八重樫くんが落としたのは書きかけの激重ラブレター~しかもどうやら俺宛てっぽい!?~

 LINEの背景が夜空に変わったのを知っているのは何人いるだろうか。
「先輩ちゃんと水分補給してますか?」
「してるよ。黎くんお疲れ様。これ、塩分ゼリー」
 いつもと変わらない部活。真夏のバドミントンはかなり過酷だ。シャトルは風の抵抗を受けやすいから体育館の窓を全開にするわけにもいかない。こまめに水分補給を取りながら、連続して試合をしなくていいように組まれている。
 俺の隣に座った八重樫くんは滝のような汗を流しながら、手渡しした塩分ゼリーの封を切る。
 誕生日の思い出は分刻みで覚えている。
 あの日いったプラネタリウムは今度秋限定仕様になるらしく、さっそく予定を取った。今度はあの大きな席だ。
 仮恋人期間がどうなるか分からないが、絶対に八重樫くんと行きたいと俺から提案したのだ。その後、一緒に行列のできるかわいいカフェに行ったり、スポーツ用品店に行って新しいシューズを見たり。買うことはできなかったけど、好きなメーカーやデザインの好みが近いので話していて楽しかった。そんな何気なくも思い出に残る誕生日だった。
 誰かと誕生日を過ごす幸せを知ってしまったから、来年も八重樫くんと……なんて初めて自分の未来を考えられた気がする。
「先輩も汗垂れてる」
「……っ、ありがとう。黎くんもベタベタだけどね」
 タオルで俺の首筋に流れた汗をぬぐう。布越しではあったが、彼の手が触れた感覚がし、思わずドキッとしてしまう。
 プラネタリウムで上映中ずっと手をつないでいたせいか、手を繋いでいなくても彼の大きな手に包まれている気がしてならない。けど、直接触れられるのと、想像の中の彼の手はまた違う。温度があって、硬さがあって、脈がある。
 八重樫くんは自分の汗をグッと拭ったあと、俺の肩にぴったりと寄り添ってきた。以前だったら、一言あったところが今では俺が受け入れてくれるという信頼の確証を持っているからか、行動が大胆になった。素直に甘えてくれるのは嬉しい。
 周囲にバレないようにそっと彼の小指に自分の小指を重ねたところで「イチャついてる」とおなじみの声が飛んできた。
「暑いのによくくっつけるよな」
「俺は体温冷たいので、冷却替わりです」
「いや、お前さっき試合終わったばっかで絶対暑いって」
 水稲が空になったため、外で水を汲んできた夕也が戻ってきた。彼は俺たちを見るなり、まただーみたいな顔をする。しかし、彼の中でこの光景が日常化されたことでそれ以上のツッコミは入らなかった。
 水筒をちゃぽちゃぽ鳴らし「じゃあ俺も」と夕也は八重樫くんの隣にくっつくように座った。
「板倉先輩はダメです」
「はあ!? 差別じゃん、差別!」
「俺の隣は、空いていてもまひる先輩の席なので」
「まひる専用のパーソナルスペース作ってんじゃねえよ! ほんと、八重樫はまひるが好きだな」
「好きですよ。文句あるんですか」
 間髪入れず、八重樫くんの言葉が飛んだ。その目は本気そのもので、それを見た夕也は気圧され、バッと立ち上がった。
「お前の周りやっぱり灼熱だわ」
「す、好き……」
 ちゃんと口にされるとここまで恥ずかしいものなのか。
 八重樫くんは言葉を濁したりしない、純度百パーセントの言葉だからダイレクトに心に響く。最強の盾を持っていても、彼の最強の矛には敵わない。防御を無視して貫いてくる。
 汗が少し冷めてきたと思ったら、頬に熱がぐわっと集まる。熱中症よりも重症だ。
(俺、黎くんのことめっちゃ好きじゃん)
 あっちは俺以上に好きかもしれないけど。
 自覚させられるってこういうことなんだな、と頬に手を当てる。汗で濡れた手は気持ち悪い。
「つか、お前ら付き合ってんの?」
 夕也の言葉に、自然と視線が彼に向く。夕也はそれとなく聞いたつもりだったが、俺の反応を受けて聞いちゃいけないことだったかと眉を下げた。
 なんて答えたらいいんだろうか。
 夕也は決してバカにするような態度じゃないし、薄々そんな感じがしたと思っていそうだから言っても問題ない。俺としては、それなりに信用できる友だちだ。
 ただ、八重樫くんは噂とか広められるのが嫌いなんじゃないだろうか。バレないように彼に視線を送れば、八重樫くんは夕也の顔をじっと見ていた。
「まだです。今はまだお試し期間中ですし、俺が先輩を振り向かている最中です」
「うわ、頑張ってんな。まひるってガード高くね?」
「ガ、ガード高いかな……」
「ゆるゆるではない。二年一緒にいるし分かる」
 古くからの友人です、みたいな顔をして胸を張る夕也に八重樫くんは心底嫌そうな顔をしていた。
 俺は、八重樫くんが隠すことなく夕也に伝えたことにほっとしている。関係をうやむやにするよりよっぽどいい。
(でもなんか、俺が難攻不落な男に見えんじゃん)
 そんなガードは高くない方だと思う。実際に八重樫くんの好きに絆されているし。
 だんだん好きになっていった。元から目を引く存在だったが、自然と目で追うようになっていた。隣にいてくれることを当たり前にしてくれて、いないと寂しいって思うまでになっていた。
 ここ半年で八重樫くんは強烈な存在になった。
(やっぱ恋かな。恋だよなあ……)
 今更自覚する。
