由紀は帝都の街を早歩きで進んでいた。
崩れ落ちる和花をなんとか部屋まで送ると、どうしても外せない用事が出来たと使用人の仕事を他の人に任せ、着のみ着のまま屋敷を出たのだった。
(もうこれ以上、和花さんが苦しむ姿を見たくない……)
加納屋を出た時は曇っていた空から、雨粒が落ちてくる。雨はだんだんと強くなった。
足元がぬかるみ転びそうになるし、着物の裾が泥や水で汚れる。
それでも由紀は気にせず歩き続けた。
(こんな雨くらい、和花さんの心の傷に比べればなんてことはないわ)
先刻見た和花の絶望的な顔が脳裏に浮かぶ。
今まで加納家の人々からどんなにきつくあたられようが、無視されようが何食わぬ顔で耐えていた。和花のことを助けたいのに目をつけられる恐怖から主人の前では素っ気ないふりをしていた臆病な自分に対しても少しも嫌味を言わずに気遣ってくれた。
そんな和花の暗く悲しい表情は見るに堪えられなかった。
(加納家と和花さん、どちらかを選べと言われたら私は職を失ってでも和花さんを選ぶわ……だから……!)
加納家に未練はない。
田舎の家族を養う為に割りの良い使用人の仕事を選んだまでだ。仕事なら探せば他にもあるだろう。
それよりも今、自分が優先させたいのは和花だった。
「っはぁ……っはぁ……すみません……九条さまは……いらっしゃいますか……?」
大きな門の前にたどり着いた由紀は、息も絶え絶えに目の前の男二人に声を掛けた。
ずぶ濡れで、息が切れている女を目の前にして、門の前で立っていた男たちはぎょっとした。
「すみませんがどちら様でしょうか?」
「こちらは約束がなければ立ち入ることはできかねます」
「そこをなんとか……お願い致します……」
「そうは言われましても難しいですね」
「そっそんな……」
「お引き取りを」
唯一頼れる蒼弥に、和花を救う協力を頼もうと宮廷まで一目散に来た由紀は、男たちの厳しい言葉に肩を落とした。
ざあざあと強い雨の音のみが由紀の耳に聞こえる。
立ち去らない由紀に怪訝な顔を向ける門番の男たち。
「……もう九条さまにしかお願いできないのです。お願い致します。お話だけでも……」
「お引き取りください」
「そこをなんとか……」
帝都の中枢を担い、最も高貴な方が住まう宮廷に簡単に入るなんて難しい。自分が無理なことを言っているのは百も承知。
だが、由紀も必死だった。なんとかして蒼弥に会って話をしたい、和花を救う為に力を借りたいと頭はそれでいっぱいだった。
「和花さんを……和花さんを助けたいだけなんです……どうか、どうか……」
「何かございましたか?」
深々と頭を下げていた由紀は、別の方向から聞こえた声に緩やかに身体を起こした。
紺色の傘を差し、黒色のスーツを着た男がこちらを見ている。
「小山さん、この方がどうしても文官長にお会いしたいと申しておりまして」
門番からの説明に小山は小首を傾げる。
「九条さんに今日来客の予定などなかったはずですが……」
「えぇ、私たちもそのようなご予定は聞いておりません。やはりお引き取りを……」
門番と小山の会話を聞いていた由紀は、瞬時に小山が蒼弥に近しい人間だと気づくと、小山に向き直った。
「突然申し訳ありません。不躾なのは承知しております。しかし、和花さんを助けられるのは九条さましかいないのです……!お願い致します、お話だけでも……」
「……和花?」
和花の名を聞いた途端、小山は、「あ……」と声を漏らした。
「和花さんとは、もしかして藤崎和花さんのことでしょうか?」
「そ、そうです!私は加納家の使用人の由紀と申します」
「なるほど。藤崎和花さんのことは九条さんから話を伺っていました。それよりも何かございましたか?こんなに濡れてしまって……」
