呼吸が苦しくなってやっと、自分が何をしているのか自覚した。
「うわっ」
自分からキスしておいて氷室を強く押し返す。
珍しく氷室は目を見開いたまま固まっていて、俺はどうしたらよいのかわからず必死に言葉を探る。
「えっとこれは、その……キーホルダーくれたお礼?みたいな……感謝の気持ち、的な?」
ここで壊してはいけない。崩してはいけない。
「ほ、ほんと気にしないでいいから!」
この関係を続けるにはこう言うしかなかった。
「ほらキャンプファイヤー始まってるから行こ!」
ドロっとした額の汗を拭い、そう言って逃げるように1人で走り出す。
芝生の広場のど真ん中に大きなキャンプファイヤー。
それをぐるっと取り囲むように生徒たちが写真を撮ったり、だべったり、それぞれの時間を過ごしている。
「舞坂くんなにしてたんですか?遅いですよー」
「ごめんごめん」
「マイマイなんか顔赤くね?てか氷室は?」
「は!?」
「え?」突然の大きな声に2人はポカンとしている。
「いや、別に赤くないし!ぜんっぜん赤くないし!氷室?もうすぐ来るんじゃない?」
「あーそう?」
様子のおかしい俺に2人は首を傾げながらもキャンプファイヤーに視線を戻した。
やっと落ち着いて呼吸ができる。目をつぶって何もかも忘れるように息を吐き出すと心臓の鼓動がいくらか収まった。パチパチと木が鳴る音が心地いい。
「もうこの合宿も終わりかー」
「なんか逆にさみしいですね、行くって決まった時はあんなに嫌だったのに。舞坂くんもそう思いません?」
「……だね」俺は目線を外さずに答えた。
「来てよかったわー」
「なに?俺への感謝の言葉ー?」
いつの間にか伊月くんと……氷室も近くに来ていた。
「へっ、まあそうだな。サンキュー、伊月。氷室も」
「うん!」
「ああ」
氷室の様子はいつもと変わらなかった、と思う。
氷室はどう思ったんだろう。
いや……キモいよな、普通に考えて。最近少し話すようになっただけの男にキスされる。俺が氷室の立場でもドン引き案件だ。完全に変態じゃないか。
「……夏の思い出ができましたね」
「あと2週間もすれば新学期かーだるいなー」
俺の悩みなどつゆ知らず、藍沢と立花は呑気に黄昏ていた。その様子を横から眺めていると急に肩に大きな手がドンと乗る。
「おわっ……野田先生」
「舞坂、どうだった合宿は?」
ごつごつした手の感触が伝わってくる。
「あ……大変だったけど楽しかった、です」
色々あったけど嘘偽りない気持ちだ。
「課題プリントも全部クリアしたな?」
「はい」
キッパリと言うと、伊月くんと藍沢が「おー?」「ということはー?」とはやしたて先生の言葉を待った。
「前期の数学は赤点回避だ!」
「よかったですねぇ舞坂くん」
「おめでとうマイマイ」
周りにいた人たちも何人かわーっと拍手をしてくれる。参加しただけであって別段なにもしていないが俺はその暖かさに思わず胸に手を当てた。
そっか、そういえば参加した目的は赤点回避のためだったっけ。
「伊月と氷室もありがとな。ほら舞坂、2人にお礼は」
「ありがとう、ほんとに」
「これからも仲良くしろよお前らー」
「もちろんですよー!」
伊月くんは当たり前だとばかりに俺の肩に腕を回し、先生に見せつける。
「氷室もだぞー」
「……はい」
「まあ明日もあるけどな、気を抜くんじゃねぇぞ」
本部のテントへと帰っていく先生の背中をわけもなく眺める。
「……楽しかったな」
心の底から出た声は掠れて、きっと誰にも届いていない。いつも変わらない地味な学校生活を送っていた俺にとって、こんなキラキラしてた日々は喉から手が出るほど憧れていた。
こんな日がこれからも……続きますように。
念じるようにチラリと横目で氷室を見て、無意識に唾を飲み込む。やっぱりきれいで、釘で止められたみたいに目が離せない。
今まで通りでいたい。友達みたいに普通に話して笑って、そんな関係でいたい。
いつも通り軽やかな声を作って言った。
「氷室!キャンプファイヤー、きれいだよな?」
「……ん」
そうだよな。俺のこと嫌いになるよな。
そっけない返事は俺の心に鋭いダメージを与えた。
俺はバカだ。
氷室の心を開けたかも、なんて調子に乗った勘違いをした大バカ者だ。
火の中を見ると、互い違いに重なった木の枝が焼かれ、炭になってガサガサと崩れ落ちる。炎が揺れる。
こんなに脆いんだ、木って。
不思議と悲しくはなかった。夢から醒めるだけだと思えば大丈夫。
「ちょっと俺、トイレ」
離れたところから氷室の後ろ姿を捉えると思い出す。
ほんの一瞬でも優しくしてくれてうれしかった。
それだけでもう十分、これ以上はいらない。
最後は笑って終わろう。それからは何もかも忘れるように俺はキャンプファイヤーを楽しんだ。
◇
「あと2日で学校だなんて……」
本当に夢のような時間は一瞬だった。勉強合宿を終え、夏休みももうすぐ終わる。
夏休み最後の部活動。今日の当番は2年生組だ。
「あれ、マイマイ宿題終わった?」
「へっ、もちろんさ」
「ドヤ顔うざー、去年は前日必死に答え写してたくせに偉そうに」
「俺は変わったんだぜ?」得意げだった俺の気持ちは立花の言葉で急に萎えることになる。
「勉強合宿のおかげですねぇ」
「……」
そ、それもあるけどさ。
合宿の日以降、事あるごとに消したい記憶が呼び起こされるようになってしまった。そう、キスとか……キスとかキスとか!夢にまで出てくるんだから最悪だ。