 気づくのが遅れた。自身がなかったから、自分のことでいっぱいだった。恋とか他人の悩みとか、寄り添ってあげたいけど、そんな余裕が俺にはなかった。でも今は違う。少しずつ、彼の言葉を借りて自信を持てるようになって、ちょっとずつ周囲を見えるようになった。
 彼がいなくちゃ変われなかった。
「まひる、顔赤いぞ?」
「そうかな? そう……だと思う」
「八重樫からの熱烈なアプロ~チにやられたか?」
「うーん、だと思う」
「まひる先輩?」
 声が裏返ったような呼ばれ方をした。八重樫くんも動揺するんだ。
 夕也の前でイチャつける余裕はまだないし、まだ完全な恋人じゃない。仮恋人期間。ちゃんと恋人証明書を発行するまで、俺の恋人ですっていっちゃダメだ。
(誰にも渡したくないけど。一年の女子にも渡したくない……俺って、ダメな先輩かな)
 どう思われようがいいじゃないか。俺が思って欲しい人に思われてるならそれで。変なところで空気読むとか、周囲を見るとか……傷つかないように免罪符を作るのをやめた方が良い。
 自分で自分のことを怒れるようになったのも成長だ。
「……ごめん、今はだと思うって断定的な表現避けさせて。ちょっと、今、俺の中の容量が溢れたところだから」
「俺はいつまでも待ちますよ。先輩の余裕ができるまで。おじいちゃんになっても待てます」
「それはちょっと待たせすぎかなあ……もうちょっと、ほんともうちょっとだけ待って。夏が開けるくらいには、答え出せそう」
 先ほどつかめなかった彼の小指に、キュッと自身の小指を絡みつける。弱々しくて、すぐにほどけてしまいそうな指切りだ。
「なんかわかんないけど、おーえんしてる」
「板倉先輩、言いふらさないでくださいね」
「俺、信用ない!? まひるの次にはお前の先輩してると思ってんだけど!?」
「土屋先輩のほうが信用ありますね」
「……昴〇す」
 今日はいない昴がかわいそうだ。
「黎くん、言い換えすようになったね。俺嬉しい」
「まひる先輩の友だちは、俺の友だちで先輩なので。それに、嫌だった絡みに行ってませんから。それなりに好感度高いですよ」
「だって、よかったね。夕也」
「二人結託したような顔しやがって~」
 ふつふつと業を煮やした夕也は、ぷつんと怒りの糸が切れ、思い出したかのように「そういえば」と話しを変える。
「まひるの誕生日プレゼント、俺らで買ったんだけど。渡しそびれちって」
「俺ら?」
「ちょっと待ってろ」
 夕也は部室まで戻るから、とその場を去ってしまった。
 俺が目をぱちぱちしていれば、小指を絡めた八重樫くんが俺の肩に頭を乗せる。
「俺も一緒に選びました。喜んでくれると嬉しいです」
 珍しく恥ずかしそうに小声で言った八重樫くんは再度俺の肩にぐりぐりと頭を押し付けてきた。

「本当にいいの?」
 目の前でラッピングをはがした時は「俺へのプレゼントだよな?」と思ったが、中から出てきた水色のリボンが巻かれたラケットを見て言葉を失った。
 以前俺が使っていた白いラケットだ。ガットはピンと張られており、グリップ部分も新しい。そのラケットが新品であることは誰が見ても気付くことだった。
「ほら、まひる最近ずっと俺のおさがりラケット使ってたじゃん? 俺が折っちゃったし、ずーっと申し訳なくって。んで、今年のまひるへの誕プレを昴と考えてたら、八重樫が」
 夕也はそこまで言うと、八重樫くんの方をちらっと見た。
「もともと俺がプレゼントで買いたかったんですけど、俺からって言ったらまひる先輩受け取ってくれそうになくて。だから、皆で買おうって提案したんです」
 さすが八重樫くんだ。俺のことをよくわかってる。
 ラケットって決して安いものじゃないし、俺にとってバドミントンをするための特別なものだ。それを誕生日プレゼントって一人から貰ったら、嬉しさよりも戸惑いを覚えてしまう。高校生一人にプレゼントするような安いものじゃないから。
 八重樫くんだけじゃなくて、夕也も、ここに居ない昴も一緒に考えてくれたんだと思うと嬉しくて……
「や、泣くほど!?」
「嬉しかったら泣くだろ。俺だってやだよ、恥かしいし……」
 年とともに涙腺が弱くなるって誰かが言ってたけど本当だ。一度決壊したらダムみたいに止まることはなかった。
 ラケットはまだ夕也の手の中にある。ありがとうって受け取りたいのに、涙をぬぐうことで精いっぱいだった。
「まひる先輩は、板倉先輩のラケットを使ってるときいつもより動きが鈍かったので。シューズもすり減ってるって言ってたのでそのせいかなって思ってたんですけど。よくよく観察してたら、ラケットを気にしてて。だったら、やっぱりプレゼントはラケットがいいですよねっていう話になったんです」
「八重樫、それまひるにだから言っていいけどさ、ただのストーカーだからな」
「……ダブルスのペアかっさらう予定なんで、ペアのこと、まひる先輩のこと観察するのは当然です」
「この屁理屈野郎」
 以前より二人の距離が近いのは、プレゼントを選ぶにあたっていろいろ意見を言い合ったからなのかもしれない。単純に、仲のいい友だちと、好きな後輩が仲良くしてくれるのは嬉しい。
「つーわけだから。八重樫の言った通り。俺ら全力で選んだから。これでまたまひるが好きにバドできると思う」
「ありがとう、夕也。黎くんもありがとう」
 夕也はしれっと「名前呼び……」と驚きを隠せない呟きをしていたが、その間にサラッと八重樫くんにラケットを奪われてしまった。その白いラケットは、八重樫くんの手から俺の手に渡る。
