バドミントン以外の予定があるカレンダー。
六月も終わりに差し掛かり、カラッとした夏がやってきた。バドミントン部は相変わらず緩い体制のままだが、引退を控えた先輩たちは「もうちょっと真面目にやれよ」と注意している。去年彼らは、卒業した先輩たちに同じことを言われていたから、俺たちも来年いうようになるかもしれない。
「まひる、次、俺たちシングルの試合」
ラケットの柄の部分を差し出した夕也は、新調したばかりの黒いラケットを握ってやる気満々だ。
しかし、そんな彼の後ろにぬっと八重樫くんが立った。
「うわっ、また気配消してきやがったな!? お前は忍者かよ」
「板倉先輩、それ俺のラケットです」
「は……そーだった、お前らペアルックだったなー」
「ペアルックじゃないけどね。テーピングは一緒の色なんだけど、ほらガットの色が違うでしょ」
「微妙な差過ぎてパッと見じゃわかんねえって!」
最近持ちて部分のテーピングテープは八重樫くんに巻いてもらっているし、彼が使っているものと同じものを巻いてもらっているので同色だ。夕也が間違えるのも無理はない。ガットの色も俺が白で、八重樫くんが黒なのだが、体育館の濃い床の色や照明の加減でパッと見じゃ判断がつかない。
八重樫くんは俺のラケットを持ってきてくれ、丁寧に交換してくれる。
「板倉先輩、まひる先輩の大切なラケットなのでもう少し丁寧に扱ってください」
「八重樫、お前はまひるの何なんだよ! わかってるって、まひるがこれを大切に使ってることくらい」
夕也は自分のラケットを大事そうに抱えている。八重樫くんに折られるとでも思っているのだろうか。
俺はラケットの縁をなぞりながら、ガットが緩んできていることに気づいた。それに、指の腹に違和感を覚え、何度かそこをなぞってみるとメッキ部分が剥げていることに気づく。強い衝撃が加わればそんな丈夫なものでもないため折れてしまう。
夕也のように俺は簡単にラケットを買ってもらえないから、これが最後の一本だと思って大切に使っている。
「八重樫くん、ありがとう」
「俺は何もしてませんよ。それ、ガット緩んでましたけど大丈夫そうです?」
「さっき練習したとき、変な方向に飛んで行ったし。そろそろ張替え時だとは思ってるよ。試合に支障出たらやだから……ね」
「他に何か問題でも?」
考えると憂鬱な気持ちが広がる。部活やバドに対する知識がないため、あの人は買い替える必要がないと思っている。それにちょうどテストが返ってきて、成績も出た。今後予定されている三者懇談で何を言われるか……
しばらく考えていると、八重樫くんの顔が至近距離まで来ていた。鼻がくっつきそうな位置にいたので、慌てて下がれば、ゴンと背中を壁に打ち付けてしまう。
「今、逃げました?」
「近かったから……」
八重樫くんと部活がない日や土日に遊びに行くようになった。
彼が言っていたかわいいパン屋さんは意外にも近くにあって、イートインコーナーで一緒に食べた。カスタードクリームが濃厚なデニッシュで、SNSで話題になるほど人気でかわいかったのは記憶に新しい。
また、激辛ラーメンチャレンジはその後も続いており、八重樫くんは熱心に写真と感想をスマホに打ち込んでいた。
そういうこともあってか、彼との距離は物理的に縮まった……が、最近パーソナルスペースの感覚が極端に縮まった気がするのだ。嫌じゃないが、近寄られるとドキドキしてしまう。意識すればするほど、顔の良さや、彼から香るシトラスの匂いで気がおかしくなってしまうのだ。
俺が逃げたと勘違いした彼は眉を下げて、上目遣い気味に俺を見ている。捨てられた子犬みたいな顔を大型犬がしている。
「先輩、近づいていいときと、ダメな時の差って何ですか」
「そんな差ある?」
「ありますよ。俺、誰よりもまひる先輩の近くにいますし、先輩のこと見てますから」
「そうなんだけど。うぅ、逃げたわけじゃないよ。びっくりしただけ」
「じゃあ、慣れていってもらうしかないですね」
「君が離れるんじゃなくて?」
「え?」
「え?」
さも、俺が慣れることが当然だと言いたげな顔を向けられる。
何事も慣れが必要だ。回数を重ねたら慣れていく……わけがない。これと、一般的な慣れは違う気がする。危うく思考が流れていきそうだったが、寸前で自分を繋ぎとめる。
八重樫くんの黒い双眸は相変わらず俺に向けられていた。
(八重樫くんは俺の何になりたいんだろう……)
口数が増えた。
以前より、言葉を発するまでのローディング時間が減った。それはすごくいいことだ。言葉のキャッチボールの速度も上がって、俺が球を拾いきれない時があるくらいに、彼は流暢になった。
俺にとって八重樫くんは特別な後輩だと思っている。あっちがどう思っているかはまだちょっとわからないけど。
壁に手をつき俺を見下ろす彼の顔が逆光になる。また距離が近いのに、今度は退路を塞がれてしまっていた。
「離れるとか考えられないんですけど」
「これから夏だし、暑いよ?」
「俺の体温は冷たいので、大丈夫ですね」
「答えになってない……!!」
夕也に「イチャつくなー」と言われ、意識がコートへと向く。
「……俺たち、そんなにイチャついてるように見えるのかな」
「少なくとももっと近づかないと、イチャイチャだとは思いません」
「八重樫くんの基準は謎だね。てか、イチャイチャって」
「嫌ですか? イチャイチャ」
「八重樫くんが言うとくすぐったい言葉だね」
俺は恥ずかしくて平然と言えないや。
彼に勝ってくると約束をし、コートへと向かう。頬に集まった熱は、きっと最近一気に上がった気温のせいだと思う。
◇◇◇
「先輩方に聞いて笹飾ったので、よかったら短冊書いちゃってください」
いつもより早く部室に来てた後輩から、短冊とペンを半場押し付けられるように受け取った。
季節は七月。夏の熱さは増していくばかりで、クーラーの聞いた教室から出られない。部室にあるのは備え付けの扇風機だけで、今にも壊れそうな音をカタカタと立てていた。
去年も部室に笹が飾られていた。どうやら、バドミントン部の恒例行事らしい。図書室にも似たような笹が飾ってあったがあれよりも少し大きめだ。すでに何枚か短冊が括りつけてあり、黒い字で願い事が書かれている。名前までは書いていないが、字に個性が出ており、ゆっくり見れば日誌の文字と照らし合わせて誰が描いたか分かるかもしれない。
俺はもらった赤色の短冊とペンを交互に見た。
「夕也早いな。もう書いたの?」
「そりゃ、願い事は一つだからな! モテたい!!」
「まだ言ってる。一応、部室に飾るものなんだから、誰かに見られるって考えなよ」
「見た人が俺に声をかけてくれるかもしんねーじゃん。まひるはわかってないなあ」
ぶれないところは夕也のいいところでもある。
彼は黄色の短冊を笹の高い位置にくくりつけた。マッキーで書いたような太字なためよく目立つ。
少しは俺も夕也を見習うべきだろうか。自分のロッカーに短冊を押し当て、ペンを走らせる。こういった小さな行事ごとは好きだ。家でやらない分、特別感があって楽しい。
そうこうしていると、八重樫くんが部室に入ってき、彼と早々に目が合った。ぺこりと軽く会釈し彼は俺たちと同じように短冊とペンを押し付けられていた。
「七夕ですか」
「バドの恒例行事……? なんだよね」
「まひる先輩はなんて書いたんですか?」
「無難に、バドが上手くなりたいです、かな。でも、バドが上手くなるって練習あるのみだし」
