八重樫くんが落としたのは書きかけの激重ラブレター~しかもどうやら俺宛てっぽい!?~

 相変わらず今日もバドミントン部は体育館の端へ追いやられている。
 新入生歓迎会を経て、部の結束ややる気は格段に上がった。ステージでスマホを弄っている時間も減り、積極的にネットを張ったり、支柱を立てたりコートを準備する後輩の姿が見られるようになった。
 三年生もようやく引退の二文字を意識するようになったのか、二年生を誘って練習試合に励んでいる。
 俺たちも一年前はこうだったようなあ……なんて思い出に耽りながら、ウォーミングアップをしていれば、頭上に黒い影がかぶさった。
「まひる先輩、本日もよろしくお願いします」
「八重樫くん。こちらこそ」
 見下ろされると圧を感じる。
 でも、以前より視界の晴れたためか、顔がはっきりと見えてより男前が強調されている。
 八重樫くんとは、新入生歓迎会以降また少しだけ距離が縮まった気がする。俺だけじゃなく、夕也たちにもかかわってくれるようになりすっかり二年生とは打ち解けた。同学年の女子たちには苦手意識があるようで、気付けば彼女たちの輪の中からスッと抜けだしてくる様子をよく見かける。
 あの日、八重樫くんと家が近いことを知り、今度一緒に帰ろうなんて約束をしたばっかりだ。中学が一緒だから、近い地域には住んでいるだろうと思っていたが徒歩圏内にいたのは驚きだ。
 彼は挨拶を済ませ、ウォーミングアップを始める。ステージに置かれた白いラケットは、やっぱり俺と同じものだ。
「そういえば、八重樫くんって俺と同じラケット使ってるんだね」
「そうですね。かっこいいので」
「だよね! 俺も一目惚れして買ったから。八重樫くんと趣味合う気がする」
「この間、板倉先輩が俺のラケットとまひる先輩のラケット間違えてましたけどね」
「同じの使ってれば、そういうこともあるよ。ここだけの話、夕也のラケットは触らない方がいいかも。すっごい大事にしてるから、あと高いやつだーって自慢してたし」
「板倉先輩っぽいですね」
 八重樫くんの後ろに回り、背中を押す。彼は身体が硬いのか少し押しただけでも、大きな背中がプルプルと震える。何だかそれがかわいくて笑えば、恥かしかったのかほんの少しだけグッと身体を前へ倒して見せた。
 夕也のラケットは、五万円ほどしたと本人が言っていた。
 スポーツはお金がかかる。今のラケットも思い入れがあって好きだが、寿命もある。緩んだガットや、すり減ったシューズを使い続けると、今度は怪我をしてしまう。そういった理由から、母に何度も「部活辞めて、塾に入りましょう」と言われたし、ついでに塾のパンフレットを渡されたこともある。俺は、引退まで部活を辞める気はないと伝えているが、どうなることか先が見えない。
「八重樫くん、イメチェンして前より明るくなったよね」
「慣れないことするもんじゃないなって思いました。一層、女子に囲まれてる気がします」
「そりゃ、かっこいいからね。週明けも言ったけど似合ってるよ。俺は、今の八重樫くんのほうが好きだな」
「ならよかったです」
 彼と関わるようになって分かったことがある。
 八重樫くんは、表情には出ないが感情が声に出るということ。それも微々たる差ではあるが、聞き分けることは可能だ。
 もさっとした髪はかなり整えられ、爽やかになった。そのせいか、隣のコートで練習をしている女子バスケ部の部員が休憩がてらネット越しに八重樫くんを見に来るようになったが、本人は以前より気にしていないらしい。髪の毛を切るだけでその美貌が磨かれるなんてまるで漫画みたいだ。実際、八重樫くんの顔は整っているし、身長も高い目立つ。俺にはないものばかりだ。
 バドミントンに打ち込んでくれるなら俺としては何も言うことはない。夕也のように嫉妬することもないし。
