ゆるく打ち上げられたシャトルがコートへと飛んでくる。
「新学期始まったけどさ、なーんにも変わらないよな」
軽く腕を振り上げ俺の飛ばしたシャトルを打ち返しながら、今年もクラスメイトの板倉夕也は気の抜けるような声で言う。
体育館は二つに分かれており、半分のコートをバスケ部が使っている。時々、コートを仕切る緑色のネットにバスケットボールがぶつかって、ネットが波打っていた。
「新入生入ってきたけど。まひる的にはどう? ほら、女子ばっかじゃん? 俺としては嬉しいけど」
「うわ、発言が絶妙にキモい。いや、キモい」
「何で言い直した?」
俺――軽井沢まひるは、夕也の打ち返したシャトルを目で追いながらちらりと体育館のステージを見やった。
新入生たちは、上級生がコートでウォーミングアップのラリーをしているからか駄弁っている。数人で固まり、スマホを弄っている子もいた。夕也の言う通り今年の新入生は一人を除き全員女子だ。
この高校でのバドミントン部の地位は低い。
他の部活が強豪で、毎年全国大会常連。入試もスポーツ推薦枠が殺到するほど力を入れている高校だからだ。そんなスポーツ命でやっている隅の方で、このバドミントン部は緩くやっている。地区大会で上位に入ることも稀、唯一成果を残していない部活でもある。廃部になるーなんて噂もあったが、スポーツを緩くしたい生徒のために残されているようだ。
俺としては、しっかり部活をやりたいのだがすでに引退を控えた先輩の中にも幽霊部員が何人かいる。
「俺は部活をやりに、ここにきてるんだよ」
「とか言ってさぁ、新入生歓迎会楽しみにしてるんじゃねえの? 顧問のおごり」
スマッシュ、なんてかっこつけて夕也がコートに打ち込む。俺はそんな鋭く撃ち込まれたシャトルをニアピンで返した。
ラリーが途切れ、コートの端にいた彼は「おぃ」と言いながら走ってくる。
「楽しみじゃないって言ったら嘘になる。焼肉」
「だろ?」
「でも、あくまで部員の親睦を深める会であって。そんな、合コンみたいなノリじゃないだろ」
「まひるは相変わらずかたいなあ。じゃあ、どう? 新入生の中で上手いやついた?」
ネットを軽く掴んだ夕也は、ステージの上で固まる女子たちに視線を向けた。俺ももう一度ステージに目をやると、女子たちの視線が一点に注がれているのが見えた。
「八重樫くん、そのラケットかっこいー!」
続けて、黄色い歓声にも似た声が聞こえてくる。女子たちの視線を釘付けにしていたのは一人の男子生徒だった。艶々とした黒い髪は無造作に伸びており、全体的にもさっとした印象を受ける。しかし、遠くからでもわかる整った顔立ちは、女子の目を惹くのだろう。そのもさっとした感じは女子避けのため……だったりして。
一年生唯一の男子部員――八重樫黎は、白いラケットを取り出すと、女子にも目をくれずのそりと立ち上がる。
「デカ……」
思わず声に出てしまった。
目測でも百八十センチは超える身長。少し厚めの胸板に、がっしりとした体形。偏見だが、バスケ部にいそうな長身の男がコートへ向かって歩いてくる。握られた白いラケットも欠陥の浮き出た腕をもってすればすぐに折れてしまいそうだ。
「先輩、俺も混ぜてくれませんか。どっちかが相手になってくれると嬉しいんですけど」
「い、けど。俺と? それとも夕也?」
低いバスボイスが耳をくすぐる。ただ身長が大きいだけでなく、どことなく威圧感を覚える。ジトっと黒い双眸が俺を捉えていた。
「そういや、八重樫って、なんでバドミントン部なんだよ」
「夕也、せっかくの新入生に!」
「いやいや、だってこいつバスケ部とかにいそうじゃん。あと、紅一点ならぬ……くろ、あ、黒一点! なんか、バドミントンやってるところ想像つかねえもん」
ネットをくぐって俺の肩をガッと組んだ夕也は、八重樫くんを見ながらそう言った。汗の滲む腕は俺の肩を蒸していく。
俺と夕也は平均身長くらいだ。多分こいつも、八重樫くんが大きくてビビったからこっちのコートに来たのだろう。
「バドミントンが好きだから入部しました」
八重樫は、模範解答のような言葉を口にしたあと、スッとこちらに視線を向けた。どこか熱を孕んだ黒い瞳は艶々と輝いている。
「先輩がいいです」
「俺?」
「はい。ステージの方から見てました。フォームがきれいで……えっと」
「あー名前! まひる。軽井沢まひる。まだちゃんと自己紹介してなかったっけ」
新学期が始まってまだ数週間。
親友生たちは高校生活に慣れるのに必死だろう。まして、部活もようやく仮入部期間を終えたところだ。
軽く自己紹介をし、彼を見上げる。腕を伸ばせばネットの先端に触れられるんじゃないだろうか。後輩に見下ろされるって不思議な気分だ。
「軽井沢……まひる、先輩」
「呼び方は好きなように。それで、相手、俺でよかったんだっけ」
「はい。先輩がいいです」
「うわあ~、俺フラれた」
「まひる先輩のほうが上手いので」
八重樫くんの容赦ない一言に、夕也は胸を押さえていた。実際、夕也はバドミントン二年目だし自主練習をしているといった話は一度も聞いたことがない。
とはいえ、俺は中学生のころからバドミントン部だったが、個人戦で成績を残せたとしても地区大会の上位程度。上手くなりたいという向上心はあるのだが、成績も落とせないためバドミントン一筋とはならない。ただ、部活の時間だけはバドミントンのことを考えていたいとは思う。
八重樫くんから指名されたため、夕也の腕から抜け出しコートへと移る。
八重樫くんは、部活見学のときに学校の備品であるラケットを使って今みたいなラリーに参加してくれた。初心者だと言っていたがとてもセンスがあったし、動きが俊敏で、三年生の先輩とも互角に戦えていた。うちは、バドミントンに真剣に取り組んでいる人が少ないから、彼が入ってきてくれるのをひそかに楽しみにしていた。こうして指名されたのも嬉しい。
相手コートを見れば、すでに彼がスタンバイしていた。
(あれ……俺と同じ、ラケット?)