「そこも含めて、先輩らしいですね」
重い荷物をロッカーに入れながら八重樫くんは声を弾ませて言う。
一応ガットは張り替えたし、ラケットも健在。シューズの擦れは気になるが滑るようなことはない。このまま夏を乗り切って、もっと強くなりたい。
彼は手渡さられた青い短冊にペンを置く。何を書くんだろうと覗き込めば、また彼と目が合ってしまう。
「ごめん、気になっちゃって」
「俺も、バドが上手くなりたいって書こうとしていたので。別に見られても大丈夫です」
「八重樫くんもストイックだね」
「まあ、先輩の言うように、練習しなきゃ上手くなるものもならないんですけど。だからこれは、決意表明みたいなものですね」
そういった八重樫くんは『バドが上手くなる』と書いた短冊を見せてくれた。夕也に負けず劣らず力強い文字だ。ただ、定規で測っていないのにまっすぐ書かれており、文字の大きさも均一だ。
いつだったか、彼が書いた日誌を思い出す。あの頃は、文字の大きさがバラバラで、最後は尻が詰まったように小文字になっていたし、それでもはみ出していた。
「八重樫くん、字うまくなったよね」
笹にくくりつけ始めた彼の手が止まる。それから、少し視線を上に向けたあと、唇を軽く噛んだ。
「そうなんですかね。自分ではよく分からなくて」
「絶対そうだよ。俺、八重樫くんの文字よくみてるから」
「字を?」
不思議そうな声色で言うと、首をかしげる。
字を見てきたって、おかしな表現だ。いや、そんなところ見ているのかとキモがられたかもしれない。でも、口から出た言葉は引っ込まない。言い訳をするのも不誠実だし、不自然だ。
「うん、字。印象に残る字っていうか。八重樫くんのこと、俺もよく見てるかも」
「先輩も」
「一緒、だね」
やっぱりちょっと誤魔化したみたいになっただろうか。
初めて八重樫くんの字を見たのは、彼の書いたラブレターだった。何度も消して悩んだ後が見られた字。それから、日誌。周りには下手だと言われたけど、誰よりも真剣に日誌を書いてくれていた。必死さの伝わる字。そして、彼が日課で付けている日記。一瞬しか見ていないけど、以前見たものより整った字になっていた。まるで、練習でもしたかのように。
八重樫くんは、少しのローディングをはさんだ後「一緒」と繰り返す。
「まひる先輩が俺のこと見てくれている」
「他の子よりも、君のことは特に。特別に」
「特別に」
「うん」
上手く言えない。今はこう伝えるのが精いっぱいだった。でも、彼にはたったそれだけの言葉でも伝わったようで表情をほころばせた。緩んだ頬は桜色に色づいている。
「先輩の短冊かしてください」
「俺の? なんで?」
「俺、背が高いので一番高い位置にくくりつけられますよ」
「恥ずかしいよ。あ……ちょ」
スッと俺の手から引き抜いて、彼は宣言通りてっぺんにそれを括りつけた。赤色だし、余計に目立つ。
そんな俺の短冊の隣に、八重樫くんは自分の短冊を括りつけていた。赤色と青色は寄り添って並んでいる。同じ願い事。しかし、その文字や込められた思いはちょっと違うのかもしれない。
俺は天井にツンと当たっている笹を見ながら、たまにはこういうのも悪くないなと寄り添いあう二つの短冊を眺めた。
◇◇◇
車庫に車が停まってるか確認すべきだった。
「おかえり。まひる」
ただいまを言う前にかけられた声。驚いた心臓は大きくはねた。
リビングから顔を出したのは、母でその手には何かのパンフレットが握られていた。
「ただいま……」
「今日は部活なかった日だったから、早く帰ってきたのよ」
「俺の部活に合せて? いいよ、夕食も一人でつくれるし、母さんは外で仕事してて……」
「お母さんにこれ以上仕事をしろっていうの? まひるのために毎日働いているっていうのに、そんな言い方するの?」
しまった。
そう思ったときには遅かった。俺は、いつものようにごめんなさい、と口にして手洗いを済ませてリビングに戻る。自分の部屋にげたところで、簡単に鍵を開けられてしまうから意味が無い。
一度地雷を踏むと、ヒステリーを起こして機嫌が治るまで時間がかかる。
最近面と向かって話すことがなかったから忘れていた。それに、八重樫くんと話すことが多かったから、なるべく素直な気持ちを伝えるようにしていたのだ。それがこんな形で出てしまい、母の逆鱗に触れた。
リビングには、すでに俺と話すための会場が設置してあった。麦茶が二人分用意されており、俺の席にはいくつかの塾のパンフレットが置いてある。
「まひるのために寝る時間も惜しんで調べてきたのよ。来年は受験生でしょ? 今年中に入会しないと、来年は殺到するから。もう出遅れているくらいなのよ」
椅子を引いて、静かに着席する。母が目の前に座れば、今から取り調べでも行われるような緊張感が走った。
旅行の予定を離すように、母は塾についての説明を始める。営業職もやったことがあるらしいから、それはもう流暢にメリットとデメリットを余すことなく伝えてくれる。
母は、父が癌で亡くなってから女手一つで俺を育ててくれた。家にいるときよりも、会社にいる時間のほうが長いし、俺が中学生に上がったくらいから部活の兼ね合いでもっと二人でいる時間は減った。でも、そのせいか、俺の私生活に干渉することが多くなった。
勝手に部屋に入られるのはもちろん、鞄の中身も逐一チェックする。メッセージや、電話はサンコール以内に出ないといけない。
俺のために働いてくれるのはすごく感謝しているし、時々俺も親孝行しなきゃと思っている。けど、俺ももう高校生で、そこまで干渉されるのは辛い。周囲の友だちに相談したところで「家庭の事情だし」と困った顔をされるだけ。
何よりも、母は部活に関していい感情を抱いていないのだ。
「でも、来年で部活も最後で……」
「部活はお金がかかるの。お母さんびっくりした。中学校からやってるでしょ? もう、十分じゃない? ほら、この間だってガット? ネット? 切ったじゃない」
「消耗品だから切れるよ。それに、シューズだって」
「ちゃんと使っていればそんなことならないのよ。それと、おばあちゃんにお願いするのはもうやめなさいね。あっちの孫にお金かかるらしいから」
じゃあ俺は? そう言いたかったがぐっと飲み込んだ。時子おばあちゃんにもお世話になっているし、今のラケットはおばあちゃんからのプレゼントだ。おばあちゃんは、部活に対して明るい感情を持っているし、理解もある。だからといって、母が……と文句も言えない。母はずっと仕事で忙しくしているから、俺の部活について理解が乏しいのも無理ない。来てほしいとは思わないが、試合を見に来たことは一度もない。
文句を言って口論になるだけ疲れる。
家族でも相手の顔色を窺わないといけない。
「とにかく、塾よ、塾。早く決めてほしいけど、あうところ選ばなきゃ、お金をどぶに捨てるようなものでしょ。ほら、こことかどう? 個別指導もあって、集中できる個室もきれいじゃない?」
こんなに楽しそうな母を見るのは久しぶりだった。でも、母の会話に俺がいまいち混ざれていない。俺の話をしてくれているのに、俺はちっとも心が動かなかった。
部活を続けさせてください。その一言が口から出ない。
どうしよう。このままじゃ、塾に通わされてしまう。
昴はどんな理由で塾に入ったんだろう。いい大学に行って、いい就職先に入って、親孝行、それから……それから何をしたらいい?