(俺も、髪の毛伸びてきたしきろっかな)
 ちょいちょいと前髪を触る。以前美容院に行ったのはいつだっただろうか。
「まひる先輩。今日、俺鍵担当なんですけど一緒に帰りませんか?」
「いいよ。部室のゴミもたまってきたから、八重樫くんが鍵返しに行っている間に片づけておくよ。一緒に帰るの何気に初めてだね」
「これまで先に帰ってたんで。家も近いですし、一緒に帰らない理由もないですから」
 彼の背中からぽぽぽと花が散っているのが見える気がする。
 同級生とばかり話していたから、こうして後輩ができたのは嬉しい。すっかり、頭の中からラブレターは消え去り、八重樫くんは部活で仲のいい後輩ポジションに収まった。
「また、二人でイチャついてんなー」
「イチャついてるってなんだよ。後輩とバドの話してただけだし」
「いや、イチャイチャだな。女子たちの恨めしそうな声が聴こえねえのかよ。俺、フリーですっていってこよっかな」
「やめときなよ……部活居づらくなるよ」
 ラケットをブンブンと振り回しながら夕也は「あ~イケメンが憎い~今世徳詰んだんでイケメンでぇ」とぼやき始める。
「まひる先輩、俺、今日も部活頑張れそうです」
「うん、頑張ろうね」
「先輩がいるからですよ」
 ストレッチを手伝うため彼の肩に乗せていた手にそっと手が重ねられる。引こうとしても強く握られた手はびくともしなかった。俺よりも骨ばった大きな手は、沸騰したお湯のように熱く溶けてしまいそうだった。


◇◇◇


「すっかり、バド部の部員って感じだね」
「鍵を返しに行っただけですよ。俺以外でもできます」
「八重樫くんはわかってないなあ。バド部の鍵っていうのが大事なんだよ」
 体育職員室まで鍵を返しに行った彼が部室に戻ってくる。俺もちょうど掃除を終えたところなのでタイミングばっちりだ。
 まだ制服に着替えていない八重樫くんは、自分のロッカーの前まで行ってバサッとユニフォームを脱ぐ。ロッカーにほうきを入れ終わり彼の方を見れば、筋肉の発達したたくましい背中が目に飛び込んできた。
「どうやったらそんなに筋肉付くの?」
「……え、と。まひる先輩、今俺のこと見てますか?」
 あ、と口から洩れる。
 彼はシャツを急いで羽織りこちらを向く。額には爽やかになったばかりの前髪が汗でくっついている。
「ごめん、つい」
「いや、着替えるのが遅い俺が悪いですよ……筋肉フェチなんですか?」
「フェ……!? そこまでじゃないと思うけど。理想はあって。俺、筋肉つきにくい体質っぽいから憧れるなとは思う」
「そうですか」
 リアクションが薄い。
 八重樫くんと関わるようになって分かったこと二つ目。彼は話題を広げるのが壊滅的に下手ということ。何度か試しているが、彼はボールをキャッチしてくれても、投げ返すのが下手みたいだ。ポンと投げたボールはそこで止まってしまう。
 そそくさと着替え、ネクタイを締めた彼は「帰りましょうか」と先ほどの話題を流して声をかける。広げにくい話題を振った俺が悪いんだけど、もう少し筋トレの話とか聞きたかった。
 部室を出れば、すっかり日が沈んでいた。ラブレターを拾ったあの日もこれくらい外がオレンジ色に染まっていた気がする。
 駐輪場までいって自転車のカゴにパンパンなリュックを詰める。それから、一列になってカラカラ車輪を鳴らしながら歩いた。
 八重樫くんが前を歩いていることもあって、全く前方が見えない。
「先輩と帰れるの夢みたいです」
「大袈裟だな。でも、歓迎会以来だよね」
「誰かと帰るのって楽しいですね」
「う、うん」
 楽しんでくれているなら何よりだ。
 コミュニケーションに難ありだが、彼なりに会話をしようと心がけているのが伝わるので突っ込まない。
 カラスの声が二重、三重となって聴こえてくる。街灯の明かりがぽつぽつとつき始めたら、夜の気配を感じた。