シャトルを握った手が緩む。既視感があるなと思っていたが、ガットの色こそ違うが、俺が愛用しているラケットと全く同じものを彼が握っていた。
偶然もあるものなんだな。そう思いながらサーブを打つ。彼の瞳は、素早く飛んでいくシャトルではなく俺を見ているような気がした。
◇◇◇
部室というにはあまりにも狭い。ホコリっぽいロッカーは建付けが悪く、開くとキィと耳障りな音がする。
八重樫くんが入部してから一週間が経った。今週はついに、少し遅い新入生歓迎会だ。
顧問の先生は気前が良く、バドミントン部が弱小で緩くても、歓迎会や打ち上げに連れて行ってくれる。一応今年も夏合宿がある予定だ。予算は限られているが、その中で盛り上げてくれるそんな先生で部員に人気だ。
着替える前に、申し訳ない程度に部室の掃除をする。ほうきが床を擦るたび、土煙が上がる。
夕也は「見たい配信があるから、あとよろしく!」なんて、早々に帰ってしまった。仲が悪いわけじゃないのだが、彼はマイペースだ。部活が一緒で同じ組だから絡んでくれているだけで、他にも友だちはいる。休日に『遊びに行った!』とストーリがちょくちょく上がっているのを見かける。
「お疲れ様です。まひる先輩」
「お疲れ、八重樫くん。部活はもう慣れた?」
気配もなく現れた八重樫くんは、俺と目線が合うくらいに深々と頭を下げた。
三年生が主体となって考えたメニューに変更となったため、ややハードな練習が続いている。彼の黒い髪からは汗が粒となって滴っていた。
どこか素っ気なさを感じるものの、意外と礼儀正しい彼とここ数日の間に会話が増えた気がする。といっても、もともと会話が得意じゃないのか、俺が上級生だからか、彼の口数は多くない。でも、俺は部活に真剣に取り組む後輩ができて嬉しかった。
彼と同じように額から垂れてきた汗をぬぐいながら、ベージュ色のブレザーに袖を通す。
「そうだ。今週、新入生歓迎会があるんだけど、八重樫くんも来る? 会費は無料だからよかったら」
部活で説明があったが、その時八重樫くんはいなかった気がするので一応声をかけてみる。彼は大きいし存在感があるからいないとすぐに分かるのだ。
新入生の女子たちは、無口な彼にご執心の様子で会話を試みては失敗している。一人だけ男子というのも気まずいのだろう。そういう助け舟的な意味で話しかけているわけではないが、俺が同じ立場だったら気まずいと思う。
八重樫くんは、赤いボーダーの入った緑色のネクタイを締める手を止めこちらを振り返る。何かもの言いたげな目をジトッと向けてきた。
「ああ、全然嫌だったらいいよ。強制じゃないし。毎年いかない人もいるから」
「先輩は来ますか?」
俺の言葉を遮るように、彼の低い声が部室に響く。
ボタンにかけていた手が止まる。
「行くけど。ああ、男子? 男子はいっぱいくるよ。俺の学年とか、三年生も」
「まひる先輩がいくなら、いいかなって思って」
「そう言ってもらえるのは嬉しいな。ああ、でも、やっぱりあれだよね、男子いないの気まずい?」
「別に。俺はバドミントンをするために部活に入っただけなんで」
そっかぁ……と言葉はなぜか喉に張り付いて出てこなかった。
距離感を測りかねている。
八重樫くんは、同級生よりも俺たち二年生と話したがる。三年生は引退試合があるから新入生にかまっていられないだろうし、八重樫くんも積極的に話しかけたりしない。年が近い男子ということで、俺たちに話しかけてくるのだろう。
どんな理由でもよかったが、俺は「バドミントンをするために」という言葉が嬉しくて仕方がなかった。顔に出さないように呼吸を整え、先ほど出なかった「そっか」と言葉を返す。
「じゃあ、楽しみだね。金曜日」
「はい……じゃあ、俺は帰るんで。また」
先ほどより浅く会釈をし彼は部室を一足早く去っていく。
一人ぽつんと残された俺は思い出したようにボタンをかける。そんな時、彼が使っていたロッカーの近くに一枚の紙が落ちていることに気づいた。愛らしいデザインの紙は上等なもので、線の上に不格好な手書きの文字が並んでいる。
「拝啓……? 今時、こんなかしこまった文章……」
興味本位で拾い上げ、文字を目で追っていく。"拝啓"の後ろの続く文章はまったく時候の挨拶などではなかったし、書きかけで余白だらけの手紙は先に"敬具"と締めくくられている。
国語の授業で書かされたものだろうか? 最初こそそう思ったが文章を読むと明らかに違うことが分かった。
「『今日もかわいい』、『好きです』……え、え、これって、ラブレター!?」
勢いよく口元を覆う周囲に誰もいないのを確認し、胸をなでおろす。整ったはずの呼吸はすでに乱れていた。
宛名も、差出人も書かれていないそれはいったい誰のものであるか分からない。しかし、落ちていた場所が場所なこともあり一人の人物が頭に浮かんでくる。この不格好ながら力強い文字が、彼と重なった。
(や、八重樫くんが書いたってこと……?)
まだ決めつけるには判断材料が足りない。しかも、彼はまだ入学して一か月も経っていない。いや、中学生時代から好きな人がいてその人に向けてのものかもしれない。あるいは、意外と一目惚れするタイプなのかも……
八重樫くんに対する偏見交じりの妄想が止まらない。俺の知っている彼から想像もつかないけど。
とにかく、人の書きかけのラブレターを拾った挙句、読んでしまったことは非常に申し訳ない。恥ずかしくなるような初々しいラブレターへの罪悪感は増していくばかりだ。
明日にでも落とし物ボックスに……さりげなく部室に置いておくとか考えよう。きっと彼――もしかすると他の誰かはこれを無くしたことに慌てるだろうから、目に着かないように持ち主の元に返してあげたい。
「……お、俺も帰ろう」
部室は夕日のオレンジ色で満たされていた。一直線に伸びる長い影は、それでも八重樫くんの身長には届いていない気がした。
◇◇◇
落ち着かない。
生徒会室の前に置かれた黒いプラスチック製の”落とし物ボックス”は、今日も誰かしらの落とし物たちでいっぱいだ。
昨日拾った書きかけのラブレターはあのあとクリアファイルに入れて持ち帰った。部室に落ちていたから、今日の部活で聞いてもよかったが特定の人物をさらし者にする気も、言い出す勇気も無かったため、落とし物ボックスに入れることにした。落とした本人に自覚があれば探しに来るだろう。
俺は人目を気にしながらクリアファイルからそっと愛らしい便箋を抜き取って、誰かの目に触れないように下の方へ忍ばせる。これでは意味が無いが、意図せぬ誰かに見つかって傷つく思いをしないようにという俺なりの配慮だ。
勉強していないテストの返却日くらい心臓がバクバクと鳴っている。それでも任務完了と一段落し、帰ろうとしたところで彼と目が合った。
「まひる先輩」
「や、八重樫くん」
きりっとした眉はどことなく八の字になっている。八重樫くんは「ども」と思い出したかのように挨拶をした。