今の俺には未来が想像できなかった。
ただ目の前のバドミントンに集中したい。それじゃダメだろうか。成績だって悪くない……と思う。
「そうだ。三者懇談も近々あるじゃない。まひるの担任の先生、いいことろの大学卒だったわよね。アドバイス聞きましょ」
「もうちょっと考えていい?」
「塾? 早めにね。ご飯はどうするの?」
「仮眠してからでしい?」
「じゃあ、お母さん作るわね。エアコンつけて寝るのよ。タイマーもちゃんとセットして。ああ、あと、タオルケット、腹出して寝ないようにね」
「……わかった」
あっちは、俺のためと思ってくれている。それから、それからと母は俺が部屋に入るまでずっと気にしていた。最後に「塾のこと忘れないでね」と念を押す。
わかってる。わかってるから。
ぱたんと扉を閉め、鍵を使えば外からでも開けられてしまう内カギをかけてベットになだれ込む。この間の遠征先のベッドよりも硬いベットが俺を跳ね返す。
最近部活が楽しいんだ。八重樫くんっていう後輩ができてね。もらったお小遣いは彼と遊びに行くのに使ってるんだ。感謝してる――
俺だって話したいことはある。でも、そのすべてを「わかった。それでね」で済まされてしまいそうだから言えない。俺にとっては八重樫くんやバドミントン部での思い出が塾より大切なんだ。
「あー……ダメだなあ」
八重樫くんに以前注意された俺の癖。 顔色を窺いすぎて消極的。言いたいことが言えない。彼にはそれを見抜かれていた。
こんな時でも頭に浮かんでくるのは八重樫くんのことだ。ベッドの下に置いたリュックをまさぐり、外ポケットに入っていたスマホを取り出す。慣れた手つきでロックを解除して、メッセージアプリを開く。今日も一番上に八重樫くんのアイコンが表示されていた。
弱ったときに彼に助けを求めるのは先輩失格だろうか。
「声、聴きたいな……」
耳をくすぐる低い彼の声。俺は通話ボタンに手を伸ばしたが、結局その日、彼に電話をかけることはできなかった。
◇◇◇
「いい大学に行かせたくって。この子もいい大学に行きたいなーって言ってるんですよ」
教室の机は三者懇談ように隅の方に固められている。机をっつくっつけた面談スペース、向かい側には担任の先生がニコニコとしながら座っている。
母の持ってきた手提げバッグには塾のパンフレットが覗く。しかし、今回の三者懇談はあくましで近況報告と、ふんわりとした進路のこと、この間終わったばかりのテストについてだった。
先生は一年生から同じ教科を担当してくれており、今年は担任とのことで俺の成績の伸びについてはよく知っている。先生のバインダーには俺の成績がずらりと並んでいる。ちなみに、テストの結果は平均点より十点上くらいだった。
「軽井沢くんは、どう考えてますか?」
「俺、ですか」
母の話を一通り聞き終わったあと、先生はこちらに話を振った。
いい大学に行きたい――その気持ちは少なからずあるが、もし可能ならバドミントンサークルがある大学がいいな……なんて思ってたりもする。でも、それだけで進路を決めることはできない。
「いい大学には行きたいです」
「具体的には?」
「えっと……」
そう聞かれると途端に口が重たくなる。
何をもっていい大学というのか。難関私立、国公立……入ってもついて行けるのか不安。学べる知識、施設の良しあし。
母がいっているのはきっと就職先が大手で、そこに入っている人が多いことなんだろうけど。
答えられずにいると、担任は「また冬にも三者懇談はありますから」と話しを戻し、成績や学校生活の話を軽くした。その後、何も起きることなく無事に三者懇談は終了した。
廊下に出れば、次のクラスメイトと目が合う。その子の隣にいたのは母親ではなく父親で、仕事帰りなのかスーツ姿だ。ぺこりと会釈を返し、入れ替わるように教室に入っていく。
「今の成績じゃ難しいのかもしれないわね。伸びしろはあるって言ってもらえたから、塾に入って頑張りましょ。そしたら今よりももっといいところ狙えるわ」
「そうだね……母さんは、俺にどんな大学に行ってほしいの?」
「もちろん、難関私立か国公立。でも、家から通える距離の国公立はレベルが低いから……ああ、でも、奨学金は返すのが大変だから、やっぱり家から通って欲しいわよね」
奨学金はあとから大変だと母は口酸っぱく言っていた。でも、ちょっと家から出たい気持ちもある。ただ、家から通える距離の難関私立は県内にあるため、そこを狙うことになってしまうのだろうか。
まだぼんやりとしかビジョンがないため、難関私立と言われてもピンとこないし、どの県にあるかも正直わからない。一人暮らしの費用とか考えると、母に迷惑かけたくないとも思うけど……
先生に成績は悪くないって言ってもらえたのは、お世辞でも嬉しかった。たった数十分の三者懇談だったが、それしか記憶にない。
階段を離れて歩き、下の階に到着するとちょうど懇談が終わったのか、一年生が教室から出てくる。制服姿の男子の隣には、白いスーツをビシッと決めた母親らしき女性が立っている。
「まひる先輩」
俺が彼の名前を呼んだのと同じタイミングだった。
「まひる、知り合い?」
「バドの後輩」
母は珍しく興味を示し俺を見る。
八重樫くんは、一言二言母親らしき人に話すとこちらに駆け寄ってきた。八重樫くんの母は、彼と反対方向に歩いていく。
「八重樫くんも三者懇談だったんだ。あれ? お母さんと一緒に帰らないの?」
「母は今から会社に戻るみたいなので。先輩は?」
三者懇談の期間なので部活はない。母は、このまま帰るついでにスーパーによるという話を今朝していた。
八重樫くんは俺の母と目が合ったのか深々とお辞儀をする。
塾の話をされた日から、八重樫くんとそれなりに話したが、部活が忙しくて下校はただ帰るだけになってしまった。今日はまだ放課後時間がある。一緒に過ごしたいなという気持ちも浮かんできた。
「母さん、俺、八重樫くんと帰ってもいい?」
「え? 部活ないじゃない。それに、スーパーに行く約束は?」
「……八重樫くんと話したい……予定があったんだ。そーだった、忘れてた。母さん、ごめん」
俺は、八重樫くんの隣に行って彼の腕にしがみついた。母の訝しげな顔が俺と彼に交互に向けられる。
それから、何か言いたそうな顔をしたが「早く帰ってきなさいよ。帰ったら報告」とだけ言って、踵を返して帰っていった。八重樫くんの圧に驚いた……なんてことあったりするのだろうか。
母の背中を見送ったあと、ため込んでいた息が肺から吐き出される。
「まひる先輩、予定ってありましたっけ?」