「八重樫くんって中学時代はどんな感じだったの?」
「中学ですか?」
「答えたくなかったら無理に答えたくなくていいよ。せっかく一緒に帰れるから、君のことをもっと知っていきたいなって思ってさ。ほら、部活中はバドのこと考えてるでしょ?」
「まひる先輩らしいですね。そこが好きです」
「あ、ありがとう。どうかな? 一つ質問したら、俺も一つ答えるから」
 交換条件のようになってしまったが、これなら少し会話のハードルは下がったんじゃないだろうか。
 どうだろう、と彼の背中を見てみれば「中学時代の俺」とぽつりぽつりと話し始めた。
「冴えないボッチでした」
「冴えないボッチ」
「友だちいなくて。あとは、生徒会長の弟みたいな」
「俺たちが入学したとき生徒会長のあいさつしてた人だよね。記憶にうっすらあるよ」
「俺が入学したときには高校に上がってたんですけど。姉とは三つ、兄とは五つ離れてるんで」
「八重樫くん末っ子なんだ」
 俺は一人っ子だからきょうだいがいるのは羨ましい。しかし、八重樫くんはあまり嬉しくない様子で自転車を押していた。
 優秀なお姉さんやお兄さんが居たら比べられてしまうものなのか。そういう感覚は一切分からなかったが、末っ子なりの苦労はあるのだろう。それこそ、上が優秀であればあるほど劣等感を抱くこともあるのかもしれない。
 八重樫くんは、簡易的な兄姉の紹介をしてくれた。それがあまりにもAIに聞いたときの回答のように温度がなかったから、きょうだいに対して複雑な思いを抱えているのかと邪推してしまう。
「伸び伸びやってますけどね。末っ子なんで。きょうだい仲悪いわけじゃないですし、むしろ年の離れた俺のことかわいがってくれて。末っ子ポジション満喫してますよ」
「楽しそうだね」
「そりゃ、いじめられるよりは」
「きょうだいでそういうのあるんだ……俺一人っ子だからわからないかも」
「親からの関心はあまり向けられないですけどね。上が優秀過ぎたから高望みされていただけかもしれませんけど。その点、まひる先輩は一人っ子ですし」
 ハンドルを握っていた手に力が入る。キュッと音を立ててタイヤがアスファルトを擦った。その音に気づいてか、八重樫くんは脚を止める。
 俺も偏見を持って話してしまったし、彼がそう思うのも無理はない。一人っ子だから、末っ子だから。家庭によるのかもしれないけど。
「まひる先輩?」
「あーそうだね。親とは仲いいよ。よく話すし」
「俺、あんまり話さないんですけど。親と何話すんですか?」
「学校のこととか? でも、事務連絡かなあ。この年だし。あと、俺たち男子だし」
「関係、あるんですかね。気まずいかもってのはわかります」
 思春期だしね、と俺は笑ってブレーキを緩める。笑い飛ばせば、彼もつられて笑ってくれた。
 指先がベルに当たれば、チリンと涼しげな音を響かせたのだった。


◇◇◇

 
 大型連休の渋滞に見舞われつつ、顧問が運転するマイクロバスは無事遠征先に着いた。
 普段の部活と練習内容は大きく変わらないが、いつもと違う場所ということで皆テンションが上がっていた。皆の楽しみは夕食だったり、ホテルに泊まれるっていう非日常感だったりするのかもしれないが、実は俺もちょっと楽しんでいたりする。プチ旅行気分で、しかも大好きなバドミントンを一日中考えていられるのだ。こんな楽しい時間はない。
 少し薄めに作ったスポーツドリンクの減りはいつもより早い。
「連休中もバドってハードだなあ」
「うちの部活は緩いでしょ。それに、嫌だったら欠席もできたと思うけど?」
「真剣にとんなって。まひるはかたいなあ」
「……昴も一緒にこれてよかったね。連休中って塾休みなの?」
「いや? 無理言ってそっち休んできたから。この一泊二日はバド漬け。それに、お前らとの思い出も作っておかなきゃな」