「俺、まひる先輩が好きですし、コートの上のまひる先輩も大好きです。なので、これでまた俺と一緒にバドしてくれませんか」
「黎くん、俺二重人格じゃないよ。今の俺も、コートの上にいる俺も、俺だから。でも、ありがとう。どっちの俺も、どんな俺も好きって言ってくれて」
「まひるがコート上で豹変するのはあってんだろ。八重樫の言ってること間違いないぞ?」
「そうだっけ!?」
 自覚はない。周囲からみたらそうなのか……新たな視点を得たが、ラケットを握っている時の俺は確かにいつもより強気な気がする。でも、それを含めて俺だと思ってる。
 バトミントンが好きな俺も、優柔不断で自信のない俺も、軽井沢まひる。最近はすべてひっくるめて好きって言ってくれる重たい後輩のおかげで自己肯定感がちょっと上がった。
「どんなまひる先輩も好きです。かっこいいい」
「黎くん、近い、し。誰かに聞こえるよ」
「聞かれてもいいです。俺、まひる先輩以外眼中にないので」
「あっつ……早く、付き合えばいいのに」
「急かすつもりはないです。まひる先輩のペースに合わせてるんです」
「待たせてる感じがして申し訳ないよ……」
 俺が悪いんだけど。
 夕也は砂糖を吐きそうと喉元に手を当て、うえっと嗚咽を漏らす。汚いな……と、冷たい視線を送っていれば、八重樫くんの手が再び俺を包んだ。
「……っ、黎くん、さ。俺のこと掴むの好きだよね」
「あ……そーですね。無意識だったかもですけど。なんか、先輩のこと独占したいって欲が漏れてるのかもしれません」
「独占……」
「まひる先輩は、みんなに優しくて……前の合宿で逃げられたこと、少し根に持ってるんですよね」
「逃げた……あ、あーごめん。あの時は」
 女子たちの告白大会のことか。おっしゃる通り逃げてしまいました。
 八重樫くんはギュッと俺の手首を掴み、あの時言えなかった悲しさをアピールしてくる。表情から察することができる情報は少ない。けど、こうしてあのときの感情を伝えてくれると、あの日どうすればよかったのか分かる。もちろん、行動は消せないけど、八重樫くんの気持ちを分からないままモヤモヤするのことはこれ以上ない。
「ごめんね」
「もう大丈夫です。俺の気持ち、ちゃんとあの合宿で伝えられたので。けど、あの一件があって、俺の独占欲増幅したので、少し覚悟してほしいです」
「え、あ、うん」
「俺、重たいって言いましたよね」
「覚えてるよ。うん」
 改めて言われるとすごい圧を感じる。
 逃がさないと目で訴えられれば、視線を逸らすことさえ敵わなくなる。最も、もう俺も逃げる気はゼロに近いのだが。
「重たいのが黎くんだって、俺知ってるよ」
 俺も君と同じように、君のことを見てきたつもりだから。
 受け取ったラケットは軽いはずなのに、いろんな思いが詰まっているからか重たく感じた。
 夕也に借りていたラケットはグリップとガットを張り直してから返すことを約束し、さっそく次の試合からもらったラケットを使うことにする。新品のものなのに、それは良く手に馴染んだ戦友にも感じられた。
 俺はまだバドミントンを続けていたい。それを強く強く思い直した。


 ◇◇◇


 問題を先延ばしにしているのか、日常を満喫しているのか。捉えようによってはどちらともいえる。
 部活の帰り、駅前に入っていた百均に寄ってレターセットを買った。八重樫くんと家の方向が一緒だったため、いつもと反対方向にある百均に向かう俺を不振がった彼はついてきてしまった。彼にバレないようにレターセットを買いたかったのだが作戦は失敗。カモフラージュのために必要かもしれないものでカゴを埋めたが、最悪なことにセルフレジだったため、中身がバレてしまった。
『まひる先輩、誰に贈るんですか?』
『黎くん、ちょっと不安がってるっぽいけど、隠しきれてないよ。演技だったらもうちょっとうまくやらなきゃ』
『俺に、ですか。俺のラブレターへの返事』
『……今は言わない』
 口で言った方が良いのはわかってる。けど、台本がないと上手く伝えられない気がする。
 八重樫くんのラブレターはまだ封を切ることができていない。それでも近いうちに彼の思いの詰まったラブレターを読もうと覚悟を決めた。
 夏休みが終わってダラダラ仮恋人期間を続けるのは、これまた不誠実だ。それに、俺の気持ちはもう決まったから、それを俺の言葉でちゃんと伝えたい。
 汗だくになりながら家へ帰ると鍵が開いていた。小さな玄関には時子おばあちゃんの靴がきれいに並べてあったため、来訪者はすぐわかった。
「時子おばあちゃん、久しぶり……ってほどでもないのか。ただいま」
「ああ、おかえり。まひるちゃん」
 どこか元気のない声だ。不安を胸に抱きながらリビングに近づくと、机の上においてある一枚の便箋と、それに向き合う項垂れが時子おばあちゃんが見えた。
 しかし、俺は時子おばあちゃんの様子よりも、机の上に置かれた見慣れた便箋に目を奪われる。
 ヒュッと喉の奥が鳴る。心臓が痛いほど鳴る。バクバクと地が逆流するような痛みに、眩暈さえした。
 肩にかけていたラケットがするっと落ちて、床にぶつかりカランと音を鳴らす。
「これ、ゴミ箱に捨ててあったんだけど。まひるちゃんが捨てたんじゃないわよね」
 

◇◇◇


 八重樫くん、君はどんな思いであのラブレターを書いたの?