「……っ、ごめん。ごめん、八重樫くん……」
「いえ、謝らなくてもいいですよ。予定、なかったなあと思って。でも、突発的にでも予定作ってもらえたんなら嬉しいです。一緒に帰れるってことですよね」
キラキラとした邪気のない笑顔が向けられる。
俺はその顔を見て少し良心が痛んだ。本当は、逃げたい口実で君を利用した。
「やっぱり、ごめん……だよ。八重樫くん」
「先輩?」
「でも、一緒にいたいのはほんと。それだけは信じて」
声が手が震える。でも、気持ちは伝えたいし、伝わってほしい。
一緒にいたい――これは絶対に嘘じゃなかった。
俺も――と言って欲しかった。
しかし、八重樫くんは少し黙ったあと、母の去っていった廊下を見つめていた。
「……前に話してたやつですか?」
「母さんのこと?」
訊ね返せば、こくりと頷かれる。
覚えていてくれたんだと思うと同時に、もしかしたら母から逃げる口実で「予定」なんて言ってのがバレたんじゃないかと、心臓がバクバクと鳴る。彼と一緒にいたいのは事実だが、三者懇談の終わりに母とスーパーにいく気は全くなかったのだ。
嫌われたらどうしようなんて言葉が頭を巡るほどにはパニックになる。けど、それが浮かぶってことは俺にとって八重樫くんはとても大切な存在なのだと自覚する。情緒があっちこっちいって大変だ。
彼の腕は俺の手のひらから滲んだ汗で熱くなっていた。
「大変……なんて、俺が言っていいかわからないんですけど。人の家庭事情なので」
「そう、だよね。ごめんね、逃げる口実みたいな……」
「本当にそれだけだったら……それだけでも、俺を使ってくれていいんですけど」
かけられた言葉に驚いて顔を上げれば、ちょっとだけ傷付いたような顔の彼と目が合った。しかし、彼はすぐに腕にしがみつく俺の手に大きな掌を重ねた。安心できる大きな手に包まれ、緊張が解けていく。
「……俺も、随分重い男ですよ。自覚あります。それは嫌にならないんですか?」
「八重樫くんのこと?」
八重樫くんが重いと感じたことは一切ない。むしろ、俺のことを見て、大切にしてくれていると感じる。
それに、家族からの愛情と、他者からの愛情はまた別だと思う。母の過干渉と過保護……裏を返せばそれも愛情だけど。しかし、八重樫くんのは一方的な押し付けじゃなくて、もっと見守るような優しさがある。ちょっと遠慮気味で、俺に「これいいですか?」と聞いてきているようなちょっと臆病で、一歩引いているような。
なんて返せばいいかわからなかった。見つめ返すことしかできずに、いれば八重樫くんは眉を下げた。
「重いって、ぐ、具体的には?」
「ラケット一緒とか、毎回ウォーミングアップにまひる先輩のことつき合わせるとか」
「それのどこが重いの!?」
ラケットが一緒なんてたまたまだし、あのデザインかっこいいし。ウォーミングアップだって一年生の女子とはしないだろう。
頭にクエスチョンマークを浮かべていれば、彼はちょっとだけ呆れたように息を吐いた。
「なるほど、先輩は気づいていない感じですね」
「気づく……?」
「まあ、予想はしてましたけど」
彼は俺の手を引いて駐輪場まで歩く。もう帰る準備をするのかと悲しくなったが、自転車が見えてきた辺りで歩く速度を緩めた。
「実は、眼鏡からコンタクトに変えたのまひる先輩のこと裸眼に近い状態で見たいなって思ったからです」
「でも、コンタクトって……高校に入ってからだって言ってなかった?」
「そうですよ。俺、中学のとき眼鏡が壊れちゃったことがあったんです。ちょうどその日、運悪く雨が降ってきて。しかも、自転車の鍵まで落として。周りに誰も居ませんでした」
八重樫くんはポケットから一本の鍵を取り出す。それは今使っている自転車の鍵とは違う少し錆びついたものだった。
見覚えがなかったが、彼は構わないと話を続ける。
「そんなとき、まひる先輩が俺の自転車の鍵拾ってくれたんです。受け取ったときちょっと泥がついていた気がして。ぼんやりでしたけど、先輩の服が濡れてよごれているように見えました」
記憶にない。人違いなんじゃないか。
でも、八重樫くんは人のことをちゃんと見ているし、日記だって書いて、なんでもしっかり覚えているから信ぴょう性は高い。思い返してみれば、出会ったときから、はじめましてじゃない雰囲気を彼から感じていた。
時間で言ったら五分、十分もかからない出来事。それが、八重樫くんにとってはとても大切な思い出だった。
俺の頭には彼と言葉を交わした記憶はない。それこそ、眼鏡からコンタクトに変えて、今ではさっぱり髪の毛を切ってしまった彼は、過去の彼と似ても似つかないはずだ。
覚えていないのも無理ない。だって、俺にとっては日常の五分程度のことで、衝撃的な出来事じゃない。困っている人が居たら中学の俺は助けただろうし、今だって困っている人が居たら放っておけない性格だと自負している。損な性格だってよく言われる。
少しずつ、彼から感じていた違和感がパズルのピースの様に埋まっていく。彼は昔を懐かしむように柔らかい表情で、低く耳をくすぐる声で言葉を紡ぐ。
「貴方は覚えてないかもしれませんが、俺にとってはすごく嬉しかった出来事だったんです」
「それを、数年覚えてて……ラケットも、もしかして?」
彼は肯定の意味で首を縦に振る。
「ほら、重いでしょ。先輩、重い人嫌いそうだから。けど、素直に言ったほうが良いって先輩前に言ってくれたので」
遠征の時、と八重樫くんは付け加える。
「それじゃ、帰りましょ。帰り寄りたいところあるんですけど、一緒に行きませんか?」
彼はコロッと表情を変え、自分の自転車の鍵をガチャリと外した。
まるでそれまでのことがなかったかのように、彼はせっせとパンパンのリュックサックをカゴに詰め始める。
(な、なんでサラって言って、切り替えられるの!?)
聞きたいことは山のようにできてた。
俺のラケットを見て同じの買った? とか、コンタクトにしたのも、イメチェンしたのも俺に気にいられたくて、とか。
もしかして、ラブレターもわざと落としたんじゃ……
八重樫くんはその場から動けなくなった俺のリュックをひょいと奪って、俺の自転車のカゴにズボッと入れる。なんで、俺の自転車が置いてある場所覚えているんだろう。
頭の中は、嫌われるんじゃと思ったパニックから、なんでなんで? と彼の言動にパニックを起こしている。
肝心なところは言ってくれない。察してくださいって感じでもない。ちょっと不親切だ。
(……なんて俺が言えないけど。でも、でも、八重樫くんって……!!)
