八重樫くんが落としたのは書きかけの激重ラブレター~しかもどうやら俺宛てっぽい!?~

 梅雨が到来し、あちこち湿っぽい匂いで満たされていた。
 二年生に上がって初めてのテスト期間。部活も禁止期間に入り、学年の違う八重樫くんとの交流はここ数週間ドッと減ってしまった。
 一泊二日の遠征は何事もなく終わり、いつも通りの日常へと戻っていった。五月が過ぎるのがこんなに早く感じられたのは人生で初めての経験かもしれない。来年はもっと早く過ぎ去っていく気がして怖い。
 高校入学時に買い替えた白いスマホを取り出し、メッセージアプリを開く。トップに緑色の通知が来ているのを見つけると、ついフッと笑みがこぼれてしまう。
「何ニヤニヤしてんだよ」
「別にニヤニヤしてないし」
「いーや、してたね。なんだよ、八重樫から?」
「どうしてわかったの?」
 マジか、と夕也は当てずっぽうだったのにといった表情で俺を見ている。
 遠征の帰りに八重樫くんと連絡先を交換した。それまでしていなかったのが不思議なくらい距離が近くなったというのに、連絡先の話をしたのはあのときが初めてだった。
 どういった流れでそうなったか覚えていない。成り行きで「そういえば、連絡先知らないかも」と俺が言ったのかもしれないし、あっちが「連絡先教えてください」って言ったのかもしれない。連絡先を交換して空、ここ最近俺のメッセージアプリのトップには八重樫くんが表示されている。黒茶色のポメラニアンの後姿が彼のアイコンだ。背景はどこかから撮った夜景のようで、工場地帯が広がる海岸沿いの眩い写真だった。
「なんか、人生初めて恋人できたみたいな顔してるよな」
「してないよ。何その例え」
「鏡見せてやりたいわ~それか、写真撮ってやろっか?」
 俺の目の前の席にドカっと座った夕也は、背もたれを強く握って身体を半分こちらに向ける。それから、俺のスマホを覗き込もうとしてきたので、慌てて通知をオフにした。ちぇっと短い舌打ちが飛んできて、見せろよと言わんばかりの表情を向けてくる。
 大したやり取りはしていないし、夕也の言うように恋人? みたいなイチャイチャしたような内容もない。見せられないものじゃないが、見られたくはない深層心理が働く。
 本当に何気ない普通のやり取り。でも、毎朝「おはようございます」と二足歩行の犬か猫か分からないスタンプが送られてくる。寝る前も同様に「おやすみなさい」と同じ作者のスタンプがポンと一つ。
 たったそれだけのやり取りだし、時々八重樫くんが撮った面白い写真が短文と共に添付される程度。近況報告みたいなやつだ。最近は、靴下を片方ずつ間違えたなんていう報告の写真が送られてきていた。
 これまた面白いのが、リアルで会う彼と同じように、メッセージアプリでのやり取りは極度の短文……単語だったりする。でも、その一言に圧というか思いが込められている気がして憎めない。それと、スタンプの頻度が多い。俺の中で八重樫くんは二足歩行の犬か猫だし、黒茶色のポメラニアンになっていた。
「すっかり仲良しだなーまっ、ここ最近は俺もあってねえけど」
「テスト期間だしね。部活できないのは寂しいけど、ここでちゃんと成績おさめておかないとさ」
 スマホにぎゅっと親指を押し当てる。
 部活が続けられているのは成績をキープしているからだ。ここから落ちようものならまたいろいろ言われるに違いない。
「俺は赤点回避できたらなんでもいーし。まひるみたいな文武両道優等生! を目指してるわけじゃないしな」
「でも、文武両道はモテるんじゃない?」
「じゃあ、頑張るっきゃねえな!」
 単純だ。
 夕也は、わざとシャツの袖をまくってない筋肉を隆起させる。それでも、ちょっと俺よりあるのが羨ましい。
 お互い何か目標があったほうが頑張れるだろう。テスト期間はあと一週間。追い込むのは今だ。
「それに、赤点取ったら補充だからね」
「数学落としそーこえぇ」
「俺は、英語かな。コミュ英のほう」
「英語とかいらなくね? 俺生涯国内にいるんでーあと、最近の翻訳すげえし」
