「和花さん!これはなに!?」

 きん、と耳を劈くような鋭い声が屋敷中に響き渡った。その甲高い悲鳴のような声は朝の清々しい空気を壊していく。
 名を呼ばれた和花は皿を拭く手を止め、声に吸い寄せられるように静かにその場を離れた。
 周囲にいた使用人たちは、そんな和花の背中を哀れみの目で見送る。

「和花さん、おかわいそうに」 

「本当よね。今朝は何で呼び出されたのかしら」

「昨日も理不尽なことで怒鳴られていたわよね」

「そうそう」

「旦那さまや奥さまの逆輪に触れてしまったらタダじゃ済まされないわよね。本当に何故ここに嫁いできたのかしら」

 背後から和花に隠すようにこそこそと話す声が聞こえるが、丸聞こえである。
 しかし、そんなことをいちいち気にしていたらキリがないことを和花は知っている。これは、この声はまだ良い方。今から向かう先にはどんなことが待っているのか。考えただけで身体が重くなる。

 だが、行かない選択肢はない。行かなければどんな仕打ちをされるか予測もつかない。和花は小走りで声の主の元へ急いだ。

「お義母さま、失礼致します。和花です」

 姿勢良く正座し、義母の部屋の襖をそっと開けた途端、和花の顔に向かって物が投げつけられた。
 ばさり、と顔に何かがかかり、和花の視界を遮る。
 和花は声一つあげずにその場に座り続けた。

「わたくしのお気に入りの着物によくも皺をつけてくれたわね。畳み方がなってないわ!本当にお前は何をやっても駄目なのね!」

 顔にかかっていたのは、義母の物だと思われる臙脂色の着物だった。微かな香の匂いが鼻を掠める。
 それがはらりと落ち、目の前に見えたのは仁王立ちをしている義母だった。

 綺麗な手入れが行き届いた肩までの黒髪、派手な化粧とほっそりとした身体。目鼻立ちがくっきりとした美人だが、釣り上がった目は冷たく恐ろしい。

「申し訳ありません」

 額を畳に擦り付け、小声で呟く。和花の礼儀正しい礼も義母には逆効果だったらしい。美しい顔面をさらに歪め声を荒げた。

「本当に使えない女ね。何もできない無能はこの家にはいらないわ。この家のために役に立つと思って直斗と婚約させたのに!この疫病神!」

「……申し訳ありません」 

「着物も満足に畳めない、仕立てられない婚約者だなんて加納家の恥よ恥!」

 悍ましい言葉がつらつらと並べられる。
 和花はただただ謝ることしかできかった。何か言葉を返したとしても反抗したと捉えられ、さらに罵詈雑言を浴びせられるのが目に見えているから。
 何も言い返さず、謝罪し、嵐が過ぎるのを待つことが一番安全だということは、和花がこの一年ここで過ごして学んだことだった。


 藤崎和花(ふじさきわか)は、帝都にある老舗呉服屋「加納屋(かのうや)」の息子、加納直斗(かのうなおと)と一年前に婚約した。
 二年前、大好きだった父が事故で突然命を落とし、その衝撃で母は身体が病に蝕まれ、寝たきりになってしまった。
 途方に暮れていた和花を救ったのが、この加納屋の店主であり、直斗の父、信忠のぶただである。
 母の治療費を払い、助ける代わりに和花を嫁に欲しいと提案された。和花は母を助けたい一心でその条件をのみ、嫁ぐことを決意したのだ。母は今入院している。

 婚約者の直斗は帝都大学に通い、美術を専攻しているらしい。正式な婚約は直斗の大学卒業後を予定しており、今時期は婚約者として加納家に入り、家のしきたりを学ぶ、はずだった。

 いざ嫁いできてみれば、婚約者として丁寧に接してもらえたのは初めの一週間だけだった。義家族は和花に対しどんどん冷たくなっていき、今では使用人以下の扱いである。

 この一年は、まるで生き地獄のようだった。
 自分に興味のない婚約者、虐げてくる義両親と義妹。逃げ出したくなったり、言い返したくもなったりしたが、母の命をちらつかせられると何も動けなかったのだ。 
 自分さえ我慢をしていれば良い。この家に嫁いだ身だから、このまま一生使用人のようにしていれば良い。
 そうすれば、母にまで危害が及ぶことはないだろう。
 ただじっと耐えて過ごそう、いつからかそう思うようになった。