「俺のこと好きすぎるだろ……」
「先輩、早く行きましょう」
「もー八重樫くんそういうところ!!」
見返りを求めないのは彼の優しさか、性格か。
心臓がありえないほどバクバクと鳴っている。嫌なことも全部八重樫くん一色で塗りつぶされていく。
俺よりも大きな自転車のハンドルを握る彼は、どれだけでも待つよといってくれている気がした。
六月も終わりに差し掛かり、カラッとした夏がやってきた。バドミントン部は相変わらず緩い体制のままだが、引退を控えた先輩たちは「もうちょっと真面目にやれよ」と注意している。去年彼らは、卒業した先輩たちに同じことを言われていたから、俺たちも来年いうようになるかもしれない。
「まひる、次、俺たちシングルの試合」
ラケットの柄の部分を差し出した夕也は、新調したばかりの黒いラケットを握ってやる気満々だ。
しかし、そんな彼の後ろにぬっと八重樫くんが立った。
「うわっ、また気配消してきやがったな!? お前は忍者かよ」
「板倉先輩、それ俺のラケットです」
「は……そーだった、お前らペアルックだったなー」
「ペアルックじゃないけどね。テーピングは一緒の色なんだけど、ほらガットの色が違うでしょ」
「微妙な差過ぎてパッと見じゃわかんねえって!」
最近持ちて部分のテーピングテープは八重樫くんに巻いてもらっているし、彼が使っているものと同じものを巻いてもらっているので同色だ。夕也が間違えるのも無理はない。ガットの色も俺が白で、八重樫くんが黒なのだが、体育館の濃い床の色や照明の加減でパッと見じゃ判断がつかない。
八重樫くんは俺のラケットを持ってきてくれ、丁寧に交換してくれる。
「板倉先輩、まひる先輩の大切なラケットなのでもう少し丁寧に扱ってください」
「八重樫、お前はまひるの何なんだよ! わかってるって、まひるがこれを大切に使ってることくらい」
夕也は自分のラケットを大事そうに抱えている。八重樫くんに折られるとでも思っているのだろうか。
俺はラケットの縁をなぞりながら、ガットが緩んできていることに気づいた。それに、指の腹に違和感を覚え、何度かそこをなぞってみるとメッキ部分が剥げていることに気づく。強い衝撃が加わればそんな丈夫なものでもないため折れてしまう。
夕也のように俺は簡単にラケットを買ってもらえないから、これが最後の一本だと思って大切に使っている。
「八重樫くん、ありがとう」
「俺は何もしてませんよ。それ、ガット緩んでましたけど大丈夫そうです?」
「さっき練習したとき、変な方向に飛んで行ったし。そろそろ張替え時だとは思ってるよ。試合に支障出たらやだから……ね」
「他に何か問題でも?」
考えると憂鬱な気持ちが広がる。部活やバドに対する知識がないため、あの人は買い替える必要がないと思っている。それにちょうどテストが返ってきて、成績も出た。今後予定されている三者懇談で何を言われるか……
しばらく考えていると、八重樫くんの顔が至近距離まで来ていた。鼻がくっつきそうな位置にいたので、慌てて下がれば、ゴンと背中を壁に打ち付けてしまう。
「今、逃げました?」
「近かったから……」
八重樫くんと部活がない日や土日に遊びに行くようになった。
彼が言っていたかわいいパン屋さんは意外にも近くにあって、イートインコーナーで一緒に食べた。カスタードクリームが濃厚なデニッシュで、SNSで話題になるほど人気でかわいかったのは記憶に新しい。
また、激辛ラーメンチャレンジはその後も続いており、八重樫くんは熱心に写真と感想をスマホに打ち込んでいた。
そういうこともあってか、彼との距離は物理的に縮まった……が、最近パーソナルスペースの感覚が極端に縮まった気がするのだ。嫌じゃないが、近寄られるとドキドキしてしまう。意識すればするほど、顔の良さや、彼から香るシトラスの匂いで気がおかしくなってしまうのだ。
俺が逃げたと勘違いした彼は眉を下げて、上目遣い気味に俺を見ている。捨てられた子犬みたいな顔を大型犬がしている。
「先輩、近づいていいときと、ダメな時の差って何ですか」
「そんな差ある?」
「ありますよ。俺、誰よりもまひる先輩の近くにいますし、先輩のこと見てますから」
「そうなんだけど。うぅ、逃げたわけじゃないよ。びっくりしただけ」
「じゃあ、慣れていってもらうしかないですね」
「君が離れるんじゃなくて?」
「え?」
「え?」
さも、俺が慣れることが当然だと言いたげな顔を向けられる。
何事も慣れが必要だ。回数を重ねたら慣れていく……わけがない。これと、一般的な慣れは違う気がする。危うく思考が流れていきそうだったが、寸前で自分を繋ぎとめる。
八重樫くんの黒い双眸は相変わらず俺に向けられていた。
(八重樫くんは俺の何になりたいんだろう……)
口数が増えた。
以前より、言葉を発するまでのローディング時間が減った。それはすごくいいことだ。言葉のキャッチボールの速度も上がって、俺が球を拾いきれない時があるくらいに、彼は流暢になった。
俺にとって八重樫くんは特別な後輩だと思っている。あっちがどう思っているかはまだちょっとわからないけど。
壁に手をつき俺を見下ろす彼の顔が逆光になる。また距離が近いのに、今度は退路を塞がれてしまっていた。
「離れるとか考えられないんですけど」
「これから夏だし、暑いよ?」
「俺の体温は冷たいので、大丈夫ですね」
「答えになってない……!!」
夕也に「イチャつくなー」と言われ、意識がコートへと向く。
「……俺たち、そんなにイチャついてるように見えるのかな」
「少なくとももっと近づかないと、イチャイチャだとは思いません」
「八重樫くんの基準は謎だね。てか、イチャイチャって」
「嫌ですか? イチャイチャ」
「八重樫くんが言うとくすぐったい言葉だね」
俺は恥ずかしくて平然と言えないや。
彼に勝ってくると約束をし、コートへと向かう。頬に集まった熱は、きっと最近一気に上がった気温のせいだと思う。
◇◇◇
「先輩方に聞いて笹飾ったので、よかったら短冊書いちゃってください」
いつもより早く部室に来てた後輩から、短冊とペンを半場押し付けられるように受け取った。
季節は七月。夏の熱さは増していくばかりで、クーラーの聞いた教室から出られない。部室にあるのは備え付けの扇風機だけで、今にも壊れそうな音をカタカタと立てていた。
去年も部室に笹が飾られていた。どうやら、バドミントン部の恒例行事らしい。図書室にも似たような笹が飾ってあったがあれよりも少し大きめだ。すでに何枚か短冊が括りつけてあり、黒い字で願い事が書かれている。名前までは書いていないが、字に個性が出ており、ゆっくり見れば日誌の文字と照らし合わせて誰が描いたか分かるかもしれない。
俺はもらった赤色の短冊とペンを交互に見た。
「夕也早いな。もう書いたの?」
「そりゃ、願い事は一つだからな! モテたい!!」
「まだ言ってる。一応、部室に飾るものなんだから、誰かに見られるって考えなよ」
「見た人が俺に声をかけてくれるかもしんねーじゃん。まひるはわかってないなあ」
ぶれないところは夕也のいいところでもある。
彼は黄色の短冊を笹の高い位置にくくりつけた。マッキーで書いたような太字なためよく目立つ。
少しは俺も夕也を見習うべきだろうか。自分のロッカーに短冊を押し当て、ペンを走らせる。こういった小さな行事ごとは好きだ。家でやらない分、特別感があって楽しい。
そうこうしていると、八重樫くんが部室に入ってき、彼と早々に目が合った。ぺこりと軽く会釈し彼は俺たちと同じように短冊とペンを押し付けられていた。
「七夕ですか」