 グリップを巻き直しながら、昴は白い歯を見せて笑う。落ちてきた眼鏡はいつもと違う体育館の照明を受けて光っていた。
 昴は理系だし、すでに進路を考え始めている。もしかしたら、大学に行ったら離れ離れになってしまうかもしれない。それ以前に、来年は夏の大会が終わったら受験に腰を据えなければならないから、思い出を作るなら二年生のこの時期だろう。
 コートを飛び交うシャトルを見ながら、来年の試合は自己ベストを更新しようと目標を立てる。できるなら県大会にも出たい。全国なんて夢だけど、大学進学後も続けたいとは思っている。
「どうも」
「うぃーっす、八重樫お疲れ」
「八重樫くんお疲れ。はい、タオル」
 練習試合で圧倒的な得点差をつけて帰ってきた八重樫くんは、俺の隣に腰を下ろす。彼は袖口を額に擦りつけ汗を拭っていた。額には小粒の汗がぽつぽつと浮かんでおり、広い肩は上下に何度も動いている。
 持ってきていたタオルを渡せば、短いローディングの時間を挟んで受け取ってくれた。
「これ、まひる先輩が使ってたやつですよね」
「変えいっぱい持ってきたから使っていいよ。あと、塩分タブレット」
「至れる尽くせりだな、八重樫。感謝しろよー」
「感謝するのは、まひるにだけどな。まひるも世話焼きだな。八重樫がお前なしじゃ何もできなくなったらどうするんだ」
「八重樫くんは年の割にしっかりしてるからそんなことないって。ね!」
「……ん」
 八重樫くんは俺たちの会話に耳を傾けながら、塩分タブレットのビニールをビッと開け、口の中に放り込みコロコロと転がし始める。タオルは首にかけたまま使っていないのか、未だ汗が滴っていた。
「そういや、まひるの鞄パンパンだったな。タオル何枚持ってきてんの?」
「たくさん? 要らないって言ったんだけど」
「あー……察し。まひるのお母さんって過保護もんな」
「超、いや鬼過保護だったみたいな話前に聞いたわ」
 二人とも「あー」と間延びするように言って、止めるかこの話題、と顔を見合わせている。俺のせいで気を遣わせてしまって申し訳ない。
「そうなんですか?」
「どうだろ。俺は、他の家のこと知らないから。まあ、俺たちくらいの年齢の男子を持つ親にしては、いろいろ言ってくるかなって」
「鞄の中身見られんだろ? 俺だったら絶縁だわ」
「……よし、やめるか。この話!」
 パン、と昴が手を叩き、夕也もそれに賛同するように首を縦に振る。
 八重樫くんは不思議そうに俺を見ていたが、追及してくることはなかった。
 家や親の話はあまりしたくない。それに、面白いものじゃないし、周囲に気まずいを広げてしまう。
 今朝がた、遠征のために用意したリュックの中身を漁っていた時はさすがに軽い口論になったが、俺が折れてその場を丸く収めた。言い返さなければ拗れたりしないし、十七年も一緒にいればなんとなくあっちの癖も分かってくる。そのせいで、諦め癖がついてしまったが処世術の一つだと思えば悪くない。
「八重樫くん、遠征楽しんでる?」
「もちろんです。先輩と一緒にいられるので……先輩たちと」
「なんか付け加えたように聞こえたんだが? 気のせいか?」
「気のせいですよ」
 八重樫くんも、夕也の扱いに慣れてきたのかぴしゃりと言い返していた。以前まではもっと、圧で語るタイプだったが、口で返すようになっていた。
 四人で固まって行動が増えてきたし、彼を囲んでいた女子たちも先輩である俺たちと一緒にいるからなのか寄って来なくなった。やっぱり、先輩という存在は怖いのだろうか。
 ガットに指を伝わせながら同時にグリップ部分の感触も確認する。
「緩んできましたか?」
「分かる? 前回巻くの失敗したんだよね」
「よければ俺が巻き直しましょうか? これ得意なんです」
「いいよ。中学から自分でやってるし」