勉強をしていれば余計なことを考えなくて済む、ということに気付いてから俺は自分でも引くくらいに勉強に没頭した。
でも……俺はため息をつく。
学校が始まったらそうはいかないんだよな。
俺たちは5人で友達だし、絶対に氷室と顔を合わせることになるだろうし。
「2人に聞きたいんだけど」俺は心を決めて問いかける。
「セクハラについてどう思う?」
藍沢と立花は空のプランターを水拭きしながら気だるそうに振り返った。
「……は?」
「急にディベートですか?」
「うん、まあそんな感じ」
「はあー?」と笑った藍沢は顎に手を当てた。
「そうだなー、この世に存在しちゃいけない凶悪犯罪?」
「それ以外にないですねぇ、反対意見はないので議論できないです」
いやそうじゃなくて……
「じゃ、じゃあ例えば付き合ってない人と……その、キ、キスするとかは?」
「んー、それはお互い合意の上で?」
「いや、合意はしてないけど……友達?みたいな関係で」
「ギリアウトじゃないですか?」
「え!」俺は思わず大きな声を出してしまう。
「相手の反応にもよるなー、嫌がってないならセーフだけど、まあそれ以外はアウトだな」
「……やっぱそう、だよ、な」
落胆する俺を見て藍沢は雑巾を放り投げじわじわと近づいてくる。
「マイマイさ……好きな子できた?」
「は、は?いや違うから!ぜんぜん違っ……」
「いや、でも急に真面目に勉強するし、そんなこと聞くって怪しくない?なに、もしかして誰かとキスしたの?」
「……」
茹でたタコのように赤くなった顔は隠せない。
「そうかも」俺はついに観念することにした。
「そっかそっかー、あのマイマイがねー?」
目を逸らしても追ってくる視線に俺は認めたことをすぐに後悔した。
「なんだよ」
睨む俺に藍沢はニヤけたまますっとスマホを差し出す。
「……自首する?」
「くっ……」歯の隙間から空気が漏れた。
「茶化すな!」
「ははは!」
「まあまあ、喧嘩しないでくださいよぉ。でもびっくりですよ舞坂くん。夏休み中になにかあったんですか?」
「いやそれは、いずれまた……話します」
「えー」藍沢の納得いかない返事と共に立花のスマホが震えた。
「お、もうすぐ着くみたいですよぉ」
呑気な声に首を傾げる。
「なにが?」
「え、なにがって……舞坂くん忘れてたんですか。今日は園芸部みんなでホームセンターに買い出し行くって予定じゃないですか」
忘れてた……。篠原と柚野も来るのか。
ん?ゆず、の……柚野!
「……あ」
やばい、なにも考えてない。一旦保留にした返事を夏休みいっぱいかけて考えようと思ってたのに!
「こんちゃーす、先輩!」
神様は俺に考える暇を与えてはくれないらしい。
ドアが開く音と同時に、残暑に負けないくらいの元気な声が入ってきた。
「こんにちはー、みんなで集まるの久々ですね」柚野も後ろから顔を出す。
「お、おお」なるべく普通に、なるべく普通に。
「え、マイマイ先輩どうしたんですか、顔赤いけど」
挙げかけた手が止まる。
「あー、これねー。今セクハラの話しててー、マイマイがね?」
「おい、語弊があるだろ!」
「セクハラ……?」
「マイマイ先輩……」篠原はさっとスマホを俺に差し出した。
「……警察行きます?」
「行かねーよ!!」
5人で近所のホームセンターへ買い出しへ行き、秋に向けて新しい苗とその肥料などをカートいっぱいに買ってきた。
柚野とはなるべく離れたポジションを維持し、なんとか目を合わせることなくできた。
「よし!じゃあ後頼むなー」
大量の荷物を部室に運んだ後、家が比較的遠い藍沢、立花、篠原の3人は帰ることになった。
あとの作業は俺と柚野で終わらせる……のだけれど。
薄暗くシーンとした部室に告白した人された人。なんちゅう空間だ。
しばらく無言で棚に買ったものをしまっていく。
なんとなく俺がさっき避けたせいで話すタイミングを失ってしまった。
「夏のコンクール、ダメでしたね……」
沈黙を破ったのは柚野だ。
「あっ、うん。ダメだったな」
俺が監督を務め、何度も試行錯誤をして作り上げた渾身の花壇は『大胆さ、優雅さが足りない』と審査でバッサリ切り捨てられた。
「また挑戦できますよ。秋も冬も春もコンクール続きですから」
「そう、だね」
「……さっき部室で言ってたのって」
「え?」ドキリとして息が止まった。
「合宿でなにかありました?」
土埃は夕日の光を受けてキラキラ輝き、オレンジ一色に染まった部室は表情を隠してくれる。
「いや……」この期に及んでまだ誤魔化そうとする自分に気づいてハッとした。
柚野は勇気を出して告白してくれたのに、俺はその思いを受け止めるのを後回しにしていた。そして今だって何もなかったかのように振る舞っている。
それがどんなに残酷なのか。さっきまでの自分をぶん殴りたい。
氷室への想いを自覚してわかった。心の内を伝えることは誰にだってできるものではない。
だけど、それでも気持ちを伝えるのはきっと、傷ついたとしても知ってほしいから。
逃げ回るんじゃない、目を背けるな。
「あのさ柚野」
「はい?」
「俺、好きな人がいるんだ」
俺だって知ってほしい。氷室にこの気持ちを。
「氷室先輩ですか」
「うん」素直に頷く。
「だから柚野とは付き合えない」
「……告白、したんですか?」
「いや……でもなんか俺、合宿で暴走しちゃって。ほぼ失恋?みたいな感じになっちゃって」
「あー、ダメだなー俺は」そう言って天を仰ぐ。
いっつも失敗続きでさ、ほんと嫌になるよ。