「バドの恒例行事……? なんだよね」
「まひる先輩はなんて書いたんですか?」
「無難に、バドが上手くなりたいです、かな。でも、バドが上手くなるって練習あるのみだし」
「そこも含めて、先輩らしいですね」
重い荷物をロッカーに入れながら八重樫くんは声を弾ませて言う。
一応ガットは張り替えたし、ラケットも健在。シューズの擦れは気になるが滑るようなことはない。このまま夏を乗り切って、もっと強くなりたい。
彼は手渡さられた青い短冊にペンを置く。何を書くんだろうと覗き込めば、また彼と目が合ってしまう。
「ごめん、気になっちゃって」
「俺も、バドが上手くなりたいって書こうとしていたので。別に見られても大丈夫です」
「八重樫くんもストイックだね」
「まあ、先輩の言うように、練習しなきゃ上手くなるものもならないんですけど。だからこれは、決意表明みたいなものですね」
そういった八重樫くんは『バドが上手くなる』と書いた短冊を見せてくれた。夕也に負けず劣らず力強い文字だ。ただ、定規で測っていないのにまっすぐ書かれており、文字の大きさも均一だ。
いつだったか、彼が書いた日誌を思い出す。あの頃は、文字の大きさがバラバラで、最後は尻が詰まったように小文字になっていたし、それでもはみ出していた。
「八重樫くん、字うまくなったよね」
笹にくくりつけ始めた彼の手が止まる。それから、少し視線を上に向けたあと、唇を軽く噛んだ。
「そうなんですかね。自分ではよく分からなくて」
「絶対そうだよ。俺、八重樫くんの文字よくみてるから」
「字を?」
不思議そうな声色で言うと、首をかしげる。
字を見てきたって、おかしな表現だ。いや、そんなところ見ているのかとキモがられたかもしれない。でも、口から出た言葉は引っ込まない。言い訳をするのも不誠実だし、不自然だ。
「うん、字。印象に残る字っていうか。八重樫くんのこと、俺もよく見てるかも」
「先輩も」
「一緒、だね」
やっぱりちょっと誤魔化したみたいになっただろうか。
初めて八重樫くんの字を見たのは、彼の書いたラブレターだった。何度も消して悩んだ後が見られた字。それから、日誌。周りには下手だと言われたけど、誰よりも真剣に日誌を書いてくれていた。必死さの伝わる字。そして、彼が日課で付けている日記。一瞬しか見ていないけど、以前見たものより整った字になっていた。まるで、練習でもしたかのように。
八重樫くんは、少しのローディングをはさんだ後「一緒」と繰り返す。
「まひる先輩が俺のこと見てくれている」
「他の子よりも、君のことは特に。特別に」
「特別に」
「うん」
上手く言えない。今はこう伝えるのが精いっぱいだった。でも、彼にはたったそれだけの言葉でも伝わったようで表情をほころばせた。緩んだ頬は桜色に色づいている。
「先輩の短冊かしてください」
「俺の? なんで?」
「俺、背が高いので一番高い位置にくくりつけられますよ」
「恥ずかしいよ。あ……ちょ」
スッと俺の手から引き抜いて、彼は宣言通りてっぺんにそれを括りつけた。赤色だし、余計に目立つ。
そんな俺の短冊の隣に、八重樫くんは自分の短冊を括りつけていた。赤色と青色は寄り添って並んでいる。同じ願い事。しかし、その文字や込められた思いはちょっと違うのかもしれない。
俺は天井にツンと当たっている笹を見ながら、たまにはこういうのも悪くないなと寄り添いあう二つの短冊を眺めた。
◇◇◇
車庫に車が停まってるか確認すべきだった。
「おかえり。まひる」
ただいまを言う前にかけられた声。驚いた心臓は大きくはねた。
リビングから顔を出したのは、母でその手には何かのパンフレットが握られていた。
「ただいま……」
「今日は部活なかった日だったから、早く帰ってきたのよ」
「俺の部活に合せて? いいよ、夕食も一人でつくれるし、母さんは外で仕事してて……」
「お母さんにこれ以上仕事をしろっていうの? まひるのために毎日働いているっていうのに、そんな言い方するの?」
しまった。
そう思ったときには遅かった。俺は、いつものようにごめんなさい、と口にして手洗いを済ませてリビングに戻る。自分の部屋にげたところで、簡単に鍵を開けられてしまうから意味が無い。
一度地雷を踏むと、ヒステリーを起こして機嫌が治るまで時間がかかる。
最近面と向かって話すことがなかったから忘れていた。それに、八重樫くんと話すことが多かったから、なるべく素直な気持ちを伝えるようにしていたのだ。それがこんな形で出てしまい、母の逆鱗に触れた。
リビングには、すでに俺と話すための会場が設置してあった。麦茶が二人分用意されており、俺の席にはいくつかの塾のパンフレットが置いてある。
「まひるのために寝る時間も惜しんで調べてきたのよ。来年は受験生でしょ? 今年中に入会しないと、来年は殺到するから。もう出遅れているくらいなのよ」
椅子を引いて、静かに着席する。母が目の前に座れば、今から取り調べでも行われるような緊張感が走った。
旅行の予定を離すように、母は塾についての説明を始める。営業職もやったことがあるらしいから、それはもう流暢にメリットとデメリットを余すことなく伝えてくれる。
母は、父が癌で亡くなってから女手一つで俺を育ててくれた。家にいるときよりも、会社にいる時間のほうが長いし、俺が中学生に上がったくらいから部活の兼ね合いでもっと二人でいる時間は減った。でも、そのせいか、俺の私生活に干渉することが多くなった。
勝手に部屋に入られるのはもちろん、鞄の中身も逐一チェックする。メッセージや、電話はサンコール以内に出ないといけない。
俺のために働いてくれるのはすごく感謝しているし、時々俺も親孝行しなきゃと思っている。けど、俺ももう高校生で、そこまで干渉されるのは辛い。周囲の友だちに相談したところで「家庭の事情だし」と困った顔をされるだけ。
何よりも、母は部活に関していい感情を抱いていないのだ。
「でも、来年で部活も最後で……」
「部活はお金がかかるの。お母さんびっくりした。中学校からやってるでしょ? もう、十分じゃない? ほら、この間だってガット? ネット? 切ったじゃない」
「消耗品だから切れるよ。それに、シューズだって」
「ちゃんと使っていればそんなことならないのよ。それと、おばあちゃんにお願いするのはもうやめなさいね。あっちの孫にお金かかるらしいから」
じゃあ俺は? そう言いたかったがぐっと飲み込んだ。時子おばあちゃんにもお世話になっているし、今のラケットはおばあちゃんからのプレゼントだ。おばあちゃんは、部活に対して明るい感情を持っているし、理解もある。だからといって、母が……と文句も言えない。母はずっと仕事で忙しくしているから、俺の部活について理解が乏しいのも無理ない。来てほしいとは思わないが、試合を見に来たことは一度もない。
文句を言って口論になるだけ疲れる。
家族でも相手の顔色を窺わないといけない。
「とにかく、塾よ、塾。早く決めてほしいけど、あうところ選ばなきゃ、お金をどぶに捨てるようなものでしょ。ほら、こことかどう? 個別指導もあって、集中できる個室もきれいじゃない?」
こんなに楽しそうな母を見るのは久しぶりだった。でも、母の会話に俺がいまいち混ざれていない。俺の話をしてくれているのに、俺はちっとも心が動かなかった。
部活を続けさせてください。その一言が口から出ない。
どうしよう。このままじゃ、塾に通わされてしまう。
昴はどんな理由で塾に入ったんだろう。いい大学に行って、いい就職先に入って、親孝行、それから……それから何をしたらいい?
