蒼弥は、この家に和花が来てから、家の中の雰囲気が柔らかく明るくなった気がしていた。
 今までがギスギスしていた訳ではないが、彼女の存在が家中を柔らかくしているのだろう。
 和花も健康的な生活を送り、どんどん顔色が良くなってきていることが目に見えた。
 それに、自然に笑うようになった。
 日に日に魅力的になる和花に目が離せなくなる。
 そんな魅力が磨かれつつある和花にされた突然のお願い。
 ――筆と染料を買いに行きたい。
 あまりに唐突で驚いたが、緊張した面持ちで素直に言ってくれたのは嬉しかったし、そんな姿も愛おしかった。

 薄々気づいてはいた。
 和花はまだ何かを隠している。そしてその鍵は、手袋をした右手と絵にあるのではないかと。
 ただ、日常生活で何か不便そうな感じもないし、特に困っている素振りもなかったから、あえて知らないふりをした。
 急に全てにおいて踏み込み過ぎは流石に良くない。
 もっと仲を深め、信頼関係を築き上げればきっと、和花自らが語ってくれる日が来るだろうと信じている。
 その為にも、今は目の前のことをひとつずつこなしていかなくては。

 蒼弥は、再び目の前に積まれた書類の山に向かった。
 普段の仕事を片付けてから、ひとつ別件で調べ物。最近はなかなか早い時間に家に帰れていなかった。

(遅くなってしまった。和花を待たせてしまっているし、仕方あるまい)

 蒼弥は備え付けられた電話を手に取り、どこかへかけ始めた。

『もしもし?母さん』

『あら?どうしたの?蒼弥』

『少し仕事が長引いて遅れそうなんです。和花と駅で待ち合わせしていたので迎えに行ってもらってもよろしいでしょうか?』

『まぁ!それは大変!分かったわ。こちらは任せて』 
『お願いします』

 電話が切れると、逸る気持ちを抑えながら書類に目を通しては判子をついていく。

「失礼します」

「どうぞ」

 手を止めることなく返事をすると、顔を覗かせたのは冴木だった。

「蒼弥、今日早く帰る日だったよな?」

「そうなんですが、いかんせん仕事が片付かなくて」

「だと思った〜来て正解だったぜ。助っ人に来ました」 

「はい?」

「だから、できる範囲で仕事変わるから、今日は早く帰れ。きっと婚約者さんが待っているぞ?」

「良いのですか?」

「もちろん、タダでとは言わせないけどな。今度一杯くらい付き合ってくれることが条件だな〜」 

「分かりました。申し訳ない……けど助かります。今日はどうしても外せない用事でして」

「そうと決まれば、ほら帰った帰った」

 冴木に後押しされ、蒼弥は立ち上がる。強引だが、こうでもされないと蒼弥は帰れなかっただろう。兄のような存在である冴木は、やはり蒼弥の扱い方が上手いのだ。

「あ、そうだ」

 鞄に荷物を詰めていた蒼弥は、冴木のぼやきで手を止めた。

「どうしました?」

「小山から預かっていたの忘れてた」 

「え?」

「これを蒼弥渡せって」

 少し分厚めな封筒を手渡される。
 急用かと思い、蒼弥はその場で封を開けた。
 中には数枚の紙が入っていた。急いで目を通す。

(確認事項か?……いや、これは……!)

 紙を持つ手が震え、紙の擦れる音が響く。

「蒼弥?」

 蒼弥の異変に気付いた冴木は不思議に思い、紙を覗き込んだ。書面に目を通し大声を上げる。

「加納信忠は人を殺したことがある……だと?これ本当なのか?」

 あぁ、やはり。
 なんとなく予想はしていたのだ。加納信忠は何か重大なことを犯していると。

「はい、本当のことだと思います。金の横領や不正販売の証拠は上がっていました。しかし、これはあくまで噂でこんなはっきりと証拠が出ず、なかなか踏み出せなかったのです」

「じゃあこれで証拠は揃ったんだな?」

「はい、これで遠慮なく、加納信忠を捕縛できます」

「決行は明日か?」

「そうですね。早いほうが良いかと」

 蒼弥の目が鋭くなる。和花を苦しめていた張本人。彼を成敗しないと気が済まない。蒼弥は再び椅子に座り直し、引き出しから別の書類を取り出した。

「おいおい、今帰れって言ったばかりだろう?」

「ですが……」

「捕縛に必要な書類とかも小山と手分けしてやっとくよ」

「良いんですか?」

「特別な」 

 冴木が不器用に片目を閉じるものだから、蒼弥は思わず笑みが溢れた。

「おい」

「すみません……つい、ふっ」

「ふんっ、さあ早く行った行った〜」 

「では、よろしくお願いします」

 荷物を持って立ち上がった所に、けたたましい電話の音が鳴り響き、二人の動きが止まった。「なんだなんだ?」と言いながら、そばにいた冴木が出る。

『はい、文官長室、冴木です。え?九条さん?いやまだいますが、帰るところでして……あ、急ぎですね?分かりました。代わります』

 冴木は電話の応答をしながら蒼弥を手招きする。首を傾げながら近付いた。

「電話外線だって、蒼弥のお母さんから」 

「……母から?」 

 ざわり。嫌な予感が背筋を冷たくする。母には和花の迎えをお願いしたはずだ。もしかしたら和花の身に……?
 電話を握る手に力が入る。

『はい、電話代わりま……』

『そ、蒼弥っ!!』 

『母さん?どうしたんですか?』

『あ、あの……そ、それが……』

 珍しい母の動揺に、只事ではないと焦りばかりが募った。

『何があったんです?落ち着いて下さい』

 自身にも言い聞かせるように、なるべく穏やかな声で母を落ち着けると、母はゆっくりと話し出した。

『和花さんが、いないのよ……どこにも』

『え……』

『まだ駅に向かう途中かと思ってあなたの家にも向かったわ。だけど、カナさんしかいなくて……和花さんは少し前に出ましたと……』

 なんてことだ。和花が行方不明だと……

『ごめんなさい、蒼弥』

 電話口から母の涙交じりな声が聞こえる。
 いや、母は何も悪くない。元はと言えば自分が悪いのだ。
 時間通りに和花の元へ行っていれば。もっと早く母に迎えを頼んでいれば。
 もうどう頑張っても時は戻せない。それなのに、浮かんでくるのは後悔ばかり。

『……今すぐに探しにでます。母さんは屋敷で待っていてください』

 簡単に告げると、蒼弥は電話を切った。

「私のせいだっ、私の……」 

 電話の前で呆然と立ち尽くす。そんな蒼弥に喝を入れたのは、冴木だった。

「しっかりしろって」

 力強く蒼弥の両肩を掴み、冴木の方に向かせる。

「冴木さん……」

「十中八九犯人は分かっているんだろう?それならあと助けに行くだけだ」

 犯人の予想は簡単だ。
 きっと、加納家の誰かだろう。婚約破棄の申し入れの手紙と金貨を持って行ってもらったが、返事は曖昧に、金貨だけ持っていかれたのだ。
 和花を取り戻そうとしているのに違いない。
 蒼弥は大きく息を吸って、吐いた。
 心を落ち着かせれば、今自分が何をすべきか見えてくる。

(和花、待っていて下さい……)

 軽く冴木に言伝した蒼弥は、勢いよく文官長室を飛び出した。