彩色の恋模様







 店の開店支度を終えた和花は、義父の言いつけ通り自分の部屋に篭っていた。
 四畳の狭い部屋には、薄い布団と小さな文机しかない。
 寝るためだけの部屋だし、必要最低限の物しか持っていない和花だから、この広さでも問題はないが、夏は暑く、冬は寒さが厳しい。

 特に何をするわけでもなく、ただぼーっと机に向かって座っていた。

(今頃、九条さまはいらっしゃったかしら?)

 あの麗しい顔が脳裏に浮かぶ。
 今までも美しい人は何人も見てきた。美しさでいえば、加納家の義母や義妹、婚約者だってそうである。
 だが、蒼弥の美しさは格上だし、彼は心も澄んでいることが少し会っただけで伝わってきた。
 そうでなければ、自分なんかにあんなに丁寧に接することはないだろう。
 久しぶりの誰かの温もりに心が温かくなったのは事実。しかし、それを受け入れ実感してしまっては、今後のここでの生活がより苦しくなってしまうから、無理やりなにもなかったかのようにやり過ごす。

(もう、会うこともないわ。忘れましょう)

 頭の中の考えを振り払い、気分転換に庭でも眺めようと襖を開けた。
 部屋から出てはいけないと言われたが、庭先くらいなら問題ないだろう。多分。
 家の静けさを見たところ、きっとみんな店に行ってるだろうから、戻ってくる前に部屋に戻れば大丈夫なはず。

 広い庭には、春らしい花が咲き誇る。
 ぱっと目を引く明るい黄色の山吹に、ふっくらと花を咲かせる鬱金香。
 庭の一角は桃色の絨毯のように、濃い桃色の芝桜で埋め尽くされていた。
 鮮やかな景色に和花は大きく息を吸い込み、食い入るように見た。

 久しぶりにゆったりと庭を眺めるかもしれない。日々忙しなく動いており、庭を眺める時間なんて皆無だった。
 なんて、美しいのだろう……
 和花は花々に引き寄せられるように縁側へ出て、腰を下ろした。

 風が温かく心地良い。
 微かに花の香りが漂い、凝り固まった和花の身体と心を癒していく。
 昨晩も遅くまで仕事をしていたせいもあり、和花はいつの間にかうとうとと船を漕ぎ出していた。

(……はっ)

 わずかな物音に反応し、顔を上げる。まさか義両親が戻ってきたのかと恐る恐る辺りを見回したが、そんな気配はない。

(良かった……)

 心拍数が上がったのが分かる。
 それを落ち着けようと、胸に手を当てて息を吐いた。
こんなところで居眠りをしている姿を見られたら、何を言われるかわからない。
 今の動揺で少々の疲れを感じた和花は部屋に戻ろうと立ち上がった。が、立ち上がった先で見えた光景に、今度こそ息が止まりそうになった。

 家の裏口からこちらを見ている人がいたからである。
 きっと使用人の誰かが、裏口をきちんと閉めなかったのだろう。木でできた重い裏口の扉は、最後まで締め切らないと、若干の隙間が空いてしまうのである。
 そして、その覗き込んでいる人こそが、さっきまで和花の頭の中に住みつき、感情を揺さぶっていた張本人だった。

「く、九条さま……」

 口元に手を当てて呟く。
 いつから見られていたのだろう。全く気が付かなかった。
 和花に気付かれた蒼弥は、苦笑いを浮かべ、庭先に足を踏み入れた。

「あまりにも気持ちよさそうに寝ていらしたので、声をかける機会を逃してしまいました」

「……あ、いや、えっと……」

 そこから見られていたのか。
 恥ずかしさから顔に熱が集まるのが自分でも分かる。

「そして勝手に敷地内を覗くような真似をしてすみません。たまたま、前を通った時に気づきまして、ついつい見てしまいました」

 頭を掻きながら蒼弥は笑った。

「い、いえ、私の方こそ気が付かず申し訳ございません……」

 慌てて頭を下げると、頭上からくすっと笑う声が降ってきた。
 蒼弥が笑う理由が分からず、和花はゆっくりと顔を上げ、蒼弥を見る。
 何度会っても見慣れない美貌に、再び目を逸らしそうになった時、蒼弥の手に握られた大きな箱を見た和花は「あ」と思わず声を上げた。

 白地に薄い桃色の桜の花が描かれた見慣れた箱。
 大切に扱ってくれる持ち主に返って嬉しい気持ちと少しの寂しさ。箱から目が離せなくなった。
 和花の視線が箱にあることに気付いた蒼弥は、箱を和花の前に差し出した。

