星屑を水に混ぜるようにぐちゃぐちゃの気持ちをiPhoneで書き殴っている。
鏡の世界は光が乏しいモノクロで
絶望癖の王様があぐらをかいているから、
冬の静かな夜くらい、
電球色でシックなスタバの店内から、
そっと、右手を伸ばして、
手のひらから光を送って、
すべてを吹き飛ばせたらいいのに。
「この図、23歳の今のあなたを元に過去と未来の天体配置を計算した図を見たんだけれど、17歳の時、なにか大きな別れみたいなことあったでしょ。この歳だから失恋かな」
私は天体配置図をずっと見ていた。図は12等分されたケーキにみえた。星と星をつなぐように赤い線が三角形を作っていた。その赤い三角形に重なるように青い線が重なっていた。
衝動的に入った占いのお店の中はしんとしていた。内装はいたってシンプルな作りで、きっと前のテナントは事務所だったのだろうと簡単に想像がつくような白い壁と白い天井だった。
ただ、おしゃれなお店らしい雰囲気を出すためか間接照明がいくつも設けられていて、電球色が店内の色になっていた。奥にパーテーションで仕切られたブースのなかで私は今、まさにどこかの青い民族衣装を着たおばさんに占ってもらっている。
民族衣装の名前が思い出せない――。
「失恋しました」
「やっぱり、そうなんだ。それも結構、そのときに人生観が変わるような失恋だと思うんだけど」
「――そうです。死んじゃったんです。彼が」
そう言ったあと、胸を締め付ける感覚がこみ上がってきた。
「――それはお気の毒に。辛かったね」
「今でも思い出すと辛いです」
視界が潤み始め、胸が重く痛くなってきた。涙が一粒、右の頬を伝った。すぐに別の涙が左の頬も伝った後、涙が止まらなくなった。
「――すみません」
「いいの。いきなり辛いこと思い出させてしまったね」おばさんは立ち上がり、ティッシュを取ってきて、箱ごと渡してくれた。
「すみません」そう言って、私はティッシュ箱を受け取り、テーブルに箱を置いた。そのあと、2枚のティッシュをとり、鼻を噛んだ。
「あなたのためにも続けるね」おばさんは私に諭すようにそう言った。私はまだ、涙がとまらず、胸の奥でつらい気持ちが荒ぶっていた。
「まず、今までの人生観が17歳のときに変わってしまっているの。180度ね。これから先の運勢見ても、その影響は一生続くと思うよ。だから、これってもう、受け入れるしかなさそうなの」
「――受け入れること、まだ時間かかりますか」
「それはわからない。あなた次第。だけど、受け入れていくとこの先、運気が好転していくことは確かだと思うよ。それにしても、あなた仕事、忙しそうね」
「かなり忙しいです」
「そうでしょ。あなたの場合、忙しい場所にいると一時的に自分自身の向き合わなくちゃいけないことから逃げるんだと思うんだよね。忙しいとそれを口実にできるから。だけど、ふとひとりの時間ができるとポッカリと心に穴が空いたような感覚が襲うでしょ? それを繰り返していると、健康面でマイナス。だから、このままだと、あと5年後に大きな病気するかもね」
おばさんはさらりと私が5年後に病気になるということを言いのけた。だけど、私はすでに不眠症という立派な病気で、寝れないときは本当に寝れない。
私の占いの結果を見ても私の未来は暗いんだと、半分、納得したし、半分、絶望した。
「――やっぱり、暗いんですね。未来」
「いや、そんなことないよ」
いや、どっちだよ。
「今の環境がそれだけあなたにとってマイナスであるってだけだから。これが過去のこと受け入れていたら、仕事と恋愛、両方とも集中して、好転してたかもしれないし。要は今のあなたは心の準備がまだ出来ていないから、ゆっくりしたほうがいいってこと」
「受け入れるって何をですか?」
「たぶんね、彼が死んだことだと思うの」
そう言われたあと、私は大きくため息を吐いた。そして、涙を拭いたティッシュを右手でぎゅっと握った。だけど、気持ちなんて変わらないし、彼の死なんて、5年経っても忘れられない――。
「ゆっくりできないです。受け入れられないんです。私。彼が死んだこと」
「厳しいこと言うけど、今を生きるには過去に折り合いつけないといけよ
「――全然、折り合いなんてつきません。彼のこと、忘れられないんです」
――彼。
志度(シド)のことを思い出すと、胸が苦しくなる。彼は5年前に死んでしまったのに――。
「わかった。――ちょっと変わったことできるんだけどやってみない?」
急におばさんから聞かれ、よく意味を理解できなかった。思わず眉間に力が入ってしまった。
「そんな顔しないでよ。過去に折り合いをつけることができるかもしれない体験なんだけど」
「体験?」
「そう。彼と会うことができる体験」
志度と会うことができる体験ってどういう? 私の脳内は急に追いつかなくなった。だけど、本当にそんなことができるなら、今すぐに会いたい――。
「どういうことですか」
「なんて言えばいいんだろう。人間ってその気になれば、タイムスリップできるんだよね」おばさんがそう簡単に言ったから、私はどう言葉を返せばいいのか、よくわからくなった。
「そんなに難しくない。補助装置があるの。どう? 一回5万円なんだけど」
――嘘でもいいから、志度に会いたい。
私は静かに頷くと、おばさんは素直でかわいいねと言ってくれた。人からかわいいなんて言われたの本当に久しぶりだと思った。バッグから財布を取り出し、お金をおばさんに渡した。
☆
別の部屋へ移動した。おばさんの青い民族衣装の裾は綺麗に揺れていた。その揺れているところを見て、思い出した。
――サリーだ。
部屋の真ん中に使い古された茶色のロッキングチェアーが一脚置いてあった。それ以外の家具はなにもなく、この部屋だけが急にそれまでの世界観がすっぽり消えていた。窓には黒い遮光カーテンが取り付けられていた。蛍光灯が事務所の一室である雰囲気をより作り上げていた。
「大体、2日くらい過去に戻れるの」
「タイムマシーンってことですか?」
「そう。そういうことだね。2日目の夜、寝て起きたら、ここに戻ってる感じ」おばさんはそう言いながら、私を椅子に座るようにと左手でジェスチャーした。私はおばさんの指示通り、椅子に座った。
「この椅子があなたを過去に連れて行ってくれるの。あなたが目をつぶったあと、あなたの胸に私は手をあてるから、その間、あなたは戻りたい過去の断片だけを思い出して」
おばさんがそう言ったあと、沈黙が流れた。
私はすでに過去の断片を決めていた。
「私ね、この装置で多くの人達に感謝されたの。私は管理人だから、実際に自分でこの装置を使ったことはないけどね。だけど、体験した人の顔は多く見た。大体の人は過去を見に行ったあと、現実に折り合いがつくみたい。だけど、そうでもない人も一部いる」
「――そうでもない人」
「そう。まるで別人みたいになった人もいたね。多分だけど、過去から帰って来れなくなって、そうなるんだと思う。ごく一部だけどね」
おばさんはさらりと怖いことを他人事のようにそう言った。
「――帰って来なかったら、死ぬんですか?」
「さすがに死なないから、安心して。その人たちは戻ってきて、そのままお礼を言って、帰っていくよ。だけど、なにかが違うの。様子がね」
おばさんは不気味に微笑んだ。
別にもう、死んでもいいやと思った。仮にこれが本当のことであったとしても、現実に戻ってきても志度が死ぬ事実はきっと変わってないだろうから。
「怖がらないで。今は注意事項を話してるだけだから。ほとんどの人はそのまま今に帰ってくるよ。ツアーから帰ってきたように満足してね」
「これって、本当に過去に戻れるんですか」
「私にはわからない。大体は思い出を見に行ってきて終わりって感じかな。旅行みたいにね」
おばさんはニコッと笑ってそう言った。
「さて、決まったね」
「――はい」
口に溜まっていた唾を飲み込むと、乾いていた喉が少しだけ潤う感覚がした。
「目をつぶって」
私は言われたとおり、目をつぶった。
視界は黒くなり、何もなくなった。そのあとすぐ、おばさんの手が私の胸に当たるのがわかった。手は温かく、何かが胸を流れていっているような感覚がする。
私は言われたとおり、あのときをイメージをした。
☆
「日奈子、待ってたよ」
壊れかけた時計の秒針のように鼓動が大きくなり、私の意識は徐々にぼやけていたところから、フォーカスされていく。心臓は胸から飛び出そうなくらい大きな音を立てている。私はベンチに座っているみたいだ――。
顔を上げると、志度と目があった。志度の目は優しくて、ぱっちりしていた。シャープな顔立ちとセンターパートの髪型がとても似合っていた。耳に付けているシルバーのピアスが照明に反射していた。
「――ん?どうしたんだ日奈子」
志度はもう一度私にそう呼びかけた。私は志度の声を聞いて鳥肌が立った。こういう声だった。遠のいていた志度の声、仕草、立ち姿の雰囲気。私は今、目の前にいる志度から衝撃を受けている。
「――ごめん」と私はそう言った。少し、力んだ声になった。
「ごめんってなんだよ。待たせたんだから、俺のほうが謝らなくちゃならないじゃん」と言って、志度は微笑んでくれた。
――本当に志度に会えてるんだ。
辺りを見渡すと、函館駅の中で、私は朝市側のすぐにあるベンチに座っていた。左側の大きい窓からは雪がしっかりと降り積もっていて、除雪の山が至る所に出来ていた。雪がちらついている函館駅前が見えていた。
――不眠症で重かった身体の感覚も、軽くなっている。
たぶん、本当にこれは17歳のときの私になったのかもしれない。
「いいよ。そんなことより、ラッピ行こうぜ」
そう言って、左手を私の前に差し出してきたから、私が右手に出すと、なんでだよ。と笑いながら、志度は私の右手を繋いだ。
☆
誰かに手を引かれるのは5年ぶりだった。手を引かれたまま、函館駅を出ると冬の匂いがした。きっと、今日は1月22日。1月23日が志度の命日だから――。
志度の手は暖かく、ゴツゴツしていた。この感覚だ――。
私もしっかりと5年前は恋をしていたんだと思うと、胸から熱さがこみ上げてきた。思わず、私はその場に立ち止まってしまった。志度は不思議そうな顔で私を見た。
「どうした?」
そう言われても涙が溢れそうで返すことが出来なかった。だけど、こらえきれず、大粒の涙が一滴、右の頬に伝う感触がした。
「――ウソ。泣いてるじゃん」
「――ごめん」
口を開くと自然に涙が何粒も溢れ出てしまった。私は左手で口を覆い、指を目頭に当てた。志度の顔を見ることができなかった。
「どうした。日奈子」志度は笑いながらそう言ってくれた。たぶん、本当は戸惑っているはずなのに、そんな素振り、全然見せない。そういう志度のいつも堂々としていて、余裕があるところがすごく好きだった。
私はバッグからポケットティッシュを取り出し、ティッシュを目頭に当てた。志度は私の背中をさすってくれた。それでより涙が溢れてきた。
「ごめん。もう落ち着いた。――大丈夫。行こう」
私はそう言って志度の手を引いた。志度と手をつなぎ、歩きながらしばらくはお互い無言だった。
「日奈子。ごめん。俺、なんか悪いことしたかな」
志度は心配そうな顔で私を見てくれている――。
「ううん。違うよ」
うん、明日、あっけなくスリップした車に引かれて死ぬんだよ。最低だよね。私の気持ちを中途半端に残して、そんなことするなんて。
「なあ」
「――なに?」
「俺、この間、楽しいことしたんだ」
「楽しいこと?」
「あぁ。絶対、日奈子、びっくりすると思うよ。二個で一つみたいな感じ。きっと、未来で笑ってると思うよ」
志度を見ると少しだけ満足そうな表情をしていた。
「えっ、なにそれ」