先ほどより早く心臓が脈打っている。やっぱり、あれは八重樫くんが書いたものだったのだろか。俺の教室は八重樫くんが来た方向にあるため彼の隣を通り抜けたい。もちろん、遠回りしたっていいが、絶妙に気まずい。
「おはよう、八重樫くん」
「今、昼ですけど」
「……じゃあ、こんにちは。部活以外で会うのは初めてかも。学年違うと階が違うじゃん」
「そうですね。先輩と廊下で会うの新鮮です」
選択肢を間違えたら即ゲームオーバーなゲームをプレイしているみたいだ。
実際、彼は一年生で二年生の俺たちとは棟は同じでも階は違う。校内は広く、学食と購買と食事をとるだけでもいろんな選択肢があり、まず部活以外で彼と会うことはない。
八重樫くんは、俺の隣にある落とし物ボックスに視線を移し「先輩も?」と不思議そうに訊ねてきた。
「いや、俺はたまたま職員室に用があって、その帰り」
「ああ、だからクリアファイル……俺もまあそんなところです」
忘れ物ボックスを見ながら言う八重樫くんは、どう考えても職員室に用があるとは思えない。詮索をするつもりはないが、あからさまな態度は少しかわいらしくも思う。それで隠しているつもりなのだろうか。
「引き留めちゃったかな。ごめん。俺はもう帰るよ。今日もまた部活で」
あたりさわりのない会話を心掛け、隙を見て彼の隣を通り抜ける作戦に成功する。
クリアファイルは半透明で中に何も入っていないのはバレバレだ。でも、職員室に書類を届けに行ったという呈にすればおかしくないだろう。
後方が気になったが、今八重樫くんと会話をするとぼろを出してしまいそうだったので早急にその場を退散する。
あれは本当に八重樫くんが書いたものだった? 誰宛て? 聞きたいことはいっぱいある。でも、聞いちゃいけない気がする。
(字……何度も消してあったな)
書きかけのラブレターだったが、とてもじゃないが人に渡せるものには見えなかった。何故なら何度も消したあとが紙に残っていたからだ。筆圧のせいか紙にへこみがあったし、字が気に入らなかったのか同じ文字を何度も書いた跡が見られた。
『今日もかわいい』
その単語はもともと『今日も”先輩”がかわいい』と書かれていたようで、手紙を渡す相手が上級生であることが伺える。それだけじゃ特定はできないが。
でも――
「まひる先輩、ちょっといいですか」
「な、何?」
声が裏返る。自分でも不自然だって分かる。
案の定、彼も目を丸くし、それから訝しげにこちらを睨んでいた。
「俺、昨日部室に忘れ物したんですよね」
「わ、忘れ物」
「何かありませんでした?」
「人のロッカーは見ない、かな。今日一番に部室に行って確認すればいいんじゃない? ああ、でも、一年生だと、鍵……なんだったら俺も付き合うよ」
「いえ、忘れ物。誰かが届けてくれたみたいで」
彼は落とし物ボックスから一枚の紙を抜き取る。下に入れたはずなのだが、彼は迷わずそれを見つけたようだ。
変な汗が背中に流れ、じんわりと服を濡らしていく。
「ならよかった。安心だね」
「はい。でも、誰かに読まれたかもしれません。ほら、拾ったらまず誰のものだろうって確認するじゃないですか」
「まあ、そうかも」
彼の黒い双眸は、俺の嘘を暴こうとしているようだ。すでに、犯人が分かったような口ぶりも俺に自白を迫っているように思う。
「拾ってくれた人にお礼、言いたいんですけど。ここ、ただ落とし物が入れられてるだけみたいですね」
「プライバシーの問題で、じゃないかな。よ、用事はそれだけ?」
「はい。もし、拾ってくれた人知ってたら……なんて。はい、また部活で」
案外あっさりと引き下がった八重樫くんは、俺に背を向けて歩いていく。相変わらず律儀に会釈する彼の姿は、大きくてもかわいい後輩だ。顔は常にむすっとしているし、長い前髪が眉にかかっているけれど表情が分からないわけじゃない。
「……っぶなぁ。いや、バレてるだろ、あれ」
走り込みをした直後くらい息が上がる。握っていた手のひらにはべしょりと汗をかいていた。
八重樫くんは、あれ以上追及してこなかったが俺が拾っていたと知ったらどうしたのだろうか。
『拝啓 今日も先輩がかわいい。俺と同じラケットを使ってる。ラリーができて嬉しい、先輩も同じ気持ちだったらいいな』
(あのラブレターの相手って、俺?)
自意識過剰すぎるか?
でも、先輩でバドミントン部でラリーをするって言ったら俺しかいない。極めつけは、同じラケットだ。もちろん、何度も書き直されていたため原文は分からないし、うっすら残っていた文字を読んだだけに過ぎないけど。
俺はしばらく呆然と、彼のいなくなった廊下を眺めていることしかできなかった。
◇◇◇
「まひる、元気なくね?」
先輩たちがコートで練習をしているのを眺めながら、夕也は俺の隣に腰を下ろした。
八重樫くんと昼間にあってから半日が経ち、部活動の時間に突入した。
「今週末、焼肉じゃん。元取ろうぜ、元」
大容量の水筒に口を漬けながら、俺は生返事をする。夕也も、俺の元気がないことなんてすぐにどうでもよくなったのか「まだ四月だろあっつ~」と、パタパタユニフォームの襟を掴んで仰ぎ始める。
俺はそんな彼を横に、いつも通り女子に囲まれている八重樫くんの姿を見つけた。しつこくSNSのアカウントを聞き出そうとしていた子は「やってないんで」の一言で消沈している。確かに、八重樫くんはやってなさそうだな……今時メッセージでの告白も多いのにラブレターを書くくらいだから。なんて考えては、ダメだダメだと首を横に振って他のことを考えようと意識を逸らす。
(八重樫くんいつも通りだな……)
同学年には不愛想で、平常運転。女子に囲われているからか、俺たちに話しかけに来る様子もない。
「何やってんだよ」
「じゃ、邪念を」
「エロいなことでも考えてたのかよ。まひるも隅に置けねえな。今、昼だぞ」
「時間関係なくない? てか、違うし」
夕也に肩を組まれ、逃げ場を失っていると「二人とも元気してるかー?」と頭上から聞き慣れた声が降ってきた。
顔を上げればそこにいたのは、今学期始まってから顔を見ていなかった同級生の土屋昴だった。よっと、軽く手を上げた彼は夕也とはさむように俺の隣に腰を下ろす。
「久しぶり、昴。今年初めて部活に顔出すんじゃない?」
「寂しかったぞ~昴~まひるは、バドになると容赦なくってさぁ」
「それだと、俺が弱いみたいに聞こえるぞ? まひるがバド強いのは昔からだし」
夕也の言葉を軽く流しながら、昴は落ちてきた眼鏡をくいっと持ち上げた。
彼は、一年生の時は同じクラスだったが、二年生で理系クラスに入ったため会う機会が減った。また、春休みごろに『塾に通い始めたから』とメッセージが入ってから、部活に来なくなっていたのだ。
久しぶりに会ったが元気そうにしていてホッとしている。ちなみに、昴とは中学生からの付き合いだ。
「塾は?」
「今日は休み。そろそろ顔出しておかなきゃなあーて。俺、幽霊部員になっちゃうだろ?」
「十分幽霊部員だわ」