「ただいま。あら、今日は部活休みだったの?」
「おかえり、母さん」
 母の機嫌はいつも通りだ。
 昨日の時点で帰ってくるのが早いと聞いていたから、家で待っていて正解だった。部活は早めに引き上げて、服を着替えて待っていた。日に日に家には塾のパンフレットが増えていく。圧をかけられているのが目に見えて分かった。
 逃げ出すことだってできた。問い詰めること、ぶつかることは怖いし、体力だっている。心が傷つくかもしれない。それでも、俺にだって許せないことがある。
 仕事の服のまま近づいてきた母は、俺の顔色を窺った。いつもなら俺の変化も顔色も気にしないのに……と思うのは、さすがにダメな息子だろうか。
「体調でも悪い? 今から空いている病院にでも……」
「母さん、なんで捨てたの?」
 母は、しばらく黙ったあと、思い出したように「ああ、手紙?」とどうでもいいことのように言う。
「もしかして、ラブレターだった? でも、勉強に集中してほしいのよ。大学に行ってからでも、恋人はいくらでも作れるじゃない。まひるってすっごくいい子だから、ね」
「俺の恋愛まで干渉してくるの?」
「私は、まひるのこと思ってね」
 俺の声色の変化に少しだけ動揺しているようだった。
 いつもだったら俺もここまで言わない。鞄の中漁られたって以前だったら、最悪だな、程度にとどめてやり過ごした。
 けど今回は訳が違う。
 俺が大切にしていた八重樫くんのラブレターをごみ箱に捨てるなんて、そんなこと許さない。
(だってあれは、黎くんが一生懸命書いた俺のためのラブレターだから。世界に一つしかないものだから)
 時子おばあちゃんが気付いてゴミ箱から出してくれたのが幸いだった。次の日がゴミの日だったから、気づかなかったら永遠に俺の手元に返ってこなかった可能性がある。
 震える拳を押さえながら、意を決して顔を上げる。母の不満に満ちた瞳が俺を軽蔑するように見ていた。
 怖い。
 何を言われるか分からないし、いつもみたいに話し合いができる状況じゃなくなるかもしれない。でも、これ以上逃げたくない。
 母は、俺のことを見ていないようで見ている。だから、ヒステリーを起こせば俺が黙ると思っている。もうその手には引っかからない。
 心臓がドクドクと嫌な脈打ち方をする。口の中は乾いて、喉がギュッと締まる感覚がした。言葉を何度も飲み込みそうになる。
 リビングには殺伐とした空気が漂っていた。今ならまだ引き返せると、諦めの早い俺が耳元で囁く。
「俺のこと思ってるなら、ラブレター捨てないでよ。俺が大事にしてたの。机の中に入れてたやつ。母さんはいつもそうだ。俺のためって、そんなの本当に俺のためじゃない」
「だったらどうすればいいのよ。私は、学生時代色々失敗したの。まひるにそうなってほしくないの。その手紙を書いた子に、まひるは付き合えませんって言ったらいい?」
「絶対にそんなことしないで。俺は黎くんと付き合うって決めた。俺のこと好きだって、俺も好きになった。もう、これ以上俺の生活に干渉しないで」
「黎、くん……?」
 まさか、男? とでも言いたげな目だ。
 母は女の子を好きになってほしかったんだろうなと分かった。母の敷いたレール。それは、決して生きづらいことだらけじゃなかった。それで成功したこともあった。母の失敗、教訓……母が俺に失敗してほしくないって過干渉気味になってまで守ろうとしてくれた俺の未来。でもそれは、母が決めた俺の未来だ。俺が選択したものじゃない。
 ここで完全に母を突き放すことも出来た。けれど、それも違うと思った。優しいって言われそうだけど、これは俺なりのけじめだ。
 反抗じゃなくて、対話がしたい。逃げたくない。どこまで伝わるか分からないけど、言わずにいた俺はもうさようならだ。
「バドも続けるつもり。新しいシューズが欲しい……です。今のままだと怪我をする。塾、にも通う」
「二足の草鞋を履いて頑張れるの? 一つに、専念すれば得られるものも多くて……」
「できる。やる。口だけじゃないって証明するから、バド続けさせてほしい。黎くんとも付き合うし、友だちとも遊びに行く。たまに、門限守れないかもしれない。でも、俺はもう守ってもらったり、教えてもらわなきゃ何もできない子どもじゃないから……自分で考えられる。失敗はするかもしれないけど、最小限にする」
 だから……一気に言いすぎて呼吸が整わない。言い切ってしまうはずだったんだけどな、と当初の予定とのずれを感じる。
 俺は、母はから視線を逸らさなかった。母はうつむいたままだったが、いつものように怒鳴ってくることはなかった。どんな表情をしているかは分からない。
 母の理想だった俺はもういないって言ったのがショックだったのかもしれない。反抗期だって片づけられるかもしれない。
 リビングは静かだった。先ほど台所に持っていった弁当箱に水が跳ねる音がする。
「まひるのためだったの。全部、全部」
「うん」
「私のこといつから嫌いだったの?」
「嫌いだったことは一回もないよ。すごく感謝してるし、母さんのおかげで成功したこともある。でも、母さんのこと考えすぎてちょっと辛かったこともあるよ」
「何がそんなにつらかったの?」
 顔を上げた母は目が充血していた。怒っているんじゃなくて涙をこらえた顔だった。親が泣いている姿を初めて見た。でも、これからは泣かせたくない。