志度、未来で笑うことなんてできないんだよ。私は。
「俺は日奈子とずっと一緒にいる予感がするんだ。だから楽しみにしてて」
ずっと一緒になんてなれないんだよ。志度。
「――ありがとう」
「――泣いてるところもかわいいよ」
頭にそっと、熱を感じた。そして、私は志度にゆっくりと丁寧に撫でられた。
☆
函館山の夜景はイルカの尾から胴体へつながる曲線美のように輝いていて、雪で反射したオレンジ色の線や、緑がかった白色の線が浮かんでいた。さっきまで降っていた雪は止み、低い灰色の雪雲は雪で反射した光を吸収し、藍色と灰色が混ざった明るい夜の色をしていた。
「ねえ、写真撮ろうよ」
私はそう言って、iPhoneをバッグから取り出した。
「いいね」
志度は笑顔でそう言った。私はiPhoneのカメラを起動して、右手で志度の腰を掴み、左腕をいっぱい伸ばした。そして、志度の身体に首をもたれて、志度と私、そして、光っている函館の尾が入るように自撮りした。
ベイエリアのラッキーピエロでバーガーを食べたあと、コーヒーを飲んでゆっくり話していたらいつの間にか、夕方近くになっていた。気づいたら、3時間も話していたんだと思ったら不思議だった。しかも、私は高校生と話しているはずなのに、なぜかわからないけど、バカなこと言い合ったりして、話題が尽きなかった。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「日奈子って最高だな」
「最高ってどういう意味?」
「最高って。――好きだってことだよ」
「――私も。最高に好きだよ」
「――照れるな」
フッと笑ったあと志度はそう言った。
「照れないでよ。好きだよ。本当に」
「なあ、日奈子」
「なに」と私が言ったとき、左肩から身体をキュッと寄せられる感覚がした。気がついたら、私はすでに志度にキスされていた。
唇が重なったまま数秒間の時が流れた。志度の唇は柔らかくて、温かった。志度はそっと唇を離した。そして、何秒間かお互いに目を見たまま、また時が流れた。志度の瞳は茶色くて、吸い込まれそうなくらい透明だった。
そのあと志度はそっと微笑んだ。
私は左手で志度の右手を握った。すると志度は右手でしっかりと私の左手を握り直してきた。
「ねえ」
「なに?」
「――もし、私が死んだらどうする?」
「日奈子が死ぬの?」
「うん。私が明日死ぬとするじゃん」
「しかも、明日? ――急だな」
「うん。そうだよ。それも、志度は私が明日死ぬことがなぜか事前にわかってて、悩んでるの。どうしよう、明日、日奈子が死んじゃうって。そしたら、今、この瞬間、どうする?」
私がそう言い終わると、志度はニヤッとした。私も途中からニヤニヤしながら、隣にいる志度を見つめている。
――メンヘラって呼ばれてもいいよ。
どうせ、明日には魔法が解けるんだから。
「簡単だよ。俺だったら、日奈子が死ぬのを阻止する」
「えっ、どうやって?」
「教えるんだよ。日奈子に。明日、日奈子が死んじゃうことを知っちゃったんだ。だから、絶対、明日は一緒に居ようって。一緒に居たら、たとえ病気で倒れても、事故に巻き込まれても救えるじゃん」
志度は得意げな声でそう言ったあと、しばらくの間沈黙が流れた。時折吹く、強い風は冷たくて、そのたびに身震いした。だけど、夜景はどんどん時間を追うごとに深くなっていき、ゆっくりと時間を支配しているように感じた。
「――私が死ぬことを知ったら教えてくれるんだ」
「うん。死んでほしくないからな」
志度の手は温かく、血が通っていて、生きていることを実感できた。私は志度と繋いだままの手を見ながら、弱く息を吐いた。
「私もだよ。――志度にはまだ、死んでほしくない」
「俺も死ぬ気はないよ」
「――本当に?」
「うん。マジなやつ。ほら」
志度はそう言ったあと、右手の小指を私に差し出した。私はゆっくりと右手の小指を志度の小指に結んだ。
「俺さ、たまになんでもっと早く日奈子に告白しなかったんだろうって思う時があるんだ」
「私も」
そう言うと、志度は弱く笑った。
☆
ロープウェイで函館山を降りたら、また雪が降り始めた。なんか、ちょうどよかったねと言って、2人で笑い合いながら、十字街の電停まで歩いた。そして、暖かいに電車に乗り、身体を暖めながら、また無限に話していると、あっという間に私たちの地元である深掘町の電停に着いた。
電車を降りるとこれでもう、終わりなんだと思った。2回まで寝れるなら、今日の前の日をイメージすればよかったんだろうけど、そんな5年前の普通の日のことなんて、ちっとも覚えてなかった。
私と志度が降りると電車はゆっくり発車していった。発車した風圧で降っている雪が舞い、電車の赤いテールランプが空間の中で滲んでいた。
吹雪いていて、風が冷たくて、思わず両肩に力が入り、上がってしまった。
「家まで送るよ」
後ろから、そっと右手を繋がれた。志度の手はまだ暖かくて、暖かかった電車の名残がした。
「吹雪いてるからいいよ。それより、明日、一緒に学校に行こう」
「明日さ、電停で合流しよう」
「え、いつもどおりスーパーの前でいいよ」
志度は怪訝そうな表情でそう言った。――だけど、朝の待ち合わせの場所を変える必要がある。
「そしたら、ローソンで合流――」
「だからいつもどおりでいいって」
志度はなぜか譲ってくれなかった。
「――そしたら、時間。少し早くしない?いつもより10分早くしようよ」
「――いいけど、どうして?」
「――嫌な予感がする」
「なにそれ」
志度は少しだけ不機嫌そうな声でそう返した。――不機嫌になろうがどうでもいい。
「ねえ」
「なんだよ」
「真面目な話。――志度に死んでもらっちゃ困るの」
「は? 何言ってるの?」
「――志度に死なれちゃ困る。私」
私は左手で志度の右手を握った。そして、ぎゅっと力を入れた。志度は何も言わずにされるがままだった。
「――明日、志度が死ぬ夢を見たの」
「なにそれ」
「私、よく正夢を見ることがあるの。――こういうの信じてくれる?」
私は志度に嘘をついた。だけど、そんなのどうでもいい。なんでもいいから信じてくれさえすればそれでいい。
「――とりあえず、話は聞くよ」
「ありがとう。――志度は明日、交通事故にあって死ぬの。いつも待ち合わせしているスーパーの前で」
「――それで」
志度はそう言ったあと、ため息を吐いた。
「車にぶつけられて、頭とお腹切れちゃって、出血多量で病院に運ばれたときにはもうすでに手の施しようがない状態になってた。――私は処置室の前で志度のこと待ってたけど、医者から志度が死んだことを告げられて、呆然としたままになって」
話しているうちに5年前のあの日を思い出した。私は救急車に乗って、志度と一緒に病院に行った。
血まみれの志度。
――医師が告げた言葉。
全部、思い出すことができる。
私はだんだん喉の奥が詰まるような感覚がした。
「そうなんだ。俺、夢の中で死んだんだ」
「――そうだよ」
「――今朝、そんな夢みたの。志度が死ぬ夢」
「そうなんだ」
志度がそう言ったあと、少しだけ沈黙が流れた。私と志度が黙っているうちにブザーが鳴り、ドアが閉まった。そして、電車はまた加速を始めた。
「だから、会った時、泣いたんだ。――日奈子、俺は死なないよ」
「――死なないで」
「そんなに簡単に死なないって」
志度のその言葉は宙に浮いたみたいになった。別に志度を信頼していないわけじゃないけど、結果がわかっているから、信ぴょう性がほとんどないように感じた。
「ねえ、約束して」
私は真剣に志度を見つめた。
「――わかった」
志度は私を見つめてそう言った。私は志度の瞳に吸い込まれそうになった。私は握ったままだった志度の右手を話した。そして、私の左手の小指に志度は右手の小指を絡めた。
「ねえ」
「なに?」
「明日のお昼、一緒に食べたいものがあるの。だから、コンビニでパン買わないでね」
「わかった」
「約束して」
私はそう言ったあと、もう一度小指を数回揺らした。そして、そっと指を離した。
そして、志度と別れた。
志度は反対方向へ歩き始めた。私は志度の後ろ姿をしばらく見てから、私も歩き始めた。上手く待ち合わせの時間を変えることが出来た。
30秒でも違えば、結果は違って、もしかしたら、志度を救えるかもしれない――。
☆
志度と別れたあと、いつも待ち合わせしているスーパーに入った。閉店20分前くらいみたいで、お店のなかはガラガラだった。
200グラムくらいの鶏もも肉と、コチュジャン、6個入の卵、2分の1のレタス、そして、蓋付きの使い捨て容器をささっと買った。レジで財布の中を見たとき、2000円しか入ってなくて、一瞬ヒヤッとした。それらを買うと財布は小銭だけになった。
スーパーを出ると、吹雪はさっきよりもさらにひどくなっていた。自動ドアの先に見える歩道は無数の人が踏み均した細い道があったはずなのに雪が吹き溜まって道が無くなっていた。思いきって外へ出ると、雪が叩きつけるように全身に降り掛かった。
親はもう、すでに寝ているみたいで、家の中は静まっていた。私は一通り着替え終わったあと、玄関に置きっぱなしにしていた、食材が入ったビニール袋をキッチンまで持っていった。キッチンの電気を付けた。キッチンから漏れる光でダイニングキッチンの先にあるリビングが薄暗く浮かび上がっていた。
私は炊飯器から釜を取り出し、一合の米を入れ、米を研ぎ、早炊きで炊飯器をセットした。その後、鍋にサラダ油を入れ、IHコンロの上に鍋を置いた。IHのスイッチを入れ、160℃に設定する。ボールに酒と塩、こしょうを入れた。そして、冷蔵庫にあったチューブのおろしにんにくを入れ、スプーンでかき混ぜた。そして、鶏もも肉をキッチンはさみで一口サイズに切り、ボールの中に入れ、漬け込むことにした。
換気扇をつけるのを忘れていたことに気づき、換気扇を付けた。
もも肉に下味を付けている間、レタスを洗い、適切なサイズに手でちぎった。そのあと、ボールとフライパンを取り出した。ボールのなかに片栗粉を入れておいた。そして、フライパンには、コチュジャンとケチャップ、しょうゆとみりん、オイスターソースを入れ、それらをスプーンでかき混ぜた。香りを嗅ぎ、いつも作っている味になりそうなことを確かめた。
もも肉を揚げ終わったあと、卵焼きも作った。卵焼きが出来たころ、米も炊けた。フライパンを温めタレにとろみが付き始めたところで揚げたもも肉をすべてフライパンの中に入れた。タレと肉汁が絡まり甘く香ばしい匂いがキッチンに広がった。
洗い物をして、プラスチックの使い捨て容器2つにご飯とおかずを入れ終えた。キッチンを一通り片付け終え、寝る支度をして、自分の部屋に戻った。そして、志度を救うために少しだけ早くiPhoneのアラームをセットし、充電器をiPhoneに付けた。
電気を消し、ベッドに寝転んだ。
大きく息を吐くと一緒に涙がたくさん溢れた。志度のこじんまりとした葬式がフラッシュバックした。志度の家族は、みんな泣いていた。だから私は泣かないことにした。そして、そのまま泣かずに日常を過ごすことを決意したのを思い出した。
もし、志度が明日死ななければ、私は生まれ変わるかもしれない。僅かな可能性に期待してもいいような気がした。だって、本当に過去に戻れたんだから、過去を変えることだって出来ると思う。
志度が生きている世界に帰れば、私達はきっと幸せな23歳を過ごしているはずだ。本当に過去を変えることが出来るんだったら、変えたい。
久々に強い眠気を感じ、そのまま私は眠った。
☆
時間を見て絶望した。
