季節は流れ、帝都は分厚い雲が広がる時期になっていた。
 長雨が続き、ジメジメとした嫌な空気が肌にまとわりつく。
 どんよりとした天気に活力が全て奪われてしまいそうな中、和花は黙々と机に向かっていた。

 女性らしい淡藤色の巾着袋に、丁寧に色を載せていく。筆を握る手はするする進み、まるで踊るように巾着袋の上を止まらず滑っていった。

「和花、入っても良いですか?」

 襖の外から聞こえた声に、ぴたりと手が止まる。

「はい、どうぞ」

 急いで手袋を嵌めながら答えると、軽装の蒼弥が部屋に入ってきた。

「ずいぶんと集中されていますね」

「すみません……つい」

「謝る必要なんてありません。これは……紫陽花ですか?」

 蒼弥は机の上の巾着袋に視線を移す。
 淡藤色に濃い紫と青色の紫陽花がよく映える。一箇所に重なるように色違いの紫陽花が並べて描かれていた。

「えぇ、お義母さまに贈り物をしたいと思いまして」 
 自分を受け入れてくれた優しい義母に感謝の気持ちを込めて。
 和花も巾着袋に視線を向けながら、数日前のことを思い出していた。

 

 優しい蒼弥とカナと共に暮らし、時折、義母であるかすみに会いに行き、父との思い出の着物に触れるという穏やかな暮らしをしていた和花は、少しずつ父が生きていた時のような明るさを取り戻しつつあった。

 カナの作る健康的で美味しい食事で痩せ細っていた身体も標準になり、顔色も良くなったし、家事を手伝うことはあるが、ほぼカナがやってくれるので、あかぎれだらけだった手も白くてすべすべな手になっていた。
 どんどん美しく、それに明るくなっていく和花をみて、蒼弥をはじめ九条家の人々は皆喜び、和花を見守ってくれていた。
 こんな幸せでいいのだろうか。この幸せは崩れてしまうのでは無いだろうかとふと頭を掠める時もあるが、和花は今目の前にある幸せをしっかりと味わうことにしたのだ。

 数日前の夜、入浴のため右手の手袋を外した和花は、思わず「あ」と声を上げた。
 爪の色が戻っていたのだ。
 きっとあたたかい環境に身を置いているからか、漆黒色に染まっていた爪は、本来の明るさを取り戻していた。美しく輝く爪に、和花の目が潤んだ。

 ――ようやくこれで、描ける。誰かを幸せにできる絵を。
 和花は急いで手袋を嵌めると、蒼弥の元へ駆け出した。

「蒼弥さんっ!」

 自室で読書をしていた蒼弥は、何事かと目を丸くした。

「ど、どうしました?和花?何かありましたか?」

 和花はその場に座り込み、息を整えると意を決して口を開いた。

「あの……お願いがありまして……」

「お願いですか?」

「はい、あの……買い物に行きたいのです……」

 あまりない和花からのお願いに蒼弥は一瞬固まったが、すぐに笑みを浮かべた。そして、和花のすぐ近くに腰を下ろす。

「ふふ、もちろん構いませんよ」

「本当ですか!」

「可愛らしいお願いですね。なんか、もっとこう、困ってしまうお願いでもされるのかと思っていましました」

 至近距離で顔を覗き込まれ、和花の顔がゆでだこのようになる。

(困ってしまうお願いとはどういうこと……?)

 蒼弥は目が回りそうになる和花の反応を楽しんで、くすくす笑っていた。
 からかわれていることに気付いた和花は、両手で頬を抑え、すこしむっとした顔で蒼弥を見た。そんな和花の頭を蒼弥は優しく撫でる。

「ふふ、すみません。つい可愛くて。買い物行きましょう、明日にでも。何を買いたいのですか?」

「……筆と、染料が欲しいのです」

「筆と染料?」

「絵を描きたくて……」

「絵を描くことが好きなのですか?」

「はい。好きでしたが、あの家に行ってからは描けていませんでした。久々に描いてみようと思いまして……」

 いずれ、蒼弥にもこの手のことを伝えなくてはならないだろう。
 いや、もしかしたら何かは勘づいているのかもしれないが、彼の優しさで黙っているだけかもしれない。
 日常で決して取ることのない右手の手袋。それを不思議に思わない訳がないのだ。

 だが、今はまだ伏せさせて欲しい。蒼弥に限ってないとは思うが、この手を利用しようとしたり、気味悪がられたりしたらたまったものじゃないから。

「好きなことをやるのは良いことです。早速明日買いに出かけましょう」

「ありがとうございますっ」

 こうして、和花は再び絵を描く機会を手に入れたのだ。


「それにしても、本当に和花は絵が上手ですね。まるで本物の紫陽花のようです」

「そんなこと……」

 蒼弥に褒められ、和花の頬は色付いた。嬉しいが照れ臭い、そんな気持ちが湧き立った。

「なぜ母への贈り物に紫陽花を?今の時期だからですか?」

 ちょうど庭先には雨に濡れた紫陽花が大きく花を咲かせている。時期的にもぴったりだが、理由は違う。

「お義母さまが好きな花だと教えて下さいました」

「母の好きな花?」

「はい。紫陽花の花は、多くの花びらが集まって一つの花のように咲くから、紫陽花柄には、家族団欒という意味がある、と教えて頂きました。だからお好きだと。家族を大切にされているお義母さまらしい理由ですよね」

「確かにそうですね」

 顔を見合わせて笑い合う。

「和花、好きなことをどんどんして下さいね。あなたの絵はとても素敵です」

「ありがとうございます、蒼弥さん」

 左手で右手をぎゅっと包み込む。
 人に見られてはいけないこの手。
 でも、いつか蒼弥には本当のことを言いたい。
 きっと彼ならば、この穏やかな笑顔で私の全てを受け入れてくれるはずだから。