「俺がやりたいんです。タオルと、塩分タブレットのお礼です」
 譲らないという意思を見せ、ラケットを握る俺の手に彼の手が重なる。いつ見ても大きな手だ。欠陥の浮き出た手はきれいで、爪も丸く切りそろえられている。
「八重樫くんって、言い出したらきかないタイプだね」
「強引でした?」
「ううん。じゃあ、お願いしよっかな」
 こちらを窺う彼の顔はいつも不安げで、何かを探るようだ。距離感が分からないのは俺も同じだし、一歩引いているところは俺と重なる。
 彼にラケットを手渡せば、彼はほっと安堵の表情を浮かべる。
 八重樫くんの隣には、俺と同じ新品の白いラケットが置かれていた。そのグリップ部分は黒く、力強く握られた跡が残っていた。

 昼間の練習でたくさん汗を流し、夕食のビュッフェ料理を楽しんだ。
 遠征とは言いつつも、非日常感が強く、プチ旅行気分は抜けなかった。少しくらい羽目を外しても怒られないだろう、といつものメンバーでドリンクバーのジュースを全部混ぜて腹を抱えて笑いあった。
 それから、しばらくし部屋に着いている風呂に入ったあと夕也から連絡を受けた。
 今回の遠征では、二人一部屋用意されており俺と八重樫くんは相部屋だ。さすがに女子と同じ部屋ではないため、唯一の一年生である彼は俺と一緒に泊まることになったのだ。
 隣にいる夕也と昴の部屋に移動する際、カードキーを引き抜き、部屋の証明が落ちたのを確認したのち扉を閉める。
「八重樫くんってコンタクトだったんだ」
 扉を閉める邪魔にならないようにと離れていた八重樫くんは、いつもしていない黒い縁の眼鏡をかけていた。分厚いレンズ越しに、黒い瞳がこちらを見ているのが分かる。
「視力悪いので。中学時代は眼鏡でした」
 この間切ったばかりの前髪に触れながら、慣れない様子で視線を外した。恥ずかしそうな表情は少し愛らしく思う。
 じゃあ、高校入学を期に眼鏡からコンタクトに変えて、もさっとした前髪も切ったのか。
 本人にその気があるかは知らないが、高校生デビュー成功と言えるんじゃないだろうか。でも、モテるためとか、友だちを作ろうとかそういった理由ではないようだ。単に気分転換でイメチェンしただけかもしれないし、深く詮索はしないけど。
 中学時代の彼は全く知らないが、今の彼はすごくかっこいいし、部活中の姿とかは男の俺でもイケてると思う。目を惹く存在だ。
 俺は、カードキーを胸ポケットに入れ、スマホで消灯までの時間を確認する。
「じゃあ、今と雰囲気違うんだ」
「そんなに変わってるとは思いませんけど。でも、まひる先輩がいうなら、先輩が俺のこと覚えてないのも無理ないかもしれません」
「俺、中学校の時、君と会ったりした?」
 その問いかけに彼は「いえ」と答え、早く部屋を移動しようと急かしてくる。
 いつもなら少し長いローディングをはさんだ後に返答が来るのだが、今はどこか被せるように否定してきた。
 彼は、多くを語らないから分からないことが多い。それに、一線を引いている気がして、こちらも踏み込めないから余計に謎が深まっていくばかりだ。
 悶々とした気持ちを抱えながら、夕也たちの待つ部屋へ移動する。ドアをノックすれば、中からパタパタと足音が聞こえてきた。
「今開けるーおーっす、よく来たな」
「お前の家じゃないし……って、夕也、それ」
「俺もやられたー被害者一号」
 部屋の奥の方から、昴の気の抜けるような声も飛んでくる。
 扉を開けて出迎えた夕也は白い顔パックをしていた。さすがに扉を開けて白い顔がいたらびっくりしてしまう。心臓に悪い。
「何、パック持ってきたの?」
「そりゃ、お肌の手入れは大事だろ! モテるために! お前らにも分けてやろうって呼んだんだし」
「妙に上から目線なの腹立つな……てか、俺たち本当に顔パックのためだけに呼ばれたの?」