「まあ、もういいんだ。なにをしたって付き合えるわけないんだし、恋した時点で失恋確定だったから」
午後5時の街のチャイムが鳴って、俺は急いで手についた土を拭く。
「んんっ。さ、帰ろうか」
俺の失恋話をしたって柚野が困るだけだ。
そう思って俺はリュックを背負って歩き出す。
「先輩」
「ん?」呼び止める声に振り返る。
「また挑戦できますよ」
俺の背中を押す、優しいエール。
「コンクールだけじゃないです、氷室先輩のことも。応援してます」
柚野は「お先に失礼します」と俺を追い越し下駄箱へ消えていった。
窓の外にはひまわりが背中を丸めて咲いていた。1番輝く時期を終え、全力を出し切った、やり切ったと言わんばかりにくてんと休んでいる。
「挑戦、か」
夏のコンクール、俺に足りないものは……
◇
次の日。
俺は夏休み中とは思えない朝6時に起き支度を始めた。
ベッドに置いたスマホに映るのは、昨日の夜やっとのことで送ったメッセージ。
送信をタップするのに30分はかかって、送った後もブルブルと手が震えていた。
送信先:氷室一澄
『明日空いてる?話したいことがあるんだけど』
『あいてる』
『13時に七音駅に来てほしい』
『わかった』
今日伝えよう、俺の気持ち。
気合いが入って集合時間よりだいぶ前に着いてしまった。
はやく来てほしいような、一生来ないでほしいようなそわそわした気持ちのまま行き交う人々を眺めていると、集合時間の2分前に氷室はやって来た。
「よ、よお!」
2人っきりになるのなんていつぶりだろう。
氷室の私服はイメージ通りの黒を基調としたシンプルな服。アクセサリーひとつ付けてない、そのオシャレに無頓着な所も素敵だ、なんてまたときめいてしまう。
「話ってなに?」
うっ……会って早々核心に触れてきた。
手汗が自分でもわかるくらいに湿っている。
「それはまだ……」
「は?」
「そういうのはあとでゆっくり……な?」
「ったく、なんだよ」
逃げたい気持ちとやってやる!という気持ちがせめぎ合って決心がつかない。
押されるな、堂々としろ。
氷室のペースに飲まれるな……
嫌われるかもなんて、不安に思う必要なんてない。
元から好かれてないんだもん、俺のこと嫌いだったんだし。
傷ついても逃げないって決めたんだ。
「とりあえず、行こう!」
めげずに大きな声を出す。
「お前さ、わざわざここまで来てファミレス?」
お昼のピークを過ぎてたからかすんなりと入店できた俺たちは窓際のテーブルに腰を下ろした。
「うん。パスタ食べたくて」
「……変なやつ」
氷室の住む七音市は、学校と俺の家がある御園市の隣の隣町で電車だと30分、車だと40分くらいの自然豊かな田舎の町。
俺はなぜか昨日から食べたかったボロネーゼを、氷室はオムライスを注文した。
湯気からミートソースの匂いが鼻をかすめる。
「いただきます……ゴホッ」
開幕早々咳き込む俺に「ゆっくり食べろよ」と氷室は言う。
「……はい」
頭がパンクしそうだ。
2人でご飯食べてる事実にドキドキもするし、これから告白しようとしてることにもドキドキするし、なんて言えばいいかわからないし、完全にキャパオーバー。
心を落ち着かせようとコーラを一気飲みした。
「おい」
「は、はい!」
「それ俺の」
ゆび差されたグラスは今しがた俺が飲んだやつ……
「え……?え!?俺気づかなかった!?」
怖い怖い、告白のことで頭いっぱいで味覚をなくすとは末期症状だ。
「す、すいません。グラス変えてきます……」
「気づかないなんてことあるかよ、コーラとアイスティーだぞ?」
「そうです……よね」
「……どうした?」
「え?」
「なんかお前今日変だろ」
「はは」氷室は呆れたように笑った。
その顔にするっと力が抜ける。
怒って、軽蔑してくれないと調子が狂う。
俺の失敗をそうやって笑って受け止められたらさ、ドキドキすんだよ。
バカにするな、とメッセージを込め氷室を睨んだ。
「いやいや、お前が悪いからね?」
「ははは」と氷室はオムライスを口に運ぶ。
なぜか暖かい罵倒はそのまま俺の胸にじんわり留まっていた。
胸に手を当て、俺は昔藍沢から聞いた話を思い出していた。
絶対に笑わない、氷王子の笑顔は誰も見たことがないんだと。
「……氷室って最近よく笑うよな」
「そうか?」
「それってさ、」
……俺のせいだったりするのかな。
「いや、なんでもない」
グッと言葉を飲み込む。
氷室は俺と出会ってなにか変わったのかな。
どうであれ、氷室が笑ってくれたら俺はうれしい。
誰のおかげであったとしても俺は……
「お前もだろ」
「え?」俺は一瞬動きが止まり、言葉を反芻する。
「前から舞坂のことは知ってたぜ。教室の窓から見えるんだよ、毎日毎日花壇の前にいていっつも暗れぇ顔しててさ」
位置的に理数科の教室から花壇は目に入るのか……
「変なやつだと思ってたよ」と氷室は俺の前にあるアイスティーを奪って飲み干した。
「変……」
「いつも1人でいるし面倒なこと嫌いそうなのに、花を荒らすやつ注意するし、俺を探しに大雨の中飛び出すし、なぜか俺にキ、」
「ああ!」俺は慌てて遮る。
そうだった。
1人が好きとか思うのに、友達がたくさんいる人が羨ましくもあった。唯我独尊で自分の信念を貫きたいのに、馴染めない自分が嫌いだった。
嫌いだった、気がする。
俺が変わったのだとしたら。
笑うようになったとしたら。
それはさ、全部あんたのせいだよ。
「……好きなんだ」
意識せず口先からこぼれた言葉は、言ってしまった後で脳内で理解して赤くなる。