 ガタンガタンと椅子を揺らすので、俺の机に乗っていた筆箱が机の端へと追いやられる。
「夕也、そこお前の席じゃないんだし……」
 そう言いかけた時、授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。教室にぞろぞろと人が戻ってき、夕也も「じゃ、またな~」と自分の席に戻っていった。
 半透明の白いカーテンが風に煽られ踊っている。入り込んでくる涼しい風は、人工的にカタカタ音を立てて作られるものより気持ちよかった。天井あたりに着いている扇風機の首は疲れ切っている。
 英語コミュニケーションIIの教科書を机から引っ張り出し、代わりにスマホをそっと置く。すると、ポコンと通知が鳴った。
 通知をきるためスワイプさせれば、通知に八重樫くんからのメッセージを二個見つける。これを確認したら電源を落とそう。素早く画面を開くと、黒い二足歩行の犬か猫かわからない生き物が泣いていて『寂しい、会いたいです』といつもより文章が綴られていた。
(会いたい……)
「スマホの通知切っとけよー」
 教師の声に、机の中に入れていた手がビクンと跳ねる。その際、ゴッと嫌な音を立て手に痛みが走る。
 周囲を確認し「すんませーん」と謝っているクラスメイトを見つけ、俺の通知じゃなかったと胸をなでおろした。でも、通知は切っておいた方が良いだろう。
(……俺も、会いたい。いや、ちょっと重いか)
 いい返事が浮かんでこない。
 しかし、既読スルーするのも申し訳なく、俺は"俺も"と少しでも伝わるように、目を輝かせたスタンプを送って通知をオフにした。


◇◇◇

 
 泣きそうな空が広がってきた。
 自習をして帰ると母に連絡を入れたのは授業終わりだった。テスト期間中はなるべく家に帰りたくないため、ギリギリまで学校にいることが多い。家にいるとつい監視されている気持ちになってしまうからだ。よくない強迫感といったらいいだろうか。少し息が詰まる。
 図書室での自習を終えたころには、最終下校時刻の三十分前になっていた。司書の方がそろそろ図書室を閉めるとのことで、俺は遅くまでありがとうございますと頭を下げ退席する。
 廊下は汚い空の色を映し、終末のような赤黒色に染まっていた。
 下駄箱がある一階へ向かう途中に生徒会室の前を通る。ここもテスト期間中ということで硬く施錠されていた。そんな生徒会室の落とし物ボックスの前を見知った背中が歩いているのが見える。
「八重樫くん!」
 声をかけるか、かけないか。その迷いは一切なかった。
 俺が名前を呼べば、彼は足を止めこちらを振り返る。岩のように硬かった表情が一瞬にしてほぐれ、柔らかいものに変わり「まひる先輩」と低い声が耳をくすぐった。
「今から帰るところ?」
「はい。先生にマンツーマンで教えてもらってたら遅くなって」
 彼の手には紫色のノートと○○検定と書かれた少し分厚め本握られていた。そこにマッキーで書いたような太字で『コミュ英Ⅰ』と書かれている。
 英語の担任といえば難関大学出身の先生で、出来る子に対して贔屓気味……だけど、教え方の上手い人だったと記憶している。八重樫くんは一年生だから俺たちと同じ先生かは分からないが、この時間まで付き合ってくれる先生は少ない。それが仕事と言われたらそうなのだが、一人の生徒に付きっきりで教えるのは珍しい気がするのだ。
「英語苦手なの?」
「いえ、今度英検受けようと思ってて。それの相談とか……補習じゃないですよ」
「あ、いや、疑ってないよ」
 苦手? と聞いてしまったため、そう捉えられてもおかしくない。俺が苦手なこともあってもしかして一緒かもなんて思ったのがダメだった。
 俺は慌てて訂正し、やる気だねと付け加えた。八重樫くんの目はまだ疑り深くこちらに向けられている。
「英検か。俺受けたことないな。やっぱり難しいの?」
「上の級になればそれなりに。検定なんていくら持っててもいいわけですから」
「テスト期間中にまた違う試験のこと考えてるんだ。勉強熱心だね」
「……もっと努力しなきゃって思いますけどね」
「そうなの? 十分すぎると思うけどな」
