和花は一人、庭に出ていた。
さっきまでの強い雨で焚き火は完全に消え、もう煙も立っていなかった。
雨上がりの空気は、まだ冷たく湿っており、焦げた木の匂いと、土の匂いが混ざり合い鼻に届く。
(どうして、こんなことに)
焼け落ちた残骸をの目の前に、湿った地面で着物が濡れることもお構いなしに膝から崩れ落ちた。
日が傾き始め、空が暗くなり始める。それはまるで今の和花の心の中のように暗い。
きっと蒼弥から貰ったであろう物たちは、無惨に形を変えていて、何が何だかもう分からない。
(もう……私には何もない……)
さっきまで散々泣いたのに、まだ涙が枯れていないことに自分でも驚いたが、もうどうすることもできなかった。
涙は止まることを知らない。
「……っう、っ……」
涙が落ちては地面に模様を描いていく。
再び出会えた両親との思い出の物も、蒼弥からの優しさも全てを一気に失った。
胸がとてつもなく苦しく、何も考えられない。和花は、暗い暗い奈落の底に突き落とされた気分だった。
もう這い上がる元気も気力もない。
それに、蒼弥に合わせる顔がない。
せっかく和花のために持ってきてくれた物をこんな姿にさせてしまったのだから。
「ごめんなさい、九条さま……」
なぜ見つかってしまったのだろう。どうしてもっと厳重に保管しておかなかったのだろうと後悔が込み上げるが、今更もう後の祭りだ。
このようなことを起こしてしまったのも、自分の管理不足だ。次会った時になんて謝罪しよう、いや、そもそもこんな自分が蒼弥に会う資格はないのかもしれない。
そう考えると、さらに涙が込み上げてきた。必死に目を擦り、涙を止めようとした和花は、右手の違和感を覚えた。
「あ……」
手袋を外すと、最近淡く色が戻りつつあった五色の爪が、再び漆黒の色に染まっていたのだ。
きっと、今回の焚き火での一件で絶望を味わってしまったから、色が戻ってしまったのだろう。
「……せ、せっかく、戻ったと思ったのに……」
蒼弥と会って爪の色が輝きを取り戻していたというのに、また闇に引っ張られてしまった。
その事実がとても悲しく、和花の心をさらにどん底に突き落とす。
真っ黒い塊にそっと触れる。塊は少し触るだけでほろほろと崩れ、形を無くしていった。
それはまるで、ついこの間掴んだ幸せが、音を立てて崩れていくようだった。
和花の精神は限界だ。
それでも虚な目で、焼け跡を片付けていく。
「あれは……」
焼け跡を片付けていた和花は、小さな光る物を見つけた。手が黒くなろうとも汚れようとも気にせずに、夢中で掘り出す。
出てきたのは、少し焦げてしまっているが、まだ彩りが残っている七枚の黄色い花びらの大きな花。
それは、蒼弥からもらった簪についていた花だった。
それをそっと掬い上げ、手の中に閉じ込める。じんわりと温かさを放っている気がした。
申し訳ないことをしたとは思っている。しかし、どうしても頭に浮かぶのは、蒼弥の優しい笑顔だった。
蒼弥という存在にどれだけ救われていたのだろう。彼に会いたい、彼の優しさに触れたい。気付けば、彼の名を口にしていた。
「もう、いや……もう、何も失いたくないわ……九条さま助けて――」
刹那、和花の身体は背後から大きなぬくもりに包まれた。
安心する匂いと優しい声色で、振り返らなくてもそれが誰なのかすぐに分かった。
「和花、すみません。遅くなりました」
「……九条さま……」
来てくれた嬉しさと安堵で、和花の身体から力が抜け、大きな涙の粒が流れる。
「良かった、和花が無事で。本当に良かった」
腕の中の和花の存在を確かめるように、きつく抱きしめられる。力が強まれば強くなるほど、和花は安心感に包まれていった。
本当に来てくれた。