 部屋の中にいた昴も彼と同じく白い顔になっていた。
 夕也は流行りものとか、容姿を人一倍気にしている。本人曰くモテるためらしいが、俺にはさっぱり分からない。もちろん、外見も大事だが中身こそ重要だろう。本人のコンディションにもかかわるから何も言わないけど。
 その点、八重樫くんは元がいい。夕也が嫉妬するのも分かるくらいには整っている。
 彼に渡された顔パックはひたひたに液に浸してあり、下にぽたりぽたりと垂れていた。もったいないと顔に装着するが、一度もしたことがなかったので変な感覚だった。フローラルな香りが鼻腔を通り抜けていく。
「うわ、意外とまひるって小顔なんだな」
「意外とって何? これ、誰でも使える大きさでしょ。夕也もぴったりじゃん。八重樫くんも……ちょ」
 彼も夕也から押し付けられた顔パックをしたみたいだが、何故か八重樫くんはパックの上から眼鏡をかけていた。白い顔パックの上に分厚い黒い眼鏡はシュールすぎる。三人で一斉に吹き出し、腹を押さえる。
「前、見えません」
「そんなに、コンタクトしてないと見えないんだ……眼鏡ベタベタになっちゃうよ」
 笑いを取ろうとしたのか、それともメガネがないと不便だと思ったのか。
 俺は、彼の眼鏡に手をかけスッと外した。すでに顔パックの液体でぬめっている。おちゃめな一面もあるんだなあなんて、彼の眼鏡を折りたたむ。すると、閉じられていた瞳がこちらに向けられた。同時に、彼の手が俺の肩に乗せられる。いきなりのことでビクッと身体を震わせてしまったが、そういえば彼は見えないんだったと思い出し、抵抗するのをやめる。肩にかかる手は、何かを探るように絶えず動いていた。
「まひる先輩、ありがとうございます……そこにいますよね」
「いるよ。本当に何も見えない?」
「……どうでしょう」
「見えてないよね。ぼんやり、シルエットとか?」
「じゃあ、見えてないことにします」
 パックの下で彼の口角がきゅっと上に持ち上がる。八重樫くんの目は開かれており「見えない」なんて口にしたくせに、俺の方を見ている気がした。
 目が合っている――
 そう気づいた瞬間、彼の長い指が俺のうなじをそっと掠めた。

 温かな橙色の光が部屋の中を照らしている。
 セミダブルのベッドは、家のベッドよりも広くて寝返りを打っても落下の心配はなさそうだ。
 夕也は俺のリュックがパンパンと言っていたが、自分も言えないくらい美容グッズを持ち込んでいた。顔パックのあとにはクリーム類をペタペタと塗って、いつもより肌がつるつるぷにぷにしている。顔は部屋の証明を受けててかてかと光っており、やっぱり落ち着かない。
 ベッドの上でうーんと足を延ばしていると、少し狭い机に向かい、背中を丸めて八重樫くんが何かを書いているのが見えた。
「八重樫くん、何書いてるの?」
「……っ、日記です」
「手書き? まめだね」
「中学から書いてて。もう、ルーティンみたいなものです」
「すごい継続力。俺だったら絶対三日坊主になってると思う」
 背後に立ってみたが、彼の広い背中で何が書かれているのかは読めなかった。日記なんて人に読まれたくないもの第一位だろう。彼も例にもれずサッと机の上のそれを隠した。
 ラブレターの時は、俺が気付いていなかったから隠すそぶりはなかったけど、こっちは必死になって隠すのか。そんな隠し方をされると見たくなってしまうのに。そもそも、今時日記を手書きで書いている人がいる物珍しさもあって気になる気持ちが加速する。
 予定も日記もスマホ一つにまとめているし、手書きなものは部活の日誌くらいだろうか。
 八重樫くんが頑なに見せない姿勢を崩さなかったため、ベッドへと戻ることにした。ふかふかのベッドは良く沈み、眠気を誘う。天井が先ほどより高い気がする。