 やる気のある生徒に教えるのは教師明利に尽きるんじゃないだろうか。
 しかし、八重樫くんの表情は浮かない。少し思いつめたような顔で、眉間にしわを寄せている。
「俺の兄と姉は優秀なので。この時期にはもう少し上の級取ってましたから、俺なんてまだまだですよ」
「優秀って言ってたもんね。お兄さんもお姉さんもそんなにすごいんだ」
「……それでちょっといじけてた時期もありましたけど。勉強はずっと頑張ってる方だと思います。俺、負けず嫌いなんですよね。たとえ二人に追いつけなくても。諦めるの嫌で……熱中すると融通が利かないんですよね。妥協するのも嫌で」
 何を言っているんだろう……と、そこまで言って八重樫くんは頭を掻いた。俺に愚痴を吐く形になってしまったことを、少し後悔しているようだ。
 一人っ子の俺には、きょうだいと比べられる気持ちが分からない。でも、彼が口にしてくれたことや雰囲気から、プレッシャーだったり、比較されることへの重圧だったりを感じる。本人が一番ストレスを感じているのだと見るだけでわかった。いつもは見せない悲しそうな顔だ。
「比べる必要はないんじゃないかな。妥協も、しなくてもいい」
 劣等感や、強迫観念。
 自分を追い込んでしまうことっていっぱいあると思う。俺だって囚われていることはあるわけだし。けど、それをポジティブに捉えて、いいプレッシャーにできているならそれでいいんじゃないだろうか。
 比べてしまう気持ちも分かるけど、俺は頑張っている人が単純に好きだから応援したい。
「頑張ってる君にこんなこと言うのも違うってのはわかってるけど。俺は八重樫くんのその姿勢好きだよ。頑張ってる君が好き、かっこいい」
「まひる、先輩」
「俺、英語苦手だから。英語頑張ってる八重樫くんはかっこいいと思うよ。教えてほしいくらい……って、俺が先輩なんだった」
 後輩に教えてとせがむ先輩にみたいになって恥ずかしい。
 暑くなった頬をさますために、パタパタと手で仰いでいれば、その手首を彼に掴まれてしまった。
「あ……すみません。あと、ありがとうございます」
「俺は正直な気持ち伝えただけだよ。君は俺のこと尊敬してるって言ってくれたけど、俺も今の八重樫くんのこと尊敬してる。テストも、検定も頑張ってね。もちろん、テスト終わった後のバドも」
「はい。先輩に会えて元気出ました……会えなくて寂しかったので」
「そ、言ってたよね。メッセージで」
 彼から来たメッセージは覚えているが、自分はなんて返したかあまり覚えていない。
 彼のへにゃっとした嬉しそうな表情が直視できず、窓の外へ視線を向ける。すると、泣きそうだった赤い空は真っ黒に染まり、ぽつぽつと大きな雨粒が落ちてきた。次第に雨音は激しくなり、一瞬にして外は灰色と白で覆われてしまった。
「雨だ……」
 最終下校時刻を告げる蛍の光が校内に鳴り響く。しかし、そんな音を、激しい雨音がかき消していた。
 下駄箱まで降りて靴に履き替えるが、この様子では駐輪場は酷いことになっているだろう。自転車で帰るのは危険だし、合羽なんて持ってきていない。しかも、いつも入れているはずの折り畳み傘は家で干しているためリュックに入っていなかった。
 どうしたものかと真っ白な校庭を眺めていれば、一年生の下駄箱の列から八重樫くんが顔を出した。
「まひる先輩、傘ないんですか?」
「家で干してて。今年の梅雨あまり雨降らないから油断してた」
「俺のに入って帰りますか? 家の方角も一緒ですし。途中まで一緒に……嫌じゃなかったら」
 黒い折り畳み傘を差し出すと、俺の顔を覗き込むように聞いてくる。八重樫くんの手に握られているからか、折り畳み傘はとても小さく見える。一人でも大きなリュックは半分濡れるだろうに、二人で入ったらどうなることか。
 でも、誘わりを断れるほど家までの距離は短くない。せっかくの申し出だし、断るのも悪い。
「じゃあ、一緒でいい?」
「もちろん。嬉しいです」
「メッセージ送ってくるくらい寂しがってたもんね」
「先輩はどうなんですか。あのスタンプ、どういう意味ですか」
「スタンプ?」
 何を送ったっけ?
