最初にあの子を見たのは、七月の終わりだった。
夕陽が防波堤の端に沈みかけていて、風が海藻の匂いを運んでいた。釣り人なんてもう俺ぐらいしかいなかった。
その日、浮きが沈むより先に、視界の端で何かが揺れた。白いワンピースの裾だった。
子どもだった。七つか八つくらい。髪が潮でぺたぺたしていて、裸足で防波堤の先に立っていた。
危ねえなと思って声をかけようとしたが、子どもは何かに向かって笑っていた。
波のほうを、じっと見て。まるで誰かと話しているみたいに。
「魚、いるの?」って、俺が聞いた。
返事はなかった。ただ手を伸ばして、空を掴むようにひらひらと振った。
その手の先を追っても、そこには何もなかった。
次の週も、またあの子がいた。
名前を聞いたら、「まき」って言った。
「お父さんと来てるのか」と聞くと、「ううん。ひとり」と言った。
笑いながら、防波堤の先を指さした。
「そこに、おる」
「何が?」
「おじちゃん、見えんの?」
冗談かと思って笑ったが、まきの目は真剣だった。
その目が、夕陽の光で赤く染まっていた。
三度目に会ったのは、台風のあとだった。
防波堤の石がいくつも崩れていて、あんな場所に子どもがいたら危ない。
なのに、まきはいた。いつものように。
ワンピースは泥で汚れて、髪も乾いていなかった。
俺が「帰んなさい」と言うと、首を横に振った。
「帰れないの」
波が高くなってきて、足もとに海水が打ちつける。
まきはそれでも、笑っていた。
「ほら、おるやろ」
そう言って、海を指さした。
見た。けれど、何もなかった。
ただ、波の音の合間に、声のようなものが混じった。
それが俺を呼んでいるような気がして、思わず一歩踏み出した。
気づいたら、まきはいなかった。
風が止み、波の音だけが残った。
防波堤の端に、小さな貝殻がひとつ落ちていた。
拾おうとして、やめた。
その貝の内側に、黒い髪が一本、絡まっていたからだ。
翌朝、町の漁師にその話をした。
「ああ、それは昔、溺れた子や」と言われた。
けれど、名前は誰も知らなかった。
ただ、港の端の石碑に、かすれた字がある。
——「まき」。
その日から、夕方になると防波堤に行くのが怖くなった。
誰もいない海に立つと、風の音がまるで呼吸みたいに聞こえる。
海面の揺れが、あの子の肩の高さに見える瞬間がある。
それだけで、背筋が冷たくなる。
ある晩、町の酒場で聞いた話を思い出す。
「昔、この港で娘を失くした家があったんだと。戦争の年や。防空壕がわりに海のそばに掘った穴に波が押し寄せてな……」
その話をしていた老人の目が、俺を見たまま動かなかった。
「その子の名前、たしか“まき”だったはずや」
その瞬間、グラスの中の氷が音を立てた。
冷たい汗が背中をつたった。
けれど、俺は信じなかった。
翌日、また釣りに行った。どうしても確かめたかった。
夕陽が沈むころ、防波堤の端にまた白い影が見えた。
まきが、こっちを見ていた。
笑っていた。
けれど、その足もとは——波の上にあった。
俺は声も出なかった。
まきは両手を広げ、ゆっくりと海の中へ沈んでいった。
その姿が消えたあと、ただ潮の匂いだけが残った。
港の灯がともるころ、防波堤の石に座っていると、どこからか鼻歌が聞こえた。
あの子の声だった。
低く、ゆっくりとした旋律。
言葉は聞き取れない。
でも確かに、誰かを呼ぶ声だった。
ふと足もとを見ると、海水の中に光が揺れていた。
まきの笑顔に見えた。
俺は釣竿を握ったまま、動けなかった。
風が吹き、波が砕け、夕陽が沈んだ。
それきり、あの子を見ることはなかった。
けれど、今でもときどき思う。
海が静かすぎる日は、あの子がまた話しかけてくるんじゃないかと。
潮の匂いを嗅ぐたび、耳の奥で声がする。