このままじゃ、志度が死んじゃう――。久々にゆっくり寝れる感覚に任せてしまって、私はこんな大切なときに、簡単に寝坊してしまった。慌てて身支度をして、弁当を持ったことを何度も確認して、女子高生の格好をして家を出た。
外はスッキリと晴れていた。
水色の空が気持ちよかった。そんなのはどうでもよかった。私は走り始めた。昨日より、ものすごく冷えている感覚がした。吸い込む息はいつもよりも凛と張り詰めていて、もしかしたら、マイナス10度くらいまで下がったのかもしれないと思った。
何度も滑りそうになった。
このままじゃ、また同じ結末になってしまう――。
何やってるんだろう私。
誰かに鷲掴みされているかのように胸が痛くなった。
今日に限って、積もった雪が磨かれた道路はツルツルだった。
――というより、このツルツルになった路面の所為で志度は交通事故にあったんだから、当たり前といえば当たり前に思えた。
横断歩道がちょうど赤になった。道の向かいにいつも待ち合わせているスーパーが見えた。志度はまだスーパーの前にはいなかった。志度の家の方面を見ると、奥から志度が歩いてきているのが見えた。志度はiPhoneをいじりながら歩いていた。志度はまだ私のことに気づいていないようだった。
信号が青になり、待っていた車も動き始めた。信号が変わってすぐに私も横断歩道を渡り始めた。横断歩道は思った以上にツルツルになっていた。凍ったアスファルトが朝日で照らされ光っていた。横断歩道を待っていた何人かの人たちもゆっくり慎重に渡り始めた。
みんなペンギンの散歩のように慎重に、静かに横断歩道を渡っていた。やっとの思いで横断歩道を渡り切り、私は走って、志度の方へ向かった。志度は私に気づいて手を振っていた。私は手を振り返さなかった。
「志度!」
私は大声で志度を呼んだ。右足を踏み込んだ時、右足の摩擦がなくなった。そして、右足と左足は宙に浮き、私は尻もちをついた。志度をあの場所から動かさないと、と私は思った。
だけど、身体は鈍く痛んだ。早く立たないとと思いが空回る。心臓が破裂しそうなくらい音を立て、冷静に危機を感じた。遠くから日奈子って声が聞こえた。志度が走ってきているのが見える。私は両手を雪道についたまま、尻に鈍い痛みを感じ、上手く立ち上がれなかった。
志度は息を少し切らしながら、私に右手を差し出していた。私が志度の右手をつかもうとしたとき、大きな音がした。
☆
辺りは一瞬で静まり返った。
この道を歩いていた何人かは立ち止まり、車道の車は停まっていた。何人かの人が大丈夫ですかと言って、車の方へ走っていくのが見えた。私は尻もちをついたままだった。目の前に立っている志度を見ると志度は振り向き、車の方を見ていた。
音の方を見ると、スーパーの駐車場の前にあるポールに車が突っ込んでいた。何秒かして、ざわざわと多くの人が話し始めたのがわかった。歩みを止めていた何人かは再び歩き始めた。
「日奈子、大丈夫か」
志度はそう言って、右手を私に差し出した。志度は私をまっすぐに見つめていた。私は志度を見つめたまま、何度か深呼吸をした。
「ヤバいな」
志度は私の右手を掴み、私を起こした。地面に打ち付けたお尻はじんわりと痛み始めている。
「――志度」
「生きてるよ」
志度は私の手をつないだまま、そう言って微笑んだ。
「ねえ」
「なに?」
「――学校サボっちゃおう。今日」
「いいね。日奈子、悪い子だな」
志度はそう言って、微笑んだ。
☆
両親が仕事に出たあとの実家に招き入れて、私の部屋で志度と二人っきりになった。私は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、2つのコップに注いだ。部屋に戻って、志度に出した。
「ありがとう」
志度はそう言って、オレンジジュースを私から受け取った。志度は私の部屋の床に足を崩して座っていた。
「これが女の子の部屋だよ」
「茶化すなよ」
志度の顔は少し赤くなっていた。私はオレンジジュースを机におき、ベッドに行き、枕を持った。
「ほら、これが女の子の枕だよ」
私は枕を両手に持って左右に振った。
「バカかよ。恥ずかしいなぁ。もう」と志度はそう言って、そっぽを向いた。私は枕をベッドに置いたあと、志度の背中に抱きついた。
「ねえ、外だとこんなこともできないでしょ」と私は志度の耳元でそう囁いた。
「――そうだな」
「どう?」
「悪くない」と志度はそう言って、優しく微笑んでくれた。
「ねえ」
「なに?」
「こうしてると落ち着くね。――なんでだろう」
「そういう運命なんだよ。俺たち」
そう言いながら志度は左腕で私を巻き込んで右側に寝転び始めた。
「おー、ちょっとちょっと、持っていかれる」
志度に抱きつかれ、右腕に志度の重さで潰れそうになった。
「あー、ちょっと、腕痛いって」と私はそう言ったあと、右腕を無理やり志度の脇腹から抜いた。
「あ、ごめん、ごめん」
志度はそう言って笑った。全く悪気がなさそうな、とても軽い謝り方だった。私は起き上がって、一度志度をまたぎ、志度の横に添い寝した。志度は私の髪をゆっくりと撫でた。何度もゆっくりと丁寧に私の頭を撫でた。
「よしよし」
そして、今度は私から抱きついた。志度ってこんなに暖かいんだと思うと、私はこの5年で志度の相当なことを忘れていたように思えて、虚しくなった。
「たぶん、あの車、俺に当たってたよな」
「そうだね。粉々になってた。夢みたいに」
私がそう言うと、志度はため息を吐いた。
「正夢だったってことか」
「――正夢じゃないよ」
「え、正夢だろ。だって――」
「志度が死んでないから」
「あ、そっか」
志度がそう言ったあと、ふっと弱く笑った。私もつられて弱く笑った。
「ねぇ」
「なに?」
「――生きててよかった」
「日奈子もな」
志度は優しく微笑みながら、センターパートの前髪を右手でジリジリといじった。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「――このまま、時が止まればいいのにな」
志度はそっとした声でそう言った。そんな残酷なこと言わないでよ。ずっと、止まってる方がいいんだよ。――志度。
「――ずっと一緒にいたいよ」
「俺もそう思ってるよ」
志度がそう言ったあと、しばらくの間、時計の音が部屋中に響いている。
「ねえ」
「なに?」
「私たち、もう二度と、会えなくなるのかな」
「――何言ってるんだよ。日奈子」
私は黙ったまま、志度に背中を向けたまま、横になったままだった。だから、志度がどんな表情をしているのかわからない。
私は下唇を噛んだ。志度を救うことはできたけど、このあとどうなるのかわからなかった。23歳の私に戻っても志度が生きていたらいいなって思った。
未来は変ったのかどうかわからない。
「ずっと、愛してるよ」
後ろで志度がそっとした声でそう言った。
☆
「お腹へったでしょ」
志度をリビングに通し、ダイニングテーブルの椅子に座るよう私は志度に伝えた。私はかばんから弁当を2つ取り出し、テーブルの上に置いた。
「お、なにこれ。美味そう」
「今、温めて来るね」
私は弁当を2つ持ち、キッチンへ向かった。弁当をレンジで温めた。弁当からはコチュジャンのいい香りがした。2つの弁当を温め終え、1つの弁当を志度の方へ持っていった。
「はい、どうぞ。本当は学校で食べてもらおうと思ったけど、まさかのうちで食べることになっちゃったね」と私はそう言いながら、テーブルに弁当を置いた。
「やばい、めっちゃいい匂いする」
「やばいでしょ。これ」
私はそう言いながら、もう一度キッチンへ行き、自分の弁当を持ってきた。テーブルに弁当を置き、私は志度の向かい側に座った。私はいただきますと言い、両手を合せた。志度もいただきますと言った。
志度は割り箸をわり、弁当の蓋を開けた。
「なにチキン?」
「ヤンニョムチキン。美味しいよ」
「自分で美味しいって言うなら、絶対美味しいな、これ」と志度はそう言いながら、箸でヤンニョムチキンを取り、一口食べた。
「うっま。なにこれ」
「でしょ。私の絶対うまい料理」
私もヤンニョムチキンを箸で取り、一口頬張った。志度はそのあと、無言で弁当を食べ進めていた。私もあまり話さずに弁当を食べた。
「いや、うますぎだって。日奈子。やばいな」
「嬉しい。――志度に食べてもらいたかったの。ずっと」
「なんでもっと早く食べさせないんだよ。めっちゃうまいわ」
「ありがとう」と私はそう言った。志度は頷きながら、弁当を食べていた。
「なあ、日奈子。これ、昨日帰ったあと作ってくれたんだろ?」
「そうだよ」
「最高だな」
志度はまた弁当に箸をつけて食べた。
✫
「そろそろ帰るよ」
「――わかった」と私がそう言ったあと、志度は立ち上がった。そして、自分のコートを手に取り、コートを着て、志度は玄関まで歩いていった。
私は志度の後ろを付いて行った。志度の背中を見ていると胸が苦しくなり、私は咄嗟に志度の腕をつかんだ。
「――行かないで」
「ダメだよ。行かないとオーナーにぶっ飛ばされるよ」
「あのコンビニ、代わりのスタッフくらい、いくらでもいるでしょ」
「そうもいかないよ。バイトは学校と違うんだから、休んじゃダメだよ。迷惑かけちゃう」
「――ごめん。そうだよね」
私は右手を志度の腕から離した。
「――じゃあね。美味しかった。マジで。ありがとう」
「ううん。――また作るね。ばいばい」
「うん。ばいばい」
「――バイト、頑張ってね」
「ありがとう」
志度は笑顔でそう言った。私も自然に笑みがこぼれてしまったけど、すごく寂しい。本当は行かないでほしかった。だけど、志度はそっとドアを開けて出ていった。
志度が出たあと、私は急に力が抜けた。 玄関から自分の部屋にトボトボ歩いて戻った。
自分の部屋の床に仰向けになると涙が溢れた。バイトなんてどうでもいいから、ずっとここに居てほしかった。私はまるで明日も志度に会うかのように振る舞ったけど、もう明日、二度と志度と会えないかもしれない。
どうせ、タイムスリップは夢みたいに簡単に終わってしまう。目覚めたら、23歳の私に戻るはずだ。そして、占い師のおばさんが私を起こしてくれるのだろう。
『どう? 楽しかった?』
と占い師のおばさんが慣れたような口調できっと言ってくるんだ。そして、青色のサリーの裾をひらひらとさせているんだ。きっと。
起きたら、もう終わりだ。起きた先の世界でも志度が生きていればいいけど、本当にそうなっているのかどうか私は確証がなくて、急につらくなった。
そもそも、23歳の私に戻って、志度とまだ付き合ってたとしても、タイムスリップした私には5年分の志度との思い出がないまま、過ごすことになるかもしれない。
それだったら、元の世界になんか戻らないで、このまま志度と一緒に大人になって、思い出をたくさん作りたい――。
大きなため息を吐くと一緒に涙が何粒も溢れてきた。そして、そのまま、涙は止まる気配はなかった。
そもそも、これはタイムスリップだと聞かされていたけど、もしかしたら、タイムスリップではなく、私の中の幻想にすぎないのかもしれないと思ったら、急に寒気がした。
残された僅かな時間も、志度と過ごしたい――。
親が帰ってくる前に、私服に着替え外に出た。
☆
だけど、志度をコンビニから連れ出して、手を繋いで一緒に逃げるなんて、現実的に無理だし、かなりの人に迷惑がかかることをするのは気が引けて、結局、スタバでソイミルクを飲んで時間を潰した。そして、志度が働いているコンビニの前に着いた。
iPhoneで時計を見たら21時57分だった。親には、今日、友達の家に泊まると連絡しておいた。明日は土曜日でよかったと思った。