 スタンプを確認しようにもスマホはリュックの中だ。
 八重樫くんは傘を開きながらこちらの様子を窺っている。しわくちゃな傘は心細い骨で組まれていて、強い風が吹けばひっくり返ってしまいそうだった。
「キラキラした目のやつです……意味とかないかもしれませんけど」
「俺も、会えなくて寂しいなって思った、かな。多分、そういう意味で送ったんだと思う。数週間会えてないだけなのにね」
「……まひる先輩も寂しかったんですか」
「いつもよりスタンプ多かったから、八重樫くんがいないーって感じはしなかったけどね」
「それは良かった……んですかね」
 雨と屋根の境界線まで歩き、リュックを背負い直す。どう考えてもこの傘では濡れることは確定だ。
 意を決して二人で外へ出れば、途端に傘に大量の雨粒が突き刺さった。右の肩は一瞬にして濡れていき、高い気温に関わらず寒く感じた。
 八重樫くんの方を見れば、俺よりも濡れダメージが大きい。肩も広いし、俺の方に傘を傾けてくれているからか雨に打たれる範囲が広かった。
 校門まで何とか歩けば、生徒指導の先生と目が合う。先生は傘に合羽と重装備だが、白く曇った眼鏡を下げて俺たちの顔を交互に見る。
「傘忘れたのか。職員室で借りてこい。風邪ひくぞ」
「家まで近いんで大丈夫です」
 八重樫くんは、生徒指導の申し出を断り頭を下げる。俺もつられて頭を下げ校門を抜けた。
 確かにその手があった。しかし、ここまで来て職員室に戻るなんて言い出しづらい。たまにはこういうのも悪くないし、久しぶりに彼の生声を聴けて俺も嬉しかった。そんなことを思いながらふと彼のリュックに目をやれば、傘のハンドルと思しきプラスチックが飛び出しているのが見えた。
「八重樫くん、傘」
「傘がどうしました?」
 もう一本……そう言おうとしたが、彼と目が合った瞬間言わない方が良いと直感的に思った。
 彼の顔はいつも通り仏頂面で何を考えているか分からない。また伸びてきた前髪が眉にかかって張り付いている。
(一緒に帰りたいから、嘘ついた……とか)
 そんなわけないか。
 考えすぎ……ラブレターのときだって……
「ラブレター……」
「まひる先輩、何か言いました?」
「いや、なんでも! もっと引っ付いた方が良いかな。ほら、五センチ……くらい、距離ある。もったいないよ」
「それ、もったいないっていうんですかね」
「八重樫くん濡れてるし。てか、俺が傘持つよ。入れてもらってるわけだから」
 細い柄を持てば、八重樫くんは意外にも手をパッと離した。ただ、俺たちは身長差があるから、彼の頭が俺に近づく。屈まないと傘の内側に頭が当たってしまうようだ。
 自分から言い出しておいて、八重樫くんが歩きづらそうにしているのを見ると申し訳なくなってくる。けど、今更返しづらいし。自分の計画性の無さにちょっと絶望する。
「ごめん、こんな身長差あると思ってなかった。てか、結局濡れてる」
「もっと近づけば、あと少しくらい濡れなくなるかもしれません」
「じゃ、じゃあくっつく?」
 今でも十分近いのだが――そう思っている間にも彼はグッと俺に近づいてきた。身体を少し斜めに向けたが、彼の肩がトンとぶつかった。雨の匂いに交じって爽やかなシトラスの香りが鼻腔を通り抜けていく。
 少し背を丸め、首を下げた状態の八重樫くんは窮屈そうだが、綺麗な口の端がきゅっと上に持ち上がっている。
 いつもより距離が近いから、顔もよく見える。
 心臓の鼓動がいつもより早いし大きい。もし、聞かれたらどうしようとさらに意識すれば、顔まで熱くなってきた。
(何で、俺……)
 八重樫くんはただの後輩で、でも会えないと寂しいと思っちゃったりして、一緒にいると楽しくて、ドキドキする。
「先輩、顔赤いですけど。風邪ひいたりしてませんよね」
「全然! ち、近いからかな。暑い」
「けど、離れたら濡れますよ」