「お願いしたお着物、とても綺麗に仕上がっていました。これで母も喜びます」

「本当ですか?」

「えぇ」

「……良かった」

 無意識だった。
 顔が綻ぶ蒼弥見ていたら、自然と口から安堵の声が漏れてしまっていた。
 一瞬で、着物を手放す寂しさが吹き飛ぶ。大切に着てくれる人の元へ戻り、持ち主を幸せにする役目をまっとうするであろう父の着物が誇らしくも思えた。
 それに、正直、お直しの作業は自信がなかったから、仕上がりを褒めてもらえて素直に嬉しかった。

 今まで着物の絵描きはしてきたが、直す作業はここに来て初めてやった。
 母がやっていたことを見よう見まねでしていたため、正解かどうか分からない。だから、蒼弥の言葉にとても安心した。

「……良かった、のですか?」

 小さな和花の囁きは、蒼弥の耳に届いていたのだろう。蒼弥は目を細め和花に尋ねた。

(正直に答えてもいいのかしら)

 と、和花の中の自分が騒ぐ。
 もし、自分が針を通したことを知り,蒼弥は嫌な気持ちになってしまわないだろうか。
 あかぎれだらけのみっともない手で、大切な着物を触ったと思われてしまうかもしれないし、もっと腕の良い職人がやるべきだったと思われるかもしれない。
 そんな想像が思い浮かび、素直に自分の想いを伝えることがためらわれた。

 義家族に否定され続けて一年。
 いつの間にか、自分自身に対して過度に否定的する癖がついてしまったようだ。それに、思いを口にすることがこんなに大変になってしまったのだから、負の言葉を浴び続けるのは恐ろしい。

 和花がなにも言わない間、蒼弥はじっと待っていた。
 回答を急かすこともなく、ただ優しい瞳で俯きがちな和花を見る。
 沈黙に耐えられなくなった和花は、おずおずと話し出した。

「……そのお着物を直したのは……私です。九条様のお気に召して頂けて良かったです……」

 喉から搾り出すように声を出す。
 その声は震えており、身体にぎゅっと力が入った。
 縮こまり、目を固く瞑っているから目の前の蒼弥の表情が分からない。
 和花の言葉を聞いてなにを思い、どう感じたのか、前を向くことができなかった。
 和花の言葉が落ちた後、しばし時間が止まった感覚に陥った。
 風のざわめきが耳に入るほど静まり返る。
 身動きが取れなくなった和花の身体の力を抜いたのは、怒りも呆れもない――柔らかな声だった。

「そうでしたか。和花さんに直して頂いてとても嬉しいです」 

 はっとして顔を上げる。
 蒼弥はただ穏やかに笑っていた。その笑みに目が離せない。

「家族の思い出が詰まった大切な着物を綺麗に直して頂き、ありがとうございました」

 和花に対して丁寧に一礼した蒼弥は、何かを思い出したようにおもむろにスーツのポケットに手を入れ、小さな木箱を取り出した。
 そして和花に差し出す。

「これ、受け取って頂けませんか?」

「……私にですか?」

「はい、感謝の気持ちです」

「そ、そんな……!私はただ直しただけですので……!」
「そんなことありません。こんなに綺麗に直して頂いて……」

 押し問答が続く。両者どちらも頑なだった。
 受け取らない和花を見兼ねた蒼弥は、彼女の元に一歩足を踏み出した。

「……っ!」

 距離を詰められ、和花は後退りしようとするも、それより先に蒼弥は和花の右手を優しく取り、自分の方に引き寄せた。
 そして手のひらをそっと上に向かせ、呆気に取られている和花なんてお構いなしに、手の上に木箱を置いた。

「これは和花さんにもらってほしいのです。どうぞ開けてみてください」

 なにが起きたのか理解するのに時間がかかり、気が動転する和花は、木箱と蒼弥の顔をかわるがわる見た。
 どこか不安そうな和花に力強く頷く蒼弥。その姿を見た和花はそっと木箱の蓋に手をかけた。 

 木箱の中には、簪が入っていた。
 つまみ細工で作られた、黄色と白の花型の簪。
 七枚の黄色い花びらの大きな花と、白い小さな花が組み合わさり、それが太陽の光にあたってきらきら輝いていた。

「……どうして」 

 和花は開いた口が塞がらなかった。
 じわじわと目と心が温まるのが分かり、目の前の蒼弥がぼやけて見えた。
 霞む視界の中の蒼弥は、穏やかな笑みを浮かべていた。