九月に入ると、港の空気は冷たくなった。

 防波堤のあたりは、夏の賑わいもすっかり消えている。

 それでも俺は、気づくとあの場所へ向かっていた。

 何かを確かめたいというより、ただ放っておけなかった。



 波止場に立つと、潮風が顔に刺さる。

 夕陽が沈む前のわずかな時間、海面が朱に染まる。

 その光の中に、何かが動いたように見えた。

 魚か、影か、あるいは——。



 足もとに小さな貝殻が落ちていた。

 前と同じ形、同じ色。

 思わず拾い上げてみると、裏に文字が彫られていた。

 小さな手で書いたような、歪んだ字。

 「みえた?」



 背筋が冷たくなった。

 誰かのいたずらにしては、あまりに出来すぎている。

 貝殻をポケットにしまいかけて、指が止まった。

 濡れていた。潮のせいではない。温かかったのだ。



 その夜、宿の窓から港を見た。

 風は止み、海は鏡のように静かだった。

 遠くの灯台が点滅するたび、波間に白い影が浮かぶ。

 まるで、誰かが立っているように。



 翌朝、漁協の古い男に聞いた。

 「この港で“まき”って子を知っとるか?」

 男はしばらく黙っていたが、やがて煙草を落とした。

 「お前さん、見たんか」

 その言葉に、胸の奥が重くなる。

 男は続けた。

 「終戦の年にな、ここに避難してた親子がいてな。

  夜に波が来て、子どもだけ流された。

  それから、秋の夕方になると、白いもんが立っとるんやと」



 俺は言葉を失った。

 貝殻を取り出して、見せた。

 男は眉をひそめたが、やがてゆっくり頷いた。

 「その子、字を覚えたばかりやったらしい。

  親がよう、貝に字を彫らせて遊ばせとった。

  “まき”って名前も、その貝の裏に書いとったらしいで」



 風が吹いた。

 ポケットの中で、貝殻がかすかに鳴った。

 ——カラン。



 それが俺にとって、最後の音になった。

 そのあと何度防波堤に行っても、まきの姿を見ることはなかった。

 ただ、夕陽が沈むたび、潮風がどこかで笑う。

 まるで、あの子の声みたいに。



 時々、思う。

 “見える”ということは、本当に幸運なのか。

 もしかしたら、俺もあの子と同じように——

 まだ見てはいけないものを、見てしまったのかもしれない。



 ポケットの中の貝殻を握る。

 温度が、まだ消えていなかった。