彩色の恋模様





 
 和花の彩色の手に異変が起きたのは、加納家に嫁いですぐのことだった。

 父の死と母の病気の発病、それに突然決まった加納家への嫁入りにまだ和花の心が追いついておらず、心身ともに疲弊しきっていた時。
 嫁いできたばかりの時は義父母も義妹も傷心している和花を労ってくれた。
 優しい言葉をかけてくれ、あたたかいご飯を用意してくれた。
 優しい家に嫁げてよかった。和花の心は少し晴れた気がした。
 だが、婚約者の直斗は和花に興味がないらしく、顔を合わせようとしない。

『お前は俺の婚約者だが、お前には少しも興味がない。何をしようが勝手だし、他に好きな男を作ろうがどうだっていい』

 会って初日に、鋭い目つきでこちらを睨みながら言い放たれた言葉はまだ記憶に新しい。

 しかし、それでも良かった。
 婚約者が自分に無関心でも、母を守ることが出来ればそれで良い。
 それに、義父母も義妹も和花に親切にしてくれるから、これから少しずつ距離を縮め、加納家に溶け込めれば良い。

 ――そう思っていた。

 加納家に来て一週間後。和花は義父に呼ばれた。

「和花さん、君に頼みたいことがあるんだ」

「……頼み事ですか?」

「あぁ。こっちに来てくれるかい?」

 にこやかに笑う義父の後に着いて行く。辿り着いた先は、雑然とした作業部屋だった。

「……」

 茶色い木の床には、白や黄色の染料がこびりついている。染料を取り分ける調色板や染料が入った瓶は散らかっており、先が固まった筆が転がっている。
 そして、無地の着物が雑に折り畳まれ、大量に積み上げられていた。
 久しぶりに嗅ぐ、染料の微かな匂いが和花の鼻を掠める。

 父が亡くなって以来、触れてこなかった馴染みのある道具たちを目の前にし、和花は悲しみと寂しさに襲われた。

 目の前のものがぼやけて見える。
 父と共に着物を仕立てた思い出、そんな父を突然失った辛さ、現実。それが和花の頭の中を駆け巡り、気が付けば視界を歪めていた。

「和花さん、あなたには着物の絵付けをしてもらいたいんだ」

「……え?」

 暗くなっている和花の気持ちを知ってか知らずか、義父はなんてことなしにそう告げた。
 そんなこと無理に決まっている。
 こんな心境で絵なんて描けるわけがない。

 だって、絵は自分が幸せな時にしか描いてはいけないと、悲しい時や怒っている時に筆を握ってはいけないと、父と約束したのだから――

 和花は、左手で右手を包むように握りしめた。そして、恐る恐る義父に頭を下げた。

「……申し訳ございません。それは、できません……」

 小さな小さな声だった。聞き取りづらいであろう小声も、この静かな空間にはやけに大きく響く。

「なぜ?」

 聞いたことがないような低い重い声。声色だけで、義父の心情に変化があったのが嫌でも分かった。

「……理由はお答えできません。ですが、絵は描けません」

 色彩の手は他人に知られないようすることが藤崎家の暗黙の約束である。例え、嫁ぎ先であっても容易に明かしてはならない。
 それに気持ちが沈んでいるから絵を描けないと言っても信じてもらえないだろう。 

「は、お前、わしの言うことが聞けないと言うのか?」

「け、決してそういうことでは……」

 義父の逆鱗に触れてしまったらしい。目の前に立つ義父の顔は般若のような形相になっていた。

「お前さえ手に入れば……お前の持つ不思議な力とやらを手に入れれば、この店は安泰になると聞いたから、お前を嫁に迎えたんだ。描けないとは何事だっ?!」

「……!?」

 ぴしゃりと言葉を投げつけられた。義父への恐怖は当然湧いたが、それよりも、なぜこの人が、ほぼ初対面の義父が和花の持つ力のことを知っているのか、という疑問が和花の顔面を蒼白させた。