今の俺には未来が想像できなかった。
ただ目の前のバドミントンに集中したい。それじゃダメだろうか。成績だって悪くない……と思う。
「そうだ。三者懇談も近々あるじゃない。まひるの担任の先生、いいことろの大学卒だったわよね。アドバイス聞きましょ」
「もうちょっと考えていい?」
「塾? 早めにね。ご飯はどうするの?」
「仮眠してからでしい?」
「じゃあ、お母さん作るわね。エアコンつけて寝るのよ。タイマーもちゃんとセットして。ああ、あと、タオルケット、腹出して寝ないようにね」
「……わかった」
あっちは、俺のためと思ってくれている。それから、それからと母は俺が部屋に入るまでずっと気にしていた。最後に「塾のこと忘れないでね」と念を押す。
わかってる。わかってるから。
ぱたんと扉を閉め、鍵を使えば外からでも開けられてしまう内カギをかけてベットになだれ込む。この間の遠征先のベッドよりも硬いベットが俺を跳ね返す。
最近部活が楽しいんだ。八重樫くんっていう後輩ができてね。もらったお小遣いは彼と遊びに行くのに使ってるんだ。感謝してる――
俺だって話したいことはある。でも、そのすべてを「わかった。それでね」で済まされてしまいそうだから言えない。俺にとっては八重樫くんやバドミントン部での思い出が塾より大切なんだ。
「あー……ダメだなあ」
八重樫くんに以前注意された俺の癖。 顔色を窺いすぎて消極的。言いたいことが言えない。彼にはそれを見抜かれていた。
こんな時でも頭に浮かんでくるのは八重樫くんのことだ。ベッドの下に置いたリュックをまさぐり、外ポケットに入っていたスマホを取り出す。慣れた手つきでロックを解除して、メッセージアプリを開く。今日も一番上に八重樫くんのアイコンが表示されていた。
弱ったときに彼に助けを求めるのは先輩失格だろうか。
「声、聴きたいな……」
耳をくすぐる低い彼の声。俺は通話ボタンに手を伸ばしたが、結局その日、彼に電話をかけることはできなかった。
◇◇◇
「いい大学に行かせたくって。この子もいい大学に行きたいなーって言ってるんですよ」
教室の机は三者懇談ように隅の方に固められている。机をっつくっつけた面談スペース、向かい側には担任の先生がニコニコとしながら座っている。
母の持ってきた手提げバッグには塾のパンフレットが覗く。しかし、今回の三者懇談はあくましで近況報告と、ふんわりとした進路のこと、この間終わったばかりのテストについてだった。
先生は一年生から同じ教科を担当してくれており、今年は担任とのことで俺の成績の伸びについてはよく知っている。先生のバインダーには俺の成績がずらりと並んでいる。ちなみに、テストの結果は平均点より十点上くらいだった。
「軽井沢くんは、どう考えてますか?」
「俺、ですか」
母の話を一通り聞き終わったあと、先生はこちらに話を振った。
いい大学に行きたい――その気持ちは少なからずあるが、もし可能ならバドミントンサークルがある大学がいいな……なんて思ってたりもする。でも、それだけで進路を決めることはできない。
「いい大学には行きたいです」
「具体的には?」
「えっと……」
そう聞かれると途端に口が重たくなる。
何をもっていい大学というのか。難関私立、国公立……入ってもついて行けるのか不安。学べる知識、施設の良しあし。
母がいっているのはきっと就職先が大手で、そこに入っている人が多いことなんだろうけど。
答えられずにいると、担任は「また冬にも三者懇談はありますから」と話しを戻し、成績や学校生活の話を軽くした。その後、何も起きることなく無事に三者懇談は終了した。
廊下に出れば、次のクラスメイトと目が合う。その子の隣にいたのは母親ではなく父親で、仕事帰りなのかスーツ姿だ。ぺこりと会釈を返し、入れ替わるように教室に入っていく。
「今の成績じゃ難しいのかもしれないわね。伸びしろはあるって言ってもらえたから、塾に入って頑張りましょ。そしたら今よりももっといいところ狙えるわ」
「そうだね……母さんは、俺にどんな大学に行ってほしいの?」
「もちろん、難関私立か国公立。でも、家から通える距離の国公立はレベルが低いから……ああ、でも、奨学金は返すのが大変だから、やっぱり家から通って欲しいわよね」
奨学金はあとから大変だと母は口酸っぱく言っていた。でも、ちょっと家から出たい気持ちもある。ただ、家から通える距離の難関私立は県内にあるため、そこを狙うことになってしまうのだろうか。
まだぼんやりとしかビジョンがないため、難関私立と言われてもピンとこないし、どの県にあるかも正直わからない。一人暮らしの費用とか考えると、母に迷惑かけたくないとも思うけど……
先生に成績は悪くないって言ってもらえたのは、お世辞でも嬉しかった。たった数十分の三者懇談だったが、それしか記憶にない。
階段を離れて歩き、下の階に到着するとちょうど懇談が終わったのか、一年生が教室から出てくる。制服姿の男子の隣には、白いスーツをビシッと決めた母親らしき女性が立っている。
「まひる先輩」
俺が彼の名前を呼んだのと同じタイミングだった。
「まひる、知り合い?」
「バドの後輩」
母は珍しく興味を示し俺を見る。
八重樫くんは、一言二言母親らしき人に話すとこちらに駆け寄ってきた。八重樫くんの母は、彼と反対方向に歩いていく。
「八重樫くんも三者懇談だったんだ。あれ? お母さんと一緒に帰らないの?」
「母は今から会社に戻るみたいなので。先輩は?」
三者懇談の期間なので部活はない。母は、このまま帰るついでにスーパーによるという話を今朝していた。
八重樫くんは俺の母と目が合ったのか深々とお辞儀をする。
塾の話をされた日から、八重樫くんとそれなりに話したが、部活が忙しくて下校はただ帰るだけになってしまった。今日はまだ放課後時間がある。一緒に過ごしたいなという気持ちも浮かんできた。
「母さん、俺、八重樫くんと帰ってもいい?」
「え? 部活ないじゃない。それに、スーパーに行く約束は?」
「……八重樫くんと話したい……予定があったんだ。そーだった、忘れてた。母さん、ごめん」
俺は、八重樫くんの隣に行って彼の腕にしがみついた。母の訝しげな顔が俺と彼に交互に向けられる。
それから、何か言いたそうな顔をしたが「早く帰ってきなさいよ。帰ったら報告」とだけ言って、踵を返して帰っていった。八重樫くんの圧に驚いた……なんてことあったりするのだろうか。
母の背中を見送ったあと、ため込んでいた息が肺から吐き出される。
「まひる先輩、予定ってありましたっけ?」
「……っ、ごめん。ごめん、八重樫くん……」
「いえ、謝らなくてもいいですよ。予定、なかったなあと思って。でも、突発的にでも予定作ってもらえたんなら嬉しいです。一緒に帰れるってことですよね」