 理想のいい子ではいられないけど、自分で決めたことはちゃんと有言実行できる誠実な人間になりたい。
 俺は、話し合うために母を椅子に座らせた。いつもなら自室にこもる母も素直にそこに座ってくれた。
 話し合いはにはたくさんの時間をかけた。気づいたころには七時半になっており、お腹がぐぅと鳴る。
「塾は行ってほしいの。頑張って、時間を割いて色々調べたの」
「俺もいい大学に行きたいと思ってる。そこが、バドミントンのクラブがあったらいいなっても思ってる」
「私、バドミントンのことよく分からないの。何が楽しいの?」
「全部」
 そう、と母はやっぱり関心のない返答を返した。それでもよかった。俺が母の全てを理解できないように、母も俺の全てを理解できない。けど、人間関係ってそういうものだと思う。
 興味のないものを押し付けるつもりはない。でも、学生の俺には限界があるから、古くなったシューズは買い替えてほしい。もちろん大切に使うけど、身体を大切にするため、怪我を防ぐために新しい道具は必要だ。
 母は俺との会話中何回もため息をついた。前髪を掴んで苦しげに呻いていた。受け入れたくないという意思の表れか、母の癖なんだと思う。
「……塾は、秋季からでいい? テストの結果見て、どこに通ったらいいか考えるから」
「早めにいうのよ。私も忙しいから」
「うん、ありがとう」
「……シューズはセールの時にしか買わないから。それと、ラケット折れたんだったら早めにいえばよかったのに」
「気づいてたの?」
「たまたま見ただけ。友だちに借りてたの?」
「誕生日に、友だちと好きな人が新しいの買ってくれたんだよ」
「今時の子って誕生日も大袈裟なのね。私の時代は違ったわ」
 好きな人という単語に、母は眉間にしわを寄せていた。まだこっちは受け入れてもらえないようだ。
 俺はお守り替わりにポケットに入れていた八重樫くんのラブレターに優しく触れる。八重樫くんのおかげで向き合えた。
(君は俺に勇気もくれるんだね……)
 たくさんもらったものを返したい。返すっていうか、俺が八重樫くんに好きって伝えたい。
 一つ肩の荷が下りて、心の中の靄が晴れた。母を突き放すんじゃなくて、これからも対話を続け増やしていくというのが俺の今後の方針だ。
 まだ怖いことはある。またヒステリーを起こされるかもしれない。俺の言葉を床に投げ捨てられるかもしれない。
 けど、諦めないことにした。俺にも譲れないものがあるって知ってほしい。でも、母の譲れないものも知っていきたい。
 母は疲れたと出前を取るから何にするか言ってと聞いてくる。ジャンクフードが嫌いだと知っていたけど、ちょっと脂っぽいものが食べたい。
「ピザとポテトが食べたい」
「……ポテトだけね。寿司頼むから」
「え、何で聞いたの……いや、ポテト、ありがと」
 母は俺を睨みつけたが、再度ため息をついてポテトを頼んでくれる。
 簡単には変わらないし、俺も変われない。親から完全に離れることってできないだろうし、俺もそこまでは望んでいない。
 宅配が届くまで俺は自室に戻る。
 そして、絶対にバレないように参考書の間に挟んでいた書きかけのラブレターを取り出す。ちょっとかわいすぎる便箋は三分の二埋まっていた。


◇◇◇


 夏休み最後の部活は、いつもより終わりの時間が長かった。
 部員はへとへとになりながら片づけをして、校門を抜けていく。
 部室に差し込むオレンジ色の光はまだ夏の色を帯びてギラギラ眩しかった。
 ここからしばらく部活は休みになるので、部活で彼と会う機会は減るだろう。
 ウェアを脱いだ彼の背中は相変わらず、高校生とは思えないくらい仕上がっており、隆起した筋肉の流れに沿って汗が流れていた。
「先輩、見すぎです」
「見ようかなって」
「……えっと……いいですよ」
「冗談で言ったんじゃないよ」
 俺の言葉に大きな背中がブルりと震える。それから、しばらくの間を開けて八重樫くんが恥ずかしそうにこっちを見た。
「まひる先輩、ちょっと変わりました?」
「変わった? 何が?」
「いつもより、ニコニコしてますね。あと、寝癖が二つ多かったです」
「えっ!? そ、それは気づかなかったかも」
 じゃあ朝からずっと寝癖が多い状態でバドをやっていたこと? 気づいていたなら早くいってほしかった。
 俺は汗でベタベタになった髪を押さえながら、八重樫くんの方を見る。彼の顔は夕日に照らされて赤くなっていた。
「何かいいことあったんですか?」
「うん、ちょっとね。お母さんと話せた、かな。バド続けられる」
「それはよかったです。すごい、ですね。まひる先輩」
「黎くんのおかげだよ」
「俺の?」
 こくりと頷けば、身に覚えがないと首を傾げられてしまう。
 俺が勝手に彼に救われているだけなので、彼が直接何かをしたわけじゃない。けど、人と向き合うというきっかけをくれた。変る機会をくれた。
「黎くんに出会わなかったら、俺、つまらない人生を送ってたかもしれない。自分で選択しない、面白くない人生。バドも辞めちゃってたかもしれない」
「そんなことないですよ。多分……まひる先輩は、いろいろ諦めても、バドだけはやってそうです。それまでやめちゃったら、まひる先輩じゃないです」
「黎くん俺のこと理想化しすぎ。でも、君の目に俺はそう映ってたんだね」