 出口が見えない日々の暮らしの中で、和花はいつの間にか、心にきつく蓋をして、自分の意思を持つことをやめた。
 さらに、悲しみや怒りの感情が湧いたとしても、心を鈍らせ、それをすぐに消してしまう技を身につけてしまったようだった。
 そのため、どんな時も無表情で切り抜けられるようになったのだ。

「お母さま?どうかしたの?」

 鈴の音のような可愛らしい声が和花の背後から聞こえた、その声に、和花の身体がより一層固くなる。

「あら、驚かせてしまってごめんね美夜(みや)

美夜と呼ばれたこれまた美しい少女ーー加納直斗の妹、加納美夜は畳にひれ伏す和花を見て、鼻で笑った。

「またこの嘘つきお義姉さまがなにかしたの?お母さま」

 ぐさり。和花の心に大きな矢が突き刺った。ギシギシと音を立てて貫通しそうな感覚に陥る。
 普段心を鈍らせている和花だが、「嘘つき」という言葉には敏感に反応してしまう。
 最も聞きたくない、和花を絶望に突き落とす言葉だった。
 無意識に、レースの手袋に包まれた右手に力が入る。

「美しい着物を描けると言われてこの家に来たのに、拙い絵しか描けない嘘つきなお義姉さま。早く私の前から消えて欲しいわ」

「本当よね。手描き職人としての能力があるからと直斗と婚約をしたはずなのに、実際はできなかった嘘つき娘よ。顔も見たくない」

「貧相な見た目にそんな汚い手袋をつけて。本当に酷い身なりね」

 暴言の雨が頭上から大量に降る。その間も和花はじっと動かない。

「ほら、いつまでもそこで座り込んでいないで、早くこの着物を綺麗にしてきなさい。これとこれも追加でね」

追加の着物を投げつけられ、座り込む和花に当たって落ちていく。

「失礼致しました」

散らばった着物をかき集めた和花は、二人の顔を見ることなく、そそくさと退散した。
 こんなこと日常茶飯事である。
 いや、今日はまだ良い方なのかもしれない。

 義母の着物は、和花の心のようにずっしりと重かった。
 きっと生地の糸密度が高く、裏地までしっかり糸が使われている高価な着物なのだろう。
 枚数が少なくても重さがある。
 そんなことを考えながら数枚の着物を抱え、よろよろと廊下を進む。

「あ」

 廊下の角を曲がろうとした途端、突然目の前に現れた人影に、和花は小さな声をあげた。

「も、申し訳ありません」

 相手が誰か見る前に勢いよく頭を下げ、謝罪した。
 しかし、相手からの反応は何もない。恐る恐る顔を上げると、立っていたのは、不機嫌な顔をした直斗だった。

 冷ややかな目が突き刺さる。
 婚約者である直斗は、和花に対して暴言を吐いたり、手を出したりすることはない。
 きっと直斗の中で、和花は空気のような存在になっていると思う。
 同じ家に住んでいるはずなのに顔を合わせることは滅多とないし、会話も必要最低限である。

「申し訳ありません」

 再び頭を下げると、頭上からため息を吐く音が聞こえた。

「……それ、母さんの着物?」

「え?」

 ぶつかりそうになったことに怒られるかと身を縮めた和花だったが、予想外の言葉に目を丸くした。

「だから,それ母さんの着物だろう?それで何をするわけ?」

「え、えっと、皺を伸ばして綺麗に、とのことでしたので……」

 珍しい会話にしどろもどろになりながら和花は義母とのやりとりを軽く説明する。
 それを聞き終えた直斗は、ふうん、と興味なさげに声を上げ、その場を後にした。

(なんだったのかしら……?)

 一人取り残された和花は、直斗の背中を静かに見送った。