和花は、家事や呉服屋の仕事をこなす傍らで、蒼弥から預かった着物を直していた。
綺麗な桜柄の桃色の着物は、おそらくたくさん着て頂いたんだろう。裾と袖の付け根がほつれていた。
和花は一喜一憂しながらほつれを直していく。
父がこの着物に絵を描いていた時のこと、店頭に並んでいたこと、両親の笑顔……
楽しかった過去の思い出が走馬灯のように駆け巡り、幸せな気持ちと、もう二度と幸せな空間に身を置くことができない悲しみ、辛さが和花を襲う。
(お父さま、お母さまに会いたい……)
着物に針を通しながら夜な夜な涙を流すこともあった。
(駄目ね、わたし)
この一年、感情を抑え込んできたのに、着物一枚を前にしてこんなにも揺らいでしまうなんて思わなかった。
それに、両親との思い出が詰まったこの着物を、手放したくない思いも顔を覗かせる。
だが、先日蒼弥と偶然会った時に告げられた、「大切な着物」という言葉に胸が熱くなったのも事実だ。
父が亡くなってからも、父の作った着物は生き続け、誰かを幸せにしているということが和花の心を動かす。
誇らしい気持ちだった。
(お父さまはやはりすごい。……それなのに、私なんて……)
しかし同時に、父から受け継いだその力を自分が使えなくなってしまった現実に心が重くなった。
和花の中で葛藤を繰り返しながら、二週間はあっという間に過ぎていった。
外は春らしい日差しがさし、身も心も穏やかにしてくれる。
風に乗ってふわりと桜の花びらが舞う暖かい日の朝。
加納家は朝から賑やかだった。
「ねぇ、お母さま。このお着物変じゃないかしら?」
「えぇ、美夜。とってもよく似合っているわよ」
「この着物なら、こっちの簪の方が色合いも合うわよね」
「えぇ、そうね。でも美夜はなにを着ても可愛いから大丈夫よ」
「いいえ……!お相手はあの九条さまだもの!とびきり可愛くしなくては……!」
賑やかな原因は主に義母と美夜である。
早朝からいつもより濃い目に化粧を施し、薔薇色の着物に身を包む美夜。
鏡の前を陣取って、自分の容姿を何度も確認していた。その後ろで義母もいつもより華やかな着物を身につけている。
何を隠そう今日は、九条蒼弥が加納屋に着物を引き取りに来る日である。
名家九条家の息子に会える機会など滅多とないため、美夜はここぞとばかりに気合いが入っていた。
蒼弥に気に入られ、あわよくば……という魂胆が透けて見える。
「九条さまはとても美しい方だと聞くわ。私もそれに見合った格好をしなくては」
「もう十分可愛いから大丈夫よ。私の娘ですもの」
朝食もおざなりに母娘は盛り上がる。和花はその様子を遠目で見ながら、黙々と朝食の下膳をしていく。
(今日であの着物ともお別れなのね)
少し、いやかなり寂しい。
両親との思い出の品を手放すことに胸がちくりと痛んだ。
「おはよう」
「おはようお父さま。見て、このお着物。どう?似合うかしら?」
遅れて居間に入ってきた義父に美夜は駆け寄り、くるりと一周格好を見せた。
「よく似合っているね、美夜」
「これで九条さまも私のことを見てくださるかしら?」
うきうきと弾む美夜の声と、和花には向けられることのない義父母の柔らかい笑み。
直斗は早くから大学へ行ったためこの場にはいないが、幸せな家族の絵が和花の目の前に出来上がっていた。
「おい、九条さまの着物の直しは完璧だろうな?」
一瞬で硝子が割れるような鋭い目つきが飛んでくる。
「はい、ご用意はできております」
食器を乗せたお盆を畳に置き、和花は平身低頭した。
「九条さまのお気に召さなかったら、ただじゃ置かないからな?」
「……はい」
「それと、店を開ける準備を終えたら今日はすぐに家に戻れ、そして部屋から出て来るな」
「え?」
普段は働くことを強要するのになぜなのか。義父の言葉に耳を疑った。
「お前のようなみすぼらしい奴が、伝統ある老舗呉服屋である加納屋や、加納家にいることを知られたら恥だからな」
「……かしこまりました」
どうせ、そんなことだろうとは思っていた。
和花の存在はこの家で恥である。名家の方の目を汚すことなんて許される訳がない。
「でもお父さま、この女、こんなに汚い格好で一度九条さまにお会いしたのでしょう?加納屋にみすぼらしい女がいること知られてしまっているのかしら。それならとても恥ずかしいわ」
馬鹿にしている、冷たい目で美夜は和花を見下ろした。
「あぁ、それなら大丈夫だ。貧しい田舎から出てきたばかりの使用人だと伝えておいたからな」
「ふふ、そうよねぇ。お義姉さまのような身なりの貧しい人がここにいるなんておかしいものねぇ。貧しい田舎……ふふっ。お義姉さまにぴったりね」
「本当に加納家の恥だわ」
馬鹿にしたような笑いが居間に響き渡る。
あの着物を手放すことに痛めていた心に、さらに刃が刺さり血飛沫が上がっていく。
血が流れ出るたび、和花の表情はさらに暗く、目の僅かな光さえも奪われていった。
「話は以上だ。とっとと店を開けてすぐに立ち去れ」
「……承知しました」
和花は心の痛みをなんとか抑え、誤魔化しながら店に向かうのだった。