 ずっと、俺のことかっこいいって追いかけてくれた。中学の時であって空、ずっと気になる存在を八重樫くんの中でキープしてくれた。こんなこと初めてだ。もう二度と人生で味わうことのできないことかもしれない。
 大きくて器用な手が、プチうプチとシャツのボタンをはめていく。
 八重樫くんは時折、こちらを見ては恥ずかしそうに下唇を緩く噛んでいた。
「黎くん、俺答え出たよ」
「……っ、つまり、えっと、そういうことですか」
「うん。ごめん、待たせちゃったね。君のおかげで全部決めた」
 俺は書いてきたラブレターを八重樫くんに手渡す。ガタガタ震えていて、封筒がこれでもかってくらい揺れていた。
 今日告白すると決めたせいで、今夏最後の部活なのに少し集中できなかった。それを悟られないために、いつもより良く動いたし、脚がへとへとだ。
 告白ってこんなに緊張するものなんだ。以前合宿のとき、俺に告白してくれた八重樫くんも同じ気持ちだったのだろうか。
 俺は、相手の答えを知っているけど、八重樫くんは俺の答えを知らないまま告白した。
 数学でも予習して答えを知っているのと、知らずに授業に臨むのとでは訳が違う。怖い、不安、心配、マイナスな感情に押しつぶされそうになる。いざ実践して失敗したら? 恥ずかしいし、もう二度とやりたくないって思う。告白ってそれの最上位版だ。
「黎くんのラブレターようやく読めたよ。すっごくきれいな字だったし、重かったし、嬉しかった。俺、君と体重比べしたら軽い愛しかないけど、これから黎くんみたいに、重たくなっていくつもりだから。ううん、重さ釣り合うように君に、好きって……」
「まひる先輩には一生無理ですよ」
 ラブレターを握っている手をグイッと強引に引っ張られる。そのままバランスを崩し、彼の胸に飛び込む形で倒れ込むと、八重樫くんにぎゅっと抱きしめられてしまう。制服越しでも彼の心音が聞き取れた。飛び出すんじゃないかってくらいバクバク打ち付けている。
「無理、じゃないよ」
「俺の方が重いので。これでも、先輩に怖がられないようにセーブしてます。試合だったら、手を抜いてるって怒られそうですね」
「セーブしてるの?」
「あのラブレター書き終わるまでに何枚便箋をいっぱいにしたかわかりません。伝えたいこと、あれの百倍あるんです」
「百!? 全部書いてくれてもよかったのに」
「何かの報告書並の分厚さになりますよ。だから、大事なところだけ」
 八重樫くんのたくましい腕が俺を包み込む。もう離さないと力が込められていて少し痛い。
 これが我慢しなくなった彼の重みだと思ったら、自然と受け入れられた。
「先輩のラブレター今よんでもいいですか?」
「え、ダメ」
「何でですか!?」
「目の前で読まれるのはさすがに想定外だから。あと、字の練習してた黎くんと違って、俺の字のほうが下手だから」
「でも、俺のために心を込めて書いてくれたんですよね。嬉しいです」
 心のこもっていないラブレターなんてないよ。
 今までに聞いたことがない浮ついた声に、耳がくすぐられる。腕の中から逃げようとすれば、さらに強い力が加えられた。
「改めて、黎くん、あの日の返事言わせて」
「好きです。まひる先輩。ずっと、これからも、永遠に」
「待って、俺が言うって言ったのに!」
 答えが分かっているからか、容赦がない。
 好きが溢れた声で、こっちも胸がいっぱいになる。一人突っ走るところは八重樫くんらしい。会話のキャッチボールをするつもりが、一方的に剛速球を投げ続けられている感じだ。嫌じゃないけど。
「永遠に?」
「永遠に」
「……俺も、好き。黎くんのこと好き。俺の恋人になってください」
「こちらこそ、永遠に俺の恋人でいてください。まひる先輩」
 汗の匂いが爽やかなシトラスに変わる。
 俺の心臓の音は、八重樫くんよりもゆっくりだけど、平常時に比べたら超高速だ。
 埃っぽい部室の中、暑くてもいくらでも抱き合っていられると思った。このまま夏の暑さと、俺たちの熱さで説けてしまいそうだ。
「嫌いに……俺が変な一面見せても嫌いにならないで。寝癖がついてたらこっそり教えて。また、辛い物食べに行こうって誘うかもしれない。アイスいっぱい驕るから、一緒に行こ」
「嫌いになんてなりません。むしろ、いろんな先輩をこれからも見せてください。俺だけに、板倉先輩にも土屋先輩にも見せたことない顔、いっぱい。俺が引きだします。辛いの食べてひーひ―言ってる俺見て、カエル化しないでくださいね」
「しないよ。あれが黎くんのかわいいところだもん。辛いもの苦手なままでいて」
「俺がかわいいんですか?」
「うん、結構前から思ってた」
 俺より大きくて、声も低くて、重たいけど、それがかわいく見える。時々見せる不安も、ズレた回答も、俺は彼のかわいいところだと思っている。
 かわいい、と連呼すれば八重樫くんは俺の背中に回していた手で顔を覆った。
「先輩のほうがかわいいです。かわいい連呼してる先輩のほうがかわいいので」
「今の黎くんもっとかわいくなったね」
「う……これから言われ慣れていきます」
「言っていいんだ。かわいいって」
「でも、俺はその倍言うのでよろしくお願いします」
「よろしくお願いされちゃった」
 そういうところがかわいいんだよな。
 今だからはっきり、恐れずに言える。