窓越しにコンビニを覗くと、志度はまだレジにいて、もうひとりの店員と話していた。私は店内に入った。志度は話に夢中で、私が店内に入ったことに気づかなかった。私はホットドリンクコーナーに行き、ココアを手にとった。ちょうど、もうひとりの店員がレジを出た。私は迷わずにレジに行った。
「あれ、日奈子じゃん」
「また会いたくて来ちゃった」
私はココアを志度に渡した。志度がココアのバーコードを読み取り、レジの操作をした。私は財布を取り出し、120円を志度に渡した。
「俺も会いたかったよ。やるな、日奈子」
「志度、どうしても話したいことがあるの」
「なんだよそれ。死ぬわけじゃないんだから」と志度がそう言ったあと、私は少しムスッとした表情を作った。
「マジなやつ」
「――オッケー、わかった。日奈子、雑誌コーナーで待ってて。すぐ準備するから」と志度はそう言って、お釣りをくれた。
私は志度に言われたとおり、雑誌コーナーでファッション誌を読んでいた。コートのポケットにココアを入れた。ポケットからココアの温かさを感じた。少ししてから、志度がやってきた。志度の気配に気づき、私は志度の方を振り返った。志度は呆気にとられている表情をしていた。私も思わず、呆気にとられた。
「――おまたせ」
志度はそう言ったあと、しばらくの間、じっと私を見つめてきた。
「――どうしたの?」
「いや、大丈夫。外出るか」と志度は出口の方を指差してそう言った。
☆
車もまばらな静かな夜だった。時折雪がちらつき、寒かった。さっきスタバにいるとき、iPhoneでニュースを確認したら、今シーズン最強寒波が来ていたらしい。函館の天気を見ると、最高気温はマイナス8度で最低気温はマイナス12度と書いてった。
顔に触れている外気は凛として冷たかった。志度はバイト前に家に帰っていたのか、服は制服から、ジーンズにベージュのダウンになっていた。手をつないでゆっくり歩いている。もう、ずっとこうしているだけでいいやと私は思った。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「俺も会いたいって思ってたんだよ」
「私も」
「じゃあ、両思いだな。今日はそんな気分だったよ。一日」と志度が言ったあと、私は立ち止まった。
「志度、これだけは言わせて。あなたは私にとって、とても必要なの。ずっと好きだから。ずっと」
私がそう言っている途中で志度が私を抱きしめた。一瞬、時が止まったかと思った。鼓動が徐々に大きくなっていく。私も両手を志度の背中に回した。
「――日奈子。ずっと、一緒だよ」
背中で感じる志度の両手は暖かく、顎を当てた肩は硬かった。
☆
どこにも行くあてがなくて、結局、近くのファミレスに入った。23歳の世界ではもう、とっくの昔に潰れてしまったお店だ。もう、明日の学校なんてどうでもよかった。どうせ、寝たら元の23歳に戻ってしまうんだから、17歳の私の生活なんてどうでもいい。
とりあえずドリンクバーを頼み、志度はコーヒー、私はカフェオレを飲んだ。窓側の席に座った。
「私、眠れないんだよね」
「――そうなんだ」
「不眠症なの」
「――病院行ったほうがいいよ」
「もう、とっくに行ってるよ。眠剤出されてる」
「そうなんだ」
「だから、今日はさ、私が眠らないように監視して」
「いや、逆だろ。それ」と志度は笑いながらそう言った。
「いいの。今夜だけでいいから」
「ってことは、オールか」
「そうだね」
私はニコッとしてそう言って、頬杖をつき、窓の外を眺めた。道路はトラックとタクシーがたまに雪煙をあげて、目の前をゆっくり通り過ぎていった。気がつくと雪は本格的に降り始めていた。
「それより、俺は日奈子のことが心配だよ」
「私の心配なんてしてくれるの?」
「当たり前だろ。寝れないのはヤバいよな」
「もう、慣れちゃった。調子いいときは普通に寝れるし、寝れなくても、眠剤飲めば、寝れるときもあるから、まだマシなほうだよ。私の不眠は」
「そうなんだ。今まで知らなくて悪かった」
「いや、志度が謝ることじゃないよ。私、初めて志度に言ったんだから」
「俺さ、もう少し、日奈子のこと知る努力したほうがいいと思うんだ」
「十分してるでしょ」と私は笑ってそう返した。
「いや、してなかった。もっと一緒にいる努力とか、そういうことすればよかったって思う時があるんだ」
「なあ、日奈子。俺がもし、あの時、死んでたらどうなってたんだろうな」
志度はまたコーヒーを口づけた。過去のことがフラッシュバックした。何か満たされないあの寂しさが胸に溢れるのを感じた。
「――寂しいに決まってるでしょ。それに苦しいよ」
「悪い。変なこと言ったな」
「志度に死なれたら困るよ、私。何も面白くない20代を過ごすことになるんだよ。目標もなくね」
私は泣きそうになるのをごまかすためにカフェオレを一口飲んだ。
「なあ、日奈子」
「――なに」
私がそう言うと志度は両手で私の左手を握った。
「いいか、よく聞けよ。どんなアクシデントも今日みたいに乗り越えよう。そして、二人で幸せを掴もう。思いのままに」
志度の目が少し潤んでいるのがわかった。私は残された右手で志度の手をさらに握った。我慢できなくなった涙が一粒流れ出した。そして次々と涙が溢れ、頬を伝った。
「ごめん。昨日から泣いてばかりだね」
私はピークになった感情の波がおだやかになってからそう言った。志度は優しいから、私の次の言葉をしっかり待ってくれていた。
「いいよ。泣けよ。泣きたいときに泣かないヤツは損するよ」
「あ、ズルい。自分は我慢して泣かないくせに」と私は笑ってそう言った。口角を上げたら、まぶたが腫れぼったくなっているのがわかった。
「私ね、ずっとこうしたかったの。志度と。ずっと、こうして話したり、一緒にいたかったの。ずっとね」
「俺もだよ」
「私ね、相談したんだ。苦しくて。そしたら、その相談した人が自分で道を切り開くしかないって言うんだよね。厳しいよ。――私だって、抗いたいよ。私だって。今までのことなんてどうでもいいから、今を生きたいよ。私」
私がそう言ったあと、しばらく沈黙が流れた。志度は黙って、私の次の言葉を待っているのがわかった。
「もう、戻りたくないよ。――ねえ、離さないって言って」
「離さないよ。日奈子」
志度はそっとした声でそう言った。私はそれを聞いたあとテーブルに突っ伏した。急に猛烈な眠気がやってきた。目元を覆ったセーターの袖はすぐに涙で濡れてしまった。吸い込まれそうな腕の中の暗黒は、私の意識が現実なのか仮想なのかわからない心地よさで満たされ始めた。
さよなら、志度。
5年後、生きてたらまた会おうね。
☆
揺すられて目が覚めた。座ったまま寝ていた。右肩を軽く揺すられている。まだ瞼は重く、首を起こす気にもならないくらい眠かった。それでも無言で何度も右肩を揺すってくる。私は右手で揺すっている相手の手をつかもうとしたが、右手は自分の肩にあたった。そして、また、何度も右肩を揺すられた。
私は左腕を枕にしていた。左腕は軽くしびれている。首を上げ、身体を起こした。そして、右側を見ると志度が立って笑っていた。私は思わずにやけてしまった。志度が右肩をポンポンと軽く叩いたから、首を右にひねると志度の人差し指があたった。そのあと志度の笑い声が聞こえた。
窓の外は夜明け前の青さだった。
雪はやんでいて、すでに歩道を歩いている人が何人かいた。
「おはよう」
私は初めて志度に起こしてもらった。私は立ち上がり、ドリンクバーに行った。そして冷たい烏龍茶を取り、席に戻った。
☆
志度と手をつなぎ、火曜日の8時過ぎの道路を歩いている。道はツルツルしていて、何人かが尻もちをついた跡が雪道の上に残っていた。横断歩道を渡ろうとしたら、ちょうど青信号が点滅した。私達は立ち止まり、信号が青になるを待つことにした。駅と反対方向に向かっているから、私と志度以外この信号を待っている人はいなかった。
穏やかな朝だ。変な体勢で寝ていたから、身体が妙に痛かった。ふたりとも当然のように学校に行く気はなかった。右折してきた車が一台、スリップしているのが見えた。
「ヤバい」
私は右側から大きく押され、投げ出された。
私は受け身を取れず、左肩から地面に着き、雪溜まりの方まで仰向けのまま滑った。
何が起きたのかわからなかった。左肩、左腕が痛い。だけど、大きな音がしたのはわかった。空は冬らしい澄み切った水色をしていて、白くて弱い太陽が眩しかった。
☆
夜のスタバは落ち着いた雰囲気で、間接照明の電球色が、気持ちを暖かくしてくれているような気がした。窓越しに夜の函館の海が見える。ベイエリアから発せられた光を海面が静かに反射していた。
夢は3日で終わった。占いのおばさんは2回寝たら帰ってくるって言ってたけど、私はなぜか3回目に寝たときに現実に戻った。占いのお店を出て、すぐにLINEに志度の連絡先があるかどうかを確認したけど、タイムスリップする前と変わってなかった。
昔の交通事故のニュースをGoogleで検索したら、やっぱり志度の名前が乗っている古い記事が出てきた。
――やっぱり、志度は死んだんだ。
iPhoneをテーブルに置き、インスタで志度からもらった言葉を忘れないうちに書きなぐっている。
『――泣いてるところもかわいいよ』
『俺も会いたかったよ。やるな、日奈子』
『どんなアクシデントも今日みたいに乗り越えよう。そして、二人で幸せを掴もう。思いのままに』
実家から転送された手紙をバッグから出した。占いのお店から、家に帰って郵便受けを見たら、それが入っていて、私はそのまま、ソワソワして、市電にもう一度、乗り込み、ベイエリアのスタバに行くことにした。
十字街の電停を降りて、走って横断歩道を渡っていたら、雪道の上を滑って転んでしまった。左足からくじくように転んで、受け身を取ったから、左側の腰骨がいたかった。だけど、そんなのも気にならずに私は再び、立ち上がり、街灯でオレンジ色に照らされた雪道の上をベイエリアのスタバまで、再び走った。
封筒には私の名前が書いてあり、そして、裏側には志度の名前が書いてあった。封筒の上をゆっくり、ちぎり、そして、二つ折りされた便箋を取り出すと一緒にシルバーのネックレスが出てきた。右手でそっとチェーンを持ち上げると、ハートが半分になったシルバーのモチーフが見えた。
「二個で一つになるやつ――」
ぼそっと、私はそう小さな声でつぶやいたあと、ネックレスをテーブルに置き、手紙を開いた。
23歳の日奈子へ
俺の行動が恥ずかしいかどうかは、今読んでいる日奈子が判断してください。
そのとき、黒歴史になってたら、申し訳ないから先に謝罪します。
ずっと日奈子のこと、大切にできなくてごめん。
きっと、5年後もずっと一緒にいる気がしたから、この手紙を書いたよ。
こういう手紙でありきたりな、5年後のあなたは何をしていますかなんて聞かないよ。
だって、絶対に幸せになってるはずだから。
俺はたくましく、クールに日奈子のことを守る決意をしたから、
これを出すことに決めたんだ。決意を証拠として残すつもりで。
だから、もし、日奈子が危険な目に遭いそうになったら、
しっかりと日奈子のことを守るよ。
そして、日奈子のことを大切に優しくするよ。
世界中の誰よりも日奈子のことが好きだから、
二人で幸せを捕まえよう。
雪原のなかではしゃいで転がるように――。
このネックレスは片割れです。
5年後、一つにしよう。
もし、死んでたら、ごめん。
つらかったら、そのときはそっとこの手紙を燃やしてください。
17歳の志度より
そっと、便箋を閉じて、テーブルの上に置いた。
そして、書きなぐったインスタを人差し指で上にスライドさせて、改行したあと、
『燃やすわけないじゃん』とゆっくり打ち込んだ。