「な、なぜ私の手のことを……」

「そんなことどうだっていい!できないと言う前に一度描いてみろ!こっちに来い!」

「きゃっ」

 腕を強く引かれ、無理矢理椅子に座らせられる。そして、目の前に紺色の無地の着物を置かれた。

「ここに絵を描いてみろ」

「で、ですが……」

「早くしろ!」

 何も言い返せなくなった和花は、渋々右手の手袋を外した。
 絵を描く時は手袋を外さなくてはいけない。外さないと、彩色の手の力が働かないからだ。 

 色白のほっそりとした女性らしい手。しかし、しなやかな手の先は、濁っていた。
 五色に輝いていた爪はもうどこにもない。鮮やかな真紅だった親指の爪は、赤黒く、毒々しい。他の指の爪も光は失われ、汚い色に染まっていた。
 父が亡くなってから、和花の爪はおかしくなってしまったのだ。
 それを見た義父の目が見開かれる。

「な、なんだその気色の悪い爪は?!」

「……」

 義父の声に応えることなく、和花は恐る恐る筆を握った。
 筆を握る手が震える。それをなんとか静めようと手に力を入れたが、難しかった。

(お父さま、私、お父さまとの約束を守れませんでした……ごめんなさい……)

 心の中でそう、亡き父に謝罪した。
 自分の感情が絵に写ってしまうから、負の感情を抱いている時に絵を描いてはいけない、今までこの約束を破ったことはなかった。

 だがら父が亡くなった後は筆を取らなかったのだ。約束を守るために。
 和花は罪悪感で胸が張り裂けそうになりながら、筆先に白い染料をつけた。そして、紺色の生地に筆先をつけ、手を動かしたその時――

(え?)

 和花の右手は無意識に動いた。まるで、誰かに操られているように、すらすらと手が意識に反して動いていく。
 驚きと戸惑いが隠せない。
 されるがまま、描き終えた絵を見た和花は驚愕した。
 和花が描いたのは、白い花。しかし、なんの花か見当もつかない、まるで幼児が描いたような出来だった。
 花の形を縁取った輪郭は線がガタガタと歪んでいる。さらに白く塗り潰したはずの場所からは、輪郭から染料が飛び出ていた。

(こ、れが、私が描いた絵……?)

 こんな粗末な絵を自分が描いたなどと認めたくない。
 違う。こんな絵は違う。
 和花の顔は青ざめた。

(わ、わたしの感情が悲しみに暮れているから絵が描けないの?私はもう一生描けないの……?)

 自分の右手を見つめながら、ぐるぐると考えた。
 描けない現実が和花に襲いかかる。呆然とする和花が現実に引き戻されたのは、義父の怒号が聞こえたからだった。

「なんだこの拙い絵は!?お前本当に不思議な力を有しているのか!?わしを騙したな!?」

「そ、そんなことは決して……」

「うるさい! 黙れ!」

「きゃっ!」

 あろうことか義父は、和花を椅子から突き落とした。大きな音を立てて椅子が倒れ、和花は床に尻餅をつく。

「そんな汚い手を持つ婚約者などこの家にはいらん!しかも絵も描けぬとは嘘を吐いたな!今すぐ出て行け……と言いたいところだが……」

 義父は何かを考える素振りを見せた。
「しかし、約束だからな……」と意味不明なことを呟いている。
 義父の後ろには黒いモヤのようなものが見えた気がした。真っ黒く、和花を恐怖と不幸の世界へ追い詰めていく。

 やがて、義父はへたりこんでいる和花を一瞥すると、氷のように冷え切った顔で言い放った。

「お前はこのままこの家で使用人、いや使用人以下として働くことだな。怠けることも口答えも一切許さん!分かったな!?」

 この日をきっかけに、義父母も義妹も和花を「嘘つき」と呼び、辛く当たるようになった。
 罵られることは日常茶飯事。機嫌が悪いと手を出されたり、物が飛んでくることもしばしばあった。

(お父さま、ごめんなさい。私、もうこの力を使うことができません……)

 和花は別に嘘などついてはいない。
 きっと、父の死と母の病気を受け入れ、心が落ち着けば、また幸せな絵を描けるはずだった。
 しかし、ここに来てから力の衰退は進み続け、気がつけば和花の爪は光がさすことがない暗闇のような、漆黒色になっていた。