「へ……?」

 振り返ると、そこには――。

 巨大な角を持つ、筋骨隆々の魔王ゼノヴィアスが立っていた。本物の、男の姿で。

「だって、それ、ただの幻影魔法(イリュージョン)だからな」

 ゼノヴィアスが不敵に笑い、玉座のマオは煙のように消えていく――――。

「神の力を持つ聖女に、生身で会うような愚は犯さんよ。くっくっく」

「や、やられた……。い、いつの間に……」

 聖女の足から、力が抜けていく――――。

 へなへなと、その場に崩れ落ちた。

「もう……おしまいだわ……」

 完敗――――。

 まさに完全なる、敗北だった。神の(ディヴァイン)恩寵(グレイス)はもうしばらくは撃つことができない。もはや対抗手段は何もなかった。

「まぁ、落ち込むな」

 ゼノヴィアスが近づいてきて、契約書を差し出した。

「ダンジョンレンタル代、十万ゴールド。さっさとサインして、飯でも食おうではないか」

 聖女は恨みのこもった目で魔王を睨み上げる。

 だが、もはやこの悪魔の言うことを聞く以外なかった。

 この日、聖女エリザベータは、生まれて初めて完全な敗北を味わう。しかも、その相手が最も憎むべき神の敵、人類の敵魔王だったという事実に、プライドはズタズタに引き裂かれたのだった。


      ◇


「ワインお替わり!」

 晩餐の席で、聖女はゴクゴクと音を立てながら、次々とワイングラスを開けていく。その手つきは、もはや聖女というより、酒場の酔いどれ常連客のようだった。

「おいおい、飲みすぎるなよ?」

 ゼノヴィアスが心配そうに声をかける。すでに三本目の瓶が開いていた。

「ふんっ!」

 聖女は顔を真っ赤にしながら、プイッとそっぽを向く。

「こんなの、飲まずにいられますかってーーの!!」

 注がれたばかりの最上級ワイン――魔界でも年に数本しか手に入らない『血月の雫(ブラッドムーン・ティアーズ)』を、まるで水のようにゴクゴクと飲み干していく。

 ゼノヴィアスはリリスと目を合わせ、困ったように肩をすくめた。

(一本、千ゴールドのワインなんですが……)

(まぁ、今日くらいは……)

「で、何?」

 聖女が急に顔を上げた。その瞳は、酒のせいで据わっている。

「あんたの目的は、何なの?」

 ゼノヴィアスは使用人たちに目配せして、部屋から退出させた。重い扉が閉まる音が響く――――。

「魔王軍の復興……。それ以外、ない」

 彼は聖女の目を真っ直ぐ見つめて答えた。

「何? 復興したら、また攻めてくんの? この悪魔! 人類滅亡でも企んでるんでしょ!」

 聖女はテーブルをバン!とこぶしで叩いた。ワイングラスが危うく倒れそうになる。

「もう、攻めはせん」

 ゼノヴィアスは静かに首を振った。

「ふん! どうだか?」

 聖女は疑いの眼差しを向ける。

「そもそも、あんたは【魔神】に創られた殺戮マシーンでしょ? 殺してないと死んじゃうんじゃないの?」

 ゼノヴィアスは苦笑した。

「何を言っとる。もう五十年も、誰一人殺しておらんぞ」

「……」

 聖女は黙り込んだ。そして、グラスに手酌でワインを注ぎながら、ボソリと呟く。

「美少女化して、配信者で金を稼いで、軍を復興……」

 鼻で嗤う。

「ふん! 涙ぐましいわね」

「いやぁ、ホント、情けない限りではある」

 ゼノヴィアスも自嘲的に笑った。こればかりは本当に自分でもどうかしているとは思うのだ。

「だが……これが思ったより悪くなくてな」

 ゼノヴィアスは冒険者たちに囲まれ、羨望の目で称賛された時のことを思い出し、胸が温かくなる。

「バンバン、スパチャが飛んで!」

 聖女が突然声を荒げた。

「みんなにキャーキャー言われて……」

 彼女の声が震え始める。

「あぁ、羨ましい!!」

 ゴン!

 聖女は思い切り額をテーブルにぶつけ、そのまま動かなくなった。

「お、おい! 大丈夫か!?」

「あらら、飲みすぎですよ」

 リリスが呆れたように言う。

「お主が倒れたら、我々の責任になるのだ。ほら、水でも……」

「ズルい……」

 テーブルに顔を伏せたまま、聖女が呟いた。

「……は?」

「なんで、あんただけキャーキャー言われるのよ!」

 顔を上げた聖女の目には、涙が溜まっている。

「私だって、ずっと頑張ってきたのに……うっうっう……」

 そして、ついに堰を切ったように泣き出してしまった。

「ちょ、ちょっと!」

 ゼノヴィアスは慌てた。五百年生きてきて、泣いている女性をあやした経験などない。困ってリリスを見るが、彼女も肩をすくめて首を傾げるばかりだ。