そして、窓の方にそっと右手を伸ばして、海に反射する僅かな光を集められるように息を止めた。
鏡の世界は光が乏しいモノクロで
絶望癖の王様があぐらをかいているから、
冬の静かな夜くらい、
電球色でシックなスタバの店内から、
そっと、右手を伸ばして、
手のひらから光を送って、
すべてを吹き飛ばせたらいいのに。
「この図、23歳の今のあなたを元に過去と未来の天体配置を計算した図を見たんだけれど、17歳の時、なにか大きな別れみたいなことあったでしょ。この歳だから失恋かな」
私は天体配置図をずっと見ていた。図は12等分されたケーキにみえた。星と星をつなぐように赤い線が三角形を作っていた。その赤い三角形に重なるように青い線が重なっていた。
衝動的に入った占いのお店の中はしんとしていた。内装はいたってシンプルな作りで、きっと前のテナントは事務所だったのだろうと簡単に想像がつくような白い壁と白い天井だった。
ただ、おしゃれなお店らしい雰囲気を出すためか間接照明がいくつも設けられていて、電球色が店内の色になっていた。奥にパーテーションで仕切られたブースのなかで私は今、まさにどこかの青い民族衣装を着たおばさんに占ってもらっている。
民族衣装の名前が思い出せない――。
「失恋しました」
「やっぱり、そうなんだ。それも結構、そのときに人生観が変わるような失恋だと思うんだけど」
「――そうです。死んじゃったんです。彼が」
そう言ったあと、胸を締め付ける感覚がこみ上がってきた。
「――それはお気の毒に。辛かったね」
「今でも思い出すと辛いです」
視界が潤み始め、胸が重く痛くなってきた。涙が一粒、右の頬を伝った。すぐに別の涙が左の頬も伝った後、涙が止まらなくなった。
「――すみません」
「いいの。いきなり辛いこと思い出させてしまったね」おばさんは立ち上がり、ティッシュを取ってきて、箱ごと渡してくれた。
「すみません」そう言って、私はティッシュ箱を受け取り、テーブルに箱を置いた。そのあと、2枚のティッシュをとり、鼻を噛んだ。
「あなたのためにも続けるね」おばさんは私に諭すようにそう言った。私はまだ、涙がとまらず、胸の奥でつらい気持ちが荒ぶっていた。
「まず、今までの人生観が17歳のときに変わってしまっているの。180度ね。これから先の運勢見ても、その影響は一生続くと思うよ。だから、これってもう、受け入れるしかなさそうなの」
「――受け入れること、まだ時間かかりますか」
「それはわからない。あなた次第。だけど、受け入れていくとこの先、運気が好転していくことは確かだと思うよ。それにしても、あなた仕事、忙しそうね」
「かなり忙しいです」
「そうでしょ。あなたの場合、忙しい場所にいると一時的に自分自身の向き合わなくちゃいけないことから逃げるんだと思うんだよね。忙しいとそれを口実にできるから。だけど、ふとひとりの時間ができるとポッカリと心に穴が空いたような感覚が襲うでしょ? それを繰り返していると、健康面でマイナス。だから、このままだと、あと5年後に大きな病気するかもね」
おばさんはさらりと私が5年後に病気になるということを言いのけた。だけど、私はすでに不眠症という立派な病気で、寝れないときは本当に寝れない。
私の占いの結果を見ても私の未来は暗いんだと、半分、納得したし、半分、絶望した。
「――やっぱり、暗いんですね。未来」
「いや、そんなことないよ」
いや、どっちだよ。
「今の環境がそれだけあなたにとってマイナスであるってだけだから。これが過去のこと受け入れていたら、仕事と恋愛、両方とも集中して、好転してたかもしれないし。要は今のあなたは心の準備がまだ出来ていないから、ゆっくりしたほうがいいってこと」
「受け入れるって何をですか?」
「たぶんね、彼が死んだことだと思うの」
そう言われたあと、私は大きくため息を吐いた。そして、涙を拭いたティッシュを右手でぎゅっと握った。だけど、気持ちなんて変わらないし、彼の死なんて、5年経っても忘れられない――。
「ゆっくりできないです。受け入れられないんです。私。彼が死んだこと」
「厳しいこと言うけど、今を生きるには過去に折り合いつけないといけよ
「――全然、折り合いなんてつきません。彼のこと、忘れられないんです」
――彼。
志度(シド)のことを思い出すと、胸が苦しくなる。彼は5年前に死んでしまったのに――。
「わかった。――ちょっと変わったことできるんだけどやってみない?」
急におばさんから聞かれ、よく意味を理解できなかった。思わず眉間に力が入ってしまった。
「そんな顔しないでよ。過去に折り合いをつけることができるかもしれない体験なんだけど」
「体験?」
「そう。彼と会うことができる体験」
志度と会うことができる体験ってどういう? 私の脳内は急に追いつかなくなった。だけど、本当にそんなことができるなら、今すぐに会いたい――。
「どういうことですか」
「なんて言えばいいんだろう。人間ってその気になれば、タイムスリップできるんだよね」おばさんがそう簡単に言ったから、私はどう言葉を返せばいいのか、よくわからくなった。
「そんなに難しくない。補助装置があるの。どう? 一回5万円なんだけど」
――嘘でもいいから、志度に会いたい。
私は静かに頷くと、おばさんは素直でかわいいねと言ってくれた。人からかわいいなんて言われたの本当に久しぶりだと思った。バッグから財布を取り出し、お金をおばさんに渡した。
☆
別の部屋へ移動した。おばさんの青い民族衣装の裾は綺麗に揺れていた。その揺れているところを見て、思い出した。
――サリーだ。
部屋の真ん中に使い古された茶色のロッキングチェアーが一脚置いてあった。それ以外の家具はなにもなく、この部屋だけが急にそれまでの世界観がすっぽり消えていた。窓には黒い遮光カーテンが取り付けられていた。蛍光灯が事務所の一室である雰囲気をより作り上げていた。
「大体、2日くらい過去に戻れるの」
「タイムマシーンってことですか?」
「そう。そういうことだね。2日目の夜、寝て起きたら、ここに戻ってる感じ」おばさんはそう言いながら、私を椅子に座るようにと左手でジェスチャーした。私はおばさんの指示通り、椅子に座った。
「この椅子があなたを過去に連れて行ってくれるの。あなたが目をつぶったあと、あなたの胸に私は手をあてるから、その間、あなたは戻りたい過去の断片だけを思い出して」
おばさんがそう言ったあと、沈黙が流れた。
私はすでに過去の断片を決めていた。
「私ね、この装置で多くの人達に感謝されたの。私は管理人だから、実際に自分でこの装置を使ったことはないけどね。だけど、体験した人の顔は多く見た。大体の人は過去を見に行ったあと、現実に折り合いがつくみたい。だけど、そうでもない人も一部いる」
「――そうでもない人」
「そう。まるで別人みたいになった人もいたね。多分だけど、過去から帰って来れなくなって、そうなるんだと思う。ごく一部だけどね」
おばさんはさらりと怖いことを他人事のようにそう言った。
「――帰って来なかったら、死ぬんですか?」
「さすがに死なないから、安心して。その人たちは戻ってきて、そのままお礼を言って、帰っていくよ。だけど、なにかが違うの。様子がね」
おばさんは不気味に微笑んだ。
別にもう、死んでもいいやと思った。仮にこれが本当のことであったとしても、現実に戻ってきても志度が死ぬ事実はきっと変わってないだろうから。
「怖がらないで。今は注意事項を話してるだけだから。ほとんどの人はそのまま今に帰ってくるよ。ツアーから帰ってきたように満足してね」
「これって、本当に過去に戻れるんですか」
「私にはわからない。大体は思い出を見に行ってきて終わりって感じかな。旅行みたいにね」
おばさんはニコッと笑ってそう言った。
「さて、決まったね」
「――はい」
口に溜まっていた唾を飲み込むと、乾いていた喉が少しだけ潤う感覚がした。
「目をつぶって」
私は言われたとおり、目をつぶった。
視界は黒くなり、何もなくなった。そのあとすぐ、おばさんの手が私の胸に当たるのがわかった。手は温かく、何かが胸を流れていっているような感覚がする。
私は言われたとおり、あのときをイメージをした。
☆
「日奈子、待ってたよ」
壊れかけた時計の秒針のように鼓動が大きくなり、私の意識は徐々にぼやけていたところから、フォーカスされていく。心臓は胸から飛び出そうなくらい大きな音を立てている。私はベンチに座っているみたいだ――。
顔を上げると、志度と目があった。志度の目は優しくて、ぱっちりしていた。シャープな顔立ちとセンターパートの髪型がとても似合っていた。耳に付けているシルバーのピアスが照明に反射していた。
「――ん?どうしたんだ日奈子」
志度はもう一度私にそう呼びかけた。私は志度の声を聞いて鳥肌が立った。こういう声だった。遠のいていた志度の声、仕草、立ち姿の雰囲気。私は今、目の前にいる志度から衝撃を受けている。
「――ごめん」と私はそう言った。少し、力んだ声になった。
「ごめんってなんだよ。待たせたんだから、俺のほうが謝らなくちゃならないじゃん」と言って、志度は微笑んでくれた。
――本当に志度に会えてるんだ。
辺りを見渡すと、函館駅の中で、私は朝市側のすぐにあるベンチに座っていた。左側の大きい窓からは雪がしっかりと降り積もっていて、除雪の山が至る所に出来ていた。雪がちらついている函館駅前が見えていた。
――不眠症で重かった身体の感覚も、軽くなっている。
たぶん、本当にこれは17歳のときの私になったのかもしれない。
「いいよ。そんなことより、ラッピ行こうぜ」
そう言って、左手を私の前に差し出してきたから、私が右手に出すと、なんでだよ。と笑いながら、志度は私の右手を繋いだ。
☆
誰かに手を引かれるのは5年ぶりだった。手を引かれたまま、函館駅を出ると冬の匂いがした。きっと、今日は1月22日。1月23日が志度の命日だから――。
志度の手は暖かく、ゴツゴツしていた。この感覚だ――。
私もしっかりと5年前は恋をしていたんだと思うと、胸から熱さがこみ上げてきた。思わず、私はその場に立ち止まってしまった。志度は不思議そうな顔で私を見た。
「どうした?」
そう言われても涙が溢れそうで返すことが出来なかった。だけど、こらえきれず、大粒の涙が一滴、右の頬に伝う感触がした。
「――ウソ。泣いてるじゃん」
「――ごめん」
口を開くと自然に涙が何粒も溢れ出てしまった。私は左手で口を覆い、指を目頭に当てた。志度の顔を見ることができなかった。
「どうした。日奈子」志度は笑いながらそう言ってくれた。たぶん、本当は戸惑っているはずなのに、そんな素振り、全然見せない。そういう志度のいつも堂々としていて、余裕があるところがすごく好きだった。
私はバッグからポケットティッシュを取り出し、ティッシュを目頭に当てた。志度は私の背中をさすってくれた。それでより涙が溢れてきた。
「ごめん。もう落ち着いた。――大丈夫。行こう」
私はそう言って志度の手を引いた。志度と手をつなぎ、歩きながらしばらくはお互い無言だった。
「日奈子。ごめん。俺、なんか悪いことしたかな」
志度は心配そうな顔で私を見てくれている――。
「ううん。違うよ」
うん、明日、あっけなくスリップした車に引かれて死ぬんだよ。最低だよね。私の気持ちを中途半端に残して、そんなことするなんて。
「なあ」
「――なに?」
「俺、この間、楽しいことしたんだ」
「楽しいこと?」
「あぁ。絶対、日奈子、びっくりすると思うよ。二個で一つみたいな感じ。きっと、未来で笑ってると思うよ」
志度を見ると少しだけ満足そうな表情をしていた。
