加納家の屋敷の裏門が見えた時、門の前に見知った顔の使用人が一人立っていた。一瞬、門前の掃除でもしているのかと思ったが、よく見ると焦った表情で辺りを見回している。

「何かあったのでしょうか?」

 異変にいち早く気付いた由紀が、駆け出す。和花もその後に続いた。

「ただいま戻りました。あの、何かありましたか?」

 由紀が問いかけているにも関わらず、使用人の視線は和花に向いていた。

「あぁ!和花さん!大変です……!」

「大変?」

 使用人は顔を青ざめさせながら、和花の肩を掴み揺さぶった。状況が読めず、和花も由紀もただただ困惑する。

「あ、あの、落ち着いてください。何があったのでしょうか?」

 揺らされ続ける和花を気の毒に思った由紀は使用人を落ち着かせ、理由を尋ねる。
 しかし、いくら落ち着かせようとも、相手は気が遠くなっており、いつまでも話が見えてこなかった。

「あ、あの……和花さんの……火が……」

「火?」

 顔を見合わせた和花と由紀は屋敷の中に駆け込んだ。
 火と言われたが、屋敷の中が燃えている様子は一切ない。
 ただ、いつもより静寂に包まれていた。普段からすごく賑やかな所ではないが、他の使用人の掃除をする物音や話し声も一切なく静まり返っていた。

 和花は怖々先へ進む。
 廊下の突き当たりを曲がり、縁側へと続く廊下へ出ようとすると、軽い人だかりができていた。
 使用人たちが集まり、なにやら庭先をのぞいている。その表情はみな強張っていた。中には泣きそうになっている人もいる。

「これは一体……?」

 和花のやや後ろを歩いていた由紀が呟くと、一斉に使用人が振り向いた。
 そして皆、和花を見ると顔を引き攣らせる。

(なんで、私を見てそんな顔をするの……?)

 その表情に、嫌な予感が騒ぎだす。
 ただならぬ空気感に、足を一歩前に進めることさえ億劫になる。
 怖いこと、悲しいことにはなるべくもう触れたくない。最近せっかく閉ざしていた心がほぐれ、爪の色も戻ってきたというのに。
 右手にぎゅっと力が入る。
 今すぐ踵を返し、立ち去りたかったが、周囲の視線がそれを許さない。
 前に進めと訴えられ、無言で道を開けられた。
 怖い。けど、進むしかない。
 和花は震える足を叱咤し、恐る恐る前に進んだ。そして、縁側の端から庭先を覗き込む。

「……?」 

 そこから見えた光景。それは庭先で義母と美夜が仲睦まじく、焚き火をしている様子だった。
 ぱちぱちと音を立てて火が燃え上がる。火は大きく、赤い炎が風にあたってゆらめいて思わず見入ってしまった。

(季節外れの焚き火……?かしら?でも、なぜ皆さんあの表情を……?)

 親子が焚き火を楽しんでいるように見えた。特に違和感はない。
 しかし、義母と美夜は笑みを浮かべているが、その空気感は目の前に火があるというのに、凍りそうなくらい冷たかった。

「本当に、こんなものどうしたのかしら?」 

「あの女が持っていたと思うと虫唾が走るわ、お母さま」

「本当よねぇ。あの子が戻る前に全て片付けてしまわないとね」

(何を話しているの?聞こえない)

 二人の口元が動いていることは分かるが、内容が分からない。

「これも勿体無いけど燃やしてしまいましょう、お母さま」 

「ふふ、そうね。あの子にこんな高価なものは似合わないわ」

 美夜は手を大きく振りかぶる。
 その手の中の、光り輝く物を見た和花は目を見開き、気付けば大きな声を出していた。

「駄目っ!!!」

 隠れていたことも忘れ、和花は足袋のまま庭に飛び出す。そして、美夜の元に駆け寄り、手の中の物を取り返そうと手を伸ばした。

「お願いします、返して下さい!」

 突然現れた和花に驚きつつも、手の中のものは離さない。

「やめて!汚い手で私に触らないでちょうだい!」

「返してください!」

「いつの間に戻ってきていたの。もっと買い物に時間がかかると思っていたのに!」

 義母と美夜の話など耳に全く入らない。和花には、美夜の手にある黄色い簪だけしか見えなかった。

(駄目っ!これは九条さまから頂いた、大切な簪なのに……)