「え?」氷室は俺をまっすぐに見た。
「合宿のとき俺がその、キ、スしたのはお礼なんかじゃなくて……」
顔を上げるとバチっと目が合う。もう逸らしはしない。
「氷室のことが好きだから」
氷室はそれは知らなかった、とでも言いたそうな顔をしていた。
「……舞坂とは付き合えない」
数秒後、俺はあっさりと振られた。
「そ、そうだよね。あはは……俺が氷室をなんてな、変だよな?ただ俺が伝えたかっただけでほんと、気にしないで」
鉛を抱えたみたいに重くなる胸。ペラペラと保険を置きまくる俺を氷室はまじまじと見つめた。
「また?」
「え?」
「また気にしないようにするのかよ」
氷室は眉をひそめた。
「合宿の日のことも今日のことも俺は何も気にしなくていいんだな?」
「あ、いや……」
氷室は急に立ち上がり、小さくなる俺を見下ろした。
「帰る」
「え?」
「家まで送ってけよ」
店を出て、無言で歩く氷室の後ろをついて行く。
住宅街。あちこちにある木々は手入れがされてなく、だらんと垂れる枝が風が吹くたびゆらゆら揺れる。
杖をつきながら歩くおじいちゃんや洗濯物をはたくお母さんが視界の隅に映る。
のどかで落ち着いた雰囲気に溶けて楽に息が吸えた。
緩やかな上り坂の途中を曲がると小学校が現れ、『七音小学校』と古ぼけた表札が顔を出す。
校門を横切り、少し下っていくと小学校のグラウンドが見えてきた。
ふと、氷室が足を止める。
彼の視線の先には水色の塗装がところどころ剥がれている錆びついた体育倉庫。
中にはきっとコーンやサッカーボール、ライン引きなどがあるのだろう。
「小3の頃、ここに半日閉じ込められたことがあってな」
独り言のように氷室はポツンとつぶやいた。
「え?」
なんで急にそんな話をするのだろう。
「閉じ込められたって……?」
「その日は休みで、みんなに誘われてドッヂボールをしてた。遊んでしばらくしてから体育倉庫にボールを取り行くように言われてな。行ったら突然扉と鍵を閉められたんだよ」
「……」
「午後は大雨で倉庫の中は真っ暗だった」
あの日と一緒だ。
合宿の日、嵐の中にいた氷室の姿が蘇る。
「友達……みんなはなんでそんなこと、」
「さあな、後から聞いたのはそいつらが好きだった女子が俺のこと好きだったからとか、先生が俺ばっか褒めるからとか、友達を俺に取られたとか、まあそんなくだらねー理由だな」
明るくてかっこいい氷室の周りには、きっとたくさんの人が集まっていたはずだ。
つまりは嫉妬。
「俺は耳を塞いで泣きながら何時間も助けを待ってた」
「まあ、結局誰も来なかったけど」氷室は足元に落ちていた石を蹴飛ばした。
「それ以降暗闇は苦手だ」
——「昔は氷室もみんなでワイワイして騒いで、いろんな人に囲まれて明るかったんだ」
——「でもいつからかなー、人を避けてるというか、あんな感じで暗くなっちゃって」
伊月くんが言っていた話を思い出す。
裏切られ、非難され、仲間から追放される。
闇の中で雨風の音に怯えながら助けを待つ。
来るのかもわからない助けを待つ。
声を出しても誰にも届かない。
なんで自分がこんな目にあってるの?
なにか悪いことしたのかな。
なにかを捨てなければ背負いきれない大きな孤独が小学生だった氷室に降りかかったんだ。
「それから俺は誰とも遊ばなくなったし、話さなくなった。放課後は塾に入って勉強して、サッカーやら体操やらスポーツはなんでも習った」
「気を紛らわすために習い事を?」
「いや?」
氷室がなぜ"氷"王子になったのか。
「勉強も運動もトップになれば誰も文句言わないだろ?」
心臓を鷲掴みされたように苦しくなって、呼吸が止まる。
手の届くことができないくらい圧倒的な存在になれば、くだらない嫉妬に巻き込まれ、恨まれないで済むとそう考えたんだろう。
「俺は、人と真剣に向き合うのをやめたんだ」
冷酷で無愛想な性格はそんな過去から作られたもの。
人を遠ざけるのは、心を凍らせるのは、自分を守る防御線。
誰かに嫌われたくなくて自分から人を嫌った。
誰よりも人の目が気になっていたから心を閉ざした。
自然と目の奥が熱くなる。
「舞坂」
ふと名前を呼ばれて、俺は滲みそうな涙を抑えるために目をつぶった。
「なんでお前が泣きそうになってんだよ」
氷室は俺の頭に手を置く。
「……普通にうれしかった。好きだって言ってくれて」
「だけど」その笑顔はわずかに寂しさが含まれ歪んでいる。
「俺はそうやって生きてきたから、今さら誰かを好きになることはできない」
その言葉に俺は無意識に拳を握りしめていた。
なんで伝わらないんだ。
——「ヒーローみたいだなって思ったから」
俺はあの日みたいに何度でも暗闇にいる氷室を助けようと思っているのに。
そうやって何もかも自分の中に閉じ込めて、バリアを張って近づけさせないようにして……むかつく。
俺はみんなとは違う。反対を押し切ったって氷室を助けに走っていける。名前を呼んで探しに行ける。
そんな自分を好きになれた。変われるんだ。
涙を飲み込み、ひとつ息を吸った。
「だから?」
俺は余裕そうに笑ってみせた。
「俺諦めるつもりないよ」
これは宣戦布告だ。
「え?」
「好きなんだから」
「……俺振ってんのに?」
「うん」
諦めてたまるか。
怒りに任せて両手で氷室の肩を持ち、俺の方へ向かす。
「好きになれとは言わない!だけど俺とはちゃんと向き合え!」
氷室の心を覆う氷は分厚くて、触れられない。
……だったらさ、溶かせばいいじゃん?
