義母から投げつけられた着物を洗い直し、庭先に丁寧に干し終えた和花は、息つく間もなく、加納宅に隣接している呉服屋「加納屋」へ向かった。
帝都の一角にある老舗呉服店「加納屋」
和花の義父である加納信忠が店主を務めるこの店は、先祖代々、名家から贔屓にされている帝都で名の知れた呉服屋である。
和花は誰もいない店内につくと、早速一人開店の準備に取り掛かった。
二十畳ほどの広い座敷を持つ店内と玄関前を掃き掃除し、今日引き渡す予定の着物の最終確認を行う。
それから、壁に沿ってずらりと並べられている衣桁に掛かった美しい着物や反物を整え、見栄えを良く掲示しなおした。
季節はあたたかい春。
店内には春の庭を想像させるような桃色や若葉色、空色の振袖や色留袖が飾られており、店内を華やかにする。
入学式や新学期、新生活の為に新しい着物を新調する客が増えるこの時期は、取り扱う着物の量も多く、管理もなかなか大変だ。
決して一人でやる業務量ではないが、毎日やっているからもう慣れた。それに、今更誰かが手を貸してくれるだなんて期待もしていない。和花は黙々と作業を進めた。
(これでおしまい)
全ての作業を終え、顔を上げると立てかけられている鏡に自分の姿が映った。
川底の泥のような茶みがかった黒色の着物に身を包んだ無表情な自分が。
あかぎれだらけの手に、こけた頬。
使い込んでいる涅色の着物は、所々汚れやほつれが見られる。使用人でもこんなに粗末なものを着ている人はいない。
そんな着物に身を包む自分の後ろには、眩しいくらいに華やかな振袖が並んでいた。
(ひどい格好ね……)
まるで彩豊かな花畑に、薄汚い虫が迷い込んでいるよう。
店内が華やかだからこそ、自分の貧相さが余計に目立った。
(私には分不相応な場所ね)
店は違えど、二年前までは自分も華やかな着物を身にまとって呉服屋の店員として幸せな日々を、送っていたのだ。それに比べて今の格好は、なんて貧しいのだろう。
鏡の中の自分を見つめていると、店の裏口の戸が乱暴に開け放たれた音が聞こえた。
「おい、そこで何をしている」
驚くほど低い声に、ぱっと後ろを振り返り頭を下げる。
「何をしていると聞いているんだ」
姿を現したのは、灰色の着物に黒色の羽織を羽織った義父だった。
「申し訳ありません」
謝罪を口にする和花を一目すると、義父は鼻を鳴らした。
「口を開けば謝罪ばかり。その程度の謝罪で許されると思うな」
「……申し訳ありません」
「ちっ、本当に嫌な女だ。さあ、今から店を開ける。見るに耐えない格好をしているお前は裏に引っ込んでいろ」
「承知しました」
なるべく義父の視界に入らないように、和花は身を縮めながらその場を離れようとした。
「あぁ、そうだ。お前に仕事をくれてやろう」
その一言で和花の動きが止まる。
「着物の絵付けができないお前でもできる仕事だ。感謝しろよ? 本来であればお前はこの家には不要な人間。だが、住まわせてやっているんだからありがたく働け」
「かしこまりました。何をすればよろしいでしょうか?」
刺々しい義父の言葉にも、和花は動揺することもなく淡々と答える。
「針仕事だ。着物のほつれを治すぐらい出来るだろう? 分かったならさっさとやってこい」
吐き捨てるように言われた和花は、一礼するとその場を後にした。
店内から裏口へ続く戸を開けると、その左手にはさらに別の戸がある。和花は引き寄せられるようにその部屋へ入った。
そこは、作業部屋である。
着物を仕立てたり、直したりする着物専用の部屋。
いくつもの衣桁には反物が掛かり、棚には様々な大きさの筆や多彩な染料の瓶が整頓されている。
部屋の端には大きな机と椅子が置いてあり、机上には描きかけの藤色の着物が置かれたままだった。その隣、小さな机の方には、今から和花が直すであろう着物が乱雑に山のようになっている。
やっと一人の空間になり、張り詰めていた糸がぷつりと切れた和花は大きく息を吐いた。
朝から働き詰めで身体も疲れ切っているが、今日は珍しく朝から義父母と義妹、それから婚約者の四人と会ってしまったためか、心労が大きい。
普段は人の目に触れないように、なるべく隠れて過ごしているつもりだが、今朝はよりによって四人全員と出会したのだから、運が悪かった。
もう会わないことを願うばかりだ。
早速お直しに取り掛かろうと、棚から木製の針箱を取り出す。
ずっしりとした重みを腕で感じながら扉を閉めようとした途端、着物の袖が引っ掛かり、針箱の隣に並んでいた筆立てが音を立てて落ちていった。
大きな音が静かな部屋に響き渡る。
「あ……」
四方に散らばった筆。針箱を机に置いた和花は、筆を拾い集めた。
小筆や大筆、ハケのような形のものまで様々な筆たち。
久しぶりに筆を手にすると、胸が締め付けられた。
そしていろんな記憶が蘇る。
この家に来てからの辛く悲しいことはもちろん、幸せだった昔のことも――
右手には幼いころから肌身離さず付けていたレースの手袋が嵌められている。しかし、日々の生活で純白だった色は薄汚れ、灰色や黒くなっている。まだ使えているだけ良いだろう。
この手袋は汚れても洗い直し、破れても縫って使っている。それだけ大切なものだった。
だってこれは両親からもらった数少ない物だから。ここに持ってきた煌びやかな着物や小物は全て義母に取り上げられてしまった。今、和花が両親との繋がりを感じられる物は、もうこれしかないのだ。
その現実に心が痛む。
加納家との婚約により、和花は全て奪われてしまった。
幸せだった過去の思い出も、思い描いていた幸せな未来も、そして藤崎家の者が代々受け継いできた「彩色の手」の力も――