「えっ、なにそれ」
志度、未来で笑うことなんてできないんだよ。私は。
「俺は日奈子とずっと一緒にいる予感がするんだ。だから楽しみにしてて」
ずっと一緒になんてなれないんだよ。志度。
「――ありがとう」
「――泣いてるところもかわいいよ」
頭にそっと、熱を感じた。そして、私は志度にゆっくりと丁寧に撫でられた。
☆
函館山の夜景はイルカの尾から胴体へつながる曲線美のように輝いていて、雪で反射したオレンジ色の線や、緑がかった白色の線が浮かんでいた。さっきまで降っていた雪は止み、低い灰色の雪雲は雪で反射した光を吸収し、藍色と灰色が混ざった明るい夜の色をしていた。
「ねえ、写真撮ろうよ」
私はそう言って、iPhoneをバッグから取り出した。
「いいね」
志度は笑顔でそう言った。私はiPhoneのカメラを起動して、右手で志度の腰を掴み、左腕をいっぱい伸ばした。そして、志度の身体に首をもたれて、志度と私、そして、光っている函館の尾が入るように自撮りした。
ベイエリアのラッキーピエロでバーガーを食べたあと、コーヒーを飲んでゆっくり話していたらいつの間にか、夕方近くになっていた。気づいたら、3時間も話していたんだと思ったら不思議だった。しかも、私は高校生と話しているはずなのに、なぜかわからないけど、バカなこと言い合ったりして、話題が尽きなかった。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「日奈子って最高だな」
「最高ってどういう意味?」
「最高って。――好きだってことだよ」
「――私も。最高に好きだよ」
「――照れるな」
フッと笑ったあと志度はそう言った。
「照れないでよ。好きだよ。本当に」
「なあ、日奈子」
「なに」と私が言ったとき、左肩から身体をキュッと寄せられる感覚がした。気がついたら、私はすでに志度にキスされていた。
唇が重なったまま数秒間の時が流れた。志度の唇は柔らかくて、温かった。志度はそっと唇を離した。そして、何秒間かお互いに目を見たまま、また時が流れた。志度の瞳は茶色くて、吸い込まれそうなくらい透明だった。
そのあと志度はそっと微笑んだ。
私は左手で志度の右手を握った。すると志度は右手でしっかりと私の左手を握り直してきた。
「ねえ」
「なに?」
「――もし、私が死んだらどうする?」
「日奈子が死ぬの?」
「うん。私が明日死ぬとするじゃん」
「しかも、明日? ――急だな」
「うん。そうだよ。それも、志度は私が明日死ぬことがなぜか事前にわかってて、悩んでるの。どうしよう、明日、日奈子が死んじゃうって。そしたら、今、この瞬間、どうする?」
私がそう言い終わると、志度はニヤッとした。私も途中からニヤニヤしながら、隣にいる志度を見つめている。
――メンヘラって呼ばれてもいいよ。
どうせ、明日には魔法が解けるんだから。
「簡単だよ。俺だったら、日奈子が死ぬのを阻止する」
「えっ、どうやって?」
「教えるんだよ。日奈子に。明日、日奈子が死んじゃうことを知っちゃったんだ。だから、絶対、明日は一緒に居ようって。一緒に居たら、たとえ病気で倒れても、事故に巻き込まれても救えるじゃん」
志度は得意げな声でそう言ったあと、しばらくの間沈黙が流れた。時折吹く、強い風は冷たくて、そのたびに身震いした。だけど、夜景はどんどん時間を追うごとに深くなっていき、ゆっくりと時間を支配しているように感じた。
「――私が死ぬことを知ったら教えてくれるんだ」
「うん。死んでほしくないからな」
志度の手は温かく、血が通っていて、生きていることを実感できた。私は志度と繋いだままの手を見ながら、弱く息を吐いた。
「私もだよ。――志度にはまだ、死んでほしくない」
「俺も死ぬ気はないよ」
「――本当に?」
「うん。マジなやつ。ほら」
志度はそう言ったあと、右手の小指を私に差し出した。私はゆっくりと右手の小指を志度の小指に結んだ。
「俺さ、たまになんでもっと早く日奈子に告白しなかったんだろうって思う時があるんだ」
「私も」
そう言うと、志度は弱く笑った。
☆
ロープウェイで函館山を降りたら、また雪が降り始めた。なんか、ちょうどよかったねと言って、2人で笑い合いながら、十字街の電停まで歩いた。そして、暖かいに電車に乗り、身体を暖めながら、また無限に話していると、あっという間に私たちの地元である深掘町の電停に着いた。
電車を降りるとこれでもう、終わりなんだと思った。2回まで寝れるなら、今日の前の日をイメージすればよかったんだろうけど、そんな5年前の普通の日のことなんて、ちっとも覚えてなかった。
私と志度が降りると電車はゆっくり発車していった。発車した風圧で降っている雪が舞い、電車の赤いテールランプが空間の中で滲んでいた。
吹雪いていて、風が冷たくて、思わず両肩に力が入り、上がってしまった。
「家まで送るよ」
後ろから、そっと右手を繋がれた。志度の手はまだ暖かくて、暖かかった電車の名残がした。
「吹雪いてるからいいよ。それより、明日、一緒に学校に行こう」
「明日さ、電停で合流しよう」
「え、いつもどおりスーパーの前でいいよ」
志度は怪訝そうな表情でそう言った。――だけど、朝の待ち合わせの場所を変える必要がある。
「そしたら、ローソンで合流――」
「だからいつもどおりでいいって」
志度はなぜか譲ってくれなかった。
「――そしたら、時間。少し早くしない?いつもより10分早くしようよ」
「――いいけど、どうして?」
「――嫌な予感がする」
「なにそれ」
志度は少しだけ不機嫌そうな声でそう返した。――不機嫌になろうがどうでもいい。
「ねえ」
「なんだよ」
「真面目な話。――志度に死んでもらっちゃ困るの」
「は? 何言ってるの?」
「――志度に死なれちゃ困る。私」
私は左手で志度の右手を握った。そして、ぎゅっと力を入れた。志度は何も言わずにされるがままだった。
「――明日、志度が死ぬ夢を見たの」
「なにそれ」
「私、よく正夢を見ることがあるの。――こういうの信じてくれる?」
私は志度に嘘をついた。だけど、そんなのどうでもいい。なんでもいいから信じてくれさえすればそれでいい。
「――とりあえず、話は聞くよ」
「ありがとう。――志度は明日、交通事故にあって死ぬの。いつも待ち合わせしているスーパーの前で」
「――それで」
志度はそう言ったあと、ため息を吐いた。
「車にぶつけられて、頭とお腹切れちゃって、出血多量で病院に運ばれたときにはもうすでに手の施しようがない状態になってた。――私は処置室の前で志度のこと待ってたけど、医者から志度が死んだことを告げられて、呆然としたままになって」
話しているうちに5年前のあの日を思い出した。私は救急車に乗って、志度と一緒に病院に行った。
血まみれの志度。
――医師が告げた言葉。
全部、思い出すことができる。
私はだんだん喉の奥が詰まるような感覚がした。
「そうなんだ。俺、夢の中で死んだんだ」
「――そうだよ」
「――今朝、そんな夢みたの。志度が死ぬ夢」
「そうなんだ」
志度がそう言ったあと、少しだけ沈黙が流れた。私と志度が黙っているうちにブザーが鳴り、ドアが閉まった。そして、電車はまた加速を始めた。
「だから、会った時、泣いたんだ。――日奈子、俺は死なないよ」
「――死なないで」
「そんなに簡単に死なないって」
志度のその言葉は宙に浮いたみたいになった。別に志度を信頼していないわけじゃないけど、結果がわかっているから、信ぴょう性がほとんどないように感じた。
「ねえ、約束して」
私は真剣に志度を見つめた。
「――わかった」
志度は私を見つめてそう言った。私は志度の瞳に吸い込まれそうになった。私は握ったままだった志度の右手を話した。そして、私の左手の小指に志度は右手の小指を絡めた。
「ねえ」
「なに?」
「明日のお昼、一緒に食べたいものがあるの。だから、コンビニでパン買わないでね」
「わかった」
「約束して」
私はそう言ったあと、もう一度小指を数回揺らした。そして、そっと指を離した。
そして、志度と別れた。
志度は反対方向へ歩き始めた。私は志度の後ろ姿をしばらく見てから、私も歩き始めた。上手く待ち合わせの時間を変えることが出来た。
30秒でも違えば、結果は違って、もしかしたら、志度を救えるかもしれない――。
☆
志度と別れたあと、いつも待ち合わせしているスーパーに入った。閉店20分前くらいみたいで、お店のなかはガラガラだった。
200グラムくらいの鶏もも肉と、コチュジャン、6個入の卵、2分の1のレタス、そして、蓋付きの使い捨て容器をささっと買った。レジで財布の中を見たとき、2000円しか入ってなくて、一瞬ヒヤッとした。それらを買うと財布は小銭だけになった。
スーパーを出ると、吹雪はさっきよりもさらにひどくなっていた。自動ドアの先に見える歩道は無数の人が踏み均した細い道があったはずなのに雪が吹き溜まって道が無くなっていた。思いきって外へ出ると、雪が叩きつけるように全身に降り掛かった。
親はもう、すでに寝ているみたいで、家の中は静まっていた。私は一通り着替え終わったあと、玄関に置きっぱなしにしていた、食材が入ったビニール袋をキッチンまで持っていった。キッチンの電気を付けた。キッチンから漏れる光でダイニングキッチンの先にあるリビングが薄暗く浮かび上がっていた。
私は炊飯器から釜を取り出し、一合の米を入れ、米を研ぎ、早炊きで炊飯器をセットした。その後、鍋にサラダ油を入れ、IHコンロの上に鍋を置いた。IHのスイッチを入れ、160℃に設定する。ボールに酒と塩、こしょうを入れた。そして、冷蔵庫にあったチューブのおろしにんにくを入れ、スプーンでかき混ぜた。そして、鶏もも肉をキッチンはさみで一口サイズに切り、ボールの中に入れ、漬け込むことにした。
換気扇をつけるのを忘れていたことに気づき、換気扇を付けた。
もも肉に下味を付けている間、レタスを洗い、適切なサイズに手でちぎった。そのあと、ボールとフライパンを取り出した。ボールのなかに片栗粉を入れておいた。そして、フライパンには、コチュジャンとケチャップ、しょうゆとみりん、オイスターソースを入れ、それらをスプーンでかき混ぜた。香りを嗅ぎ、いつも作っている味になりそうなことを確かめた。
もも肉を揚げ終わったあと、卵焼きも作った。卵焼きが出来たころ、米も炊けた。フライパンを温めタレにとろみが付き始めたところで揚げたもも肉をすべてフライパンの中に入れた。タレと肉汁が絡まり甘く香ばしい匂いがキッチンに広がった。
洗い物をして、プラスチックの使い捨て容器2つにご飯とおかずを入れ終えた。キッチンを一通り片付け終え、寝る支度をして、自分の部屋に戻った。そして、志度を救うために少しだけ早くiPhoneのアラームをセットし、充電器をiPhoneに付けた。
電気を消し、ベッドに寝転んだ。
大きく息を吐くと一緒に涙がたくさん溢れた。志度のこじんまりとした葬式がフラッシュバックした。志度の家族は、みんな泣いていた。だから私は泣かないことにした。そして、そのまま泣かずに日常を過ごすことを決意したのを思い出した。
もし、志度が明日死ななければ、私は生まれ変わるかもしれない。僅かな可能性に期待してもいいような気がした。だって、本当に過去に戻れたんだから、過去を変えることだって出来ると思う。
志度が生きている世界に帰れば、私達はきっと幸せな23歳を過ごしているはずだ。本当に過去を変えることが出来るんだったら、変えたい。
久々に強い眠気を感じ、そのまま私は眠った。
☆
時間を見て絶望した。