氷室は訝しげに俺の顔を覗き込む。まるで人が入れ替わったんじゃないかと疑っているよう。
「俺は本気だ!だから2学期もよろしく!」
「え……?」
いつも冷静冷淡な彼の驚き顔は新鮮だ。
そう、そうやって俺のせいで困ったり悩んだりすればいい。
「さ、帰ろうぜ!」
戸惑う氷室の背中を押す。
全身に溜まっていた大きな想いを吐き出して、やけに体が軽い。
俺に足りなかったものはこういう『大胆さ』だ。
明日から新学期。
氷室の心を溶かす俺の戦いが、始まる——
「うわっ」
自分からキスしておいて氷室を強く押し返す。
珍しく氷室は目を見開いたまま固まっていて、俺はどうしたらよいのかわからず必死に言葉を探る。
「えっとこれは、その……キーホルダーくれたお礼?みたいな……感謝の気持ち、的な?」
ここで壊してはいけない。崩してはいけない。
「ほ、ほんと気にしないでいいから!」
この関係を続けるにはこう言うしかなかった。
「ほらキャンプファイヤー始まってるから行こ!」
ドロっとした額の汗を拭い、そう言って逃げるように1人で走り出す。
芝生の広場のど真ん中に大きなキャンプファイヤー。
それをぐるっと取り囲むように生徒たちが写真を撮ったり、だべったり、それぞれの時間を過ごしている。
「舞坂くんなにしてたんですか?遅いですよー」
「ごめんごめん」
「マイマイなんか顔赤くね?てか氷室は?」
「は!?」
「え?」突然の大きな声に2人はポカンとしている。
「いや、別に赤くないし!ぜんっぜん赤くないし!氷室?もうすぐ来るんじゃない?」
「あーそう?」
様子のおかしい俺に2人は首を傾げながらもキャンプファイヤーに視線を戻した。
やっと落ち着いて呼吸ができる。目をつぶって何もかも忘れるように息を吐き出すと心臓の鼓動がいくらか収まった。パチパチと木が鳴る音が心地いい。
「もうこの合宿も終わりかー」
「なんか逆にさみしいですね、行くって決まった時はあんなに嫌だったのに。舞坂くんもそう思いません?」
「……だね」俺は目線を外さずに答えた。
「来てよかったわー」
「なに?俺への感謝の言葉ー?」
いつの間にか伊月くんと……氷室も近くに来ていた。
「へっ、まあそうだな。サンキュー、伊月。氷室も」
「うん!」
「ああ」
氷室の様子はいつもと変わらなかった、と思う。
氷室はどう思ったんだろう。
いや……キモいよな、普通に考えて。最近少し話すようになっただけの男にキスされる。俺が氷室の立場でもドン引き案件だ。完全に変態じゃないか。
「……夏の思い出ができましたね」
「あと2週間もすれば新学期かーだるいなー」
俺の悩みなどつゆ知らず、藍沢と立花は呑気に黄昏ていた。その様子を横から眺めていると急に肩に大きな手がドンと乗る。
「おわっ……野田先生」
「舞坂、どうだった合宿は?」
ごつごつした手の感触が伝わってくる。
「あ……大変だったけど楽しかった、です」
色々あったけど嘘偽りない気持ちだ。
「課題プリントも全部クリアしたな?」
「はい」
キッパリと言うと、伊月くんと藍沢が「おー?」「ということはー?」とはやしたて先生の言葉を待った。
「前期の数学は赤点回避だ!」
「よかったですねぇ舞坂くん」
「おめでとうマイマイ」
周りにいた人たちも何人かわーっと拍手をしてくれる。参加しただけであって別段なにもしていないが俺はその暖かさに思わず胸に手を当てた。
そっか、そういえば参加した目的は赤点回避のためだったっけ。
「伊月と氷室もありがとな。ほら舞坂、2人にお礼は」
「ありがとう、ほんとに」
「これからも仲良くしろよお前らー」
「もちろんですよー!」
伊月くんは当たり前だとばかりに俺の肩に腕を回し、先生に見せつける。
「氷室もだぞー」
「……はい」
「まあ明日もあるけどな、気を抜くんじゃねぇぞ」
本部のテントへと帰っていく先生の背中をわけもなく眺める。
「……楽しかったな」
心の底から出た声は掠れて、きっと誰にも届いていない。いつも変わらない地味な学校生活を送っていた俺にとって、こんなキラキラしてた日々は喉から手が出るほど憧れていた。
こんな日がこれからも……続きますように。
念じるようにチラリと横目で氷室を見て、無意識に唾を飲み込む。やっぱりきれいで、釘で止められたみたいに目が離せない。
今まで通りでいたい。友達みたいに普通に話して笑って、そんな関係でいたい。
いつも通り軽やかな声を作って言った。
「氷室!キャンプファイヤー、きれいだよな?」
「……ん」
そうだよな。俺のこと嫌いになるよな。
そっけない返事は俺の心に鋭いダメージを与えた。
俺はバカだ。
氷室の心を開けたかも、なんて調子に乗った勘違いをした大バカ者だ。
火の中を見ると、互い違いに重なった木の枝が焼かれ、炭になってガサガサと崩れ落ちる。炎が揺れる。
こんなに脆いんだ、木って。
不思議と悲しくはなかった。夢から醒めるだけだと思えば大丈夫。
「ちょっと俺、トイレ」
離れたところから氷室の後ろ姿を捉えると思い出す。
ほんの一瞬でも優しくしてくれてうれしかった。
それだけでもう十分、これ以上はいらない。
最後は笑って終わろう。それからは何もかも忘れるように俺はキャンプファイヤーを楽しんだ。
◇
「あと2日で学校だなんて……」
本当に夢のような時間は一瞬だった。勉強合宿を終え、夏休みももうすぐ終わる。
夏休み最後の部活動。今日の当番は2年生組だ。
「あれ、マイマイ宿題終わった?」
「へっ、もちろんさ」
「ドヤ顔うざー、去年は前日必死に答え写してたくせに偉そうに」
「俺は変わったんだぜ?」得意げだった俺の気持ちは立花の言葉で急に萎えることになる。
「勉強合宿のおかげですねぇ」
「……」
そ、それもあるけどさ。