 俺も彼の広い背中に腕を回し、出来る限りぎゅっと抱きしめてみる。すると、彼の大きな体がビクッと跳ねる。
「先輩、今、先輩の重み感じてます」
「やっといっぱい言えるし、伝えられるから。ありがとう、黎くん。大好きだよ。黎くん」
「俺も好きです。大好きです、まひる先輩」
 少しだけ対抗心を燃やして言う。
 俺も好きだって、釣り合う重量だって。しかし、俺を抱きしめる腕は俺よりも強くて、八重樫くんはバレないようにそっと俺のつむじにキスを落としていた。


◇◇◇


【家宝にします】
 そんなメッセージが送られてきたのはあのラブレターを渡した夜中だった。
 ラブレターに関するありがとうメッセージがこれでもかと綴られ、それがあまりにも長文だったため逆ラブレターのように感じてしまった。
 重い、重いよ、八重樫くん……
 俺は、それを読むのに時間がかかって、気づけば日が昇っていた。でも、彼の思いの詰まった返信を読んでいたら胸がいっぱいになって眠たいのに、寝られない現象が起きてしまった。
 そんなやり取りをしてから数週間、夏休みが開けて学校が再開した。教室に響くのは「課題やってない」の声。久しぶりの賑わしい声に日常が戻ってきたのだと実感する。
 あれから母とはほんのちょっと、誤差ぐらい会話が増えた。今でも塾のことを急かされるし、パンフレットは目に付くところにおいてある。けど、本人の口から「どうする?」は聞かなくなった。あくまで、物体がそこに置かれているだけだ。母なりに気を遣ってくれているんだろう。
 一番気にしてくれていた時子おばあちゃんには、母とのこと、ラケットのこと、あのラブレターをくれた恋人のことを話した。時子おばあちゃんは母と違って喜んでくれたし、趣味でバドミントンを始めたそうだ。
「まひる、イメチェンしてんじゃん」
「男子が髪切っても気付かれないっていうけど、夕也って気づくんだね」
「もちのろんろん。だって、俺たち友だちだぜ? あと、まひるがイメチェンするってことは~なあ~?」
 夏休み明けも変わらない友人は、ぐりぐりとその肘で俺をつついてきた。言いたいことはよく分かる。
 彼は、静かに頷いた俺に「おめでと!」と大きな声で祝福の言葉を送った。その声は教室中に響いて、一瞬だけ視線が俺たちに集まる。
「はずい」
「やっとかあ、やっと。うんうん、おめでと。八重樫が報われるな」
「どっちの味方……夕也もありがと、応援してくれて。ラケットも。これからも、夕也をボコボコにできるね」
「は!? 前からそんなこと思ってたのかよ! これ以上容赦なくなったら俺どうすりゃいい!?」
「コート上で手を抜くのは選手としてどうかと思うから」
「いや、手を抜いたことないだろ。てか、今のまひるいいな」
「いいって?」
 夕也は手をわさわさ動かして、どういったらいいか言葉を探す。
「腫物が落ちたみてえな?」
「憑き物ね」
「そうそれ! 今のまひるは超絶イケてる! けど、恋人がいる!」
「夕也のものにはならないよ」
「俺は超絶美少女と付き合うからいいんだよ。まひるは俺のズットモでいてくれれば!」
 怒ってるのか、楽しんでいるのか、夕也の声はいつもより大きい。
 昴にはまだ八重樫くんとのことを話せていないので、近いうちに報告できたらと思う。それと、彼が通っている塾に行くことになりそうだからその相談も。
 夏休み明けの授業は非常にゆったりと落ち着いたものだった。近々ある文化祭や、その後にあるテストに怯えながら、また日常に戻っていくことだろう。
「昔を思い出します」
「黎くん、おじいちゃんみたいなこと言うね」
 久しぶりのバドミントンも軽いウォーミングアップ的な試合をするだけだった。今後の方針や、新人戦に向けてのペアなど、作戦面についての話し合いが多かった。
 部員の中には、気持ち新たにラケットを変えた人もいて、新体制のユニフォームの色も蛍光色で一体感があった。
 夏休み明けしょっぱなから限当番になった俺は、皆が帰るのを見送りながら部室の掃除に励んだ。ちなみに、俺が序列順で部長になった。
「あの日もこうだったなって。もう半年も経つんですね……一年ちょっとしたら先輩が引退……」
「早い早い。部長になったばかりなのに、引退させないでよ」
「それもそうですね。今日も一緒に帰りたいです」
「うん、そのつもり。君が着替えるの待ってるんだよ」
 遅くまでコートの清掃に付き合ってくれた八重樫くんと二人きりだ。
 服を着替えるのを待っていると、彼のリュックサックからひらりと一枚の紙が落ちた。見覚えのある封筒にデジャヴを覚える。
「これって」
「二枚目のラブレターです」
「二枚目? 俺に?」
「はい。先輩が読みたいって言ってたので。生涯かけて報告書並のラブレター書こうかと」
「黎くんの俺観察日記見せてくれたほうが早くない?」
「毎日新しい先輩を更新して、新しい先輩の好きなところを書いていきたいので。あの日記は俺のものですし、こうしてラブレターって形で持っていてほしいです。先輩専用の」
 八重樫くんは、たまに俺の理解できる範囲外に行ってしまう。
 重たいなあ……平常運転か。慣れてしまった俺も相当重病だ。
 俺はそのラブレターを拾い上げ、クリアファイルに挟んで片づける。今日帰ったら読もうか、明日にしようか。恋人になっても、ラブレターを読むのは緊張する。
(あの日はわざと落としてないんだよね……?)
