「ここの部屋よ」
茶色の洒落た扉の前に来ると、かすみは和花の手を離し、振り返った。
「ここは?」
「開けてみたらきっと分かるわ」
かすみはお茶目に片目を閉じる。和花は再び緊張に包まれた。微かに震える手を取っ手に置くと、深く息を吐く。
かすみと蒼弥は何も言わず和花の背中を見守っていた。
ゆっくりと扉を開けた和花は、目の前の光景に目を瞠った。
「……え?」
どくんどくんと心臓が激しく打ち付け、呼吸するのを忘れてしまうほどに、見入ってしまう。
懐かしい彩りに足を一歩進めることもできなかった。
広い洋風の部屋の右側には、ずらりと衣桁が並べられ、一つ一つに華やかな着物が掛けられていた。赤系や緑系など色ごとに分類され、並べられた様はまるで虹のように色彩豊かで美しい。
そして、反対側の壁に沿って配置されたのは硝子張りの棚。そこには、簪や巾着などの小物が整然と並んでいた。
その中にはかつて和花が目にしたことがある着物や小物がいくつもある。
きっとこれらは――藤崎屋で売られていたものに違いない、そう心が騒いだ。
扉の前から動けないでいる和花に、かすみは背後から声を掛けた。
「驚いた?和花さん。ここ、とても美しい部屋でしょう?」
様々な思いが溢れて、上手く言葉が出てこない。和花はぎこちなく振り返り、かすみを注視した。
「私は昔から、あなたのお父さまのお店、藤崎屋さんが大好きだったの。繊細な色使いと美しい模様。不思議と眺めているだけで幸せな気持ちになったわ」
どこか懐かしそうにかすみは話す。和花は微動だにせず話を聞いた。
「だから、普段から着るお着物から結婚式の物まで全て藤崎屋さんでお世話になっていたわ」
「……」
「でも、いつの間にか突然無くなってしまって、とても残念だったの。理由も分からずだったからしばらく落ち込んだわ。それにあなたのことを探していた。だから、蒼弥からあなたのことを聞いてぜひ会いたい……いいえ、会わなくていけないと思ったの」
「……私に、ですか?」
「えぇ、そうよ」
分かりやすく小首を傾げる和花に、かすみは笑いかけ、部屋の中に入って行った。
「これに見覚えはないかしら?」
部屋の隅の机に置かれていた長細い箱の元へ辿り着くと、その箱を優しく、愛おしそうに撫でた。
「……それは?」
「こちらにいらっしゃい」
引き寄せられるようにかすみの所へ進む。和花が隣に来たことを確認したかすみは、ゆっくりと箱の蓋を開けた。
「……これ」
箱の中を覗いた和花は、言葉を詰まらせた。雷に打たれたかのような衝撃が走る。
「ふふ、見覚えあるかしら?これはね、私が藤崎屋さんで最後にもらったお着物なの」
「もらった……?」
買うではなく、もらった。
かすみの言葉に和花は違和感を覚えた。だが、それよりも着物に視線はすぐ戻る。
ぼんやりと所々白味がかった淡い水色の生地に、鮮やかなはっきりとした色合いの赤や桃色、橙色の梅の花が描かれた着物。生地と梅の色合いはまるで、冬の終わりを表しているよう。
寒さの厳しい冬の中で、懸命に明るく色付き、春を呼ぼうとしている梅の花は、とても凛々しく美しい。
和花はこの着物に覚えがあった。だってこの着物は――父が亡くなる前、最後に描いていた着物だったから。
『梅の花とっても素敵ね、お父さま。でも描くの大変そう。私も手伝う?』
同じ赤と言っても若干色味が違う赤。それを使い分け、細かく描く父にそう声をかけたことは記憶にある。だが、父に断られたのだ。
『ありがとう、和花。だけどこれは私が最後までやりたいんだ。……大切な人への最後の贈り物だからね』
その時は深く考えていなかったが、今思えば父は何かを感じていたのかもしれない。
あえて『最後』と告げた父に聞き返すことはしなかったが、自分に何かが起きてしまうかもしれない、ということをもしかしたら父は察していたのだろうか。
そして、父の大切な人とは、かすみだったのか。
なぜ、どうしてが、ぐるぐると頭の中を駆け回る。
「ふふふ、大丈夫。心配しないで。あなたのお父さまとは何もないわ」
かすみはくすくすと笑う。特に何かを言ったわけではないが、おそらく顔に出ていたのだろう。
「これ、読んでごらん」
「これは……?」
着物の箱に入っていた綺麗に折り畳まれた紙を渡される。かすみの顔を見ると、力強く頷かれたので受け取り、中を開く。
「……お父さまの字」
そこには懐かしい文字が並んでいた。
手が小刻みに震え、紙の音が微かになる。自分を叱咤しながら和花は手紙を読み始めた。
――和花へ
これを読んでいるということは、もしかしたら私はお前のそばにいてやれないのかもしれない。
ここ最近、我々の力を狙い裏で不審に動く影がちらついている。
お前に危害がないように手は尽くすが、もし接触してこようとしたら逃げなさい。
お前の絵は人々を幸せにできる。
そしてお前の力はお前のものだ。誰かに良いように使われる物でも悪用される物でもない。自分のために、自分が愛するもののために惜しみなく使うんだよ。幸せは自分で見つけ、動いた人に来るのだから。
私は和花と母さんを守るためならなんだって出来る。たとえそれが自分の命を引き換えにしたとしても……
最後に
和花愛している。父さんと母さんの宝物。どんなに厳しい寒さの冬もきっと終わりはくる。生きていく中で、その時がどんなに辛くて、どんなに悲しくても梅の花のように強く美しく凛としているんだ。そうすればいつか、きっとあたたかい春がやってくるのだから。
お前の人生はお前のものだ。幸せになってな。
父より――
「……っ、おとうっさま……」
和花の目から雫が流れ落ち、紙を濡らした。