このままじゃ、志度が死んじゃう――。久々にゆっくり寝れる感覚に任せてしまって、私はこんな大切なときに、簡単に寝坊してしまった。慌てて身支度をして、弁当を持ったことを何度も確認して、女子高生の格好をして家を出た。
外はスッキリと晴れていた。
水色の空が気持ちよかった。そんなのはどうでもよかった。私は走り始めた。昨日より、ものすごく冷えている感覚がした。吸い込む息はいつもよりも凛と張り詰めていて、もしかしたら、マイナス10度くらいまで下がったのかもしれないと思った。
何度も滑りそうになった。
このままじゃ、また同じ結末になってしまう――。
何やってるんだろう私。
誰かに鷲掴みされているかのように胸が痛くなった。
今日に限って、積もった雪が磨かれた道路はツルツルだった。
――というより、このツルツルになった路面の所為で志度は交通事故にあったんだから、当たり前といえば当たり前に思えた。
横断歩道がちょうど赤になった。道の向かいにいつも待ち合わせているスーパーが見えた。志度はまだスーパーの前にはいなかった。志度の家の方面を見ると、奥から志度が歩いてきているのが見えた。志度はiPhoneをいじりながら歩いていた。志度はまだ私のことに気づいていないようだった。
信号が青になり、待っていた車も動き始めた。信号が変わってすぐに私も横断歩道を渡り始めた。横断歩道は思った以上にツルツルになっていた。凍ったアスファルトが朝日で照らされ光っていた。横断歩道を待っていた何人かの人たちもゆっくり慎重に渡り始めた。
みんなペンギンの散歩のように慎重に、静かに横断歩道を渡っていた。やっとの思いで横断歩道を渡り切り、私は走って、志度の方へ向かった。志度は私に気づいて手を振っていた。私は手を振り返さなかった。
「志度!」
私は大声で志度を呼んだ。右足を踏み込んだ時、右足の摩擦がなくなった。そして、右足と左足は宙に浮き、私は尻もちをついた。志度をあの場所から動かさないと、と私は思った。
だけど、身体は鈍く痛んだ。早く立たないとと思いが空回る。心臓が破裂しそうなくらい音を立て、冷静に危機を感じた。遠くから日奈子って声が聞こえた。志度が走ってきているのが見える。私は両手を雪道についたまま、尻に鈍い痛みを感じ、上手く立ち上がれなかった。
志度は息を少し切らしながら、私に右手を差し出していた。私が志度の右手をつかもうとしたとき、大きな音がした。
☆
辺りは一瞬で静まり返った。
この道を歩いていた何人かは立ち止まり、車道の車は停まっていた。何人かの人が大丈夫ですかと言って、車の方へ走っていくのが見えた。私は尻もちをついたままだった。目の前に立っている志度を見ると志度は振り向き、車の方を見ていた。
音の方を見ると、スーパーの駐車場の前にあるポールに車が突っ込んでいた。何秒かして、ざわざわと多くの人が話し始めたのがわかった。歩みを止めていた何人かは再び歩き始めた。
「日奈子、大丈夫か」
志度はそう言って、右手を私に差し出した。志度は私をまっすぐに見つめていた。私は志度を見つめたまま、何度か深呼吸をした。
「ヤバいな」
志度は私の右手を掴み、私を起こした。地面に打ち付けたお尻はじんわりと痛み始めている。
「――志度」
「生きてるよ」
志度は私の手をつないだまま、そう言って微笑んだ。
「ねえ」
「なに?」
「――学校サボっちゃおう。今日」
「いいね。日奈子、悪い子だな」
志度はそう言って、微笑んだ。
☆
両親が仕事に出たあとの実家に招き入れて、私の部屋で志度と二人っきりになった。私は冷蔵庫からオレンジジュースを取り出し、2つのコップに注いだ。部屋に戻って、志度に出した。
「ありがとう」
志度はそう言って、オレンジジュースを私から受け取った。志度は私の部屋の床に足を崩して座っていた。
「これが女の子の部屋だよ」
「茶化すなよ」
志度の顔は少し赤くなっていた。私はオレンジジュースを机におき、ベッドに行き、枕を持った。
「ほら、これが女の子の枕だよ」
私は枕を両手に持って左右に振った。
「バカかよ。恥ずかしいなぁ。もう」と志度はそう言って、そっぽを向いた。私は枕をベッドに置いたあと、志度の背中に抱きついた。
「ねえ、外だとこんなこともできないでしょ」と私は志度の耳元でそう囁いた。
「――そうだな」
「どう?」
「悪くない」と志度はそう言って、優しく微笑んでくれた。
「ねえ」
「なに?」
「こうしてると落ち着くね。――なんでだろう」
「そういう運命なんだよ。俺たち」
そう言いながら志度は左腕で私を巻き込んで右側に寝転び始めた。
「おー、ちょっとちょっと、持っていかれる」
志度に抱きつかれ、右腕に志度の重さで潰れそうになった。
「あー、ちょっと、腕痛いって」と私はそう言ったあと、右腕を無理やり志度の脇腹から抜いた。
「あ、ごめん、ごめん」
志度はそう言って笑った。全く悪気がなさそうな、とても軽い謝り方だった。私は起き上がって、一度志度をまたぎ、志度の横に添い寝した。志度は私の髪をゆっくりと撫でた。何度もゆっくりと丁寧に私の頭を撫でた。
「よしよし」
そして、今度は私から抱きついた。志度ってこんなに暖かいんだと思うと、私はこの5年で志度の相当なことを忘れていたように思えて、虚しくなった。
「たぶん、あの車、俺に当たってたよな」
「そうだね。粉々になってた。夢みたいに」
私がそう言うと、志度はため息を吐いた。
「正夢だったってことか」
「――正夢じゃないよ」
「え、正夢だろ。だって――」
「志度が死んでないから」
「あ、そっか」
志度がそう言ったあと、ふっと弱く笑った。私もつられて弱く笑った。
「ねぇ」
「なに?」
「――生きててよかった」
「日奈子もな」
志度は優しく微笑みながら、センターパートの前髪を右手でジリジリといじった。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「――このまま、時が止まればいいのにな」
志度はそっとした声でそう言った。そんな残酷なこと言わないでよ。ずっと、止まってる方がいいんだよ。――志度。
「――ずっと一緒にいたいよ」
「俺もそう思ってるよ」
志度がそう言ったあと、しばらくの間、時計の音が部屋中に響いている。
「ねえ」
「なに?」
「私たち、もう二度と、会えなくなるのかな」
「――何言ってるんだよ。日奈子」
私は黙ったまま、志度に背中を向けたまま、横になったままだった。だから、志度がどんな表情をしているのかわからない。
私は下唇を噛んだ。志度を救うことはできたけど、このあとどうなるのかわからなかった。23歳の私に戻っても志度が生きていたらいいなって思った。
未来は変ったのかどうかわからない。
「ずっと、愛してるよ」
後ろで志度がそっとした声でそう言った。
☆
「お腹へったでしょ」
志度をリビングに通し、ダイニングテーブルの椅子に座るよう私は志度に伝えた。私はかばんから弁当を2つ取り出し、テーブルの上に置いた。
「お、なにこれ。美味そう」
「今、温めて来るね」
私は弁当を2つ持ち、キッチンへ向かった。弁当をレンジで温めた。弁当からはコチュジャンのいい香りがした。2つの弁当を温め終え、1つの弁当を志度の方へ持っていった。
「はい、どうぞ。本当は学校で食べてもらおうと思ったけど、まさかのうちで食べることになっちゃったね」と私はそう言いながら、テーブルに弁当を置いた。
「やばい、めっちゃいい匂いする」
「やばいでしょ。これ」
私はそう言いながら、もう一度キッチンへ行き、自分の弁当を持ってきた。テーブルに弁当を置き、私は志度の向かい側に座った。私はいただきますと言い、両手を合せた。志度もいただきますと言った。
志度は割り箸をわり、弁当の蓋を開けた。
「なにチキン?」
「ヤンニョムチキン。美味しいよ」
「自分で美味しいって言うなら、絶対美味しいな、これ」と志度はそう言いながら、箸でヤンニョムチキンを取り、一口食べた。
「うっま。なにこれ」
「でしょ。私の絶対うまい料理」
私もヤンニョムチキンを箸で取り、一口頬張った。志度はそのあと、無言で弁当を食べ進めていた。私もあまり話さずに弁当を食べた。
「いや、うますぎだって。日奈子。やばいな」
「嬉しい。――志度に食べてもらいたかったの。ずっと」
「なんでもっと早く食べさせないんだよ。めっちゃうまいわ」
「ありがとう」と私はそう言った。志度は頷きながら、弁当を食べていた。
「なあ、日奈子。これ、昨日帰ったあと作ってくれたんだろ?」
「そうだよ」
「最高だな」
志度はまた弁当に箸をつけて食べた。
✫
「そろそろ帰るよ」
「――わかった」と私がそう言ったあと、志度は立ち上がった。そして、自分のコートを手に取り、コートを着て、志度は玄関まで歩いていった。
私は志度の後ろを付いて行った。志度の背中を見ていると胸が苦しくなり、私は咄嗟に志度の腕をつかんだ。
「――行かないで」
「ダメだよ。行かないとオーナーにぶっ飛ばされるよ」
「あのコンビニ、代わりのスタッフくらい、いくらでもいるでしょ」
「そうもいかないよ。バイトは学校と違うんだから、休んじゃダメだよ。迷惑かけちゃう」
「――ごめん。そうだよね」
私は右手を志度の腕から離した。
「――じゃあね。美味しかった。マジで。ありがとう」
「ううん。――また作るね。ばいばい」
「うん。ばいばい」
「――バイト、頑張ってね」
「ありがとう」
志度は笑顔でそう言った。私も自然に笑みがこぼれてしまったけど、すごく寂しい。本当は行かないでほしかった。だけど、志度はそっとドアを開けて出ていった。
志度が出たあと、私は急に力が抜けた。 玄関から自分の部屋にトボトボ歩いて戻った。
自分の部屋の床に仰向けになると涙が溢れた。バイトなんてどうでもいいから、ずっとここに居てほしかった。私はまるで明日も志度に会うかのように振る舞ったけど、もう明日、二度と志度と会えないかもしれない。
どうせ、タイムスリップは夢みたいに簡単に終わってしまう。目覚めたら、23歳の私に戻るはずだ。そして、占い師のおばさんが私を起こしてくれるのだろう。
『どう? 楽しかった?』
と占い師のおばさんが慣れたような口調できっと言ってくるんだ。そして、青色のサリーの裾をひらひらとさせているんだ。きっと。
起きたら、もう終わりだ。起きた先の世界でも志度が生きていればいいけど、本当にそうなっているのかどうか私は確証がなくて、急につらくなった。
そもそも、23歳の私に戻って、志度とまだ付き合ってたとしても、タイムスリップした私には5年分の志度との思い出がないまま、過ごすことになるかもしれない。
それだったら、元の世界になんか戻らないで、このまま志度と一緒に大人になって、思い出をたくさん作りたい――。
大きなため息を吐くと一緒に涙が何粒も溢れてきた。そして、そのまま、涙は止まる気配はなかった。
そもそも、これはタイムスリップだと聞かされていたけど、もしかしたら、タイムスリップではなく、私の中の幻想にすぎないのかもしれないと思ったら、急に寒気がした。
残された僅かな時間も、志度と過ごしたい――。
親が帰ってくる前に、私服に着替え外に出た。
☆
だけど、志度をコンビニから連れ出して、手を繋いで一緒に逃げるなんて、現実的に無理だし、かなりの人に迷惑がかかることをするのは気が引けて、結局、スタバでソイミルクを飲んで時間を潰した。そして、志度が働いているコンビニの前に着いた。
iPhoneで時計を見たら21時57分だった。親には、今日、友達の家に泊まると連絡しておいた。明日は土曜日でよかったと思った。