「手書きなのは何かこだわりあるの?」
「俺、会話下手って話したじゃないですか。でも、話したいこととか、まとめたいこととか。覚えておきたいこと、思っていることいっぱいあって。手を動かしながら頭も動かすっていうか。俺は、そういうタイプって自分のこと理解してて」
「書いているうちに考えがまとまるってやつなんだね」
 シャーペンをカチカチと鳴らす音だけが響く。
 この年で自己評価がしっかりできるタイプなのか。俺は、自分の欠点から目を逸らしたいタイプだから尊敬する。一個しか違わないのに、彼が大人びて見えた。
 隣の部屋は先ほどまでうるさかったが、すっかり音がしなくなった。消灯時間まであと数十分だ。
「スマホだと、変換機能があるじゃないですか。次の言葉が候補として出てくる……あれ、俺の言葉じゃない気がして。だから、手書きのほうが性にあってるんです」
 確かに、よく使う言葉が次の候補として出てくるし、無難だからそれを選んでいる気がする。そもそも、了解と打つのもめんどくさくて「りょ」とか、最近は「り」って略している。親に対してはもう少し丁寧に返しているが、友だちには伝わるだろうって言葉をできるだけ短くしている気がした。
 自分の言葉じゃない――その感覚は俺にないもので、八重樫くん特有の素敵な感性だなと思う。
 別に、会話だって続かないわけじゃない。でも、彼がもっと話したいことがあって、けど、上手く言葉にできないんだったらその言葉を引き出せるような話題を投げてあげたい。
 お節介かもしれないけど。俺はもっと八重樫くんのことが知りたい。
 天井を仰ぎ見ながら、独り言のように言葉を紡ぐ。
「話したいことあるならいっぱい話していいよ。拙くても、会話が途中でぶつって切れても。俺は気にしないし、八重樫くんが話したいこといっぱい聞きたいな」
「まひる先輩……」
 夕也は"板倉先輩"、昴は"土屋先輩"、俺だけ"まひる先輩"と名前で呼ぶ。"先輩"とついているからなのか、名前で呼ばれるからなのか、くすぐったさを感じる。彼の声は耳の奥がぞわぞわするくらい低い。
 小さな欠伸が一つ漏れる。生理的に滲んだ涙が視界を歪める。目をパシパシしていれば、黒い影が俺の身体に覆いかぶさった。
「八重樫くん、君のベッドはあっち」
「わかってます。顔見に来ただけです」
「いつも見てるでしょ。誰よりも俺のこと、さ」
 スマホは充電したっけ? アラームはセットした? 思考の速度が落ちていく。睡魔にはあらがえそうにない。
 ギシィとスプリングが鳴る。少しベッドが傾いた気がした。
「言いたいこと、言ったほうがいいですか。思ってること全部」
「何それ。我慢してる? 我慢は身体に悪いよ」
「……先輩眠そう」
「眠いから。八重樫くんも寝な。明日早いよ」
 自分でも何を言っているか分からない。そういえば、今朝も早かったな……なんてことしか思い出せない。
 3Gよりも遅くなっていく思考に、水の中に入っているみたいに遠くなる声。
 未だ黒い影が俺の上にあった。それが余計に、夢の中へと俺を引きずり込むようだ。
「寝癖が昼になっても治ってないのかわいいです」
「んぅ?」
「挨拶するときちょっと首が傾くのとか、試合あとなのに靴ひも結び直してて、それが不格好なところとか。目を見て話してくれるところ、並んで歩くとき白線側歩いてくれるところ。恥ずかしがる時、唇を引っ込めちゃうところとか、全部かわいいなって思います」
 好きだなって思います。
 確かにそう聴こえた……気がした。
 強烈な睡魔は、衝撃を受けても吹き飛ばなかった。いきなり饒舌になった彼に聞き返したいことはいっぱいあるはずなのに、指先が動かない。
(八重樫くん、なんで……)
 夢の中に落ちる直前、彼が俺の耳の後ろに手を当て、親指でそっと頬を撫でたその感覚だけは現実だなと分かった。