それから三日間、和花はずっとそわそわしていた。
「蒼弥のことが好きかもしれない」この気持ちが自分の中でちらつくたびに、気が気じゃなくなった。
義母や義妹からは相変わらず嫌味を言われていたが、不思議と和花の心に刺さらない。それよりも、自分の蒼弥に対する気持ちを考える方が難しかった。
複雑な心境のまま三日後、蒼弥は加納屋が閉店してから、だいぶ時間が過ぎたあたりにひっそりとやってきた。
一目見ただけで、胸がざわめく。
「和花さん、お久しぶりですね」
「お、お久しぶりです、九条さま」
和花を見るなり、蒼弥はいつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべる。その笑みを眩しく感じながらも、和花もぎこちなく笑い返した。
「これ、よろしければ」
「これは……?」
鮮やかな橙色の包装紙に包まれた四角の箱を受け取る。
「開けてみて下さい」
包装紙を解いていくと、中には菊の形をした最中が、綺麗に並べられていた。
「美味しそう……!」
「最近有名な和菓子屋さんの最中です。中のあんこも絶品みたいなので、和花さんと一緒に食べたいと思いまして」
「和花さんと一緒に」この言葉が和花の中で引っ掛かり、頬を染めていく。
好きかもしれない、と一度考えてしまうと、蒼弥の些細な言動が気になってしょうがなかった。
「ありがとうございます、九条さま。それでは、もしよろしければお茶と一緒にどうでしょうか?」
「ありがとうございます、いただきます」
店の一角に置いてある長椅子に、やや距離を開けて横並びに座る。二人の間には今持ってきてもらったお菓子とお茶が置かれた。
由紀からこっそりもらったお茶を淹れると、芳醇な茶葉の香りが立ち込める。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
湯呑みを手渡す時にほんのわずかに触れた指先。それだけのことなのに、和花の心臓はまた大きく音を鳴らした。
会話のない、静けさが広がる。
だけれども、決して苦ではない。どこか心地よい空間だった。
ちらりと、様子を伺うと蒼弥は真っ直ぐ前を見据えながら茶を飲んでいた。美しい横顔に思わず見入ってしまう。
「なにかありましたか?」
じっと見られていることに気付いた蒼弥が振り向く。
ぱちりと、目と目が合っただけなのに、和花の身体に電流が走ったように大きく身体を揺らした。
「あ、い、いえ……なんでもありません……」
「そうですか?」
不思議そうに首を傾げる蒼弥に、和花は思わず俯いた。
顔や身体中があつくて、茹で上がってしまいそうだ。
極度に恥ずかしそうにする和花を見た蒼弥は、ふふっと声を上げて笑った。
なにが面白いのか訳もわからず、和花は思考が停止する。
「く、九条さま……?」
「ふふ、すみません。ついつい和花さんが可愛らしくて」
「そ、そんなことありません……!」
否定することに夢中だった和花は、気付けば蒼弥のすぐ目の前まで顔を持っていってしまっていた。
目と鼻の先に蒼弥の麗しい顔がある。
和花は瞠目した。
外の虫の音が大きく聞こえてしまうほどに、店内は静まり返り、時が止まった。
和花の脳内は真っ白になり、なにも考えることができない。ひたすらに蒼弥の顔を眺めていることしかできなかった。
「自分を否定してはいけませんよ。あなたはとてもかわいらしいのですから」
幻聴かと錯覚してしまいそうな、甘い言葉が降り注ぎ、蒼弥の大きな手が、和花の髪を撫でた。
まるで大切なものに触れるように優しい手つきで触れられ、思いやりに満ちた目で見つめられる。
恥ずかしさはもちろんだが、それ以上に安心感を感じていることも事実だった。
「く、九条さま……」
なんとか声を絞り出し、目の前の蒼弥に声をかけると、はっと息を呑む気配がして、急に手が離れていった。蒼弥の横顔がほんのり赤くなっている気がする。
「すみません、つい……」