 それもそうだ。
 そういえば、八重樫くんは車道側を歩いてくれている。以前までは俺がそっち側だったはずなんだけど、今日は偶然たまたまなのだろうか。
 寂しいスタンプ、二つ持っている折りたたみ傘……ラブレター……二か月一緒にいても分からないことが多い。もっと知るためには、もっと踏み込むべきだ。
(今はまだこの距離感で……)
 せいいっぱいだ。
 雨はやまない。しかし、彼とくっついているからか、先ほどより右肩にかかる雨の量は少なくなっているように感じた。


◇◇◇

 
 テスト期間開け初日、本来なら部活があるはずだったのだが顧問の予定で急遽休みになってしまった。
 ラケットとリュックを背負って部室の前まで行けば、ちょうど八重樫くんが来ていた。
「休みらしいですね。ここに来たとき知って。テストお疲れさまでした」
「八重樫くんもお疲れ。バド解禁って楽しみにしてたのにな」
「まひる先輩らしいですね。じゃあ、今日はこのまま帰るんですか?」
 背中にラケットが見え八重樫くんも俺と同じようにバドミントンを楽しみにしていたようだ。夕也は連絡が来るや否やカラオケの予約をして颯爽と帰ってしまった。テストが終わった瞬間は「補習だー赤点だー」とわめていたが切り替えが早い。昴に関しては理系なので、テスト期間中一切話すことはなかった。それにテスト期間中は塾に箱詰めにされていただろうし、部活だって週に一回、二回きたらレアなほうだ。
 暇を持て余してしまい、どうしたものかと考える。そういえば、春休みに三人でいったラーメン屋にもう一回行きたいなと思って数か月経ってしまったんだった。今日は母が遅番だから夕食は別だ。
 鍵の開いていない部室の扉を見ていた八重樫くんに、思い切って声をかける。
「よかったら一緒に帰らない? 行きたいラーメン屋があるんだけど。夕ご飯一緒にどうかなって」
「まひる先輩とですか?」
「二人はいないよ。それに、この間の傘のお礼……八重樫くん、今更聞くけどあの後風邪ひいたりしなかった?」
「大丈夫でしたよ。先輩こそ、風邪ひいてませんか?」
「俺は君が傘をさしてくれたから平気」
「……じゃあ、一緒に行きたいかもです。行きたいです」
 力強く言い直し、目を輝かせる。
 八重樫くんなら乗ってくれると思っていた。
 傘のお礼というのはちょっとした口実だ。部活以外で八重樫くんと関わることはあまりない。しょっちゅうメッセージのやり取りはしているが、個人的な付き合いまではいっていない。時々一緒に自転車を押して帰るけど、話していればあっという間についてしまうので物足りない。それこそ、雨の日みたいにいつもの二倍時間をかけて歩くなんてしないと、男子高校生の足では自宅まですぐなのだ。
 結局ラブレター事件(って俺が勝手に言ってるだけだけど)から数か月経ったが、あれ以降何もない。変ったことといえば、日誌に書かれている八重樫くんの文字が日に日に丁寧になっている……ことくらいだろうか。
 俺は乗り気な八重樫くんに「いこっか」と声をかけ駐輪場まで歩く。
 駐輪場は学校の裏手にあり、何台もの多種多様な自転車が並んでいる。たまにマウンテンバイクが置いてあってびっくりするが、大体はカゴが大きいママチャリだ。
 八重樫くんは黒い自転車を持ってきて、カゴパンパンにリュックを詰めていた。俺はこの間の雨で勢いよく倒れてしまって前のカゴがへこんでいる。
「テストどうだった?」
「ぼちぼちだと思います。空欄は作らないようにしてます」
「俺も。アとか、ウとか。記号問題はとにかく埋めるようにしてるかも。まぐれで採れる可能性もあるし」
「あれって、必ず選んじゃダメなやつ入ってるので消去法できるんですよ」
「そうなの? なんか、コツとか……あ、八重樫くんってこの春まで受験生だったのか」
 三月までは中学生だった。受験勉強から解放されたと思ったらまたテスト。学生のうちは仕方がない。