合宿の日以降、事あるごとに消したい記憶が呼び起こされるようになってしまった。そう、キスとか……キスとかキスとか!夢にまで出てくるんだから最悪だ。
勉強をしていれば余計なことを考えなくて済む、ということに気付いてから俺は自分でも引くくらいに勉強に没頭した。
でも……俺はため息をつく。
学校が始まったらそうはいかないんだよな。
俺たちは5人で友達だし、絶対に氷室と顔を合わせることになるだろうし。
「2人に聞きたいんだけど」俺は心を決めて問いかける。
「セクハラについてどう思う?」
藍沢と立花は空のプランターを水拭きしながら気だるそうに振り返った。
「……は?」
「急にディベートですか?」
「うん、まあそんな感じ」
「はあー?」と笑った藍沢は顎に手を当てた。
「そうだなー、この世に存在しちゃいけない凶悪犯罪?」
「それ以外にないですねぇ、反対意見はないので議論できないです」
いやそうじゃなくて……
「じゃ、じゃあ例えば付き合ってない人と……その、キ、キスするとかは?」
「んー、それはお互い合意の上で?」
「いや、合意はしてないけど……友達?みたいな関係で」
「ギリアウトじゃないですか?」
「え!」俺は思わず大きな声を出してしまう。
「相手の反応にもよるなー、嫌がってないならセーフだけど、まあそれ以外はアウトだな」
「……やっぱそう、だよ、な」
落胆する俺を見て藍沢は雑巾を放り投げじわじわと近づいてくる。
「マイマイさ……好きな子できた?」
「は、は?いや違うから!ぜんぜん違っ……」
「いや、でも急に真面目に勉強するし、そんなこと聞くって怪しくない?なに、もしかして誰かとキスしたの?」
「……」
茹でたタコのように赤くなった顔は隠せない。
「そうかも」俺はついに観念することにした。
「そっかそっかー、あのマイマイがねー?」
目を逸らしても追ってくる視線に俺は認めたことをすぐに後悔した。
「なんだよ」
睨む俺に藍沢はニヤけたまますっとスマホを差し出す。
「……自首する?」
「くっ……」歯の隙間から空気が漏れた。
「茶化すな!」
「ははは!」
「まあまあ、喧嘩しないでくださいよぉ。でもびっくりですよ舞坂くん。夏休み中になにかあったんですか?」
「いやそれは、いずれまた……話します」
「えー」藍沢の納得いかない返事と共に立花のスマホが震えた。
「お、もうすぐ着くみたいですよぉ」
呑気な声に首を傾げる。
「なにが?」
「え、なにがって……舞坂くん忘れてたんですか。今日は園芸部みんなでホームセンターに買い出し行くって予定じゃないですか」
忘れてた……。篠原と柚野も来るのか。
ん?ゆず、の……柚野!
「……あ」
やばい、なにも考えてない。一旦保留にした返事を夏休みいっぱいかけて考えようと思ってたのに!
「こんちゃーす、先輩!」
神様は俺に考える暇を与えてはくれないらしい。
ドアが開く音と同時に、残暑に負けないくらいの元気な声が入ってきた。
「こんにちはー、みんなで集まるの久々ですね」柚野も後ろから顔を出す。
「お、おお」なるべく普通に、なるべく普通に。
「え、マイマイ先輩どうしたんですか、顔赤いけど」
挙げかけた手が止まる。
「あー、これねー。今セクハラの話しててー、マイマイがね?」
「おい、語弊があるだろ!」
「セクハラ……?」
「マイマイ先輩……」篠原はさっとスマホを俺に差し出した。
「……警察行きます?」
「行かねーよ!!」
5人で近所のホームセンターへ買い出しへ行き、秋に向けて新しい苗とその肥料などをカートいっぱいに買ってきた。
柚野とはなるべく離れたポジションを維持し、なんとか目を合わせることなくできた。
「よし!じゃあ後頼むなー」
大量の荷物を部室に運んだ後、家が比較的遠い藍沢、立花、篠原の3人は帰ることになった。
あとの作業は俺と柚野で終わらせる……のだけれど。
薄暗くシーンとした部室に告白した人された人。なんちゅう空間だ。
しばらく無言で棚に買ったものをしまっていく。
なんとなく俺がさっき避けたせいで話すタイミングを失ってしまった。
「夏のコンクール、ダメでしたね……」
沈黙を破ったのは柚野だ。
「あっ、うん。ダメだったな」
俺が監督を務め、何度も試行錯誤をして作り上げた渾身の花壇は『大胆さ、優雅さが足りない』と審査でバッサリ切り捨てられた。
「また挑戦できますよ。秋も冬も春もコンクール続きですから」
「そう、だね」
「……さっき部室で言ってたのって」
「え?」ドキリとして息が止まった。
「合宿でなにかありました?」
土埃は夕日の光を受けてキラキラ輝き、オレンジ一色に染まった部室は表情を隠してくれる。
「いや……」この期に及んでまだ誤魔化そうとする自分に気づいてハッとした。
柚野は勇気を出して告白してくれたのに、俺はその思いを受け止めるのを後回しにしていた。そして今だって何もなかったかのように振る舞っている。
それがどんなに残酷なのか。さっきまでの自分をぶん殴りたい。
氷室への想いを自覚してわかった。心の内を伝えることは誰にだってできるものではない。
だけど、それでも気持ちを伝えるのはきっと、傷ついたとしても知ってほしいから。
逃げ回るんじゃない、目を背けるな。
「あのさ柚野」
「はい?」
「俺、好きな人がいるんだ」
俺だって知ってほしい。氷室にこの気持ちを。
「氷室先輩ですか」
「うん」素直に頷く。
「だから柚野とは付き合えない」
「……告白、したんですか?」
「いや……でもなんか俺、合宿で暴走しちゃって。ほぼ失恋?みたいな感じになっちゃって」
「あー、ダメだなー俺は」そう言って天を仰ぐ。
いっつも失敗続きでさ、ほんと嫌になるよ。
「まあ、もういいんだ。なにをしたって付き合えるわけないんだし、恋した時点で失恋確定だったから」