キラキラとした邪気のない笑顔が向けられる。
俺はその顔を見て少し良心が痛んだ。本当は、逃げたい口実で君を利用した。
「やっぱり、ごめん……だよ。八重樫くん」
「先輩?」
「でも、一緒にいたいのはほんと。それだけは信じて」
声が手が震える。でも、気持ちは伝えたいし、伝わってほしい。
一緒にいたい――これは絶対に嘘じゃなかった。
俺も――と言って欲しかった。
しかし、八重樫くんは少し黙ったあと、母の去っていった廊下を見つめていた。
「……前に話してたやつですか?」
「母さんのこと?」
訊ね返せば、こくりと頷かれる。
覚えていてくれたんだと思うと同時に、もしかしたら母から逃げる口実で「予定」なんて言ってのがバレたんじゃないかと、心臓がバクバクと鳴る。彼と一緒にいたいのは事実だが、三者懇談の終わりに母とスーパーにいく気は全くなかったのだ。
嫌われたらどうしようなんて言葉が頭を巡るほどにはパニックになる。けど、それが浮かぶってことは俺にとって八重樫くんはとても大切な存在なのだと自覚する。情緒があっちこっちいって大変だ。
彼の腕は俺の手のひらから滲んだ汗で熱くなっていた。
「大変……なんて、俺が言っていいかわからないんですけど。人の家庭事情なので」
「そう、だよね。ごめんね、逃げる口実みたいな……」
「本当にそれだけだったら……それだけでも、俺を使ってくれていいんですけど」
かけられた言葉に驚いて顔を上げれば、ちょっとだけ傷付いたような顔の彼と目が合った。しかし、彼はすぐに腕にしがみつく俺の手に大きな掌を重ねた。安心できる大きな手に包まれ、緊張が解けていく。
「……俺も、随分重い男ですよ。自覚あります。それは嫌にならないんですか?」
「八重樫くんのこと?」
八重樫くんが重いと感じたことは一切ない。むしろ、俺のことを見て、大切にしてくれていると感じる。
それに、家族からの愛情と、他者からの愛情はまた別だと思う。母の過干渉と過保護……裏を返せばそれも愛情だけど。しかし、八重樫くんのは一方的な押し付けじゃなくて、もっと見守るような優しさがある。ちょっと遠慮気味で、俺に「これいいですか?」と聞いてきているようなちょっと臆病で、一歩引いているような。
なんて返せばいいかわからなかった。見つめ返すことしかできずに、いれば八重樫くんは眉を下げた。
「重いって、ぐ、具体的には?」
「ラケット一緒とか、毎回ウォーミングアップにまひる先輩のことつき合わせるとか」
「それのどこが重いの!?」
ラケットが一緒なんてたまたまだし、あのデザインかっこいいし。ウォーミングアップだって一年生の女子とはしないだろう。
頭にクエスチョンマークを浮かべていれば、彼はちょっとだけ呆れたように息を吐いた。
「なるほど、先輩は気づいていない感じですね」
「気づく……?」
「まあ、予想はしてましたけど」
彼は俺の手を引いて駐輪場まで歩く。もう帰る準備をするのかと悲しくなったが、自転車が見えてきた辺りで歩く速度を緩めた。
「実は、眼鏡からコンタクトに変えたのまひる先輩のこと裸眼に近い状態で見たいなって思ったからです」
「でも、コンタクトって……高校に入ってからだって言ってなかった?」
「そうですよ。俺、中学のとき眼鏡が壊れちゃったことがあったんです。ちょうどその日、運悪く雨が降ってきて。しかも、自転車の鍵まで落として。周りに誰も居ませんでした」
八重樫くんはポケットから一本の鍵を取り出す。それは今使っている自転車の鍵とは違う少し錆びついたものだった。
見覚えがなかったが、彼は構わないと話を続ける。
「そんなとき、まひる先輩が俺の自転車の鍵拾ってくれたんです。受け取ったときちょっと泥がついていた気がして。ぼんやりでしたけど、先輩の服が濡れてよごれているように見えました」
記憶にない。人違いなんじゃないか。
でも、八重樫くんは人のことをちゃんと見ているし、日記だって書いて、なんでもしっかり覚えているから信ぴょう性は高い。思い返してみれば、出会ったときから、はじめましてじゃない雰囲気を彼から感じていた。
時間で言ったら五分、十分もかからない出来事。それが、八重樫くんにとってはとても大切な思い出だった。
俺の頭には彼と言葉を交わした記憶はない。それこそ、眼鏡からコンタクトに変えて、今ではさっぱり髪の毛を切ってしまった彼は、過去の彼と似ても似つかないはずだ。
覚えていないのも無理ない。だって、俺にとっては日常の五分程度のことで、衝撃的な出来事じゃない。困っている人が居たら中学の俺は助けただろうし、今だって困っている人が居たら放っておけない性格だと自負している。損な性格だってよく言われる。
少しずつ、彼から感じていた違和感がパズルのピースの様に埋まっていく。彼は昔を懐かしむように柔らかい表情で、低く耳をくすぐる声で言葉を紡ぐ。
「貴方は覚えてないかもしれませんが、俺にとってはすごく嬉しかった出来事だったんです」
「それを、数年覚えてて……ラケットも、もしかして?」
彼は肯定の意味で首を縦に振る。
「ほら、重いでしょ。先輩、重い人嫌いそうだから。けど、素直に言ったほうが良いって先輩前に言ってくれたので」
遠征の時、と八重樫くんは付け加える。
「それじゃ、帰りましょ。帰り寄りたいところあるんですけど、一緒に行きませんか?」
彼はコロッと表情を変え、自分の自転車の鍵をガチャリと外した。
まるでそれまでのことがなかったかのように、彼はせっせとパンパンのリュックサックをカゴに詰め始める。
(な、なんでサラって言って、切り替えられるの!?)
聞きたいことは山のようにできてた。
俺のラケットを見て同じの買った? とか、コンタクトにしたのも、イメチェンしたのも俺に気にいられたくて、とか。
もしかして、ラブレターもわざと落としたんじゃ……
八重樫くんはその場から動けなくなった俺のリュックをひょいと奪って、俺の自転車のカゴにズボッと入れる。なんで、俺の自転車が置いてある場所覚えているんだろう。
頭の中は、嫌われるんじゃと思ったパニックから、なんでなんで? と彼の言動にパニックを起こしている。
肝心なところは言ってくれない。察してくださいって感じでもない。ちょっと不親切だ。
(……なんて俺が言えないけど。でも、でも、八重樫くんって……!!)
「俺のこと好きすぎるだろ……」
「先輩、早く行きましょう」
「もー八重樫くんそういうところ!!」
見返りを求めないのは彼の優しさか、性格か。
心臓がありえないほどバクバクと鳴っている。嫌なことも全部八重樫くん一色で塗りつぶされていく。
俺よりも大きな自転車のハンドルを握る彼は、どれだけでも待つよといってくれている気がした。