 テストに対する不安はまったくないようで「問題用紙返してもらったら自己採点できるんですけどね」と意識高い発言をしていた。うちの学校は問題用紙も回収されるので自己採点ができない教科が多い。
 いつもとは違う道を進み、遠回りをすれば、春休みに行ったラーメン屋が見えてきた。まだ夕時ではないので空いており、無料の駐輪場に自転車を止める。
 店内に入ればいらっしゃいまーと元気な声が出迎えた。
「まひる先輩よく来るんですか?」
「ううん、二回目。俺ラーメン好きで、いろんなところ巡ってるんだけど、ここのラーメン一度食べてから忘れられなくなっちゃって」
「まひる先輩の好きなもの知れて嬉しいです。誘ってくれてありがとうございます」
「八重樫くんはなんでも喜んでくれるから、連れてきたかいがあるよ。俺の奢りだからね」
「そんなことないですよ。奢りって、割り勘でいいです」
「お礼なんだから、奢られて」
 律儀でこういう時に譲らない八重樫くんには、ちょっと強引に詰め寄った方が良い。なんとなく彼の性格が分かってきた。
 八重樫くんは、俺の圧に気おされてか「わかりました」といって、からのコップに水を入れ、俺の前にコトンと置いた。
「それで先輩のおすすめは? 出来るなら、先輩のおすすめ食べたいです」
「ほんと!? 俺、同士が周りにいなくて。あの二人もラーメンは好きなんだけど……八重樫くんはいける口?」
「同士……?」
 メニューをパラパラとめくり、俺は真っ赤なページを指をさす。
 八重樫くんの視線が下に降り、ごくりと大きな喉ぼとけが上下した。半分開かれた口は、水分っけがない。
 家の近くにあるラーメン屋の中ではここが一番だ。
「俺、激辛大好きなんだよね」

「これ、人が食べても大丈夫な色なんですか」
「八重樫くん、本当に食べられる? 無理しなくていいからね」
 大きな喉ぼとけが上下する。大丈夫なんて口では言っているが、彼の目は完全に泳いでいた。
 目の前に出されたラーメンは、ぐつぐつと地獄の釜でに詰められたような真っ赤な色をしている。
 俺は激辛が大好きで、その中でも特にラーメンが大好きなのだ。近所でこの色と、味の激辛ラーメンが食べられる店はここしかない。春休みに夕也たちとここに来たが、二人とも俺の食べている激辛ラーメンを見てドン引きしていた。八重樫くんは、二人と似たような反応だったが、俺のことを傷つけまいと平生を装っている。
 とはいえ、激辛好きの俺でも汗が滝のように出てくるラーメンなので気合を入れなければならない。シャツのボタンを一個二個と外し、割り箸を割る。今日はきれいに割れたからきっと間食できる。
 八重樫くんはそんな俺を見てか、同じようにシャツのボタンをプチプチと外し、ふぅと深く息を吐いた。
「いただきます」
 レンゲでスープをすくえば、程よく脂ののった赤いスープが鼻腔を刺激する。スッと唇につけるだけでピリリとした痛さが刺す。麵をすすれば、舌いっぱいに痺れを伴った熱が伝わる。このピリッと来るのが癖になるのだ。
 一口すすった八重樫くんは、きゅと下唇を噛み水に手を伸ばす。
「八重樫くん、水飲むと辛いの回っちゃうよ」
「そ、なん、ですか」
 骨ばった手が、グーパーと繰り返す。
 やっぱり無理してる。
 俺は、取り皿に一度移してから食べたほうが食べやすいかもとアドバイスを送り、引き続き麵をすすった。
 彼も頑張ってちまちまと食べ進め、デザートにアイスを二つ注文していた。大きな彼が背を丸めて、激辛ラーメンに必死になっている姿が俺の目に可愛く映る。猫舌なのか、何度もフーフーしているところもかわいい。
(八重樫くんってかわいいな……)
 俺より大きくて、頼りになって、でも仏頂面でいることが多い未だ謎の多い後輩だ。けど、彼も一人の男子高校生なんだなって思ったし、そこがかわいいと思う。今らなら女子が頻繁に言う"かわいい"が分かる気がする。