「辞めないよね?」
「ん? まあ、そりゃ、推薦も一応狙うし。部活辞めたっていうの履歴書に書きたくないしな」
昴はそう言いながら、コートで練習試合をしている先輩たちに視線をやった。だが、途中で何かを思い出したように俺の方を見る。
「どうかした?」
「そういや、今年の新入生……八重樫いるんだな」
「昴、八重樫くん知ってるの?」
「知ってるも何も。同じ中学だったし。ああ、でも本人が目立つやつっていう感じじゃなかったかもな。ほら、俺たちが中一だったとき生徒会長だった人覚えてる?」
「女の人だったのは覚えてるけど。八重樫くんとどんな関係が?」
「その人が、八重樫のお姉さんでさ。高校はここじゃなくてもっといいところ行ったって噂。まあ、詳しくは知らないけど、八重樫の家って金持ちで、いろいろできるらしくて」
「詳しいね。俺、ぜんっぜん知らなかったや」
記憶をたどれば、確かに俺たちが中学一年生の時の生徒会長は女の人で八重樫って苗字だった気がする。うろ覚えだが、何となく顔も思い出せた。でも、八重樫くんが同じ中学だったなんてまったく記憶にない。
昴が情報通なのは知っていたが、八重樫くんとの意外な接点を知れて驚いている。しかし、あっちは俺のことをあまり知らない様子だったから、互いに初対面なのかもしれない。聞かれない限り、同じ中学だったよね? とこちらか聞くつもりもない。
(それに、ラブレターの件もあるしなあ……)
気まずさが拭えない。
そうこうしていると、先輩たちの試合が終わったようで、コートに入るよう言われた。
「次、俺たちの番だぞ。久しぶりにまひるとダブルスだから、楽しみだな」
やる気に満ちた表情の昴に、俺も、と返す。だが、打って変わって対戦相手の夕也はそわそわとしていた。
「俺、その噂の八重樫となんだけど」
「噂のって……あ、八重樫くん」
「うっわ、びっくりした! は、デカいくせに気配消してあるけんのかよ!」
ぬっとあらわれた彼に、夕也はビクンと肩を揺らしていた。今日、昴が来ると思っていなかったが、夕也のダブルスの相手が休みだったため、急遽八重樫くんがペアを組むことになったのだ。三年生が下級生の動きを見て、八重樫くんならと補欠として入れたらしい。
慣れない相手と連携を取るのは難しいかもしれないが頑張ってほしい。
俺は、よろしく、と八重樫くんにあたりさわりのない笑顔を送る。
「いやぁ、俺、お前らと当たるの嫌すぎるんだけど。中学からダブルス組んでんだろ? 絶対負けるじゃん」
「後輩の前で弱音はいてみっともないぞ、夕也。でも、確かに……まひる。よければ、今日だけペア変えてみるとかどうだ?」
「八重樫くんと、昴がダブルス?」
数回瞬きをすれば、八重樫くんが「先輩が」と口をはさんだ。その声に俺たちは三人同時に反応する。
夕也は、俺か昴どちらでもいいからと縋るような顔をしていたが、いきなり割って入ってきた彼にちょっと不機嫌そうに突っかかった。
「八重樫、何?」
「……俺、まひる先輩とダブルス組んでみたいです」
「俺?」
デジャブを感じる。
夕也も昴も、目を丸くして互いに顔を見合わせており、状況が飲み込めていない様子だ。八重樫くんだけがまっすぐと俺を見ており、視線を外してもずっとこちらを見ていた。彼とは毎回目が合う気がする。ずっと見られているような感覚がするのは気のせいだろうか。
「俺はいいけど。まひるはどうする?」
「お、俺もどっちでも。ダブルスのペア変えるって話だったし、八重樫くんとでもいいよ」
「じゃあ、決まりだな。夕也、今日は俺とペアな」
「しゃあぁっ! 昴もつえぇし、ボコボコにしてやんぜ」
「"も"ってなんだよ。俺も二年生の中では強いほうだろ」
「幽霊部員がよく言うなあ~?」
「バーカ、幽霊部員じゃない。足引っ張んなよ」
二人は肩を組みながら反対側のコートへと移動してしまった。
俺は、ぽつんと取り残されてしまう。
「嫌でしたか?」
「嫌、じゃないよ。八重樫くんはいっつも俺を指名するから不思議で。俺でいいの?」
「先輩がいいです。そんな、謙遜しなくても練習見てれば、先輩が一番強いことくらいわかります」
「よく見てるね。俺のこと」
「そんなことないですよ」
八重樫くんはそれだけ言うと、所定の位置についた。
もう少し何か会話があるものと身構えていたが、あっさりしていて拍子抜けだ。
(ラブレターのこと、もういいのかな……)
練習とはいえ試合。余計なことを考えてミスなんてしたくないが、八重樫くんと一緒で落ち着かない。
彼は俺と同じラケットを握り、相手コートを見据えていた。サーブはあちらからだ。
昴のサーブから始まる。相変わらず無駄のない動きに正確なショット。飛んできたシャトルは八重樫くんが拾い上げて、あちらのコートへ返した。次に、夕也が大きく振りかぶるように見せてニアピン。俺はネットすれすれに返ってきたシャトルを打ち返す。
その後も失点なくラリーが続いていく。
昴は、ここ最近ラケットを握っていなかっただろうにその腕は落ちておらず、こちらの弱点を把握した攻撃を仕掛けてくる。さすがは俺のダブルスの相手だ。
夕也も、昴との連携が取れている。何度か彼と組んだことがあるからだろう。
(でも、俺のミスを八重樫くんが全部カバーしてくれるんだよな)
同じ中学だったが部活は違った。となると、彼は今年から始めたバドミントン初心者のはず。しかし、俺や二人に着いてくるところを見るとセンスがいいことが伺える。
体育館に響き渡るような鋭いスマッシュが撃ち込まれる。届かない――そう思ってラケットを伸ばせば、キュッと床をシューズが擦る音が聴こえた。ギリギリのところで、八重樫くんがカバーし、あちらへ打ち返す。ただ、そのシャトルは思わぬ方向に弧を描きコートから出てしまった。
相手に一点が入る。
「八重樫くん、ありがとう。ナイスカバー」
「いえ、結局失点だったので。無理に取りに行かなくてもよかったかもしれませんね」
「そんなことないよ。ガッツは大事。でも、脚怪我してない?」
「大丈夫です。昔から怪我は少ないので。多分、丈夫なんです」
足元に視線を落とせば、実に彼らしい黒を基調としたシューズが見えた。足のサイズは俺と二センチ以上ある気がする。
「けど、怪我は気を付けてね。スポーツやってるとよくあるから。そういえば、八重樫くんって中学時代何部だったの?」
「帰宅部です」
「じゃあ、バドミントンは初心者?」
相手側のコートから「早く戻れ―」と夕也の声が飛んでくる。
八重樫くんは前髪の下に隠れた眉をピクリと動かして、元の位置へ向かうべく背を向ける。数歩歩いたところで、何か気になることがあったらしく、半分ほど身体をこちらに向けてきた。
「まひる先輩は、俺のこと気になるんですか? さっきから質問が多いですけど」
「気になるっていうか……気になる。上手いから。バドが……初心者なのに、すごいなって」
「ありがとうございます。俺、別に先輩になら何言われても嫌じゃないんで。気にしないでください。ちょっと距離感じます」