小山の言葉に自分の身なりに目をやる。今更だが、自分の酷い姿に穴があったら入りたい気持ちになった。
「九条さまにお願いしたいことがありまして……」
「九条さんにですか?どのようなことを?」
「和花さんを助ける為にお力を貸して欲しいのです……!」
真っ直ぐに小山の目を見る。
ここで追い返されてしまっては、和花を救う手立てがなくなってしまうから、なんとしてでも協力して貰わなくては。
そんな気持ちを込めながら必死に頼み込む。
はっきりものを言う由紀に小山は目を大きく開いた。
「そうは言われましても難しいものは難しい……」
「分かりました。九条さんの所へご案内します」
「こ、小山さん?!」
決まりは決まりだと言い立てる門番に被せるように小山は承諾した。
「良いのですか……?勝手に素性の知れない人を入れてはいけないのでは……」
「全く知らない方ではありません。もし何かありましたら、私が全責任を負いましょう」
「そ,それならば……」
きっぱり言い放つ小山に根負けした門番たちは渋々門を開いた。
「さぁ、九条さんの所へ急ぎましょう」
「はい。ありがとうございます」
なんとも言えない顔をしている門番たちに軽く頭を下げると由紀は小山の後に続いた。
道を進む度にすれ違う人々の視線を感じる。小山がずぶ濡れの女を引き連れて歩いているのだから皆が訝しげな顔をしていた。それに気付いているのか気付いていないのか分からないが、小山はどんどん奥に進んで行く。歩くのが早い小山に置いていかれないよう由紀は必死に追いかけた。
「こちらに九条さんがいます」
そう言いながら小山が戸を叩くと中から返事が聞こえた。
「失礼致します。小山です」
「どうぞ」
「失礼致します」
急に緊張が走る。小山に促されて部屋に入ると、机に向かう蒼弥と目が合った。突然現れた由紀に蒼弥は目をぱちくりさせている。
「あなたは、加納家の……それにどうされたのです?その格好……」
ガタンと音を立て立ち上がると由紀に駆け寄った。
「突然申し訳ございません。あの……お願いがございまして……」
「お願い……?なんでしょう?」
由紀は首を傾げる蒼弥をまっすぐ見据え、大きく息を吸い込むと平身低頭した。
「和花さんを助けて頂きたいのです」
蒼弥からの返事がない。物音一つない空間に不安が増して頭を上げられない。急な訪問がいけなかったのか、そもそも頼るべきではなかったのかと気が気ではなかった。
「お顔を上げてください。何があったのか教えて頂けますか?」
いつもより少々冷たい声が上から降ってくる。やはり怒らせてしまったと観念し、そっと前を向いた。
目の前の蒼弥は険しい顔をしている。
普段穏やかな分、何倍にも怖く感じた。それでもありのままを伝えなくてはと怖気付き目を逸らしながら、起きたことを詳しく話した。話を進める度に蒼弥の表情は強張っていく。
「――ということがありました」
ちらと蒼弥を見ると唇を噛み締め、悔しそうな怒りのこもった表情をしていた。蒼弥の迫力に思わず謝罪を口にする。
「も、申し訳ございません……お忙しいのに……」
「……許せない」
「え?」
そこにいる蒼弥は別人のようだった。丁寧な言葉も和やかな雰囲気も皆無。その代わりように由紀は息をのんだ。
「彼女を苦しめている加納家の人々も許せませんが、彼女が辛い時に近くにいなかった自分自身も許せない。もっと早く動くべきだった……」
全てを聞いた蒼弥は相当お怒りのようだ。だが、その怒りの矛先が自分に向いてないことを知り胸を撫で下ろした由紀は背筋を伸ばし遠慮なく渇望した。
「お願いします。どうにか和花さんを助けて頂けないでしょうか?……彼女の辛そうなお姿を見るのは私も辛いです」
この方なら和花を救ってくれるに違いない。
そう確信した由紀は再度頭を下げた。