 和花は必死に手を伸ばし、美夜から取り返そうとする。

「やめてって言っているでしょうっ!」

 しかし、思い切り突き飛ばされ、細身の和花はその場に尻餅をついた。
 頭の上から二人の冷たく鋭い視線が突き刺さり、身も心も切り裂けてしまいそうだった。
 いつもならここで深々とこうべを垂れ、言い返すことなんてしない。しかし、蒼弥からもらった幸福の源を失いたくなかった和花は、懸命に手を伸ばした。

「お願いします……返して下さい……」

「はっ、私に言い返すつもり?ふざけるんじゃないわよ」

 真っ直ぐに美夜を見据えて頼むが、鼻で笑われてしまう。

「大体、こんな高価な物どこで手に入れたの?それに、こんな美しいものはお義姉さまに似合うはずがないわ。だから処分してあげる。優しさだと思ってね、あなたに分不相応だからそれを分からせてあげるわ」

「身の丈に合った物を持たないと駄目なのよ、和花さん」

 意地の悪い二人の言葉が雨のように降り注ぐ。
 そんなの、和花だって分かっている。身の丈に合ってない物だと理解している。
 だが、これをくれた蒼弥は似合うと、私に相応しいと言ってくれた。
 彼の言葉を、信じている人の言葉を信じたい。だから、この二人の言葉を浴びても痛くも痒くもなかった。

「……分不相応だと知っております。ですが、返して下さい。これは私の……大切な物なのです」

 和花が告げた途端、美夜は下品に声を上げて笑い出した。不気味な笑いに和花の動きが止まる。

「そう、大切な物なのね……だったら余計にこんな物無くしてやるわ!!」

 そう言い放った途端、美夜は火の中に簪を投げ込んだ。
 あまりの速さに和花は見ていることしかできなかった。黄色の花の簪は炎に包まれ、たちまち色を失っていく。

「い、いや……!」 

 和花は力が抜けた身体を引きずって焚き火に近づき、息が止まった。

「……っ!」 

 焚き火の前に来て気ががついたが、火の中にあるのは簪だけではなかったのだ。
 蒼弥からもらった櫛やらハンカチーフやら扇子が焼け焦げ、酷い姿となっていた。

「そ、そんな……酷い……」

 和花はその場に崩れ落ちた。取り戻そうと手を伸ばすも、熱くて近づけない。
 自然と大粒の涙が溢れていた。
 蒼弥に対する申し訳なさや自分の不甲斐なさ、義母や美夜への怒り。全ての感情が入り混じり、涙となって溢れてくる。 

「そんなに大切な物だったのね。でもあなたには似合わないから燃やされて当然よ?むしろ感謝して欲しいわ」

「和花さん、あとはここの庭の片付けをしておきなさいね」

 和花の大切なものを燃やして清々したのか、義母と美夜は清々しい笑顔でこの場を後にした。

「……っ、」

 涙が止まらない。口元を手で覆い泣くのを堪えようとしたが、どうしても漏れ出てしまう。

「和花さんっ!」

 動けないでいる和花の元に、由紀が桶を抱えてきた。桶の中の水を火にかけ消火する。
 火はすぐに消し止められたが、蒼弥からもらった物たちは、美しい色彩を失い黒く焦げていた。かろうじてなんだったか形が分かるものの、あの美しさは跡形もない。

「どうして……こんな、酷いです」

 由紀も涙を流しながら和花の背を撫でる。
 和花は久しぶりに嗚咽するほど泣いた。涙は枯れることを知らず次々と出てくる。
 蒼弥の優しい顔が浮かんでは消えていく。

(九条さま、ごめんなさい……私、私やっぱり駄目でした……)

 勇気を振り絞って義母たちに反抗したものの、結果は最悪。蒼弥から貰ったものたちはもう返ってこない。
 和花は庭先で泣き続けた。いつのまにか、ほんのり暖かかった右手は冷え切り、まるで氷のようだった。