「それは、ごめん」
「でも、興味持ってもらえて嬉しいです」
彼はそれだけ言い残して戻っていく。
八重樫くんの声色が少し弾んでいたが、どんな表情をしていたかまでは分からない。
現在、昴と夕也ペアが一点リードしている。ここから巻き返さなければ。
せっかく八重樫くんに指名してもらったし、二人には負けたくないし。俺はかなりボロボロになったグリップを握りしめる。そういえば、グリップを巻き直したのはいつ頃だっただろうか。このラケットも長いこと浸かっていて、そろそろ寿命がきそうだ。
(買い替えてもらえそうにないけど……)
ほんの少し億劫になる。ため息が漏れそうになったのを我慢して、ふぅと息を吐いた。
「よし、集中!! 八重樫くん、絶対勝とうね」
味方コートにいる、八重樫くんに声をかける。すると、彼は秒でこちらを振り向いて柔らかく微笑んだ。ふにゃりとした笑みは、いつも不愛想で無骨な彼からは想像のつかないものだった。
「新学期始まったけどさ、なーんにも変わらないよな」
軽く腕を振り上げ俺の飛ばしたシャトルを打ち返しながら、今年もクラスメイトの板倉夕也は気の抜けるような声で言う。
体育館は二つに分かれており、半分のコートをバスケ部が使っている。時々、コートを仕切る緑色のネットにバスケットボールがぶつかって、ネットが波打っていた。
「新入生入ってきたけど。まひる的にはどう? ほら、女子ばっかじゃん? 俺としては嬉しいけど」
「うわ、発言が絶妙にキモい。いや、キモい」
「何で言い直した?」
俺――軽井沢まひるは、夕也の打ち返したシャトルを目で追いながらちらりと体育館のステージを見やった。
新入生たちは、上級生がコートでウォーミングアップのラリーをしているからか駄弁っている。数人で固まり、スマホを弄っている子もいた。夕也の言う通り今年の新入生は一人を除き全員女子だ。
この高校でのバドミントン部の地位は低い。
他の部活が強豪で、毎年全国大会常連。入試もスポーツ推薦枠が殺到するほど力を入れている高校だからだ。そんなスポーツ命でやっている隅の方で、このバドミントン部は緩くやっている。地区大会で上位に入ることも稀、唯一成果を残していない部活でもある。廃部になるーなんて噂もあったが、スポーツを緩くしたい生徒のために残されているようだ。
俺としては、しっかり部活をやりたいのだがすでに引退を控えた先輩の中にも幽霊部員が何人かいる。
「俺は部活をやりに、ここにきてるんだよ」
「とか言ってさぁ、新入生歓迎会楽しみにしてるんじゃねえの? 顧問のおごり」
スマッシュ、なんてかっこつけて夕也がコートに打ち込む。俺はそんな鋭く撃ち込まれたシャトルをニアピンで返した。
ラリーが途切れ、コートの端にいた彼は「おぃ」と言いながら走ってくる。
「楽しみじゃないって言ったら嘘になる。焼肉」
「だろ?」
「でも、あくまで部員の親睦を深める会であって。そんな、合コンみたいなノリじゃないだろ」
「まひるは相変わらずかたいなあ。じゃあ、どう? 新入生の中で上手いやついた?」
ネットを軽く掴んだ夕也は、ステージの上で固まる女子たちに視線を向けた。俺ももう一度ステージに目をやると、女子たちの視線が一点に注がれているのが見えた。
「八重樫くん、そのラケットかっこいー!」
続けて、黄色い歓声にも似た声が聞こえてくる。女子たちの視線を釘付けにしていたのは一人の男子生徒だった。艶々とした黒い髪は無造作に伸びており、全体的にもさっとした印象を受ける。しかし、遠くからでもわかる整った顔立ちは、女子の目を惹くのだろう。そのもさっとした感じは女子避けのため……だったりして。
一年生唯一の男子部員――八重樫黎は、白いラケットを取り出すと、女子にも目をくれずのそりと立ち上がる。
「デカ……」
思わず声に出てしまった。
目測でも百八十センチは超える身長。少し厚めの胸板に、がっしりとした体形。偏見だが、バスケ部にいそうな長身の男がコートへ向かって歩いてくる。握られた白いラケットも欠陥の浮き出た腕をもってすればすぐに折れてしまいそうだ。
「先輩、俺も混ぜてくれませんか。どっちかが相手になってくれると嬉しいんですけど」
「い、けど。俺と? それとも夕也?」
低いバスボイスが耳をくすぐる。ただ身長が大きいだけでなく、どことなく威圧感を覚える。ジトっと黒い双眸が俺を捉えていた。
「そういや、八重樫って、なんでバドミントン部なんだよ」
「夕也、せっかくの新入生に!」
「いやいや、だってこいつバスケ部とかにいそうじゃん。あと、紅一点ならぬ……くろ、あ、黒一点! なんか、バドミントンやってるところ想像つかねえもん」
ネットをくぐって俺の肩をガッと組んだ夕也は、八重樫くんを見ながらそう言った。汗の滲む腕は俺の肩を蒸していく。
俺と夕也は平均身長くらいだ。多分こいつも、八重樫くんが大きくてビビったからこっちのコートに来たのだろう。
「バドミントンが好きだから入部しました」
八重樫は、模範解答のような言葉を口にしたあと、スッとこちらに視線を向けた。どこか熱を孕んだ黒い瞳は艶々と輝いている。
「先輩がいいです」
「俺?」
「はい。ステージの方から見てました。フォームがきれいで……えっと」
「あー名前! まひる。軽井沢まひる。まだちゃんと自己紹介してなかったっけ」
新学期が始まってまだ数週間。
親友生たちは高校生活に慣れるのに必死だろう。まして、部活もようやく仮入部期間を終えたところだ。
軽く自己紹介をし、彼を見上げる。腕を伸ばせばネットの先端に触れられるんじゃないだろうか。後輩に見下ろされるって不思議な気分だ。
「軽井沢……まひる、先輩」
「呼び方は好きなように。それで、相手、俺でよかったんだっけ」
「はい。先輩がいいです」
「うわあ~、俺フラれた」
「まひる先輩のほうが上手いので」
八重樫くんの容赦ない一言に、夕也は胸を押さえていた。実際、夕也はバドミントン二年目だし自主練習をしているといった話は一度も聞いたことがない。
とはいえ、俺は中学生のころからバドミントン部だったが、個人戦で成績を残せたとしても地区大会の上位程度。上手くなりたいという向上心はあるのだが、成績も落とせないためバドミントン一筋とはならない。ただ、部活の時間だけはバドミントンのことを考えていたいとは思う。
八重樫くんから指名されたため、夕也の腕から抜け出しコートへと移る。
八重樫くんは、部活見学のときに学校の備品であるラケットを使って今みたいなラリーに参加してくれた。初心者だと言っていたがとてもセンスがあったし、動きが俊敏で、三年生の先輩とも互角に戦えていた。うちは、バドミントンに真剣に取り組んでいる人が少ないから、彼が入ってきてくれるのをひそかに楽しみにしていた。こうして指名されたのも嬉しい。
相手コートを見れば、すでに彼がスタンバイしていた。
(あれ……俺と同じ、ラケット?)