 八重樫くんの行動はいつもストレートだ。だから、込み入ったことはしないと思っている。けど、時々見せる悪い顔……賢そうな顔を見ていると、まだ彼の全てを知れていない気がするのだ。少し策士的なところがあるのかもと疑ってしまう。
 着替えを終えた八重樫くんは、建付けの悪いロッカーをぎぃと閉める。それから俺に近づいてきて、ペタペタと頭を触り始めた。
「寝癖ついてた?」
「いえ、今日は無くて残念だなと」
「君の前ではかっこいい俺でいたいんだよ。ダメ?」
「……っ、ダメじゃないです。あの、先輩、付き合ったばっかで重いかもしれないんですけど」
 珍しく口をもごもごとさせ、八重樫くんは視線をあっちこっち飛ばす。
 どうしたの? と優しく訊ねれば、彼は意を決したように俺の頬に手を当てた。少し太い眉が若干上に持ち上げられている。
 真剣なまなざしは俺を射抜いて離さない。
「ずっと先輩に触れたくて。今、誰もいないので、もう少し近く、触れていいですか」
「具体的には?」
「……キスさせてください」
 言うと思った。
 今日一日、何かを狙っている視線を感じていた。この間、告白しようとした俺みたいに、彼もまたわかりやすかった。
「いいよ」
「重くないですか」
「全然。むしろ、申告してくれるんだって思って」
「無理やりしませんよ。嫌われたくないです」
「嫌わない。君も大概臆病だね」
 俺もだよ。
 触れたいとか、キスしたいとか。俺も初めて思った。それを重たいとは言わないし、愛おしいと感じた瞬間から生まれる欲求ならば、自然なことなんじゃないかと思う。
 八重樫くんは恥ずかしいのか「目を閉じてください」と耳をくすぐる声で言う。確かに、顔を見てだとお互い緊張してしまう。俺は、彼に言われるがまま目を閉じる。
 キスってどんな感じなんだろうか。やわらかい、いい匂い? もっと好きになる?
 身構えて身体がプルプルしているから絶対に緊張しているのが伝わっている。
 俺が、いつ来るんだろうと待っていると、ふにっと柔らかいものが押し当てられたのが分かった。一瞬の出来事で、瞬く間にパッと離れていく。
「え?」
「キスしました」
「うん」
「頬に」
「頬に」
 八重樫くんは頬を赤らめて言う。潤んだオニキス色の瞳は窺うようにこちらを見ている。
「口にされるのかと思った」
「く……い、いいんですか」
「頬で驚いてるよ。嬉しかったけど……もう一回する?」
「します、しますけど、俺くそダサいじゃないですか」
「ダサくなんてないよ。黎くん、ほら、もう一回」
 若干やけになっていた。
 触れた一瞬を忘れない。彼のせいいっぱいかと思ったが、どうやら我慢していたらしい。俺の提案に、ぶんぶんと尻尾を振っているのが見える。
 彼は俺の肩を掴み、輪郭をなぞるように頬を撫でた。
「一回ですか?」
「え?」
「八回、八十回したいです。いや、もっと」
 いいよ、という前に唇を塞がれた。待てなかったのか、我慢しすぎて限界だったのか。硬い鼻がぶつかった。でも、先ほどよりも刺激が強い。やわらかいのに、触れたところが熱を帯びている。
 目を閉じていたからわからないけど、八重樫くんはずっと俺を見ている気がした。
「黎くん?」
「もうちょっとだけ、俺のわがままに付き合ってください。キス、してたい。ずっと、したかったから」
「う、うん」
 触れるだけのキスなのに、なかなか離れてくれない。目を開くタイミングを失い、彼を受け入れる。恋人になった途端、押し込めていた重量がドッと俺にのしかかる。少し舐めていた。彼の重みはこの半年だけじゃないって思い出す。
 俺はこの間がせいいっぱいの告白だったけど、八重樫くんはもっと前から俺のことを好きで、触れるのを我慢してくれていたんだ。なら、俺はそのワガママに答えてあげたい。
 角度を変えては優しく触れる。それ以上踏み込んでこなかったが、長くて、時々短いキスが繰り返された。
 背中にあたる夕日は昼間の太陽のように熱く、触れたところは熱を持ち、キス下唇は相手を溶かしてしまうんじゃないかってくらい沸騰していた。