ゼノヴィアスは革張りのソファーに身を沈め、両手で頭を抱えていた。

「くっ……! 忌々しい! 一体なんだというのだ、これは!?」

 巨大な手が髪をぐしゃぐしゃとかき乱す。

 胸を――たかが胸を見られただけではないか。それなのに、なぜこんなにも動揺しているのだ?

 五百年生きてきて、こんな感覚は初めてだった。

 心臓が、まだ早鐘のように打っている。頬が、まるで業火(ごうか)に包まれているかのように熱い。

「変身魔法には……実は深刻な副作用があるのではないか?」

 ゼノヴィアスは震える声で呟いた。そうだ、きっとそうに違いない。あの魔法が、精神にまで影響を及ぼしているのだ。そうでなければ、この動揺の説明がつかない。

 くぅぅぅ……。

 勇者の、あの嗜虐的(しぎゃくてき)な瞳が脳裏に蘇る。舐めるような視線。獲物を見るような、あのいやらしい笑み。

「うわあああぁぁぁ!」

 ゼノヴィアスは顔を真っ赤にして、手近にあったクッションに向かって――――。

 ボスッ! ボスッ! ボスボスボスッ!

 魔王の尊厳など微塵も感じさせない勢いで、クッションに八つ当たりを始めた。羽毛が飛び散り、部屋中に舞い上がる。

「くそっ! くそっ! あの色ボケ勇者め!」

 そして、もう一つ腹立たしいことがあった。

 変身後の体の感覚に、一・五センチほどのズレがあったのだ。普段なら絶対に避けられたはずの、あんな稚拙(ちせつ)な剣筋に引っかかるなど――。

「情けない……! 余としたことが……!」

 また、あの瞬間が蘇る。胸元がはためく音。露わになった肌。勇者の瞳がいやらしく輝いた瞬間――――。

「うぁぁぁぁぁ!」

 ゼノヴィアスは再び叫んだ。もはや理性では制御できない何かが、胸の奥で暴れ回っている。

「あぁ、むしゃくしゃする! どうなってんだ!」

 頭を押さえ、よろけながら立ち上がると棚へと向かう。そこには、百年物のブランデーが並んでいた。普段は祝宴でしか開けない、貴重な一本を手に取る。

 シュッ!

 鋭利な爪で、瓶の首を一瞬で掻き切った。そのまま瓶を口に運び――。

 ゴクゴクと喉を鳴らしながら、ラッパ飲みした。琥珀色の液体が、喉を焼くように流れ落ちていく。

「日頃は酒など……飲まんのだが……」

 呟きながら、また瓶を傾ける。飲まずにはいられなかった。この、胸の奥でくすぶる得体の知れない感情を、アルコールで流し込まなければ、正気を保てそうになかった。

 ガンガンガンガン!

 突然、扉が激しく叩かれた。

「陛下! 陛下ぁ! 大変ですぅ!」

 リリスの声が、いつになく慌てふためいている。

「何だ!? 放っておけと言っただろう!」

 ゼノヴィアスは苛立ちを隠そうともせずに怒鳴った。

「それが……プロジェクトMで急展開が!」

「プロジェクトM……だと?」

 その言葉に、ゼノヴィアスの表情が変わった。【M】とはマオの隠語である。今は思い出したくないコードネームだが急展開とあらば無視もできない。

「くっ……! 入れ!」

 心休まる時など一瞬もないことに、奥歯をギリッと鳴らしながら、ゼノヴィアスは扉の鍵を開けた。


       ◇


「大口スポンサー?」

 ゼノヴィアスはブランデーの瓶を片手に、疑念に満ちたジト目でリリスを睨みつけた。琥珀色の液体が、瓶の中で危うく揺れている。

「配信会社から、さきほど魔導通信が入りまして……我らがマオちゃんに、とても大口のスポンサー様が名乗りを上げてきたらしいんです」

 そして一呼吸置いて、言葉を選びながら――――。

「推測するに……神聖(しんせい)アークライト教国(きょうこく)ではないかと……」

「教国だとぉぉぉ!?」

 ゼノヴィアスの手から、瓶が滑り落ちそうになった。

「最も忌むべき、あの偽善者どもの巣窟がスポンサー!?」

 瞳に、憎悪の業火(ごうか)が燃え上がった。

「冗談ではない! 神の名のもとに幾千もの同胞を虐殺(ぎゃくさつ)してきた連中の金など……受け取れるわけがなかろう!」

 教国――それは魔族にとって、血と涙で綴られた歴史そのものだった。聖戦という美名で飾られた大虐殺。どれだけの同胞たちが、失意の中で息絶えたことか。その血に染まった金を受け取るなど、亡くなっていった者たちへの最大の冒涜だ。

「いやでも、陛下」

 リリスは小悪魔的な笑みを深めながら、ゼノヴィアスの顔を覗き込む。

「例えば……毎月二十万ゴールドだったら?」

「に……二十万!?」

 声が三オクターブほど跳ね上がった。

「だって、さっきの配信でもらったじゃないですか。二十万ゴールド」

 リリスは指をパチパチと鳴らしながら、わざとらしく計算を始める。

「つまり、あの金額感でマオちゃんに期待してるってことは……月二十万、年間で……二百四十万ゴールド! 魔王軍の復活には実に頼もしい金額ですよ?」

「に、二百四十万……」

 ゼノヴィアスの顔が、まるで断末魔の叫びを上げているかのように歪んだ。