シャトルを握った手が緩む。既視感があるなと思っていたが、ガットの色こそ違うが、俺が愛用しているラケットと全く同じものを彼が握っていた。
偶然もあるものなんだな。そう思いながらサーブを打つ。彼の瞳は、素早く飛んでいくシャトルではなく俺を見ているような気がした。
◇◇◇
部室というにはあまりにも狭い。ホコリっぽいロッカーは建付けが悪く、開くとキィと耳障りな音がする。
八重樫くんが入部してから一週間が経った。今週はついに、少し遅い新入生歓迎会だ。
顧問の先生は気前が良く、バドミントン部が弱小で緩くても、歓迎会や打ち上げに連れて行ってくれる。一応今年も夏合宿がある予定だ。予算は限られているが、その中で盛り上げてくれるそんな先生で部員に人気だ。
着替える前に、申し訳ない程度に部室の掃除をする。ほうきが床を擦るたび、土煙が上がる。
夕也は「見たい配信があるから、あとよろしく!」なんて、早々に帰ってしまった。仲が悪いわけじゃないのだが、彼はマイペースだ。部活が一緒で同じ組だから絡んでくれているだけで、他にも友だちはいる。休日に『遊びに行った!』とストーリがちょくちょく上がっているのを見かける。
「お疲れ様です。まひる先輩」
「お疲れ、八重樫くん。部活はもう慣れた?」
気配もなく現れた八重樫くんは、俺と目線が合うくらいに深々と頭を下げた。
三年生が主体となって考えたメニューに変更となったため、ややハードな練習が続いている。彼の黒い髪からは汗が粒となって滴っていた。
どこか素っ気なさを感じるものの、意外と礼儀正しい彼とここ数日の間に会話が増えた気がする。といっても、もともと会話が得意じゃないのか、俺が上級生だからか、彼の口数は多くない。でも、俺は部活に真剣に取り組む後輩ができて嬉しかった。
彼と同じように額から垂れてきた汗をぬぐいながら、ベージュ色のブレザーに袖を通す。
「そうだ。今週、新入生歓迎会があるんだけど、八重樫くんも来る? 会費は無料だからよかったら」
部活で説明があったが、その時八重樫くんはいなかった気がするので一応声をかけてみる。彼は大きいし存在感があるからいないとすぐに分かるのだ。
新入生の女子たちは、無口な彼にご執心の様子で会話を試みては失敗している。一人だけ男子というのも気まずいのだろう。そういう助け舟的な意味で話しかけているわけではないが、俺が同じ立場だったら気まずいと思う。
八重樫くんは、赤いボーダーの入った緑色のネクタイを締める手を止めこちらを振り返る。何かもの言いたげな目をジトッと向けてきた。
「ああ、全然嫌だったらいいよ。強制じゃないし。毎年いかない人もいるから」
「先輩は来ますか?」
俺の言葉を遮るように、彼の低い声が部室に響く。
ボタンにかけていた手が止まる。
「行くけど。ああ、男子? 男子はいっぱいくるよ。俺の学年とか、三年生も」
「まひる先輩がいくなら、いいかなって思って」
「そう言ってもらえるのは嬉しいな。ああ、でも、やっぱりあれだよね、男子いないの気まずい?」
「別に。俺はバドミントンをするために部活に入っただけなんで」
そっかぁ……と言葉はなぜか喉に張り付いて出てこなかった。
距離感を測りかねている。
八重樫くんは、同級生よりも俺たち二年生と話したがる。三年生は引退試合があるから新入生にかまっていられないだろうし、八重樫くんも積極的に話しかけたりしない。年が近い男子ということで、俺たちに話しかけてくるのだろう。
どんな理由でもよかったが、俺は「バドミントンをするために」という言葉が嬉しくて仕方がなかった。顔に出さないように呼吸を整え、先ほど出なかった「そっか」と言葉を返す。
「じゃあ、楽しみだね。金曜日」
「はい……じゃあ、俺は帰るんで。また」
先ほどより浅く会釈をし彼は部室を一足早く去っていく。
一人ぽつんと残された俺は思い出したようにボタンをかける。そんな時、彼が使っていたロッカーの近くに一枚の紙が落ちていることに気づいた。愛らしいデザインの紙は上等なもので、線の上に不格好な手書きの文字が並んでいる。
「拝啓……? 今時、こんなかしこまった文章……」
興味本位で拾い上げ、文字を目で追っていく。"拝啓"の後ろの続く文章はまったく時候の挨拶などではなかったし、書きかけで余白だらけの手紙は先に"敬具"と締めくくられている。
国語の授業で書かされたものだろうか? 最初こそそう思ったが文章を読むと明らかに違うことが分かった。
「『今日もかわいい』、『好きです』……え、え、これって、ラブレター!?」
勢いよく口元を覆う周囲に誰もいないのを確認し、胸をなでおろす。整ったはずの呼吸はすでに乱れていた。
宛名も、差出人も書かれていないそれはいったい誰のものであるか分からない。しかし、落ちていた場所が場所なこともあり一人の人物が頭に浮かんでくる。この不格好ながら力強い文字が、彼と重なった。
(や、八重樫くんが書いたってこと……?)
まだ決めつけるには判断材料が足りない。しかも、彼はまだ入学して一か月も経っていない。いや、中学生時代から好きな人がいてその人に向けてのものかもしれない。あるいは、意外と一目惚れするタイプなのかも……
八重樫くんに対する偏見交じりの妄想が止まらない。俺の知っている彼から想像もつかないけど。
とにかく、人の書きかけのラブレターを拾った挙句、読んでしまったことは非常に申し訳ない。恥ずかしくなるような初々しいラブレターへの罪悪感は増していくばかりだ。
明日にでも落とし物ボックスに……さりげなく部室に置いておくとか考えよう。きっと彼――もしかすると他の誰かはこれを無くしたことに慌てるだろうから、目に着かないように持ち主の元に返してあげたい。
「……お、俺も帰ろう」
部室は夕日のオレンジ色で満たされていた。一直線に伸びる長い影は、それでも八重樫くんの身長には届いていない気がした。
◇◇◇
落ち着かない。
生徒会室の前に置かれた黒いプラスチック製の”落とし物ボックス”は、今日も誰かしらの落とし物たちでいっぱいだ。
昨日拾った書きかけのラブレターはあのあとクリアファイルに入れて持ち帰った。部室に落ちていたから、今日の部活で聞いてもよかったが特定の人物をさらし者にする気も、言い出す勇気も無かったため、落とし物ボックスに入れることにした。落とした本人に自覚があれば探しに来るだろう。
俺は人目を気にしながらクリアファイルからそっと愛らしい便箋を抜き取って、誰かの目に触れないように下の方へ忍ばせる。これでは意味が無いが、意図せぬ誰かに見つかって傷つく思いをしないようにという俺なりの配慮だ。
勉強していないテストの返却日くらい心臓がバクバクと鳴っている。それでも任務完了と一段落し、帰ろうとしたところで彼と目が合った。
「まひる先輩」
「や、八重樫くん」
きりっとした眉はどことなく八の字になっている。八重樫くんは「ども」と思い出したかのように挨拶をした。
先ほどより早く心臓が脈打っている。やっぱり、あれは八重樫くんが書いたものだったのだろか。俺の教室は八重樫くんが来た方向にあるため彼の隣を通り抜けたい。もちろん、遠回りしたっていいが、絶妙に気まずい。
「おはよう、八重樫くん」
「今、昼ですけど」
「……じゃあ、こんにちは。部活以外で会うのは初めてかも。学年違うと階が違うじゃん」