午後5時の街のチャイムが鳴って、俺は急いで手についた土を拭く。
「んんっ。さ、帰ろうか」
俺の失恋話をしたって柚野が困るだけだ。
そう思って俺はリュックを背負って歩き出す。
「先輩」
「ん?」呼び止める声に振り返る。
「また挑戦できますよ」
俺の背中を押す、優しいエール。
「コンクールだけじゃないです、氷室先輩のことも。応援してます」
柚野は「お先に失礼します」と俺を追い越し下駄箱へ消えていった。
窓の外にはひまわりが背中を丸めて咲いていた。1番輝く時期を終え、全力を出し切った、やり切ったと言わんばかりにくてんと休んでいる。
「挑戦、か」
夏のコンクール、俺に足りないものは……
◇
次の日。
俺は夏休み中とは思えない朝6時に起き支度を始めた。
ベッドに置いたスマホに映るのは、昨日の夜やっとのことで送ったメッセージ。
送信をタップするのに30分はかかって、送った後もブルブルと手が震えていた。
送信先:氷室一澄
『明日空いてる?話したいことがあるんだけど』
『あいてる』
『13時に七音駅に来てほしい』
『わかった』
今日伝えよう、俺の気持ち。
気合いが入って集合時間よりだいぶ前に着いてしまった。
はやく来てほしいような、一生来ないでほしいようなそわそわした気持ちのまま行き交う人々を眺めていると、集合時間の2分前に氷室はやって来た。
「よ、よお!」
2人っきりになるのなんていつぶりだろう。
氷室の私服はイメージ通りの黒を基調としたシンプルな服。アクセサリーひとつ付けてない、そのオシャレに無頓着な所も素敵だ、なんてまたときめいてしまう。
「話ってなに?」
うっ……会って早々核心に触れてきた。
手汗が自分でもわかるくらいに湿っている。
「それはまだ……」
「は?」
「そういうのはあとでゆっくり……な?」
「ったく、なんだよ」
逃げたい気持ちとやってやる!という気持ちがせめぎ合って決心がつかない。
押されるな、堂々としろ。
氷室のペースに飲まれるな……
嫌われるかもなんて、不安に思う必要なんてない。
元から好かれてないんだもん、俺のこと嫌いだったんだし。
傷ついても逃げないって決めたんだ。
「とりあえず、行こう!」
めげずに大きな声を出す。
「お前さ、わざわざここまで来てファミレス?」
お昼のピークを過ぎてたからかすんなりと入店できた俺たちは窓際のテーブルに腰を下ろした。
「うん。パスタ食べたくて」
「……変なやつ」
氷室の住む七音市は、学校と俺の家がある御園市の隣の隣町で電車だと30分、車だと40分くらいの自然豊かな田舎の町。
俺はなぜか昨日から食べたかったボロネーゼを、氷室はオムライスを注文した。
湯気からミートソースの匂いが鼻をかすめる。
「いただきます……ゴホッ」
開幕早々咳き込む俺に「ゆっくり食べろよ」と氷室は言う。
「……はい」
頭がパンクしそうだ。
2人でご飯食べてる事実にドキドキもするし、これから告白しようとしてることにもドキドキするし、なんて言えばいいかわからないし、完全にキャパオーバー。
心を落ち着かせようとコーラを一気飲みした。
「おい」
「は、はい!」
「それ俺の」
ゆび差されたグラスは今しがた俺が飲んだやつ……
「え……?え!?俺気づかなかった!?」
怖い怖い、告白のことで頭いっぱいで味覚をなくすとは末期症状だ。
「す、すいません。グラス変えてきます……」
「気づかないなんてことあるかよ、コーラとアイスティーだぞ?」
「そうです……よね」
「……どうした?」
「え?」
「なんかお前今日変だろ」
「はは」氷室は呆れたように笑った。
その顔にするっと力が抜ける。
怒って、軽蔑してくれないと調子が狂う。
俺の失敗をそうやって笑って受け止められたらさ、ドキドキすんだよ。
バカにするな、とメッセージを込め氷室を睨んだ。
「いやいや、お前が悪いからね?」
「ははは」と氷室はオムライスを口に運ぶ。
なぜか暖かい罵倒はそのまま俺の胸にじんわり留まっていた。
胸に手を当て、俺は昔藍沢から聞いた話を思い出していた。
絶対に笑わない、氷王子の笑顔は誰も見たことがないんだと。
「……氷室って最近よく笑うよな」
「そうか?」
「それってさ、」
……俺のせいだったりするのかな。
「いや、なんでもない」
グッと言葉を飲み込む。
氷室は俺と出会ってなにか変わったのかな。
どうであれ、氷室が笑ってくれたら俺はうれしい。
誰のおかげであったとしても俺は……
「お前もだろ」
「え?」俺は一瞬動きが止まり、言葉を反芻する。
「前から舞坂のことは知ってたぜ。教室の窓から見えるんだよ、毎日毎日花壇の前にいていっつも暗れぇ顔しててさ」
位置的に理数科の教室から花壇は目に入るのか……
「変なやつだと思ってたよ」と氷室は俺の前にあるアイスティーを奪って飲み干した。
「変……」
「いつも1人でいるし面倒なこと嫌いそうなのに、花を荒らすやつ注意するし、俺を探しに大雨の中飛び出すし、なぜか俺にキ、」
「ああ!」俺は慌てて遮る。
そうだった。
1人が好きとか思うのに、友達がたくさんいる人が羨ましくもあった。唯我独尊で自分の信念を貫きたいのに、馴染めない自分が嫌いだった。
嫌いだった、気がする。
俺が変わったのだとしたら。
笑うようになったとしたら。
それはさ、全部あんたのせいだよ。
「……好きなんだ」
意識せず口先からこぼれた言葉は、言ってしまった後で脳内で理解して赤くなる。
「え?」氷室は俺をまっすぐに見た。
「合宿のとき俺がその、キ、スしたのはお礼なんかじゃなくて……」
顔を上げるとバチっと目が合う。もう逸らしはしない。
「氷室のことが好きだから」
氷室はそれは知らなかった、とでも言いたそうな顔をしていた。