——「おじちゃん、見えたやろ」
夕陽が防波堤の端に沈みかけていて、風が海藻の匂いを運んでいた。釣り人なんてもう俺ぐらいしかいなかった。
その日、浮きが沈むより先に、視界の端で何かが揺れた。白いワンピースの裾だった。
子どもだった。七つか八つくらい。髪が潮でぺたぺたしていて、裸足で防波堤の先に立っていた。
危ねえなと思って声をかけようとしたが、子どもは何かに向かって笑っていた。
波のほうを、じっと見て。まるで誰かと話しているみたいに。
「魚、いるの?」って、俺が聞いた。
返事はなかった。ただ手を伸ばして、空を掴むようにひらひらと振った。
その手の先を追っても、そこには何もなかった。
次の週も、またあの子がいた。
名前を聞いたら、「まき」って言った。
「お父さんと来てるのか」と聞くと、「ううん。ひとり」と言った。
笑いながら、防波堤の先を指さした。
「そこに、おる」
「何が?」
「おじちゃん、見えんの?」
冗談かと思って笑ったが、まきの目は真剣だった。
その目が、夕陽の光で赤く染まっていた。
三度目に会ったのは、台風のあとだった。
防波堤の石がいくつも崩れていて、あんな場所に子どもがいたら危ない。
なのに、まきはいた。いつものように。
ワンピースは泥で汚れて、髪も乾いていなかった。
俺が「帰んなさい」と言うと、首を横に振った。
「帰れないの」
波が高くなってきて、足もとに海水が打ちつける。
まきはそれでも、笑っていた。
「ほら、おるやろ」
そう言って、海を指さした。
見た。けれど、何もなかった。
ただ、波の音の合間に、声のようなものが混じった。
それが俺を呼んでいるような気がして、思わず一歩踏み出した。
気づいたら、まきはいなかった。
風が止み、波の音だけが残った。
防波堤の端に、小さな貝殻がひとつ落ちていた。
拾おうとして、やめた。
その貝の内側に、黒い髪が一本、絡まっていたからだ。
翌朝、町の漁師にその話をした。
「ああ、それは昔、溺れた子や」と言われた。
けれど、名前は誰も知らなかった。
ただ、港の端の石碑に、かすれた字がある。
——「まき」。
その日から、夕方になると防波堤に行くのが怖くなった。
誰もいない海に立つと、風の音がまるで呼吸みたいに聞こえる。
海面の揺れが、あの子の肩の高さに見える瞬間がある。
それだけで、背筋が冷たくなる。
ある晩、町の酒場で聞いた話を思い出す。
「昔、この港で娘を失くした家があったんだと。戦争の年や。防空壕がわりに海のそばに掘った穴に波が押し寄せてな……」
その話をしていた老人の目が、俺を見たまま動かなかった。
「その子の名前、たしか“まき”だったはずや」
その瞬間、グラスの中の氷が音を立てた。
冷たい汗が背中をつたった。
けれど、俺は信じなかった。
翌日、また釣りに行った。どうしても確かめたかった。
夕陽が沈むころ、防波堤の端にまた白い影が見えた。
まきが、こっちを見ていた。
笑っていた。
けれど、その足もとは——波の上にあった。
俺は声も出なかった。
まきは両手を広げ、ゆっくりと海の中へ沈んでいった。
その姿が消えたあと、ただ潮の匂いだけが残った。
港の灯がともるころ、防波堤の石に座っていると、どこからか鼻歌が聞こえた。
あの子の声だった。
低く、ゆっくりとした旋律。
言葉は聞き取れない。
でも確かに、誰かを呼ぶ声だった。
ふと足もとを見ると、海水の中に光が揺れていた。
まきの笑顔に見えた。
俺は釣竿を握ったまま、動けなかった。
風が吹き、波が砕け、夕陽が沈んだ。
それきり、あの子を見ることはなかった。
けれど、今でもときどき思う。
海が静かすぎる日は、あの子がまた話しかけてくるんじゃないかと。
潮の匂いを嗅ぐたび、耳の奥で声がする。
——「おじちゃん、見えたやろ」