「そうですね。先輩と廊下で会うの新鮮です」
選択肢を間違えたら即ゲームオーバーなゲームをプレイしているみたいだ。
実際、彼は一年生で二年生の俺たちとは棟は同じでも階は違う。校内は広く、学食と購買と食事をとるだけでもいろんな選択肢があり、まず部活以外で彼と会うことはない。
八重樫くんは、俺の隣にある落とし物ボックスに視線を移し「先輩も?」と不思議そうに訊ねてきた。
「いや、俺はたまたま職員室に用があって、その帰り」
「ああ、だからクリアファイル……俺もまあそんなところです」
忘れ物ボックスを見ながら言う八重樫くんは、どう考えても職員室に用があるとは思えない。詮索をするつもりはないが、あからさまな態度は少しかわいらしくも思う。それで隠しているつもりなのだろうか。
「引き留めちゃったかな。ごめん。俺はもう帰るよ。今日もまた部活で」
あたりさわりのない会話を心掛け、隙を見て彼の隣を通り抜ける作戦に成功する。
クリアファイルは半透明で中に何も入っていないのはバレバレだ。でも、職員室に書類を届けに行ったという呈にすればおかしくないだろう。
後方が気になったが、今八重樫くんと会話をするとぼろを出してしまいそうだったので早急にその場を退散する。
あれは本当に八重樫くんが書いたものだった? 誰宛て? 聞きたいことはいっぱいある。でも、聞いちゃいけない気がする。
(字……何度も消してあったな)
書きかけのラブレターだったが、とてもじゃないが人に渡せるものには見えなかった。何故なら何度も消したあとが紙に残っていたからだ。筆圧のせいか紙にへこみがあったし、字が気に入らなかったのか同じ文字を何度も書いた跡が見られた。
『今日もかわいい』
その単語はもともと『今日も”先輩”がかわいい』と書かれていたようで、手紙を渡す相手が上級生であることが伺える。それだけじゃ特定はできないが。
でも――
「まひる先輩、ちょっといいですか」
「な、何?」
声が裏返る。自分でも不自然だって分かる。
案の定、彼も目を丸くし、それから訝しげにこちらを睨んでいた。
「俺、昨日部室に忘れ物したんですよね」
「わ、忘れ物」
「何かありませんでした?」
「人のロッカーは見ない、かな。今日一番に部室に行って確認すればいいんじゃない? ああ、でも、一年生だと、鍵……なんだったら俺も付き合うよ」
「いえ、忘れ物。誰かが届けてくれたみたいで」
彼は落とし物ボックスから一枚の紙を抜き取る。下に入れたはずなのだが、彼は迷わずそれを見つけたようだ。
変な汗が背中に流れ、じんわりと服を濡らしていく。
「ならよかった。安心だね」
「はい。でも、誰かに読まれたかもしれません。ほら、拾ったらまず誰のものだろうって確認するじゃないですか」
「まあ、そうかも」
彼の黒い双眸は、俺の嘘を暴こうとしているようだ。すでに、犯人が分かったような口ぶりも俺に自白を迫っているように思う。
「拾ってくれた人にお礼、言いたいんですけど。ここ、ただ落とし物が入れられてるだけみたいですね」
「プライバシーの問題で、じゃないかな。よ、用事はそれだけ?」
「はい。もし、拾ってくれた人知ってたら……なんて。はい、また部活で」
案外あっさりと引き下がった八重樫くんは、俺に背を向けて歩いていく。相変わらず律儀に会釈する彼の姿は、大きくてもかわいい後輩だ。顔は常にむすっとしているし、長い前髪が眉にかかっているけれど表情が分からないわけじゃない。
「……っぶなぁ。いや、バレてるだろ、あれ」
走り込みをした直後くらい息が上がる。握っていた手のひらにはべしょりと汗をかいていた。
八重樫くんは、あれ以上追及してこなかったが俺が拾っていたと知ったらどうしたのだろうか。
『拝啓 今日も先輩がかわいい。俺と同じラケットを使ってる。ラリーができて嬉しい、先輩も同じ気持ちだったらいいな』
(あのラブレターの相手って、俺?)
自意識過剰すぎるか?
でも、先輩でバドミントン部でラリーをするって言ったら俺しかいない。極めつけは、同じラケットだ。もちろん、何度も書き直されていたため原文は分からないし、うっすら残っていた文字を読んだだけに過ぎないけど。
俺はしばらく呆然と、彼のいなくなった廊下を眺めていることしかできなかった。
◇◇◇
「まひる、元気なくね?」
先輩たちがコートで練習をしているのを眺めながら、夕也は俺の隣に腰を下ろした。
八重樫くんと昼間にあってから半日が経ち、部活動の時間に突入した。
「今週末、焼肉じゃん。元取ろうぜ、元」
大容量の水筒に口を漬けながら、俺は生返事をする。夕也も、俺の元気がないことなんてすぐにどうでもよくなったのか「まだ四月だろあっつ~」と、パタパタユニフォームの襟を掴んで仰ぎ始める。
俺はそんな彼を横に、いつも通り女子に囲まれている八重樫くんの姿を見つけた。しつこくSNSのアカウントを聞き出そうとしていた子は「やってないんで」の一言で消沈している。確かに、八重樫くんはやってなさそうだな……今時メッセージでの告白も多いのにラブレターを書くくらいだから。なんて考えては、ダメだダメだと首を横に振って他のことを考えようと意識を逸らす。
(八重樫くんいつも通りだな……)
同学年には不愛想で、平常運転。女子に囲われているからか、俺たちに話しかけに来る様子もない。
「何やってんだよ」
「じゃ、邪念を」
「エロいなことでも考えてたのかよ。まひるも隅に置けねえな。今、昼だぞ」
「時間関係なくない? てか、違うし」
夕也に肩を組まれ、逃げ場を失っていると「二人とも元気してるかー?」と頭上から聞き慣れた声が降ってきた。
顔を上げればそこにいたのは、今学期始まってから顔を見ていなかった同級生の土屋昴だった。よっと、軽く手を上げた彼は夕也とはさむように俺の隣に腰を下ろす。
「久しぶり、昴。今年初めて部活に顔出すんじゃない?」
「寂しかったぞ~昴~まひるは、バドになると容赦なくってさぁ」
「それだと、俺が弱いみたいに聞こえるぞ? まひるがバド強いのは昔からだし」
夕也の言葉を軽く流しながら、昴は落ちてきた眼鏡をくいっと持ち上げた。
彼は、一年生の時は同じクラスだったが、二年生で理系クラスに入ったため会う機会が減った。また、春休みごろに『塾に通い始めたから』とメッセージが入ってから、部活に来なくなっていたのだ。
久しぶりに会ったが元気そうにしていてホッとしている。ちなみに、昴とは中学生からの付き合いだ。
「塾は?」
「今日は休み。そろそろ顔出しておかなきゃなあーて。俺、幽霊部員になっちゃうだろ?」
「十分幽霊部員だわ」
「辞めないよね?」
「ん? まあ、そりゃ、推薦も一応狙うし。部活辞めたっていうの履歴書に書きたくないしな」
昴はそう言いながら、コートで練習試合をしている先輩たちに視線をやった。だが、途中で何かを思い出したように俺の方を見る。
「どうかした?」
「そういや、今年の新入生……八重樫いるんだな」
「昴、八重樫くん知ってるの?」
「知ってるも何も。同じ中学だったし。ああ、でも本人が目立つやつっていう感じじゃなかったかもな。ほら、俺たちが中一だったとき生徒会長だった人覚えてる?」
「女の人だったのは覚えてるけど。八重樫くんとどんな関係が?」