蒼弥は決まり悪そうに目を逸らし、口籠る。いつも凛としている蒼弥の初めての姿に、和花は戸惑いが隠せなかった。
「い、いえ、大丈夫です」
緊張で表情を強張らせながら和花は答え、動揺を隠すようにお茶を一口飲んだ。
優しい蒼弥はこんな身なりの自分にも、対等に接してくれる。それが嬉しかった。
彼が発する言葉や態度全てが、和花の胸に深く入り込み、喜びに変わっていく。
和花は、そっと自分の着物の懐を触った。ここにしまい込んだ物を、今日、今ここで渡さなくては。
勇気を振り絞って、最大限の感謝の気持ちを込めて――
「九条さま」
「どうしました?」
「……手を出していただけませんか?」
「手を、ですか?」
不意に言い出す和花に、疑問を持ちながらも、蒼弥はすっと手を伸ばした。
すらっと指が長いが、関節がしっかりしており男らしい。きっと仕事で長時間ペンを握っているのだろう。手の所々にペンだこのようなものができていた。
「こちら、もしよろしければ受け取って下さい」
綺麗な青色の包みに入れた、小さな四角い物を蒼弥の手のひらに乗せた。
「こちらは?」
「これまでの感謝の気持ちを込めて、私が作りました。九条さま、父と母との思い出の物をたくさん、ありがとうございました。とても、とても嬉しかったです」
目を逸らしたくなったが、なんとか耐えた。和花が話す間、蒼弥は微動だにせず、じっと和花の話を聞いてくれていた。
「開けてもいいですか?」
「はい」
丁寧に包装した袋を開いていく。
そして、中からハンカチーフを取り出した蒼弥は、小さく声を上げた。
「これを私に?これは和花さんがお作りになったのですか?」
蒼弥に直視され、和花は穴があったら入りたい気持ちになった。視線を彷徨わせる。
普段から高価な物を身の回りに置いているであろう蒼弥に粗末なものを渡して、気に障らせてしまったのではないだろうか。今頃になって不安に襲われる。
「は、はい……不出来なもので申し訳ありま――」
「なんて美しいハンカチーフだろう」
深々と謝罪を述べようとした時、蒼弥のうっとりとした柔らかな声が聞こえた。
「え?」
「これは鳳凰ですね。こんなに羽一枚一枚丁寧に描けるだなんて、素晴らしい。それに、この梅も本物のように繊細に描かれている」
「……」
「でも、なぜ鳳凰なのですか?」
蒼弥の素朴な質問に、和花はゆっくりと口を開いた。
「お着物や和柄の小物に描かれる絵には、一つ一つ意味があることをご存知ですか?」
「意味ですか?」
蒼弥は左右に首を振る。和花は、昔を思い出すように宙を見上げた。
「はい、私も父から教えてもらいました。人は古来よりその柄に願いを込めて生み出し、思いを人々に届けてきたのだと。鳳凰は幸福や平和を意味します」
「幸福や平和……」
「九条さまとの出会いが、私にとっての平和な時をもたらして下さいました。その感謝と、九条さまの幸福を願ってこれを描かせていただきました」
「なるほど、そんな意味が……こんなに美しい絵、初めて見ました」
もしかしたら、和花を喜ばせるお世辞かもしれない。
それでも、ただただ嬉しかった。
目頭が熱くなる。
「……喜んで頂けて、良かったです」
泣くまいと、目元に力を込めるが、目の前の蒼弥はゆらゆらと揺れていた。
「和花さんの思いが込められているから、尚更美しく感じるのでしょうね。あなたはやはり素敵な方です。可愛らしくて、とてもお優しい方」
「そんなことは……」
また自分を否定しようとした和花だったが、蒼弥の人差し指が自分の口元に当てられたことに気づき、口をつぐんだ。
「駄目です」
やや強めな口調にはっとする。怒らせてしまったのかと思い、和花はどうしていいのか分からなくなった。
「駄目ですよ。私の愛おしい人に否定的なことを言ってはいけません」
固まる和花を見て、蒼弥は破顔した。
しかし、和花は言い返す言葉も見つけられず、ただただ動けないでいた。
――私の愛おしい人
確かに蒼弥はそう言った。
その言葉が、やけに耳に残った。