窓越しにコンビニを覗くと、志度はまだレジにいて、もうひとりの店員と話していた。私は店内に入った。志度は話に夢中で、私が店内に入ったことに気づかなかった。私はホットドリンクコーナーに行き、ココアを手にとった。ちょうど、もうひとりの店員がレジを出た。私は迷わずにレジに行った。
「あれ、日奈子じゃん」
「また会いたくて来ちゃった」
私はココアを志度に渡した。志度がココアのバーコードを読み取り、レジの操作をした。私は財布を取り出し、120円を志度に渡した。
「俺も会いたかったよ。やるな、日奈子」
「志度、どうしても話したいことがあるの」
「なんだよそれ。死ぬわけじゃないんだから」と志度がそう言ったあと、私は少しムスッとした表情を作った。
「マジなやつ」
「――オッケー、わかった。日奈子、雑誌コーナーで待ってて。すぐ準備するから」と志度はそう言って、お釣りをくれた。
私は志度に言われたとおり、雑誌コーナーでファッション誌を読んでいた。コートのポケットにココアを入れた。ポケットからココアの温かさを感じた。少ししてから、志度がやってきた。志度の気配に気づき、私は志度の方を振り返った。志度は呆気にとられている表情をしていた。私も思わず、呆気にとられた。
「――おまたせ」
志度はそう言ったあと、しばらくの間、じっと私を見つめてきた。
「――どうしたの?」
「いや、大丈夫。外出るか」と志度は出口の方を指差してそう言った。
☆
車もまばらな静かな夜だった。時折雪がちらつき、寒かった。さっきスタバにいるとき、iPhoneでニュースを確認したら、今シーズン最強寒波が来ていたらしい。函館の天気を見ると、最高気温はマイナス8度で最低気温はマイナス12度と書いてった。
顔に触れている外気は凛として冷たかった。志度はバイト前に家に帰っていたのか、服は制服から、ジーンズにベージュのダウンになっていた。手をつないでゆっくり歩いている。もう、ずっとこうしているだけでいいやと私は思った。
「なあ、日奈子」
「なに?」
「俺も会いたいって思ってたんだよ」
「私も」
「じゃあ、両思いだな。今日はそんな気分だったよ。一日」と志度が言ったあと、私は立ち止まった。
「志度、これだけは言わせて。あなたは私にとって、とても必要なの。ずっと好きだから。ずっと」
私がそう言っている途中で志度が私を抱きしめた。一瞬、時が止まったかと思った。鼓動が徐々に大きくなっていく。私も両手を志度の背中に回した。
「――日奈子。ずっと、一緒だよ」
背中で感じる志度の両手は暖かく、顎を当てた肩は硬かった。
☆
どこにも行くあてがなくて、結局、近くのファミレスに入った。23歳の世界ではもう、とっくの昔に潰れてしまったお店だ。もう、明日の学校なんてどうでもよかった。どうせ、寝たら元の23歳に戻ってしまうんだから、17歳の私の生活なんてどうでもいい。
とりあえずドリンクバーを頼み、志度はコーヒー、私はカフェオレを飲んだ。窓側の席に座った。
「私、眠れないんだよね」
「――そうなんだ」
「不眠症なの」
「――病院行ったほうがいいよ」
「もう、とっくに行ってるよ。眠剤出されてる」
「そうなんだ」
「だから、今日はさ、私が眠らないように監視して」
「いや、逆だろ。それ」と志度は笑いながらそう言った。
「いいの。今夜だけでいいから」
「ってことは、オールか」
「そうだね」
私はニコッとしてそう言って、頬杖をつき、窓の外を眺めた。道路はトラックとタクシーがたまに雪煙をあげて、目の前をゆっくり通り過ぎていった。気がつくと雪は本格的に降り始めていた。
「それより、俺は日奈子のことが心配だよ」
「私の心配なんてしてくれるの?」
「当たり前だろ。寝れないのはヤバいよな」
「もう、慣れちゃった。調子いいときは普通に寝れるし、寝れなくても、眠剤飲めば、寝れるときもあるから、まだマシなほうだよ。私の不眠は」
「そうなんだ。今まで知らなくて悪かった」
「いや、志度が謝ることじゃないよ。私、初めて志度に言ったんだから」
「俺さ、もう少し、日奈子のこと知る努力したほうがいいと思うんだ」
「十分してるでしょ」と私は笑ってそう返した。
「いや、してなかった。もっと一緒にいる努力とか、そういうことすればよかったって思う時があるんだ」
「なあ、日奈子。俺がもし、あの時、死んでたらどうなってたんだろうな」
志度はまたコーヒーを口づけた。過去のことがフラッシュバックした。何か満たされないあの寂しさが胸に溢れるのを感じた。
「――寂しいに決まってるでしょ。それに苦しいよ」
「悪い。変なこと言ったな」
「志度に死なれたら困るよ、私。何も面白くない20代を過ごすことになるんだよ。目標もなくね」
私は泣きそうになるのをごまかすためにカフェオレを一口飲んだ。
「なあ、日奈子」
「――なに」
私がそう言うと志度は両手で私の左手を握った。
「いいか、よく聞けよ。どんなアクシデントも今日みたいに乗り越えよう。そして、二人で幸せを掴もう。思いのままに」
志度の目が少し潤んでいるのがわかった。私は残された右手で志度の手をさらに握った。我慢できなくなった涙が一粒流れ出した。そして次々と涙が溢れ、頬を伝った。
「ごめん。昨日から泣いてばかりだね」
私はピークになった感情の波がおだやかになってからそう言った。志度は優しいから、私の次の言葉をしっかり待ってくれていた。
「いいよ。泣けよ。泣きたいときに泣かないヤツは損するよ」
「あ、ズルい。自分は我慢して泣かないくせに」と私は笑ってそう言った。口角を上げたら、まぶたが腫れぼったくなっているのがわかった。
「私ね、ずっとこうしたかったの。志度と。ずっと、こうして話したり、一緒にいたかったの。ずっとね」
「俺もだよ」
「私ね、相談したんだ。苦しくて。そしたら、その相談した人が自分で道を切り開くしかないって言うんだよね。厳しいよ。――私だって、抗いたいよ。私だって。今までのことなんてどうでもいいから、今を生きたいよ。私」
私がそう言ったあと、しばらく沈黙が流れた。志度は黙って、私の次の言葉を待っているのがわかった。
「もう、戻りたくないよ。――ねえ、離さないって言って」
「離さないよ。日奈子」
志度はそっとした声でそう言った。私はそれを聞いたあとテーブルに突っ伏した。急に猛烈な眠気がやってきた。目元を覆ったセーターの袖はすぐに涙で濡れてしまった。吸い込まれそうな腕の中の暗黒は、私の意識が現実なのか仮想なのかわからない心地よさで満たされ始めた。
さよなら、志度。
5年後、生きてたらまた会おうね。
☆
揺すられて目が覚めた。座ったまま寝ていた。右肩を軽く揺すられている。まだ瞼は重く、首を起こす気にもならないくらい眠かった。それでも無言で何度も右肩を揺すってくる。私は右手で揺すっている相手の手をつかもうとしたが、右手は自分の肩にあたった。そして、また、何度も右肩を揺すられた。
私は左腕を枕にしていた。左腕は軽くしびれている。首を上げ、身体を起こした。そして、右側を見ると志度が立って笑っていた。私は思わずにやけてしまった。志度が右肩をポンポンと軽く叩いたから、首を右にひねると志度の人差し指があたった。そのあと志度の笑い声が聞こえた。
窓の外は夜明け前の青さだった。
雪はやんでいて、すでに歩道を歩いている人が何人かいた。
「おはよう」
私は初めて志度に起こしてもらった。私は立ち上がり、ドリンクバーに行った。そして冷たい烏龍茶を取り、席に戻った。
☆
志度と手をつなぎ、火曜日の8時過ぎの道路を歩いている。道はツルツルしていて、何人かが尻もちをついた跡が雪道の上に残っていた。横断歩道を渡ろうとしたら、ちょうど青信号が点滅した。私達は立ち止まり、信号が青になるを待つことにした。駅と反対方向に向かっているから、私と志度以外この信号を待っている人はいなかった。
穏やかな朝だ。変な体勢で寝ていたから、身体が妙に痛かった。ふたりとも当然のように学校に行く気はなかった。右折してきた車が一台、スリップしているのが見えた。
「ヤバい」
私は右側から大きく押され、投げ出された。
私は受け身を取れず、左肩から地面に着き、雪溜まりの方まで仰向けのまま滑った。
何が起きたのかわからなかった。左肩、左腕が痛い。だけど、大きな音がしたのはわかった。空は冬らしい澄み切った水色をしていて、白くて弱い太陽が眩しかった。
☆
夜のスタバは落ち着いた雰囲気で、間接照明の電球色が、気持ちを暖かくしてくれているような気がした。窓越しに夜の函館の海が見える。ベイエリアから発せられた光を海面が静かに反射していた。
夢は3日で終わった。占いのおばさんは2回寝たら帰ってくるって言ってたけど、私はなぜか3回目に寝たときに現実に戻った。占いのお店を出て、すぐにLINEに志度の連絡先があるかどうかを確認したけど、タイムスリップする前と変わってなかった。
昔の交通事故のニュースをGoogleで検索したら、やっぱり志度の名前が乗っている古い記事が出てきた。
――やっぱり、志度は死んだんだ。
iPhoneをテーブルに置き、インスタで志度からもらった言葉を忘れないうちに書きなぐっている。
『――泣いてるところもかわいいよ』
『俺も会いたかったよ。やるな、日奈子』
『どんなアクシデントも今日みたいに乗り越えよう。そして、二人で幸せを掴もう。思いのままに』
実家から転送された手紙をバッグから出した。占いのお店から、家に帰って郵便受けを見たら、それが入っていて、私はそのまま、ソワソワして、市電にもう一度、乗り込み、ベイエリアのスタバに行くことにした。
十字街の電停を降りて、走って横断歩道を渡っていたら、雪道の上を滑って転んでしまった。左足からくじくように転んで、受け身を取ったから、左側の腰骨がいたかった。だけど、そんなのも気にならずに私は再び、立ち上がり、街灯でオレンジ色に照らされた雪道の上をベイエリアのスタバまで、再び走った。
封筒には私の名前が書いてあり、そして、裏側には志度の名前が書いてあった。封筒の上をゆっくり、ちぎり、そして、二つ折りされた便箋を取り出すと一緒にシルバーのネックレスが出てきた。右手でそっとチェーンを持ち上げると、ハートが半分になったシルバーのモチーフが見えた。
「二個で一つになるやつ――」
ぼそっと、私はそう小さな声でつぶやいたあと、ネックレスをテーブルに置き、手紙を開いた。
23歳の日奈子へ
俺の行動が恥ずかしいかどうかは、今読んでいる日奈子が判断してください。
そのとき、黒歴史になってたら、申し訳ないから先に謝罪します。
ずっと日奈子のこと、大切にできなくてごめん。
きっと、5年後もずっと一緒にいる気がしたから、この手紙を書いたよ。
こういう手紙でありきたりな、5年後のあなたは何をしていますかなんて聞かないよ。
だって、絶対に幸せになってるはずだから。
俺はたくましく、クールに日奈子のことを守る決意をしたから、
これを出すことに決めたんだ。決意を証拠として残すつもりで。
だから、もし、日奈子が危険な目に遭いそうになったら、
しっかりと日奈子のことを守るよ。
そして、日奈子のことを大切に優しくするよ。
世界中の誰よりも日奈子のことが好きだから、
二人で幸せを捕まえよう。
雪原のなかではしゃいで転がるように――。
このネックレスは片割れです。
5年後、一つにしよう。
もし、死んでたら、ごめん。
つらかったら、そのときはそっとこの手紙を燃やしてください。
17歳の志度より
そっと、便箋を閉じて、テーブルの上に置いた。
そして、書きなぐったインスタを人差し指で上にスライドさせて、改行したあと、
『燃やすわけないじゃん』とゆっくり打ち込んだ。
そして、窓の方にそっと右手を伸ばして、海に反射する僅かな光を集められるように息を止めた。