「その人が、八重樫のお姉さんでさ。高校はここじゃなくてもっといいところ行ったって噂。まあ、詳しくは知らないけど、八重樫の家って金持ちで、いろいろできるらしくて」
「詳しいね。俺、ぜんっぜん知らなかったや」
記憶をたどれば、確かに俺たちが中学一年生の時の生徒会長は女の人で八重樫って苗字だった気がする。うろ覚えだが、何となく顔も思い出せた。でも、八重樫くんが同じ中学だったなんてまったく記憶にない。
昴が情報通なのは知っていたが、八重樫くんとの意外な接点を知れて驚いている。しかし、あっちは俺のことをあまり知らない様子だったから、互いに初対面なのかもしれない。聞かれない限り、同じ中学だったよね? とこちらか聞くつもりもない。
(それに、ラブレターの件もあるしなあ……)
気まずさが拭えない。
そうこうしていると、先輩たちの試合が終わったようで、コートに入るよう言われた。
「次、俺たちの番だぞ。久しぶりにまひるとダブルスだから、楽しみだな」
やる気に満ちた表情の昴に、俺も、と返す。だが、打って変わって対戦相手の夕也はそわそわとしていた。
「俺、その噂の八重樫となんだけど」
「噂のって……あ、八重樫くん」
「うっわ、びっくりした! は、デカいくせに気配消してあるけんのかよ!」
ぬっとあらわれた彼に、夕也はビクンと肩を揺らしていた。今日、昴が来ると思っていなかったが、夕也のダブルスの相手が休みだったため、急遽八重樫くんがペアを組むことになったのだ。三年生が下級生の動きを見て、八重樫くんならと補欠として入れたらしい。
慣れない相手と連携を取るのは難しいかもしれないが頑張ってほしい。
俺は、よろしく、と八重樫くんにあたりさわりのない笑顔を送る。
「いやぁ、俺、お前らと当たるの嫌すぎるんだけど。中学からダブルス組んでんだろ? 絶対負けるじゃん」
「後輩の前で弱音はいてみっともないぞ、夕也。でも、確かに……まひる。よければ、今日だけペア変えてみるとかどうだ?」
「八重樫くんと、昴がダブルス?」
数回瞬きをすれば、八重樫くんが「先輩が」と口をはさんだ。その声に俺たちは三人同時に反応する。
夕也は、俺か昴どちらでもいいからと縋るような顔をしていたが、いきなり割って入ってきた彼にちょっと不機嫌そうに突っかかった。
「八重樫、何?」
「……俺、まひる先輩とダブルス組んでみたいです」
「俺?」
デジャブを感じる。
夕也も昴も、目を丸くして互いに顔を見合わせており、状況が飲み込めていない様子だ。八重樫くんだけがまっすぐと俺を見ており、視線を外してもずっとこちらを見ていた。彼とは毎回目が合う気がする。ずっと見られているような感覚がするのは気のせいだろうか。
「俺はいいけど。まひるはどうする?」
「お、俺もどっちでも。ダブルスのペア変えるって話だったし、八重樫くんとでもいいよ」
「じゃあ、決まりだな。夕也、今日は俺とペアな」
「しゃあぁっ! 昴もつえぇし、ボコボコにしてやんぜ」
「"も"ってなんだよ。俺も二年生の中では強いほうだろ」
「幽霊部員がよく言うなあ~?」
「バーカ、幽霊部員じゃない。足引っ張んなよ」
二人は肩を組みながら反対側のコートへと移動してしまった。
俺は、ぽつんと取り残されてしまう。
「嫌でしたか?」
「嫌、じゃないよ。八重樫くんはいっつも俺を指名するから不思議で。俺でいいの?」
「先輩がいいです。そんな、謙遜しなくても練習見てれば、先輩が一番強いことくらいわかります」
「よく見てるね。俺のこと」
「そんなことないですよ」
八重樫くんはそれだけ言うと、所定の位置についた。
もう少し何か会話があるものと身構えていたが、あっさりしていて拍子抜けだ。
(ラブレターのこと、もういいのかな……)
練習とはいえ試合。余計なことを考えてミスなんてしたくないが、八重樫くんと一緒で落ち着かない。
彼は俺と同じラケットを握り、相手コートを見据えていた。サーブはあちらからだ。
昴のサーブから始まる。相変わらず無駄のない動きに正確なショット。飛んできたシャトルは八重樫くんが拾い上げて、あちらのコートへ返した。次に、夕也が大きく振りかぶるように見せてニアピン。俺はネットすれすれに返ってきたシャトルを打ち返す。
その後も失点なくラリーが続いていく。
昴は、ここ最近ラケットを握っていなかっただろうにその腕は落ちておらず、こちらの弱点を把握した攻撃を仕掛けてくる。さすがは俺のダブルスの相手だ。
夕也も、昴との連携が取れている。何度か彼と組んだことがあるからだろう。
(でも、俺のミスを八重樫くんが全部カバーしてくれるんだよな)
同じ中学だったが部活は違った。となると、彼は今年から始めたバドミントン初心者のはず。しかし、俺や二人に着いてくるところを見るとセンスがいいことが伺える。
体育館に響き渡るような鋭いスマッシュが撃ち込まれる。届かない――そう思ってラケットを伸ばせば、キュッと床をシューズが擦る音が聴こえた。ギリギリのところで、八重樫くんがカバーし、あちらへ打ち返す。ただ、そのシャトルは思わぬ方向に弧を描きコートから出てしまった。
相手に一点が入る。
「八重樫くん、ありがとう。ナイスカバー」
「いえ、結局失点だったので。無理に取りに行かなくてもよかったかもしれませんね」
「そんなことないよ。ガッツは大事。でも、脚怪我してない?」
「大丈夫です。昔から怪我は少ないので。多分、丈夫なんです」
足元に視線を落とせば、実に彼らしい黒を基調としたシューズが見えた。足のサイズは俺と二センチ以上ある気がする。
「けど、怪我は気を付けてね。スポーツやってるとよくあるから。そういえば、八重樫くんって中学時代何部だったの?」
「帰宅部です」
「じゃあ、バドミントンは初心者?」
相手側のコートから「早く戻れ―」と夕也の声が飛んでくる。
八重樫くんは前髪の下に隠れた眉をピクリと動かして、元の位置へ向かうべく背を向ける。数歩歩いたところで、何か気になることがあったらしく、半分ほど身体をこちらに向けてきた。
「まひる先輩は、俺のこと気になるんですか? さっきから質問が多いですけど」
「気になるっていうか……気になる。上手いから。バドが……初心者なのに、すごいなって」
「ありがとうございます。俺、別に先輩になら何言われても嫌じゃないんで。気にしないでください。ちょっと距離感じます」
「それは、ごめん」
「でも、興味持ってもらえて嬉しいです」
彼はそれだけ言い残して戻っていく。
八重樫くんの声色が少し弾んでいたが、どんな表情をしていたかまでは分からない。
現在、昴と夕也ペアが一点リードしている。ここから巻き返さなければ。
せっかく八重樫くんに指名してもらったし、二人には負けたくないし。俺はかなりボロボロになったグリップを握りしめる。そういえば、グリップを巻き直したのはいつ頃だっただろうか。このラケットも長いこと浸かっていて、そろそろ寿命がきそうだ。
(買い替えてもらえそうにないけど……)
ほんの少し億劫になる。ため息が漏れそうになったのを我慢して、ふぅと息を吐いた。
「よし、集中!! 八重樫くん、絶対勝とうね」
味方コートにいる、八重樫くんに声をかける。すると、彼は秒でこちらを振り向いて柔らかく微笑んだ。ふにゃりとした笑みは、いつも不愛想で無骨な彼からは想像のつかないものだった。



