「ありえないっ!!ありえないのよっ!!」

 静かだった部屋に、茶碗が割れる音が響き渡る。

「落ち着きなさい、美夜」

 正面に座る父が嗜めるが、美夜の怒りは収まることを知らなかった。

 ここ最近、加納家には冷たい空気が流れていた。
 直斗の父、信忠は最近常に苛々しており、些細なことで怒鳴り散らす。
 母と妹もどこか機嫌が悪い。
 その原因が、自分の「元」婚約者である藤崎和花のせいであることを直斗は知っていた。

 二週間ほど前、夜遅くに大学から帰ると、家中何やら大騒ぎだった。
 突然、和花の姿が消えたという。
 一応家の隅から隅まで確認したが、どこにもいない。
 加納家の皆がよってたかって虐げてきた対象がいなくなり正直せいせいしたし、これで婚約者のことを考えずに済むかもしれないと思うと気持ちは楽になった。
 直斗的には願ったり叶ったりだ。
 それなのに数日前に届いた知らせによって家の空気はさらに重くなるばかりだった。
 あろうことかあの九条家の使用人を名乗る男が、九条蒼弥直筆の手紙と大量の金貨を持って来訪してきたのだ。
 手紙の内容は、婚約破棄の申し入れだった。

『和花はこちらで引き取ります。したがって婚約破棄をしていただきたい。和花とは金輪際接触しないこと』

 金貨の量を見て母はすぐに承諾した。
 だが、父はなぜか手紙を握りしめ、歯を食いしばっていたのだ。

(そんなにあの娘を手元に置きたいのだろうか。それとも前に言っていた約束とやらが関係している……?)

 疑問が浮かんだが、今となってはどうでも良い。
 それを旅行で家を空けていた美夜に告げたところ、彼女の怒りが沸点に到達したようだった。

「な、ど、どうしてあんな人が九条さまの隣に……ありえない、ありえないわ……」

 美夜は信じられないと言わんばかりに、爪が食い込んで血が滲みそうなほど手を固く握りしめている。
 自分の妹ながら美人な美夜は、狙った獲物は必ず自分のものにしないと気が済まないらしい。
 最近、九条蒼弥が店に出入りしていることも、美貌、財力、地位も完璧なその男を手に入れたいこともなんとなく耳にしていた。
 それなのに、だ。
 よりによって自分より格下だと思っていた和花が九条蒼弥の所へ引き取られたというのだから面白くないのだろう。

「落ち付け、美夜」

 兄らしく美夜の背中を摩るが、彼女の身体は怒りで震えていた。

「どうしてそんな九条さんにこだわるんだい?父さんに頼んで他の良い人を紹介してもらっても――」

「……がう」

「え?」

「違うのよっ!」

 くわっと美夜の開かれた目が直斗を捉えた。

「あの女が……あの女が……わたしより幸せになるなんて許せないのよっ!あんな女、どこぞでのたれ死んでしまえばいいのにっ!」

 女の嫉妬とは恐ろしいものだ。
 たった一週間。和花が加納家に来たばかりのたった一週間、家族から注目されなかっただけでこんなにも怒りの矛先を向けられるのか。直斗にはよく分からなかった。
 ちらりと両親を見ると、父は腕を組み、難しい顔をしている。

「それにあなた、どうしましょう。九条さまから頂いたお金ももう底をつきそうだわ。なんとかしないと……」

「なんだって?」

 父に縋る母の言葉に、直斗は耳を疑った。
 あんなにあった金貨が底をつきそうだと……?
 結構な額だった。きちんと見てはいないが、遠目でわかるほど大量だったことは覚えに新しい。
 どんな使い方をすれば、そんな大金がなくなるのだろうか。

「お父さま!私許せない……!九条さまと親しくなるべきは私なのに……!」

「ちっ、最近は店の経営も何もかもうまくいかん。あの女の呪いか?」

 三者三様。怒りの理由はそれぞれだったが、怒りの矛先は全て和花に向けられていた。

「あの女……覚えていろよ……私はあの人との約束を守らなければならん」

(約束……?父さんの言う約束ってなんのことなんだ?)

 父の小さな呟きは、直斗の耳にだけ届いた。
 父の目がかっぴらく。
 それは獲物を捉えるような鋭い、ぎらぎらとした目つきだった。
 

◇◇◇
 
 
(ありえない……あんな奴が、あんな奴が……)

 信じたくない、けど目の前にあるものは紛れもない証拠だった。
 忽然と義姉が姿を消した。
 今まで蓄積したものが爆発し、嫌気がさして逃げ出したのかもしれないが、そんなことどうだって良い。
 清々したと喜んでいたのも束の間、あの女は、よりによって九条蒼弥の所で暮らしているという。
 それを父から聞き、本当かどうか調査してもらったのだ。
 それで届いた証拠がこの目の前の写真。
 貧相な顔に似合わない煌びやかな淡い水色の着物を身に包み、蒼弥に手を引かれて歩く義姉の姿。
 口元にはほんのり笑みが浮かび、蒼弥もこの店では見せたことのない穏やかな顔をしていた。

 最近、蒼弥がめっきり加納屋に来なくなり、会えていないと思っていたが、義姉と共にいるとは思わなかった。
 腹立たしい。
 憎らしい。
 あんな惨めな女が、あの完璧な方の隣にいて良いはずがないのだ。

(それに、私はずっと周りから注目されてきたのよ。みんなが私を選んできたのに、どうして九条さまだけ……ありえないわ。あの女、身の程をわきまえなさいよ)

 ぐしゃり。写真に皺がよる。
 美夜は勢いよく写真を丸めると、ゴミ箱に投げ入れた。

(どうやって九条さまとは分不相応だということを知らせようかしら。今、加納屋も大変だとお父さまも言っていたわ)

 義姉がいなくなったことで、店も綻びが出てきたらしい。
 今まで加納屋の開店閉店準備や裏方ほとんどを和花がやっていたこともあり、店を回すことができなくなった。
 さらに追い討ちをかけるように、着物の売れが悪いらしい。

(あの女を再びここに戻して、代わりに私が九条さまのところへ行くのはどうかしら。えぇ、それなら全てが丸く収まるはずよ)

「ふっふふふ……」

 卓上に置かれた行灯の光が、美夜の顔を不気味に照らす。
 それは、まるで悪魔にでも取り憑かれたかのような気味の悪い笑顔だった。