「すご……まひる先輩、スープまで飲んで」
「スープまで合わせてラーメンだから……って、つき合わせちゃったよね。ごめん」
「食べるって言ったの俺ですし。それに、まひる先輩のことまた一つ知れたこと嬉しいですよ。また連れて行ってください。それまでに辛いの克服します」
「克服って……苦手なままでも十分だよ」
「いえ、克服します」
「や、やる気だね……」
 スイッチがどこで入るかよく分からない。闘志に燃えた八重樫くんの目はメラメラと炎が見えた。そういえば、負けず嫌いといっていたっけ。
 彼がそういうなら、また誘ってもいいのかな。
 机の下で指を組み替える。
 無理してつき合わせているなら……そう思ってしまうのは悪い癖だ。
 俺は一つのことに熱中していたいし、周りと同じ温度でやりたいと思う。しかし、現実同じ方向を向いて同じ熱量でやってくれる仲間に出会える確率は低い。それが嫌だとは思わないし、皆に合せるのが辛いわけじゃない。それに、俺は諦め癖がある。周囲と迎合したほうが楽だと思うのも――
「アイスめっちゃ食べてすんませんでした」
「いいよ。辛かったもんね。八重樫くんは甘いのが好き?」
「どっちかっていったら甘いのが好きです。もっと言うなら、かわいくて甘いの」
「マカロンとか?」
「ふっ……確かに、マカロンは小さくてかわいいですね。あれとか好きです、ケーキの上に乗ってる小さいサンタとか」
 何それ可愛すぎないか?
 トスッと胸に太い矢が刺さる。これがギャップ萌えというやつか。
(それに、笑って……)
 太い眉と切れ長の目が若干下へ下がっている。ラーメンの脂が残る薄い唇は艶々と輝いていた。
 少し恥ずかしそうに自分の好きなものを口にした八重樫くんだから、俺の好きなものも否定しないんだろうなというのが伝わってくる。俺のことを受け止めてくれている気がするのだ。なんて都合がいいかもしれないけど。
「八重樫くん、次の予定立てよ」
「次の予定ですか?」
 リュックの外ポケットからスマホを取り出しカレンダーを見せる。部活がある日は、バドミントンの絵文字がついているカレンダーを見て「バドだ」と八重樫くんは目を丸くする。
「次の予定があったほうが楽しいし、俺が八重樫くんと予定あわせてどこか行ったりしたい。放課後でもいいし、土日でも」
「予定……」
「今日みたいなのでもいいよ。突発的に……俺が誘うから。もちろん、嫌じゃ――」
「ないです。嫌じゃないので。まひる先輩、嫌とか無理とか言わないでくださいね」
「え……と」
「先輩の悪い口癖ですよ。俺のこと振り回してくれてもいいです。コート上のまひる先輩は、俺のこと気にしたりしないでしょ」
「コート上のって」
「先輩は強いから、それに必死に食いつこうとしてるんです。俺、先輩が思ってるほど強くないですから。けど、加減してほしいなんて思ってません。とにかく、約束ですよ」
 スマホの上に小指が乗せられる。その拍子に、画面がスワイプされ変わってしまった。カレンダーは八月になっている。
 悪い癖。後輩に指摘されるなんて思っていなかった。でも、それだけ俺のことをよく見ているということだ。
 わかった、と返して彼の小指に自身の指を絡める。やっぱり並べてみると大きさが違うのがよく分かる。
「次の予定は楽しみですよ。楽しみすぎてにやけてます」
「それでにやけてるの?」
「にやけてます。よかったら、俺からも予定いれさせてくれませんか」
「いいよ、どこか行きたいの?」
「決まってないですけど、かわいいパン屋さん巡りとか?」
「何それ。面白そう」
 パン屋じゃなくて、パン屋さんなのがポイント高すぎる。
 ギュッと小指を握れば、それに応えるようにギュッと締め返してくれる。けど、よっぽど嬉しいのか加減を知らない締め方で、骨が当たって少し痛かった。