作業部屋に来た和花は、早速準備に取り掛かった。
着物の袖をたくしあげて襷で固定し、調色板と染料を机に並べる。
上手くできるかはわからない。
だけど、今、和花の心は蒼弥への感謝の気持ちで満たされているから、できる気がする。
血が通ったように指が動かしやすい。
調色板に染料を出すと、淡い香りがふわりと立ちのぼり、昔を思い出させる。
その瞬間、和花の胸の奥が温かくなった。
いつの間にか爪先の色は、さっきよりも鮮やかに光を帯びている。
(今なら、できる……)
そう思った途端、迷いが消えた。
筆が調色板を滑り、黒色の布地に色をのせていく。
不思議なことに、手の震えがない。
以前、義父の前で描いた時は無意識に手が震え、枠から色がはみ出たり、線をまっすぐかけなかったりしたのに、今は思い通りに手を動かせた。
筆の大きさを変え、色を混ぜ合わせて新しい色を作りながら、和花は夢中に筆を進めた。
ただひたすら、蒼弥のことを思って――
「か、けた」
我に返った和花は、目下に広がる絵に目を瞬かせた。
黒地の布には、金、赤、白の梅の花が散らされ、その中心には大きく羽を羽ばたかせた鳳凰が描かれていた。
鳳凰は金色で縁取られており、羽一枚一枚が繊細に描かれている。
上を見上げ大きく羽を広げている様は、嬉しそうに夜空を飛び回っているような躍動感がある。
鳳凰はまるで、失われた希望を取り戻すように、黒い空から飛び立つが如く、大きく羽ばたいていた。
筆を置いた和花は、自分の右手をじっと見つめる。この一年、全く描けなかったのに、描けた。
自分の思うように自由に、気持ちよく筆を進めることができた。
もう二度と着物に絵付けができないと思っていたが、できたのだ。
それがとてつもなく嬉しい。
和花は唇を噛み締めて涙を堪えるが、視界はぼやけるばかりだった。
(お父さま、私、思い出したわ。それに絵が描けた……)
心の中で亡き父に話しかける。
完全ではないが、絶望感が溢れていた彩色の手は、あたたかさを取り戻しつつあった。
一人喜びに浸っていると、戸を叩く音が響いた。
「和花さん?調子はどうですか?」
戸の外から由紀の声が聞こえる。
和花は急いで涙を拭い、手袋をはめると応答した。
「お忙しいときにすみません……あら?」
机上を見た由紀は、たった今絵付けを終えた布と和花を交互に見た。
「これは一体……」
「……私が描きました」
どこか気恥ずかしくて和花は視線を逸らした。描いたものを改めて見られると少し恥ずかしい。
だが、由紀は頬に手を当ててはつらつとした声を上げた。
「まぁ!これ和花さんが描いたのですか!?なんて素敵なんでしょう!」
満面の笑みを浮かべ、うっとりする由紀に和花はおずおずと切り出した。
「あの、これを九条さまにお渡ししようと思っていまして……おかしくないでしょうか?」
「えぇ!和花さん、それは素敵すぎますわ!おかしくなんかありませんっ!」
由紀は机に近づき、まじまじと布を見る。まるで芸術家が描いたような美しすぎる出来栄えに、「なんで素敵なの……」と感動の言葉が止まらない。
和花も和花で、大袈裟に褒めてくれることに少しの恥ずかしさを感じながらも、悪い気はしなかった。自然と口元が緩む。
「和花さんの思いがとてもこもっていやっしゃいますね。それがとても伝わります」
にこりとする由紀に、和花はまた涙が誘われそうになった。
「……ありがとうございます。由紀さんのおかげです」
由紀がいなかったら、こんな気持ち思い出せていないだろう。
感謝してもしきれない。
「そんなそんな!私はなにもしておりません。和花さんがご自分でなされたことですよ」
こんなにも力を貸してもらったのに、謙遜する由紀。気付けば和花は、笑みを浮かべながら由紀に提案していた。
「あの、もし由紀さんがお嫌じゃなければ、由紀さんにも何か贈り物をさせて下さい……!」
「私にですか?」
和花の言葉に由紀はきょとんとする。
「はい……私は由紀さんにいつも助けて頂いています。感謝の気持ちを贈らせて下さい……!」
その途端、由紀の目が大きく開かれ、その目から涙が溢れる。
和花はぎょっとした。
「も,申し訳ありません……!お嫌でしたか……?」
おろおろする和花に、由紀は涙を流しながら、でもいつもの優しい笑顔で答えた。
「ちがう、ちがうのです和花さん。私はとても嬉しいのです」
「……」
「和花さんは、この一年間、とてもお辛そうな顔をしながら頑張っておられました。私なんかができたことは微々たることです。それなのに、私なんかに贈り物を下さると言って頂いて……私はとても、嬉しいのです」
「由紀さん……」
「それに、素敵に笑っていて、私はとても、とても……」
和花は自分の頬に手を当てた。
無意識に笑えたのは、いつぶりだろう。
加納家にきて、笑う機会はほぼないし、笑ったとしてもぎこちなく作っていた。
それなのに今は,自然と顔が綻んでいる。
目の前の由紀の涙は止まることを知らない。後から後から溢れ、彼女の綺麗な顔を濡らしていく。
自分を思って涙まで流してくれる人が、こんなにも近くにいた。
心を鈍らせすぎて、見えていなかった自分がとても恥ずかしいし、情けなく思う。
「由紀さん、本当にありがとうございます……」
和花は、肩を振るわす由紀の身体をそっと包み込んだ。
和花の目からも涙の滴が落ちる。
だけどこの涙は、冷たいものではなく、あたたかい。
涙がこぼれ落ちるたびに、和花の心も溶かしていった。
涙が収まると、二人は顔を見合わせて笑った。
そして由紀が唐突に告げる。
「それにしても、和花さんは九条さまが大切なのですね」
「え?」
由紀の言葉に和花はぽかんと口を開けた。
私が、九条さまを大切に思っている?
確かに彼は会ってから日が浅いにも関わらず、和花に優しく接してくれている。
見返りを求めることもなく、ただ一人の人として接してくれる。
それが、今の和花にとってどれほど救いだったか。きっと分からないだろう。
蒼弥に対する感謝の気持ちを持ち合わせていることは自覚しているが、大切に思っているのかと聞かれたらよく分からなかった。
「そう、なのでしょうか?」
自分の気持ちのことなのに理解していないなど呆れてしまう。
だけど、蒼弥の顔を言葉を思い返すと、胸の辺りがじんわりとあたたまっていく。
それは、真っ黒だった和花の心に鮮やかな色を与え、輝かせてくれるように。
この感情は、感謝だと思っていたが違うのだろうか。
(この気持ちは、一体……?)
感謝とは違う。
憧れとも、尊敬とも少し違う。
胸の奥深くから湧き出ていく、もっと柔らかくてあたたかい何か。
蒼弥のことを考えるだけで、強張っていた身体の力が抜けて、自然と口角があがる。まるで魔法のようなもの。
一人葛藤を繰り広げる和花を見た由紀は、莞爾とした。
「ふふふ、和花さんは九条さまがお好きなんでしょうね」
「そ、そんなこと……!」
「あら、隠さなくてもいいのですよ。和花さんのその優しい笑みから伝わりますわ」
そう言われて、自らの頬に手を当てる。
蒼弥のことを考えていただけで、自然と頬が緩んでいたなんて知らなかった。
(これが、好きという感情なの……?)
「好き」という響きがやけに眩しく感じる。
これまで無縁だった感情が顔を出し、和花の心を掻き乱した。