自分なんかのために。奈落の底に突き落とされていた和花の元に、眩い光が差し込み、一気に地上に導かれる。
「九条さま……きてくださったのですか?私なんかのために……」
蒼弥はゆっくりと抱きしめていた腕を解くと、和花の顔が見えるように正面に回って跪いた。そして正面から抱き寄せる。
「私はあなただから迎えに来たのですよ和花。愛おしい人が苦しい思いをしているのなら全力で助けに行きますし、守ります。遅くなってしまってすみませんでした」
「そんなことありません……!ありがとうございます。九条さま……」
蒼弥の声が和花の緊張していた心身をほぐしていく。和花は、手の中に握られた物のことを思い出し、おずおずと話し出した。
「あ、あの九条さま……!」
和花の声に、蒼弥は少し抱きしめる力を緩めた。和花はゆっくりと上体を起こし、蒼弥を見つめる。
「……九条さま、申し訳ありません。せっかくいただいた物が全部無くなってしまいました……残っているのはこれだけなのです」
そっと右手を開き、蒼弥の顔の前に持っていく。申し訳なさが勝ち、蒼弥の顔を見ることができなかった。
蒼弥は和花と手の中の花を交互に見ると、和花の小さな手に自分の手を重ね合わせた。
「九条さま……?」
そこでようやく和花は、蒼弥の顔をちゃんと見た。穏やかに笑ってはいるが、蒼弥の顔はとても泣きそうだった。和花を安心させようと、笑みを作っていることが分かる。
「あなたが無事なら、それでいいのです。あなたが無事なら私はそれだけで良い」
頬をそっと撫でられ、和花は蒼弥から目が離せなくなった。触れられた手と頬から熱が帯びていく。熱はそこから全身に広がり、和花は動けなくなっていた。
「行きましょう、和花。もうあなたをここには置いておけません。私と一緒に来てください」
「あの……お義父さまたちは……?」
「和花はもう何も気にしないで大丈夫です。あとは私に任せてください」
「……九条さま、私をここから連れ出してください……」
すっ、と自分の気持ちが口から出る。その言葉聞いた蒼弥は、一瞬目を見開くが、優しく微笑み大きく頷いた。
とても不思議。義父母や婚約者には自分の思いなど言い出すこともできないのに、蒼弥の前だと本心をすらすらと述べられるのだから。
「今から和花は私のものですね」
ふふ、と笑った蒼弥は和花の手を引いて立ち上がらせる。なんとか立ち上がった和花だったが、身体が重く足が動かなかった。今日一日でだいぶ体力を使ってしまったのだろう。
和花の些細な変化に気付いた蒼弥は、「捕まっててくださいね」と囁くと、和花を軽々と抱き上げた。
「く、九条さま……?!」
状況が読み込めず驚く和花に、爽やかな笑みを向けながら軽々と運ぶ。
「わ、私歩けます!お着物も汚れていますし……!」
「大丈夫です。静かにしなくては見つかってしまいますよ」
そう意地の悪い笑顔で言われ、和花は慌てて自分の口を塞いだ。
静かになった和花を見て、蒼弥は満足そうにする。
「和花」
「はい……?」
「これからは私があなたのそばにいます。そしてあなたを幸せにしますからそのつもりでいてください」
「九条さま……」
二人で顔を見合わせて笑う。さっきまで濡れていた和花の目元と頬はいつの間にか乾ききっていた。
失った物の傷は全て消えたわけではない。気を抜けばまた涙が出てしまいそうで、思わず蒼弥の服をぎゅっと掴んだ。
だが、この温かい人がそばにいてくれる限り、なんとか自分を保てそうだと思える。
(ありがとうございます、九条さま)
加納家から立ち去る二人の頭上には雲が途切れ、星空が顔を覗かせていた。
こうして和花は、蒼弥のおかげで苦しんでいた場所から解放されたのだった。
