夕日に照らされる横顔は、目が釘付けになるほど美しい。
穏やかな茶色の瞳に夕陽が映り、きらきらと輝いている。それがより麗しい容姿をより一層際立たせた。
ふと蒼弥が和花に視線を移す。
窓から眩しい光と穏やかな風が入り込む。
蒼弥は小さく息を吸い、和花をそっと見つめた。
その眼差しは迷いのない温かさで満ちている。
「和花、怖かったでしょう、自分の気持ちを正直に伝える為にたくさんの勇気が必要だったと思います。でもあなたは自分の力で乗り超えることができました。それはすごいことです」
「……蒼弥さん」
「店主の加納信忠を失った加納屋は次期に無くなってしまうでしょう。あなたを苦しめるものはもう何もありません。だから安心して下さいね」
蒼弥の優しさがひしひしと伝わってくる。
「何から何までありがとうございます。私……蒼弥さんと出会わなければ、一生あのまま……暗い世界に閉じこもっていたと思います」
「和花」
「私を見つけて、救って下さって本当にありがとうございます」
にこり、と微笑む和花の頬はほんのり赤みを帯びている。
和花の頬が赤いのは、夕日に照らされているからか、羞恥からなのか。
甘く柔らかな空気が漂う。
「和花、改めて聞いていただけますか?私は紛れもない、私の意志であなたが隣にいてくれる未来を選びました。あなたが不安に思っていることもあるでしょう。でも、私は和花が良いのです。他の誰でもないあなたが」
蒼弥の言葉が和花の胸に刺さり、じわじわと熱を帯びていく。
「私はあなたを愛しています。これから先、何があってもあなたを守り、共に歩むと誓います。だから、ずっとそばにいて下さい」
不釣り合いかもしれない、足りないところが多いかもしれない。
だけど、和花だって同じ気持ちだった。
――蒼弥のそばにいたい。
これは和花の本心で、初めて自分から掴み、離したくないと思えた幸せ。
「……私も蒼弥さんと一緒にいると幸せを感じます――私はずっと蒼弥さんのおそばにいたいです」
素直な想いが口から紡がれる。
なんの迷いもない、和花の本心が。
次の瞬間、和花は大きなその身体に抱きしめられた。この上ない安心感を感じる。
「これから先、あなたのそばで、一緒に笑って、泣いて、生きていきたい。嬉しさも不安も分け合っていきたい」
和花は黙って何度も首を縦に振った。話そうと口を開くも胸がいっぱいで言葉にならなかった。
「これから一緒に彩豊かな明るい未来を作っていきましょうね」
とくんとくんと規則正しい蒼弥の心音が聞こえる。
大切な人と共に生きる温かさを、想いが通じ合う喜びを彼の胸の中で噛み締めた。
(私は蒼弥さんと共に生きていきたい。ありのままの私を受け入れ、肯定し、大切に思って下さる蒼弥さんと共に……)
夕陽はゆっくりと地平へと沈んでいく。
茜色だった空は、いつの間にか朱を深め、やがて紫がかった紅に溶け込んでいった。
今までの苦労は今日の為の試練だったに違いない。辛かったこと、悲しかったこと全てを水に流すことは難しいが、何故かそれらを少し許せてしまいそうなほどに今は幸福感が勝った。
「これからも、よろしくお願いします。蒼弥さん」
頭上には星が瞬き始め、抱き合う二人を優しく見守っている。
沈む夕日は終わりを告げるのではなく、彩り溢れる新たな日々の幕開けを、そっと照らしているようだった。