「……舞坂とは付き合えない」
数秒後、俺はあっさりと振られた。
「そ、そうだよね。あはは……俺が氷室をなんてな、変だよな?ただ俺が伝えたかっただけでほんと、気にしないで」
鉛を抱えたみたいに重くなる胸。ペラペラと保険を置きまくる俺を氷室はまじまじと見つめた。
「また?」
「え?」
「また気にしないようにするのかよ」
氷室は眉をひそめた。
「合宿の日のことも今日のことも俺は何も気にしなくていいんだな?」
「あ、いや……」
氷室は急に立ち上がり、小さくなる俺を見下ろした。
「帰る」
「え?」
「家まで送ってけよ」
店を出て、無言で歩く氷室の後ろをついて行く。
住宅街。あちこちにある木々は手入れがされてなく、だらんと垂れる枝が風が吹くたびゆらゆら揺れる。
杖をつきながら歩くおじいちゃんや洗濯物をはたくお母さんが視界の隅に映る。
のどかで落ち着いた雰囲気に溶けて楽に息が吸えた。
緩やかな上り坂の途中を曲がると小学校が現れ、『七音小学校』と古ぼけた表札が顔を出す。
校門を横切り、少し下っていくと小学校のグラウンドが見えてきた。
ふと、氷室が足を止める。
彼の視線の先には水色の塗装がところどころ剥がれている錆びついた体育倉庫。
中にはきっとコーンやサッカーボール、ライン引きなどがあるのだろう。
「小3の頃、ここに半日閉じ込められたことがあってな」
独り言のように氷室はポツンとつぶやいた。
「え?」
なんで急にそんな話をするのだろう。
「閉じ込められたって……?」
「その日は休みで、みんなに誘われてドッヂボールをしてた。遊んでしばらくしてから体育倉庫にボールを取り行くように言われてな。行ったら突然扉と鍵を閉められたんだよ」
「……」
「午後は大雨で倉庫の中は真っ暗だった」
あの日と一緒だ。
合宿の日、嵐の中にいた氷室の姿が蘇る。
「友達……みんなはなんでそんなこと、」
「さあな、後から聞いたのはそいつらが好きだった女子が俺のこと好きだったからとか、先生が俺ばっか褒めるからとか、友達を俺に取られたとか、まあそんなくだらねー理由だな」
明るくてかっこいい氷室の周りには、きっとたくさんの人が集まっていたはずだ。
つまりは嫉妬。
「俺は耳を塞いで泣きながら何時間も助けを待ってた」
「まあ、結局誰も来なかったけど」氷室は足元に落ちていた石を蹴飛ばした。
「それ以降暗闇は苦手だ」
——「昔は氷室もみんなでワイワイして騒いで、いろんな人に囲まれて明るかったんだ」
——「でもいつからかなー、人を避けてるというか、あんな感じで暗くなっちゃって」
伊月くんが言っていた話を思い出す。
裏切られ、非難され、仲間から追放される。
闇の中で雨風の音に怯えながら助けを待つ。
来るのかもわからない助けを待つ。
声を出しても誰にも届かない。
なんで自分がこんな目にあってるの?
なにか悪いことしたのかな。
なにかを捨てなければ背負いきれない大きな孤独が小学生だった氷室に降りかかったんだ。
「それから俺は誰とも遊ばなくなったし、話さなくなった。放課後は塾に入って勉強して、サッカーやら体操やらスポーツはなんでも習った」
「気を紛らわすために習い事を?」
「いや?」
氷室がなぜ"氷"王子になったのか。
「勉強も運動もトップになれば誰も文句言わないだろ?」
心臓を鷲掴みされたように苦しくなって、呼吸が止まる。
手の届くことができないくらい圧倒的な存在になれば、くだらない嫉妬に巻き込まれ、恨まれないで済むとそう考えたんだろう。
「俺は、人と真剣に向き合うのをやめたんだ」
冷酷で無愛想な性格はそんな過去から作られたもの。
人を遠ざけるのは、心を凍らせるのは、自分を守る防御線。
誰かに嫌われたくなくて自分から人を嫌った。
誰よりも人の目が気になっていたから心を閉ざした。
自然と目の奥が熱くなる。
「舞坂」
ふと名前を呼ばれて、俺は滲みそうな涙を抑えるために目をつぶった。
「なんでお前が泣きそうになってんだよ」
氷室は俺の頭に手を置く。
「……普通にうれしかった。好きだって言ってくれて」
「だけど」その笑顔はわずかに寂しさが含まれ歪んでいる。
「俺はそうやって生きてきたから、今さら誰かを好きになることはできない」
その言葉に俺は無意識に拳を握りしめていた。
なんで伝わらないんだ。
——「ヒーローみたいだなって思ったから」
俺はあの日みたいに何度でも暗闇にいる氷室を助けようと思っているのに。
そうやって何もかも自分の中に閉じ込めて、バリアを張って近づけさせないようにして……むかつく。
俺はみんなとは違う。反対を押し切ったって氷室を助けに走っていける。名前を呼んで探しに行ける。
そんな自分を好きになれた。変われるんだ。
涙を飲み込み、ひとつ息を吸った。
「だから?」
俺は余裕そうに笑ってみせた。
「俺諦めるつもりないよ」
これは宣戦布告だ。
「え?」
「好きなんだから」
「……俺振ってんのに?」
「うん」
諦めてたまるか。
怒りに任せて両手で氷室の肩を持ち、俺の方へ向かす。
「好きになれとは言わない!だけど俺とはちゃんと向き合え!」
氷室の心を覆う氷は分厚くて、触れられない。
……だったらさ、溶かせばいいじゃん?
氷室は訝しげに俺の顔を覗き込む。まるで人が入れ替わったんじゃないかと疑っているよう。
「俺は本気だ!だから2学期もよろしく!」
「え……?」
いつも冷静冷淡な彼の驚き顔は新鮮だ。
そう、そうやって俺のせいで困ったり悩んだりすればいい。
「さ、帰ろうぜ!」
戸惑う氷室の背中を押す。
全身に溜まっていた大きな想いを吐き出して、やけに体が軽い。
俺に足りなかったものはこういう『大胆さ』だ。
明日から新学期。
氷室の心を溶かす俺の戦いが、始まる——
